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2006年11月25日

「しょうゆかけごはん」に感動!

高野さんが帯広で放し飼いの豚と遊び、「北の屋台」で飲んでいるころ、私は銀座で開かれた「卵かけごはんの会」に参加していました。「卵かけごはんの会」といってもB級グルメの会ではなく(「卵かけごはん」は「卵かけごはん楽会」、「B級グルメ」も「B-1グランプリ」というのがあるくらい奥深いものではあるけれど)、米、醤油や豆腐の生産者が集まって、高野さんが10月29日の「極私的情報曼荼羅」でも書かれていた来年度からの「農政改革」について考えようというものです。

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主催は不肖・甲斐も理事に名を連ねている「ローカル・ジャンクション21」というグループで、これまでお茶や豆腐、ハチミツ、お酢、納豆などの生産者を囲んでつづけてきた「食話会」活動の一環。いわば「おとなのための食育」です。

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会場は銀座3丁目の「吉水」という和風旅館で、山形県長井市の遠藤孝太郎さん、横沢芳一さんがつくった「さわのはな」の新米のたきたてごはんを、岩手県葛巻町の「森と風のがっこう」さんの放し飼い鶏の卵、埼玉県日高市の弓削多醤油さんの「たまかけしょうゆ」でいただくというのがメインで、横沢さんの「花作大根」の奈良漬、埼玉県本庄市の「三之助/もぎ豆腐」さんの「只管豆腐」がサイドメニューというシンプルな食事会だったのですが、どれもこれも個性派、実力派ぞろい(それぞれのHPをご覧ください)。

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なかでもいちばん驚いたのは、弓削多醤油さんが番外で持参されていた「吟醸純生しょうゆ」。卵かけの前に、「子どものころは卵かけごはんなんてぜいたくで、醤油だけかけた醤油かけごはんだったな」などと思い出し、数滴ごはんにたらして食べてみたら、「なんだ これは!」と声をあげたほどのうまさ。「芳醇」なんて言葉が陳腐に聞こえるくらいの味と香りで、醤油だけで卵かけごはんの味!

私だけでなく、そばにいた料理研究家の先生もまねしておかわりしていたこの「吟醸純生しょうゆ」、火入れ(加熱殺菌)もろ過もしていない醤油というのは店頭で日持ちしないので、全国でも他に例はほとんどなく、弓削多醤油さんは月に1、2回の「しぼり日」に合わせてクール便で宅配しているとか。醤油の塩分の中でも1年以上生き続けたたくましい酵母や乳酸菌が腸まで届くのでからだにもいいというこの醤油、おかしなことに、火入れ、ろ過をしていないので法律上は「醤油」を名乗れず、分類上は「生揚げ」ということになるのだそうです。

同社HPにあった「お客様の声」――「おがんでいただくつもりですので、どうか とうとい大切な品を分けて下さいませ」がけっしてオーバーに聞こえないこの醤油、帰宅後、わざわざごはんをたき、それから3日連続で「しょうゆかけごはん」を楽しんでいます。

食事会の後は、「吉水」地下の「かくえホール」で、遠藤さん、横沢さんが30年つづけているフォークグループ「影法師」のコンサート。こちらは曲や演奏はよいけれど、歌詞が時代に追いついていないというのが正直な感想。「日本農業不要論」さえ叫ばれ、農業・農村が蔑視されたのはもう過去の時代(と言い切ってよいと思う)、農的暮らしを渇望する、とくに都市の若者の言葉にも耳を傾けて新しい歌詞をつくってほしいと思った次第。

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「吉水」はなかなかの自然派旅館で、料金も場所柄のわりにはリーズナブル。銀座で飲んで(私はそういう機会はめったにありませんが)終電に間に合わなくなったら、タクシーで帰るより安くてからだもゆっくり休めるかもしれません(そんなことのないように気をつけねば)。

