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2008年6月17日

『希望の国のエクソダス』から遠く離れて(最終回)

村上龍が『希望の国のエクソダス』を書いたのは、今から8年前の2000年、ミレニアムと呼ばれた20世紀の最後の年だった。考えてみると、あの頃はまだ、僕らが暮らしているこの社会に、希望らしきものがあった。それからの8年。一体、この国はどうなってしまったんだろう。社会が野蛮化している。社会というものは進化するものだという社会的デーウィニズムなんぞは元々信じてはいないが、それにしても、この社会の退歩・退嬰の度合いが常軌を逸しているのではないか。社会はより残酷になり、より寛容でなくなり、より弱肉強食化が進んだ。人間を幸福にしないシステムがますます強固になってきている。僕はあと10日で、こんなふうになってしまった国を後にする。またまた外から日本を見ることになる。とてもエクソダスなんて言えたものじゃないのだが。

先日、作家の辺見庸が九段会館で行った講演の映像をみた。僕が仕事をしている放送局の報道の誰かが、取材には行ったが放送に至らなかった代物なのだろう。3時間以上に及んだ講演の内容は、言葉の本質的な意味で、きわめてラディカル(根源的)であり、挑発的であり、「魅力」に富んだものだった。僕は敢えて「魅力」と書いた。そうだ、「魅力」があったのだ。真摯な思考と言葉は人を強烈に惹き付ける。そういう経験をすることがとても少なくなった。そして、辺見の言葉はマスメディアに関わっている僕らを刺す。

きょうもまた3人の死刑確定囚に死刑が執行された。この国のあの法務大臣は、間違いなく任期中に執行した死刑数の記録保持者となり続けるだろう。

アメリカ。いろいろな意味で、日本にとっては生命線の国だ。その国の最大都市ニューヨークとは一体どんなところなのだろう。そこで暮らすことから徐々にそれを見ていこう。

*   *   *   *   *

この「業務外日誌」は、自分の関わっている職務との関係から、「業務内」のことがらを書いてしまうと「元も子もない」状態になってしまうので、それ以外のことを書き綴ってきた。けれども、実は、「業務内」と「業務外」はどこかで連関しているものだ。こんなことが起きていた時に、あんなものを見ていた、読んでいた、聴いていた。つい最近も、強烈な体験をした。人から見るように薦められていた万田邦敏監督の映画『接吻』を見終わった直後に、秋葉原でのあの凄惨な事件の発生を知った。現実と作品の接続に眩暈を覚えるような奇妙な感覚をもった。ストレート・ニュースと文化状況は共振している。そのことを今度は、異邦人として味わうことになるのだろう。
     

*   *   *   *   *

「業務外日誌」をご愛読頂き、また多くの感想を寄せて頂き、ありがとうございました。また、いつか、NYからの通信で再会しましょう。 

2008年6月 5日

忙中閑あり。でも、もう時間がない。

まずは、お知らせから。勤務している会社の人事異動で、日本を離れることになりました。新しい勤務地は米国ニューヨークです。また取材現場に戻ります。それで、「業務外」日誌が成立しなくなり、いったんこのブログを閉じようと思います。3年間にわたる皆さんのご支援を心から感謝します。また、ブログを運営していただいたザ・コモンズの皆さん、本当にありがとうございました。

この数週間は、さまざまな「業務内」雑事に追われ、「業務外」日誌を記す余裕がなくなっていました。そういうなかでも、以前からの約束事や強い勧めにはなるべく応じることで時間を何とかやりくりしてきました。そのうちの幾つかを記しておきます。最終号はたぶん次回の記事になると思いますが。

