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2006年2月26日

演劇へのラディカルな意志

太田省吾の『水駅』をみたのは、80年代前半、赤坂の小さな劇場でだったと思う。きわめて密度の濃い、そして、従来の演劇概念に対する破壊的な強度をもった舞台だった。サティのジムノペディにあわせて、舞台に現れる役者の移動速度は、スローモーションをさらに過激にスローにした動作の規制を課されていることで、そこに(通常の速度をともなった)<日常>を撃つ根源的な舞台が浮かび上がる。そんな衝撃を受けた記憶がある。そのとき見た役者のひとりが、いま映画やテレビで活躍する大杉漣である。太田省吾のエッセイ集『なにもかもなくしてみる』(五柳書院)を読む。静かな語りのなかに、ラディカルな意志が貫いている。まだ、このような人が生き残っているのだな、とさえ思う。鋭い刃物をこころの内ポケットにもっているような。

舞台芸術は、その表現の生命を、生成と同時に消滅していくところにおいている。

戯曲(文学)の再現が演劇であるというようなひどく古いリアリズム演劇の概念に対する異議申し立てを、僕の世代はまだガキの頃にみてきた。寺山修司の天井桟敷や紅テント、黒テントといったアングラ演劇、何と言ったらいいんだろうか、<反演劇>というような書き方が流行ったりしていた。<>で言葉を囲い、権威をまとう語に「反」をつける。<反芸術>とか<反文化><反政治>とか。その「反」は「対抗」(英語でいうCounter)という以上の意味を持っていたようだ。太田省吾の考える演劇、舞台芸術は、そのような「正」「反」という既成の文法から追放された地点で辛うじて成り立つ表現なのだという。本書でも何度か引用されている寺山修司のことば(『迷路と死海』より)。

今日の演劇の構造が、つねにエクリチュールの次元でのみ論じられるのは、演劇が≪文学としての戯曲≫を舞台の上で、人間を使って復元して見せているだけにすぎないからです。だが、われわれは≪文学としての戯曲≫を現場検証して見せるために演劇と取り組んだのではない。むしろ、文学などとはまったくべつの、日常的現実原則と虚構の現実のクレヴァスを埋め合わせ、そこに新しい出会いを生成するために、演劇という様式を必要としたのです。何よりもまず、演劇の≪文学ばなれ≫が必要です。そのためには、演劇の内側から戯曲を追放しなければならないでしょう。

たしかにこのような主張が文化の生成の現場を覆った時代があった。それは古いシステムがまだ堅牢な力を保持し得ていた時代だ。寺山の問いかけの有効性は今現在も消えているとは思わない。だが、しかし、と僕はたじろぐ。もはや追放すべき文学もないじゃないか、と。離れるべき文学もないじゃないか、と。別に特別な思い入れを持った演劇ファンでもない僕は、ときどき劇場に足を運んで劇をみる。分野を問わず、ほとんど雑食と言っていいくらいだ。太田省吾が『私は氏の作品に触れる時、自分が氏の導きに従わねばならぬ<羊>のように思える』として批判する井上ひさし作品の舞台も享受するし、太田省吾が<生産ベクトルとしての演劇の死・拒否>と畏敬の念を表明するタデウシュ・カントールの舞台もみてきて感銘を受けた。シェイクスピア戯曲を至上の価値に祭り上げる演劇概念のシステムに対する<反>が説得力をもつ状況の緊迫度も、かつては観念的には理解できたような気がする。だが、誤解を恐れずに言えば、この本を読んで連想してしまったのは、まるでそのむかしに新しい党派が旧い党派を批判した時の本質論争に似ているのではないか、ということだ。なにもかもが拡散した状況のなかでの生意気な物言いに我ながら嫌悪を覚えながらも、これが正直な感想である。