2006年11月24日

宮崎県知事に「あったまにきた!」

「官製談合」疑惑で大揺れの宮崎県庁。だが本日の宮崎日日新聞によれば、昨日、県青少年タウンミーティング(内閣府、青少年育成国民会議など主催)が開催され、「県内の高校生約100人が安藤知事らを囲んで、宮崎の将来について語るパネルディスカッションがあり、農畜産業の展望などについて新鮮で熱い議論が交わされた」とのこと。

パネルディスカッションのテーマは「知事と語ろう 宮崎の将来について」。パネリストは安藤知事(!)と県立看護大教授ほか、高校生3人。

高校生たちだって、疑惑の知事とディスカッションしたくはなかっただろうし、疑惑の件について質問もしたかっただろうに、いまこの時期に「知事と語ろう 宮崎の将来」はないだろう。これだって露骨な「やらせのTM」じゃないか!

蓮舫さんじゃないが、「あったまにきた!」

2006年11月14日

誰が学校を建てたのか その3 「文部官僚の号泣」

 今朝の毎日新聞2面「発信箱」で、論説室・玉木研二記者が「文部官僚の号泣」と題して、1947年3月の帝国議会衆議院「教育基本法案委員会」の模様を伝えている。

 教育基本法案はすでに通過し、6・3制を中心とする学校法案がまわってきたとき、校舎や学用品はそろうのかとの委員の質問に対して、答弁に立った文部省学校教育局長が教科書も満足に子どもたちに与えられない窮状を嘆いて5分間言葉を失い、ついには号泣したのだという。

 『よみがえる廃校』(「増刊現代農業」11月号および「ざ・こもんず」10月25日)で追求した「敗戦直後の教育再生」に深くかかわる話でもあるので、「国会会議録検索システム」で調べてみたら、以下引用のように当時の様子がリアルに伝わってきた。

○日高第四郎政府委員 (前略)これらの點において、非常に現在の日本の教育内容というものが貧弱であるということは、殘念ながら認めなければならない次第でありますが、そういう化學的施設というものの一歩前の、たとえば机であるとか、黒板であるとかチョークというようなものまでも、殘念なことでありますけれども、不自由をしておるような状態でありまして、紙も、極端に申しますれば教科書も十分配給できるかどうかわからないような状態にありますので私どもといたしましては、配給その他の機構につきましても、できるだけ教育に向けるものについては、政府もあるいは民間のものも、一般にそれに尊重の念をもつて優先的に配給してもらうように努力いたしたいと思つております。

敗戰の結果ではありますけれども、今日の日本を復興させるものは、現在戰爭にも責任のある私どもの力というよりは、何も知らなかつたこれから來る若い人たちの力によつて、日本は再びこの情ない状態を――――――失禮いたしました――――――盛り返さなければならないと思つております。

 これについては、私どもとしては教育に唯一の望みをかけておりますので、萬難を排して、私どものあとから來る者のために、喜んで踏み臺になつていきたいと思つております。その邊實に情ない状態であることは、私どもも十分承知いたしておりますが、少しでもあとから來る者が勢よく伸び上つて、そうして日本を昔の、あるいはそれ以上のいい國家に仕立て上げるようにいたしたいと思つておりますが、どうぞ今後とも、私どももむろんいたしますけれども、議員の皆さんも、御鞭撻いただきたいと思います。

(毎日新聞「発信箱」では3月18日の委員会での出来事になっているが、「検索システム」では3月19日の発言になっている)

また以下は、衆院本会議で経過報告に立った委員長がとくに付言したことである。

○椎熊三郎教育基本法案委員会委員長 (前略)私、本委員會を通じまして、實に委員諸君の熱心なる態度、政府當局の真摯なる答辯の要旨につき、特に諸君に御報告申し上げておきたい點がございます。

それは昨日の委員會におきまして、社會黨永井勝次郎君よりの熱心な質疑がございましたが、その要點は、今六・三制を實施いたしますとしても、殊に國民學校の兒童に對する設備、學用品、教科書等、はなはだ心もとないものがあるが、文部當局においては、これらについていかなる施策があるかという、つつこんだ專門的の御質問でございました。