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2008年5月18日

星野博美のひとをみる視線のやわらかさ

星野博美さんの新著『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)を一気に読んだ。この本、いいなあ。星野さんの本ではあの『謝々!チャイニーズ』と甲乙つけがたいほど、両方とも一番好きな作品になりそう。まるで青春ロードムービーなのだ。けれども、昨今の日本人の中国および中国人をみる視線の変化を思うとき、星野さんの中国人および中国という広大な国をみる視線の柔らかさというか、想像力の柔軟さにぐいぐいと惹かれる。この本を読んでいて、何となく僕がソ連特派員時代のモスクワとか地方都市で体験した理不尽さと暖かさの同居したほろ苦い出来事が思い出されたりするのだ。
先にロードムービーと書いたが、この本は1987年5月4日から6月4日まで、星野さんが当時、香港の留学生だった頃、アメリカ人の友人マイケルと出かけた香港~ウルムチまでの旧シルクロードの一部を辿る旅の記録だ。鉄道を主な移動手段にしている。その座席をめぐる種別が物語のキーワードになっていて、軟臥(一等寝台)、軟座(一等座席)、硬臥(二等寝台)、硬座(二等座席)、無座(座席なし)という「5種別」が、あらゆるドラマの展開の起点・起動点になっている。平等を建前とする社会の「種別」は実質的には、権力の格差=つまり特権の存在を意味しているのだが、そこで繰り広げられる喜怒哀楽の現実のドラマ。笑いながら泣きたくもなる。そこに暮らしている人々と旅人。そこに同じ血が流れている人間としてのつながりを認めるのかどうか。そこが根本だ。ウイグルの項にある写真がどれもいい。
 中国の反日感情や、ギョーザ事件。チベット暴動の鎮圧、北京五輪問題、さらには直近の四川大地震の扱いなど最近の日本の対中国観の変化を大いに感じるにつけ、この本は多くの人に読んで欲しい本だ。
 最後に。マイケルという人物とのせつないこころの物語としても、僕はこの本を読みました。こういうのは好きですね。

2008年5月17日

沖縄で魂を揺さぶられる

久しぶりに沖縄に来た。沖縄を訪れた時には必ず、まるで「儀式」のように沖縄そばを食べることにしている。この十数年は、国際通りにある宮古そばの「どらえもん」と決まっている。今回もそうした。沖縄という土地が大好きだ。僕は北海道生まれ、北海道育ちなのに沖縄に惹かれる。同質のDNAのようなものを感じるのだ。
さて、その沖縄で初日から魂を揺さぶられるような体験をした。ひとつは県立沖縄美術館で今日から始まった『情熱と戦争の狭間で』展。友人の土江真樹子さんが企画したこの作品展は、戦没画学生の作品を収集する長野の「無言館」の作品群と、沖縄の画家たちの戦争の記憶をたどる作品群のコラボレーションなのだが、両方の展示が互いの認識を深めあう効果をしっかりと保っている。1+1以上の相乗効果を生んでいるのだ。「無言館」の作品についてはすでに多くの言葉がいろいろな箇所で費やされているのでここでは触れないが、僕にとって新鮮だったのは沖縄の画家・アーティストたちの戦争の記憶の重層性、多義性である。例えば、山田真の『沖縄戦』は英字新聞Daily Okinawan の挿絵として1947年に描かれたものだが掲載が見送られた。すさまじい作品である。大嶺政敏の戦前作品『増産戦士』と、40年後に描かれた『集団自決供養』に至るまでも通底する一種の静謐感覚。山元恵一の『司祭』『角笛』『人の祈り』の朱色に込められた悲しみ。与儀達治の『怨』『=0(イコールゼロ)』にみられる、戦争の記憶においてさえ隠されようとしているものへの直視。見る者の想像力がどんどんと拡げられる。
夜、桜坂劇場でタテタカコのライブを聴く。こころに沁みた。沁みすぎた。『君は今』から始まって2曲目の『宝石』くらいでもう涙腺の決壊が始まった。ダメだね。こんなにピュアな声は、相当初期の頃の坂本美雨にちょっと聴けたような記憶もあるけれど、中島みゆきとも違うし、矢野顕子とも違うし、もちろん綾戸智絵みたいにはなっていないし。とにかく、こころに直線として突き刺さってくる硬質な純粋な歌声はただごとではない。これは事件だ。

2008年5月 7日

何てすばらしいドキュメンタリーなんだろうか

このところヒドく疲れ気味で心を休めたいと思っていたので、うるさい地上波のテレビを避けて、友人の家で、NHKのBSハイビジョンを何気なくみていた。そうしたらアイルランドのアラン諸島の小さな島の人々の生活を追ったドキュメンタリー作品が放映されていて、どんどん引き込まれてしまった。何てすばらしいドキュメンタリー作品なんだと。人口54人のイニシュ・マン島で営まれている暮らし。ゲール語を話しケルト文化を守っている人々。あわてて新聞の番組欄をみたら『シリーズ 天涯の地に少年は育つ・アイルランド荒波に編むセーター』と出ていた。押しつけがましくなく、余計なBGMなんかなく、過剰なスーパーもなく、ただただ暮らしぶりを謙虚に映し出す。人間が引き継ぐべきもの・ことが映像から自然に伝わってくる。カメラワークの何と見事なことか。こういうドキュメンタリーをみると、こころが洗われる。おしまいのエンドテロップをみて、一体どこの誰がこんなすばらしい作品を作ったのかと注視していたら、ドキュメンタリー・ジャパンって出てきて、ああ、やっぱりな、という嬉しい思いがこころに拡がった。