2006年2月22日

矢野顕子が歌った『銀色の道』

歌が人間によって生命を吹き込まれる瞬間に立ち会うのは実に楽しい。その歌が全く新しいエネルギーを得たかのようにいきいきと躍動しだすのだから。歌は誕生もするし、冬眠もする。仮死状態になっている歌もある。場合によっては牢獄に押し込められていることもある。矢野顕子は、天賦の才能を心おきなく発揮し歌に生命を吹き込む。まさに矢野魔術(マジック)だなあ。それを目撃する楽しみ。NHKの大昔の番組『新日本紀行』のテーマ(作曲・富田勲)を独自の解釈で『やめるわけにゃいかないわ』というスゴい曲にしちゃったことも僕らは知っている。三橋美智也の『達者でな』をポップな新曲にしたことも。すみだトリフォニーで聴いたコンサートでは、何とダークダックスの『銀色の道』をものすごい解釈で新しい歌にしていた。『銀色の道』は、その昔、ソ連でダークダックスが歌ったりして受けていた。社会主義チックな歌詞だし。<<遠い遠い遙かな道は、つらいだろうが頑張ろう>>。そう言えば北朝鮮の平壌にある外国人向けカラオケにもこの歌が入っていた。矢野顕子がデビューからまもない頃にNHKラジオに生出演して、そこで岩崎宏美の『未来』(作曲・筒美京平)をクールに歌っていたなあ。<<ああ、あなたの未来はわたしと同じ。ああ、わたしの未来もあなたと同じ>>。もう一度あの矢野顕子の『未来』を聴いてみたい。

2006年2月19日

詩人・田口犬男の朗読をみにゆく

横浜・馬車道駅で降りて徒歩4分。BankART Studio NYKという場所で行われるポエトリー・リーディングに詩人・田口犬男が参加するという。それで出かけた。田口犬男の詩集は『アルマジロジック』『モー将軍』とワシントンにいた頃、読んで、とてもおもしろい詩人だなあ、と思っていた。友部正人がプロデュースしたこの日のイベントには、11人の詩人が登場するのだが、田口犬男は4番手で登場。会場には立ち見が相当数出るほど、たくさんの客が詰めかけていた。300人くらいか。若い人がほとんど。高校生とか大学生が多いようだ。こんなにポエトリー・リーディングが盛況になる理由は何だろう。どうも、僕らも含めて、ことばに飢えている状況があるのだと思う。こんなに言葉がメディアに溢れているのに。それらの多くが(ほとんどが)虚偽のことばだから。と、いうような「解説」もウソだ。どうも、ことばが上滑りするのだ。
この日、田口犬男は最近つくった作品を読んだ。「人間と怪物の関係をめぐる5つのパターン」(だっけ?)とかは、寓話性が強く、ぐいぐい引き込まれた。谷川俊太郎に捧げた詩も真摯な緊張感に満ちた内容で、やはりこうしてナマで聴いてよかったと思う。未読の『ハッシャ・バイ』を1冊買って帰る。いろいろなことが頭の中でぐるぐるとめぐる。僕らはホンモノのことばといつどこで出会えるか。

2006年2月18日

70年代カルチャーの輝きを生きる


高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」=ブログ

僕らの国のスタイリストの草分け的な存在・高橋靖子さんの著書『表参道のヤッコさん』が贈られてきた。スタイリストの本だけあって、本の装幀自体がとてもお洒落でセンスがいい。それで読み進んでいったら懐かしさと素直さにぐいぐい引き込まれていって、あっという間に読み終えてしまった。ヤッコさんがエピソード風に記している出会いの人間模様を追体験するだけで、あの時代の熱気がよみがえってくるように感じる。僕は高校生・大学生として、この70年代の大部分を過ごしたけれど。
人間も所詮は生き物だから、時間(=生きている時代)と空間(=生まれたり暮らしたり仕事をしたりする場所)、そして文化(=時間と空間と人間の活動の産物)に規定されながら生きている。70年代に表参道を拠点に、あの対抗文化のなかを、添い寝するように生きていたヤッコさんは、何としあわせな方だろうと羨ましく思う。セントラルアパートにあったカメラマンの鋤田正義さん事務所でTレックスの代わりに聴かされた荒井由美の『ひこうき雲』に涙を流すヤッコさんの感性が大好きだ。僕の記憶が間違っていなかったら、ヤッコさんとは矢野さんのコンサートでお会いしたはずだけれども。さらに僕の記憶によれば、その時、僕は矢野さんの歌うある歌(『すばらしい日々』)を聴いて涙を思わず流してしまい、横をみたら同じように観客席で涙を流していたのがヤッコさんだったように思うのだけれど。間違っていたらごめんなさいね。