これに對して日高學校教育局長は、文部省の考えている一切を、率直に腹の中を打明けまして、そうして真摯なる態度をもつて御答辯せられましたが、その際日高局長は、敗戰後の日本の現状――戰爭を放棄したる日本は、文化國家建設のために、教育の徹底的な刷新改革がなされなければならない、しかも次代の日本を擔當すべき青少年に對する期待は絶大である、しかるにこの子供らに對して教科書も與えることのできないという今日の状況は、まことに遺憾千萬であるとの意味を漏らされたのでありますが、中途におきまして、局長は言葉が詰まりまして、涙滂沱として下り、遂に發言する能わず、最後には聲をあげて泣きました。

この状況は、委員長初め各委員にも影響せられまして、(拍手)委員會は、そのために約五分間一言も發する者なく、寂として聲なき状況でありました。熱涙のもとに日本再建を考えたるこの學校教育法案の審議は、まさに將來文化日本建設のために、しかも將來の青少年のために期待をかけたるこの熱意のほとばしりがこの委員會に現われまして、この状況は、委員會としてはまさに類例なきものであつたと、私は特に御報告申し上げたい。(拍手)(後略・引用終わり)

こうして教育基本法が通過し、6・3制が実施されたのを受けて、全国の農山漁村では、「むらの土地」「むらの材木」「むらの労働力」によって、新しい校舎が建てられたのだった。そうした学校のひとつである大分県日田市・旧小山小学校の「地つき」の風景(昭和27年)と、現在のたたずまいをもう一度ご覧いただきたい。

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 奇しくも同じく今朝の毎日新聞・大分版には、「日田市の旧小山小学校 再び解体の危機 福岡の竹島さん 存続へ利用者探す」という記事が掲載されていて、増刊現代農業ライターでもある竹島さんからファクシミリで送られてきたその記事には、つぎのように添え書きされていた。

――今回の取材で改めて気づかされたことですが、今の私たちは「戦後の精神」に学ぶこと大だと思います。この(日高局長の)答弁も、物不足でさんたんたる状況を伝えているのに、どこか、日本の子どもたちや国の将来を真摯に考える、人間的な温かさを感じます。戦後間もないころ、人びとはどう生きていたのか、何を考え、感じていたのか、もっと掘り起こすことが、自分の仕事にとっても大切だと思います。

2006年11月13日

変わらないためには、変わらなければならなかった農家

 10月29日の高野さんの「極私的情報曼荼羅」――「今日のサンプロでの“農業論議”について一言!」に触発されて、いますすめられている「戦後最大の農政改革」なるものについて考えていることを少し整理しておきたい。

 今度の農政改革とは、高野さんも書いているように「所得保証の対象となる農家の規模を、都府県の個別経営で4ヘクタール以上、北海道は10ヘクタールとし、また、個別ではその規模に達しない場合に村単位で共同で20ヘクタール以上の『集落営農』を行えば対象とするという具合に、かなり機械的に営農面積だけで線を引いた」ものである。

 そしてその政策が「全国平均で農家数の半分を占める小規模農家やじいちゃん・ばあちゃん農家が切り捨てられる形」になっているのも事実なのだが、それが「『経済=産業政策』として強い農家を育てつつ、『環境=社会政策』『格差是正政策』として弱い農家を維持」することになるかどうかについては大きな疑問がある。

 その疑問の前提となるのは「大規模農家」=「強い農家」であり、「小規模農家」=「弱い農家」という図式が成り立つのかどうかということである。輸入自由化や後継者不足、高齢化など、なにかと「暗い」話題の多い農業だが、この10数年来の数少ない「明るい」話題のひとつは「朝市・直売所」と「定年帰農」の増加である。