2008年5月 6日

タテタカコの存在感

必然的に出会ってしまう歌い手というのがいるものである。是枝裕和監督の映画『誰も知らない』のなかで使われていた未知の歌手の歌が流れた時に、映画館で不覚にも涙腺が一気に破れたことを覚えている。ワシントンDCのEストリート・シネマという劇場でだった。その歌は『宝石』という歌で、歌っていたのはタテタカコという人だということを後から知った。それから4年の時間が過ぎた。そのタテタカコの新譜を聴いた。何と存在感のある歌手なんだろう。併収されているDVDには3人の写真家・美術家が曲に合わせて写真映像をつけている。何だかそれをみて胸が締め付けられるような、苦しいような感情を覚えた。「君は今(写真;奈良美智)」「遠い日(写真;小林紀晴)」「人の住む街(写真;橋口譲二)」。ライブで肉声を聞きたい歌手である。

2008年5月 4日

「羊に率いられた獅子」を描く愚直さ

最近では映画館で封切り映画をみる機会がぐっと減った。これはヤバいと思い、帰省先の富山市で『大いなる陰謀』というのをみた。富山市内でやっている映画があまりにもロクでもない作品ばかりで他にみるものがないのだ。大体にして映画館がパチンコ屋と同居しているシネコン系の郊外型。どこの地方都市も今や映画館はこんな有様なのだろうか。ロバート・レッドフォード監督・出演の『大いなる陰謀』の原題は「Lion for Lamb」。「(臆病な)羊に率いられた(高貴な)ライオン」とでもいうほどの含意が込められているのだろう。対テロ戦争を押し進める共和党政治家たち(=実戦経験の全くない羊)が、すっかり無力になったマスコミを使って、無理な軍事作戦を遂行し、未来のある若者たち(=ライオン)を戦場で死なせている、というメッセージがあまりにも前面に出すぎている。この映画の登場人物のなかで、高貴でまともな人間として描かれているのは、戦場で戦死する黒人系、ヒスパニック系の2人の若者のみ。この単純な構造がこの映画をかえって深みのないものにしている。描き方としてはむしろ愚直。ブッシュ政権末期に特有の映画とみなされてしまうだろう。そこが残念だ。ただ、映画『靖国』の事前試写を求める国会議員のいる国と、レームダックとは言え現在の政権の戦争政策を堂々と批判するこのような映画をトップスターたちと共に制作し、世界中に一般公開している国のどちらがまともな国か。それを考えてみてもいいのかもしれない。そう言えば、この映画の配給はあのマードックのニュースコーポレーション傘下の20世紀フォックスだった。ニヤリ。

2008年4月30日

 やっぱり何を描くかだよね。

根津の小さなギャラリーで、内澤旬子さんの原画展が今日から始まるというお知らせをいただいていたので、出かけてみた。『庫の中』という本の挿絵の原画展だ。内澤さんといえば『世界屠畜紀行』だ。あれはすばらしい本だった。今回のは、神奈川近代文学館(あれれ、正確かな?)に所蔵されている日本の作家たちの私物を丁寧に丁寧に描いたものだ。埴谷雄高の自宅の木製の郵便箱とか夏目漱石のハンコ(彼は印鑑マニアだったそうな)とか大岡昇平の復員当時の服とか。これがとても面白い。ディテールに神は宿りたまいき。萩原朔太郎の『月に吠える』や永井荷風の『ふらんす物語』が発売当時、発禁になっていたとはね。その小さな画廊には、ご本人がいらしたが、「強烈な意志のひと」とみた。どう描くかもあるけれど、この人の場合は、何を描くかが圧倒的に重要なファクターだなと再認識した。それにしても根津のあたりは歩いていてホッとするね。