2006年2月15日

「はじめてのやのあきこ」を聴く


『はじめてのやのあきこ』by 矢野顕子
2006年3月8発売
参加アーティスト:矢野顕子・上原ひろみ・井上陽水・小田和正・忌野清志郎・槇原敬之・YUKI(ユキ)

来月発売される矢野顕子のデビュー30周年記念アルバムを聴く。タイトルは『はじめてのやのあきこ』。ゲスト歌手を迎えての自曲のカバーだ。いきなり槇原敬之との『自転車でおいで』から始まる。うーん。これはオリジナルの佐野元春とのほうが個人的には好きだ。小田和正との『中央線』。いいなあ、これ。ソロの『PRESTO』。YUKIとの『ごはんができたよ』。YUKIのボーカルがとても歯切れが良くて気持ちいい。歌うことの気持ちよさが素直に伝わってくるもんね。井上陽水との『架空の星座』。陽水はやっぱ個性がメチャクチャに強いなあ。忌野清志郎との『ひとつだけ』。これは去年の12月のコンサートで生で聴いたことがあるけれど、名曲だと思う。ラストが上原ひろみとの『そこのアイロンに告ぐ』。こんな豪華ゲストと楽しんでいる贅沢なアルバムは矢野顕子以外にはちょっとできない技だ。タイトルの通り、初めて矢野顕子を聴く人に味わって欲しいアルバムだと思う。

2006年2月13日

「クラッシュ」の連鎖反応こそ現実だと

評判の映画『クラッシュ』の監督は、あの『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本を手がけたポール・ハギスという人だ。1953年生まれ(同じ年齢だ)、カナダのオンタリオ州出身だという。やっぱりハリウッド的じゃないものなあ、この『クラッシュ』という映画は。こういう複数のサブプロットが絡み合いながら同時進行する形式の映画を「アンサンブル映画」というらしい。だからこの映画には、ひとりだけの主役というのがいないし、絶対的な悪や善は登場しない。「善でもあるし悪でもある」という矛盾を抱えたままの生身の人間が、文字通りクラッシュ=衝突する。実に実験的な映画だけれども、見終わると何故か希望が沸いてくる仕掛けになっている。人種の違いによる偏見・差別・憎悪という普遍的なテーマと、この映画は、逃げずに、しかも安易な解決策を提示せずに、正面から向き合っている。いい映画だなと思う。05年のアメリカ映画は以前にもこの欄で記したように、社会的なテーマに溢れかえっている感があって、「この時代は、もはや娯楽大作じゃないよな」という空気が漂っていたように思う。やっぱり映画は社会状況の鏡だ。ブッシュ政権の下にもかかわらず、いやブッシュ政権の下であるからこそか、米映画界は作品を生み出す力があるように思うのだ。

2006年2月12日

トリノ五輪開会式に込められた「ある意志」

「最近のオリンピックの開会式は、ショウアップが過ぎるよ。もっと簡素なセレモニーに戻すべきだ」という批判の声をよく耳にする。確かにそういう面があるけれど、今日のトリノ冬季五輪の開会式は、その点で言うと、長い割には退屈の度合いは少なかった「出来のいい式典」だったんじゃないだろうか。貴賓席にはローラ・ブッシュ米大統領夫人がいた。チアンピ伊大統領は開会宣言などを行ったが、あのベルルスコーニ首相は全く出番がなかった。会場に果たしていたんだろうか? 興味深かったのは、五輪旗を持って入場してきた女性たちの顔ぶれだ。人権活動家らが目立っていた。ソフィア・ローレンはイタリアを代表する大女優だけれども、まさかスーザン・サランドンがそこに加わっているとは思わなかった。ローラ・ブッシュの天敵みたいな女優だ。さらには聖火ランナー入場直前には、これもローラ・ブッシュの天敵(かな?)オノ・ヨーコが故ジョン・レノンのメッセージを読み上げた。ピーター・ガブリエルがそれに続いて哀切きわまりない声で『イマジン』を歌った。この開会式の演出家たちの「ある意志」が強く感じられた部分である。それは「非戦の意志」と言ってもいい。最後はパバロッティの独唱と豪華絢爛なショウだったけれど、いかにもイタリア文化のプンプンする式で、楽しんでしまった。それにしても明日以降は寝不足になるか。