 『朝市大発見 自然な暮らしがここにある』は「増刊現代農業」97年11月号。全国の農山漁村で80年代後半から始まった「朝市・直売所」は、この当時まだ農水省の統計調査の対象ですらなく、「急増している」という実感のみを裏づけに取り組んだ特集だが、現在では全国約1万2000店舗となり、その平均売上も年間7000万~8000万円。なかには純農村地帯にあって、年間5億~14億円を売り上げる直売所も出てきた。

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愛媛県内子町の農家であり直売所「フレッシュパークからり」の元社長・野田文子さん。ひとりで年間1000万円の売り上げ。国交省の「観光カリスマ」でもある(詳しくはココ)。


 一方『定年帰農 6万人の人生二毛作』は98年2月号。「定年帰農」は私の造語だが、サブタイトル「6万人の人生二毛作」は、「平成7(1995)年における販売農家の15歳以上の世帯員のうち、新たに農業への従事が主となった者は10万2000人であった。(中略)これを年齢別にみると、60歳以上の者が5万9800人と6割を占める一方、39歳以下の者は1万2500人であった」という97年3月末発表の農水省「平成8年度農業構造動態調査」に由来していた。この「6万人」は、現在8万人前後となっており、団塊世代が定年退職を迎える来年以降はさらに増えると予想される。

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「空将補」を最後に航空自衛隊を退職、故郷の熊本県・水俣市に帰農した坂本龍虹さん・玲子さん夫妻。「公害の原点・水俣だからこそ安全・安心の食べものを」と、有機無農薬農業に取り組んできたが、現在は「水俣に産廃はいらない!市民連合」代表で忙しい。


 特筆すべきは、「朝市・直売所」にせよ「定年帰農」にせよ、いかなる政策誘導によって生まれたものではなく、あくまで農山村の「現場」で、「自然発生的に」生まれたものであるということだ。それどころか「朝市・直売所」は農協の共販体制を乱すものとして、多くの農協から白眼視され、当時の農水省の新規就農支援事業や地方自治体の新規就農受入れのほとんどは「40歳以下」に限定されていたのである。

 「朝市・直売所」は女性・高齢者中心の「小さい農家」が立ち上げたものがほとんど。家族のためにつくった自家用野菜や果物などは大量生産・大量出荷・大量流通の農協共販に乗せるほどのロットはなく、たとえ乗せたとしても形が不ぞろいで「規格外」としてハネられるのが関のヤマ。ならばと無人販売を始めたり、道路わきに軽トラを止めて売ったりするうち、米はないのか、味噌や豆腐や漬物は、とお客に聞かれて「なんでも売れる」ことに気がつき、趣味でつくったリースや籠やドライフラワー、仏壇やお墓に供える庭の花、生け花用の青いムギの穂、漬物石などありとあらゆるものを売るようになった。

 その「朝市・直売所」と「定年帰農」には密接な関係があり、「朝市・直売所」の多い山口県、広島県、岡山県などの瀬戸内海沿岸や、滋賀県、愛知県、岐阜県などの中部地方では新規就農のうち「60歳以上」が占める割合が高い。「朝市・直売所」で生き生きと立ち働く女性や高齢者の背中を見て、「こんな農業をやってみたい。こんな農業ならできる」という連鎖が始まっているのだ。

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みどりの館みやま

 たとえば岡山県玉野市の直売所「みどりの館みやま」では、市内に三井造船という大企業があることもあって、500人の出荷会員のほとんどが定年帰農。それで年間4億円を売り上げる(3年前の数字だから、現在はもっと増えているだろう)。「みやま」専属の営農指導員・田中陽子さんは34歳。岡山大学大学院農学研究科の出身で、「小さい農家」のための技術を確立したいとがんばっている。

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田中陽子さん

 「旧農基法の大規模化・効率化・高収益化一本槍という路線」(高野さん)とは、つまるところ「生産年齢・男子」の論理であり、つまり「農業近代化」とは農業の「担い手」を「生産年齢・男子」に画一化することだった。お役人は気がついているのかいないのか、当たり前すぎるくらい当たり前のことだが農村に暮らす女性や高齢者は「生産年齢・男子」になることはできない。女性は女性なりに、高齢者は高齢者なりにできる農業をつづけるための「自己変革」が「小力技術」(詳しくはまた機会をあらためて述べたいが、機械化による「省力」ではなく、米で言えばアイガモ農法、米ぬか除草などの「自然力を生かす」技術)であり、「朝市・直売所」という新しい流通の形の創造だった。