2008年4月29日

ほんとうのことをいう言葉のちから

大昔のことだが、詩人・谷川俊太郎の初期詩集のなかに、こんなフレーズがあって衝撃を受けた記憶がある。

本当の事を云おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない

こんなことを詩にするなんて、何という詩人なんだ。幼かった僕はそう思っていた。けれども、言葉を使って魂の内奥を伝える、ほんとうのことを云う時、言葉はちからを持つ。ウソの言葉は所詮は、上滑りに終わる。ウソは現実に凌駕される。(と思いたい。)ほんとうのことを云っている言葉に最近立ち会った。いや、正確には一度は立ち会い、もう一回はその映像をみたのだった。いずれも葬儀の弔辞だ。これまで型どおりの儀礼的な弔辞をイヤになるほど聞いてきたが、僕が最近聞いたその弔辞は、立ち会っていた人々のこころに突き刺さってくるようなちからをもっていた。ひとつは映像ドキュメンタリスト・村木良彦さんの告別式で、盟友・今野勉さんが読んだ弔辞だ。深い感銘を覚えた。村木さんの葬儀にしか出られなかった自分を恥じたほどだ。僕はそれを収録された告別式の映像で見たのだった。もうひとつは、僕が駆け出しの記者で検察庁担当の記者だった80年代初めの頃、よく朝まわりをした相手の検事の会葬でのことだった。のちに検事総長になった北島敬介氏の葬儀で、司法修習同期生の堀田力さんがおくった弔辞。深くこころを動かされた。その直前の法務大臣の弔辞(代読)があまりに無内容だったからかもしれない。あるいは、言葉のちからの無力さばかり感じるこの頃なので、余計に身に沁みたのかもしれない。
敬愛する作家・星野博美さんの『のりたまと煙突』の末尾の文章を引用させてもらう。

富める者も貧しい者も、健やかな者も病める者も、幸福な者も不幸な者も、大勢の人に囲まれた者も孤独な者も、墓場に持っていけるのは思い出だけだ。とかく不平等がはびこる現世で、そのことだけが人間に与えられた、唯一無二の平等なのかもしれない。だから、いつか消えゆく日まで、思い出をたくさん作って生きてゆきたい。それだけが、誰にも奪うことのできない、自分だけの宝物なのだから。(同書より)

2008年4月26日

パスカルズ@横尾忠則展を「かぶりつき」で

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終演後、パスカルズの石川浩司さんと

パスカルズというバンドがある。はじめて見たのは友部正人のコンサートで、だったような記憶があるけれど、確かじゃない。僕にとって何といってもいま現在NO1の楽隊であるシカラムータが、バルカン的チカラのエナジー・バンドだとすれば、パスカルズはフランスのエスプリだ。エリック・サティの音楽の喜びを感じさせる、ほのぼの系というか、人を解放してくれる音楽を奏でる。元たまの知久寿焼や怪人・石川浩司らもメンバーに参加しているほか、先日、川上未映子らをゲスト招いてテント・ライブをやった坂本弘道もメンバーに加わっている。そのパスカルズが世田谷美術館の横尾忠則展オープニング・イベントに出てくるというので出かけたら、とっくにチケットは完売になっていた。甘いよな、俺は、このバンドのカルト的な人気を考えれば。しかも雨天で野外ライブのはずが美術館講堂での開催に変えられていた。立ち見でもいいやと思っていたら、そういう人たちが沢山いて、美術館のロビーに溢れている。結局、世田谷美術館側の粋な配慮で、開演ギリギリになって、講堂のなかにできるだけ人を入れることになった。それで僕もタダでこの貴重なライブをみることができた。しかも「かぶりつき」で。わずか1メートル前に松井亜由美さんがいてバイオリンをひいている。石川浩司の「横をタダ乗り」には笑ったが、知久寿焼の澄んだ歌声を久々に聞いて、ぐっと来るものがあったね。

Profile

田原総一朗(たはら・そういちろう)

-----<経歴>-----

1934年、滋賀県彦根市生まれ。
早稲田大学文学部卒。
岩波映画製作所、テレビ東京を経て、77年フリーに。
テレビ東京時代の連続番組「ドキュメンタリー青春」で、取材対象者に肉薄する独特のインタビュー手法で注目を浴びる。
現在は政治・経済・メディア・IT等、時代の最先端の問題をとらえ、活字と放送の両メディアにわたり精力的な評論活動を続けている。
テレビジャーナリズムの新しい地平を拓いたとして、98年ギャラクシー35周年記念賞(城戸又一賞)を受賞した。
2002年より母校・早稲田大学で「大隈塾」を開講。塾頭として未来のリーダーを育てるべく、学生や社会人の指導にあたっている。

-----<出演>-----

『朝まで生テレビ!』
(TV朝日、毎月最終金曜25時?)

『サンデープロジェクト』
(TV朝日、毎週日曜10時?)

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