2006年2月11日

マスメディアのありようを見据えること

メディア論がいま求められている。かつて、マクルーハンとかウォルター・リップマン、ブーアスティン、エンツェンスベルガーらが広く読まれた時代があった。何ならばそこにベンヤミンを加えてもいい。メディアを通じて情報が私たちのもとに送られている現実のありようを批判的に考察することは、情報化が進展すればするほど重要になっているのだが、その情報化の進展の速度が幾何級数的に加速されているので、メディア論のほうが現実に追いつかなくなっているのではないか。しかし、だからこそ等身大のメディア論が切実に求められている。そういうわけで、少数ながら真摯なメディア論の試みに接すると勇気づけられる。地に足のついたメディア論が不可欠なのだ。

NHK放送文化研究所が出版していた月刊誌『放送研究と調査』誌上に連載されていた論文をまとめた『アメリカ「愛国」報道の軌跡』(永島啓一 玉川大学出版部)は、そのようなメディア論の貴重な試みのひとつだろう。論究の対象となっている「9・11」、「イラク戦争」、「ネオコン」などの諸相は、僕が在米中にみてきたことと重なる部分が多く、いちいち頷きながら読み進んだ。米TV報道が陥っている陥穽は、今まさに日本のTV報道が陥っている状態と重なっていると実感する。米ジャーナリズム界の自己検証作業も丁寧にフォローされていて、概説書としての価値は高い本だ。アメリカのメディア自身による自己検証作業は、PBSやNPR、『コロンビア・ジャーナリズム・レビュー』など、日本に比べれば割合しっかりとやっている方だと思う。日本では、感情的なメディア・バッシングに便乗した「メディア論もどき」は多数目にするけれども、本書のようなレベルのメディア論はなかなか登場していない。1990年代をアメリカ・ジャーナリズムの「失われた10年」と分析する著書の中で
米ニュース報道の問題点が5点あげられている。

①「有名人(セレブ)」の動向をニュースとして追う傾向の隆盛
②ジャーナリスト自身が「有名人(セレブ)」化することの弊害
③ニュースと意見の境目をなくす「混同」の弊害
④ニュースのエンターテインメント化とコマーシャル化
⑤国際ニュースの顕著な減少

このうち③について、本書からちょっと長くなるが引用しておく。

トーク番組では、一見ニュースを扱っているように見えるが、ニュースを素材にしてニュースについてしゃべっているにすぎない。多くのトーク番組のスターたちは、自分の意見を正当化するために事実をゆがめ、何が真実であるかを追求しようともしない。そこでは、初めに意見ありきで、ジャーナリズムのよき伝統とされてきた客観的な事実も意味をなさない。しかし、多くの視聴者はこうしたトーク番組をニュース番組と混同している。テレビ局側も、ジャーナリストに限らず、ただ弁が立ち議論がうまくテレビ映りがよい人を起用する傾向にある。プロデューサーにすれば、議論が白熱すればするほどおもしろく、番組は成功なのだ。(The News About The News: American Journalism In Peril の紹介部分より)