 民主党・小沢一郎氏が代表就任の前後にヴィスコンティの「山猫」から「変わらないためには、変わらなければならない」という台詞を引用していたように記憶しているが、この10数年、農山漁村の女性・高齢者はまさに「変わらないためには、変わらなければならない」と、小力技術や朝市・直売所の創造という「自己変革」を遂げてきたのであり、それは総じて言えば農業の担い手の「多様化」であり、個別農家で言えば「個性化」だった。

 だから高野さんの言う「『経済=産業政策』として強い農家を育てつつ、『環境=社会政策』『格差是正政策』として弱い農家を維持し、さらに田舎暮らし志向の移住者も増やしていくというような巧妙な政策ミックスが可能なのかという、これはかなり高級な議論」がはたして「高級な議論」になるかどうかは、一度「大きい農家=強い農家」「小さい農家=弱い農家」という前提を外せるかどうかにかかっていると思う。私の見てきた限りでは、「田舎暮らし志向の移住者」は、小さいか大きいかにかかわらず、個性的で多様な農業に惹かれるケースがほとんどだった。

 なお、蛇足だし、まだ推測にすぎないが、「戦後最大の農政改革」によって、「所得保証の対象となる農家の規模が、都府県の個別経営で4ヘクタール以上、北海道は10ヘクタール以上」になるとしても、それはむしろ大規模単作農家の救済の意味合いの方が強く、農業の大規模化への政策誘導にはならないだろうと考えている。むしろいま元気なのは、切り捨てられてきたはずの「全国平均で農家数の半分を占める小規模農家やじいちゃん・ばあちゃん農家」なのだ。だから民主党もまた、「切り捨てられる小規模農家の救済」を言う前に、一度現場に出て「切り捨てられてきた小規模農家の元気」に学んでほしいと思う。
 

2006年11月 2日

誰が学校を建てたのか その2

 「京都では明治政府の学制発布より3年も前に、64校もの小学校が町衆によって建てられていた!」――そのことを知ったのは9月15日、思想史家・関曠野氏を中心とするメーリングリスト「時代塾」での関氏の投稿によってだった。『よみがえる廃校』(「増刊現代農業」11月号)の締め切りは目前だったが、農村だけでなく都市部でも「学校は住民が自前で建てた」ことを示す格好の事例だと考え、急遽、関氏に原稿を依頼、大阪在住の元西日本新聞記者・渡邊美穂さんに「京都市学校歴史博物館」の写真を撮ってもらうことにした。

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番組小学校の歴史が展示してある京都市学校歴史博物館。旧開智小学校

 詳細はぜひ、『よみがえる廃校』の「『番組小学校』に結実した町衆の自治の精神」をご参照いただきたいが、ここでは概略を紹介したい。

 幕末動乱のさなか、新時代の到来を予感した京都の画家、書家、香具商など市井の知識人の寄合があり、彼らは福沢諭吉の『西洋事情』によって海外の教育を知り、慶応4年(明治元年・1968年)、奉行所に「小学校建設の急務」と題する口上書を提出するが、かえりみられることなく、そのまま維新を迎える。

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 東京遷都によって、かつて40万人いた人口が半分近くに減るなど京都の衰退を憂えた町衆たちは、自ら小学校を建設することを決意、資金と土地の寄付を募って明治2年に一気に64校もの小学校を建設した。その運営資金は寄付金のほか、子どものいるいないにかかわらず各家々から「竈金(かまどきん)」と称する拠出金を集め、「小学校会社」という金融基金を設け、その利子を学校の運営費に充てたという。

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竈金通帳

 京都では道をはさんだ両側の地域を「町」とする習慣があり、「町」が20以上連合したものが「町組」。いまの「校区」にあたるこの町組には番号がふられていたため、この小学校は「番組小学校」と総称された。

 関氏は「こうして京都の学区は昭和16年の国民学校令で廃止されるまで独自の財源をもって教育費を自ら負担する慣習を残し、今日でも京都市民と小学校の関係には独特なものがある」と述べているが、その「独特な関係」のひとつが、10月30日朝日新聞「列島2006」で大きく報じられた「学校運営協議会制度(コミュニティ・スクール)」だろう。

 話を戻すと、番組小学校はその建設、運営のみならず、教育の内容も学制発布の前なのだから当然、自前で決めた。読み書き算盤に加え、上級生ともなると、国際法(万国公法)、世界地理(外国里程)などがあり、当時の気風がうかがえる。ちなみに「修身」とは、道徳ではなく、公衆衛生の科目だったという。

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 さらにこの番組小学校は、「平安隊」という自治警察の詰所でもあり、消防や保健所、公民館の役割も兼ねていた。屋根には火の見櫓がそびえ、半鐘で住民に時も知らせた。関氏は「学校は紛れもないコミュニティの中心だった」と述べ、また「町衆の事実上の都市計画は文物両面にわたる包括的なもので、その文化的側面が番組小学校、物質的側面が琵琶湖の水を京都に引き地域的水力発電にも利用することで京都を産業都市として復活させた琵琶湖疎水だった」とも述べている。

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西陣織や友禅など伝統産業の担い手育成のため、日本画教育にも力を入れた

(以上の写真はすべて渡邊美穂さん撮影)

 こうして「誰が学校を建てたのか」を考えるとき、いまの「いじめ」によるとされる子どもの自殺、未履修問題、学力論争、さらには教育基本法「改正」論議など、問題のとらえ方があまりに矮小すぎるような気がしてならない。

 最後に、昭和6年、「岩戸尋常高等小学校」(宮崎県高千穂町、当時岩戸村)から発行された『岩戸郷土読本』の一節を引用したい。

――土持信贇(つちもちのぶよし)は、今から凡そ百二十年程前の文化十一年一月十六日に岩戸村永之内に生れました。(中略)天保三年家業をついで庄屋となり、以後明治三十年に至るまで六十五年間、優れた天分を持ちながら一歩も岩戸を出ず名誉を求めず、地位を願わず、ただ岩戸村の開発の為に全力を尽くしました。殊に本居内遠の子文章博士本居豊頴などは、幾度も手紙を送って中央に出て名をあげることをすすめましたが、信贇はすべてそれをことわりました。

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 中でも黒原及東岸寺の用水を開いたこと、久しく荒れ果てていた岩戸神社の今のお社を建てたことなどは忘れてはならないことです。この草深い山間に住んで居て、村の為に尽くし、自分の名をあげようなどとは少しも考えなかった人ですが、その友達であった人々の名を聞くと、この人がどんなにえらい人であったかがしのばれます(「偉人としての土持信贇」原文旧仮名づかい)。

 戦前の農山村であっても「博士か大臣か」のような価値観ではなかったことがよくわかる。 ちなみに「岩戸尋常高等小学校」は、私の母校の前身であり、むしろ「博士か大臣か」のような価値観によって「秀才」たちが村を出るようになるのは「団塊の世代」からである。

2006年11月 1日

錦秋の奥会津・只見へ

 今年はどういうわけか、福島県に行くことが多い。5月、6月は、「ざ・こもんず」でも既報の「安達太良山麓の奇跡のむら」、8月上旬はいわき市、下旬には会津坂下町に三島町、そして先週は只見町に行ってきた。

 只見へは、上越新幹線浦佐駅から友人の運転する車で行ったのだが、途中の風景がじつにすばらしかった。

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 上の写真は、国道252号線の「六十里越」を過ぎたあたりで撮った田子倉湖とその周辺の紅葉の風景。昭和35年完成の田子倉ダムによってできた人造湖である。また下の写真は、国道から上の、1000m級の山のブナ林。同行の森林生態学のT先生によれば、「おそらく炭焼きのために、すべて人の手によって植えられたものであろう」とのことだった。