これは、1990年代のアメリカの話についての記述だが、読んでみてどうだろう。

2006年2月 8日

「クライマーズ・ハイ」を生で聴いたぞ

ONJO=大友良英ニュー・ジャズ・オーケストラを新宿のピットインで聴く。いろいろな偶然が重なって聴けたのだけれども、直接には僕の仕事仲間のTUFのO氏に誘われて行くことになったのだ。演奏を聴いてすっかり「リスナーズ・ハイ」になった。以前、この欄でも書いたけれども、NHKドラマ『クライマーズ・ハイ』という作品がとても良く出来ていて、その話をいろいろなところでしていたら、その音楽を担当していたのが大友良英だったのだ。今夜のONJOは11人編成。それにボーカルのカヒミ・カリイが加わって、何とも抒情的な楽曲を奏でていた。演奏を聴きながら僕は、ドラマトゥルギーという言葉を体感していた。何と表現したらいいか、そう「劇的なる抒情」。ONJOは演奏者がみんないい顔をしている。ちょっと三島由紀夫に似ていたり、ちょっと宮崎勤に似ていたり、かなりジュリアーニNY市長に似ていたりだけれども、みんな凛々とした緊張感が表情にある。エリック・ドルフィーの曲を完膚無きまでに現代化した2曲や、アンコールの『ユリイカ』もよかったが、「劇的なる抒情」ということで言えば『クライマーズ・ハイ』には深く深くやられた。こういうミュージシャンたちが日本を拠点に発信していることの喜ばしさ。ピットインは若い人々(おそらく大学生かな?)で一杯だった。捨てたもんじゃない、今時の若いリスナーたちは。 

2006年2月 5日

アメリカ映画のこの活力はどこから?

ハリウッド映画はあんまり好きじゃないと言いながら、ここのところ見る映画は米映画が多いのはどういうわけだ? 評判の邦画をみても『有頂天ホテル』みたいにやっぱり小粒で(あれはどう見ても舞台演劇の脚本だもの)しっくりこないのだ。『シリアナ』『ブロークバック・マウンテン』『フライト・プラン』『Mr.& Mrs.スミス』といった映画は、なんだかんだ言われても娯楽映画として完成度が高い。
『シリアナ』という語は、シリアとイラン、イラクを組み合わせた造語で、実際にCIAのような諜報機関内部で用いられているのだそうだ。映画自体は典型的な「石油利権が戦争を起こす」という一種の陰謀史観をドラマ化したようなところがあるが、少なくとも「戦争の大義」を歌い上げたり、「自爆テロリストは元来が邪悪な畜生だ」という類いの観念からは辛うじて免れているような映画だ。
グラミー賞を総なめにした感のある『ブロークバック・マウンテン』は確かに男性の同性愛というタブーに挑戦した強い映画だ。雄大で美しい自然をバックに粘着感の強い同性愛を描いている。けれども、アメリカ映画界で、あそこまで激賞される理由がよくわからない。
『フライト・プラン』は前2作品よりは、もっとハリウッド的で、結局はハッピーエンドでカタルシスをもたらす仕掛けの映画だが、気休めに見る映画ならちょうどいいくらいだろう。
『Mr.& Mrs.スミス』はもっともっとわかりやすいマッチョ型アクション映画で、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーの格闘が鬼気迫っていてものすごいことになっている。これが一番ハリウッド的か。
中国・韓国映画にこのところ秀作が多いと聞く。徐々にみていこう。

Profile

田原総一朗(たはら・そういちろう)

-----<経歴>-----

1934年、滋賀県彦根市生まれ。
早稲田大学文学部卒。
岩波映画製作所、テレビ東京を経て、77年フリーに。
テレビ東京時代の連続番組「ドキュメンタリー青春」で、取材対象者に肉薄する独特のインタビュー手法で注目を浴びる。
現在は政治・経済・メディア・IT等、時代の最先端の問題をとらえ、活字と放送の両メディアにわたり精力的な評論活動を続けている。
テレビジャーナリズムの新しい地平を拓いたとして、98年ギャラクシー35周年記念賞(城戸又一賞)を受賞した。
2002年より母校・早稲田大学で「大隈塾」を開講。塾頭として未来のリーダーを育てるべく、学生や社会人の指導にあたっている。

-----<出演>-----

『朝まで生テレビ!』
(TV朝日、毎月最終金曜25時?)

『サンデープロジェクト』
(TV朝日、毎週日曜10時?)

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