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 ダムに沈んだ田子倉集落の標高は約500m。その差500mの稜線に囲まれた広大な空間が、集落の炭焼き、山菜・キノコ採りなどの生産と生活の空間だったということになる。この紅葉の風景は、自然にできたものではなく、長い時間をかけ、人の手によってつくられたものなのだ。だから宮本常一の言葉を引用するまでもなく、「はじめてなのになつかしい」という奇妙な感慨にとらわれる。

 只見を訪ねたのは、「たもかく」(只見木材加工協同組合)で開かれた会議に参加するため。「たもかく」は「本と森の交換」などのユニークな事業で全国に知られた組合で、代表の吉津(きつ)耕一さんにもひさしぶりにお目にかかった。吉津さんは私より少し年上だが、東京での大学生活を終えるとすぐに只見に帰り、「雑木」林の多い只見の山々を生かして新しい仕事をつぎつぎに起こして都会の若者をも惹きつけてきた。

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 大学を卒業するころ、私も九州の田舎で仕事に就きたいと思ったが、「仕事を起こす」ほどの度量はなく、ある意味で「仕方なく」農文協の仕事を選んだ私は、吉津さんを知って以来、ずっと尊敬の念を抱き続け、『本 森に帰る』『草の根資本主義って何?』の二冊の吉津さんの本を担当させていただいた。

 その組合も創業から25年。吉津さんも私も、すでに50代の大台を超えた。私はあと10年で定年だが、吉津さんはこれからの25年をめざし、新たな構想を準備中である。

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左端が吉津さん

 会議の翌日は、「源流の森オータムフェスタ」に参加。「源流の森」は、東北電力社員が「本と森の交換」に参加し、18万冊の古本と1万2000枚のCDを「たもかく」に寄贈、それとの交換で約4万m2の利用権を得て、平成13年3月に「東北電力 源流の森」を開設したもの。ダムによって電力を得る東北電力が地元に感謝する催しでもあるようで、只見の子どもたちが「源流の森」でバーベキューやフィールドビンゴなどをおおいに楽しんでいた。

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栗の木の切り株にクリタケが密生。この後キノコ汁に。源流の森は、春にはカタクリが満開となる


 

誰が学校を建てたのか その1

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 前々回の「よみがえる廃校」冒頭で引用した「『戦後の心』を教わった白いペンキの木造校舎」を書いたのは福岡在住のフリー記者・竹島真理さん。昭和27年、村の年寄りから子どもまで、みんなで「地つき」をして建てた大分県日田市の小山小学校は、彼女の母親の母校である。

 校舎に使う用材は、村の山持ちたちが「うちの山の木をどうぞ」と寄付。地元の伐り山(きこり)が山に入って伐採。そして「どんだ引き」という方法で、束ねた木を牛に引かせて山から下ろすのだが、それを請け負ったのは竹島さんの曽祖父だった。校舎の建て替えが始まった昭和27年、竹島さんの母親は5年生で、その弟の叔父は3年生だった。

 竹島さんの祖父は昭和19年にサイパンで戦死していた。そのとき母親は2歳で、叔父はまだ祖母のお腹の中だったという。つまり、曽祖父は、戦死した息子の替わりに、孫たちの通う学校のために「どんだ引きは私がやりましょう」と申し出たのだった。

 その曽祖父は、校舎が完成した昭和28年の秋、山仕事中のけがが原因で亡くなった。竹島さんは、こう書いている。

――牛に丸太を引かせて山の斜面を歩いて下る「どんだ引き」は重労働だが、私には、山で汗を流しながら、孫たちや地域の子どもたちの将来に明るい未来を思い描く曽祖父の笑顔が見えるような気がした。きっと、地域のおとなたちみんなが、そういう思いを抱いていたことだろう。だからこそ、私は、あの校舎を何とかしてまもりたいと思った。

――遠くに住み、何も加勢できずにきた私にものを言う資格はないけれど、やっぱり、この校舎に、このままここに立っていてほしい。なぜなら私は、この校舎から「戦後の心」を教わってきたから。ようやく訪れた平和のなかで、明るい未来を思い描き、力を合わせて学校をつくった村のみんなの心を。そういう「戦後の心」が木造校舎という形を借りてここにある、と思うから。

 国や自治体を頼れないこの時代に、平和の、復興の、思いや願い、祈りを込めて建てられた小中学校の多くは、村人が村の木で、村の土地に、村人全員の力で建てたものがほとんどだった(現在でも、用地が自治体の登記になっていなかったり、わずかな地代で私有地を貸しているところがある)。

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 7月30日と、つい先日の10月29日の二度訪れた秋田県由利本荘市の旧鮎川小学校の校舎もそうだった。明治7年に開校し、平成16年3月に廃校となった鮎川小だが、その美しく、また堂々たるたたずまいにほれ込んだ東京・エスケイ産業勤務の小沢茂氏が存続を願い、今年から春、夏、秋のコンサートを開催している学校だ。

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 小沢氏の誘いで夏のコンサートに同行した際、校庭を取り囲むみごとな桜の木々のことをたずねようと、体育館の階段に腰掛けてコンサートを待っている卒業生らしき男女に声をかけると「この学校は、ぼくらが中学校1年生のときに『どんつき』で地盤を固めて建てたんです。そのときはまだあの桜の木はなかった」という答えが返ってきた(開校当初は中学校も併設)。やはり用材は共有林で、共有地に建てられた学校だった。

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 10月29日には、コンサートに先立ち、私が「全国の廃校活用について思うこと」と題し、前々回の「よみがえる廃校」で書いた大分県小山小学校、熊本県菊池東中学校、山形県金山小学校谷口分校のことなどを報告した。「必ずしも恒常的な活用例ばかりではありませんが」と断ると、会場にいた秋田市の建築家・小林晴樹氏が「それでもいいんです。木造の建築物は、使われなくなると傷むのが10倍速くなる。使い続けることが大事なんです」と言った。

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 その後のコンサートは、地元の女声コーラスグループによる鮎川小学校の校歌から始まった。

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――拓く由利原 南にはるばると
   清き流れに 若鮎躍る
   平和の光に 輝く鮎川
   これぞ我等の すむところ

 学校は、「ここ」(地元)で、平和に、生きていくために地元の人が、自分たちの力を合わせて建てたものだ。本来「むら」のものなのだ。それを今、「美しい国」とやらのために国のトップが教育基本法の「改正」を言い、その一方で文部官僚が「児童数最低300人規模をめざしての学校統廃合」を説く。

 「美しい村」なくして「美しい国」などあるものか。いや「美しい村」さえあれば、国などなくてもよいのだ。

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Profile

甲斐良治(かい・りょうじ)

-----<経歴>-----

1955年宮崎県生まれ。
九州大学経済学部卒。
社団法人・農山漁村文化協会(農文協)「増刊現代農業」編集主幹。
『定年帰農 6万人の人生二毛作』『田園住宅 建てる借りる通う住まう』『田園就職 これからは田舎の仕事が面白い』『帰農時代 むらの元気で「不況」を超える』の「帰農4部作」で、1999年農業ジャーナリスト賞受賞。
その後も『青年帰農』『団塊の帰農』『若者はなぜ、農山村に向かうのか』などの「帰農シリーズ」で新しい農的生き方を追究するとともに、「地元学」(ないものねだりではなく、あるもの探し)による各地の地域づくりにかかわる。
都市と農山漁村の共生・対流推進会議運営委員、100万人のふるさと回帰支援センター・里山帰農塾講師。
建築家・石山修武氏、民俗研究家・結城登美雄氏と「21世紀型農村研究会」05年に結成。

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