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2006年10月31日

韓国「プリ」に大感動!

広々とした田んぼの中で、4人の男が鉦や太鼓を叩いている――そんなポスターに誘われて、昨夜は新宿シアターアプルでの韓国伝統音楽グループ「プリ」の日本公演へ。いやあ、すごかった。

「ひちりき」や「チャルメラ」みたいな(すみません、韓国の楽器になんの基礎知識もないので)メロディーが加わる曲もよかったが、鉦や太鼓だけのやたら「やかましい」曲に身をまかせていると、喧騒の向こうからあるはずのない旋律が聞こえてくるような気がして、「いったいこれはなんなんだ?」という不思議な体験もした。

また、「パンソリ」という、語りというか、詩の朗読というか、昔の状況劇場の芝居の台詞をもっとリズミカルにした「叫び」のような曲の「子龍、弓を射る」には本当に驚いた。人間の声による音楽にこんな「かたち」があったんだ。

と、へたな言葉で表現しても仕方がない。彼らのホームページにサンプルがあるので、関心を持たれた関西方面の読者の方は、ぜひ明日の大阪公演へ!

2006年10月25日

よみがえる廃校

 私の編集する「増刊現代農業」の最新号は『よみがえる廃校 「母校」の思い出とともに』です。下記は長文ですが、「月刊現代農業」12月号掲載の「主張」(「社説」のようなもの)に加筆したものです。学校もまた、「『くに』より先に『むら』がある」でした。

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現在の小山小学校(竹島真理さん撮影)

共通する「地つき」の思い出

 下の写真をご覧いただきたい。昭和27年、大分県日田市の小山小学校新校舎建設のための「地つき」の風景である)。

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(『小山小百年の歩み』より)

――地固めをする「地つき」の日、村のお年寄りから子どもまで、みんなが学校に集まりました。木を何本か組み合わせて櫓を組み、その中に地つきのための柱を吊るし、柱に結わえた何本もの綱をみんなで力を合わせて引っ張ります。赤い手ぬぐいを首に巻いて、地つき唄を歌いながら。なかには、手ぬぐいを鉢巻きにしてもらった子どももいます。ドスン、ドスンという威勢のよい地つきの音が山にこだましました。
 地つきが終わると、いよいよ大工さんや左官さんの出番です。小山の山から伐り出された材木を、大工さんが柱や梁に切り込み、組み立てていきます。棟上げをして、屋根を葺き、床を敷き、左官さんが壁を塗っていきます。仕上げは白いペンキ塗り。木造二階建てのモダンな校舎は、昭和二十八年春、こうして完成しました。
 落成式の日、それまで村のお宮などの仮教室で学んでいた子どもたちが、ピカピカの真新しい校舎に初めて足を踏み入れました。頑丈な造りの教室や廊下、高い天井を見上げたときの子どもたちの気持ちは、どんなだったでしょう? 二階の窓から見える眺めは? そして、おとなたちは、どんなにか誇らしかったことでしょう。
 小山小学校は、村人が心と力を寄せ合って、みんなで建てた学校です
(『よみがえる廃校』竹島真理「『戦後の心』を教わった白いペンキの木造校舎」より)。

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(同上)

 写真手前で、ひとり前方を見つめている鉢巻姿の子どもはおそらく就学前、いわゆる「団塊の世代」だろう。写真左端の子どももその世代だろうか、右側にいる母親の、「あんたたちの入る学校ばい、もっとしっかり綱を引かんね!」と励ます声が聞こえてきそうな写真だ。
 学校というと現代では、自治体の予算で教育委員会が発注し、建設会社が建てるものと思われがちだが、団塊世代の大量入学を控えた昭和20年代後半に、全国の農村で建てられた新校舎のほとんどは、「むらの土地」に、「むらの材木」で、子どもたち(在校生)を含む「むらの労働力」で建てられたものだった。
 そこに共通するのは「地つき」の思い出。

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――墨染めの手ぬぐいで鉢巻きをして、右手には、青竹の棒を持った人が、ゆるやかな調子で「石は川原に、坊主は寺に」と、地つき音頭が始まれば、綱を持っている大勢の人が、「ヨイヨイ」と力強い掛け声をして綱を引く。櫓の中の生の松の木が、高く引き上げられては落ちてくる。敷き詰められた栗石が、その重みで突き詰められていく。戦後間もない時で、今のような建設機器はなく、人手だけを頼りに校舎の建設が始まった。その頃、中二の自分たちも毎朝登校時に両手に栗石を拾って集めた(昭和25年度卒業・松本巧さん「閉校に思う」―『菊池東中学校 閉校記念誌』より)――生徒だけではない。村役場、村民、青年団、先生、総出で菊池川から栗石を拾い集め、地つきをする。村有林から良材を伐り出し、村で確保できるものはすべて調達し、村民一丸となって、「自分たちの中学校を建設する」という熱い思いを胸に、ともに汗を流し、ともに喜びを分かち合ってでき上がった校舎(『よみがえる廃校』小林和彦「いのち一番、水源村の『おいしい村づくり』」より)。

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 戦争の傷跡いえぬ昭和20年代、食料難、資金難、物不足、そして木材価格高騰のなか、先人たちは子どもたちの教育をなにより優先し、全国津々浦々に地元の良材で学校を建設する槌音が響いたのである。

少子化と市町村合併で急増する廃校

 そうした歴史のある学校がつぎつぎと閉校、廃校に追い込まれていく。大分・小山小学校は平成10年に121年の歴史の幕を閉じ、熊本・菊池東中学校は平成12年に53年の歴史の幕を閉じた。

 団塊ジュニア世代が小学生だったころの1200万人が720万人へ、中学生610万人が360万人に減少した「少子化」と、3200市町村が1800になった「平成の大合併」によって、学校の統廃合が急速にすすめられている。平成4年から13年までの10年間に全国で廃校になった学校数は2125校にのぼり、年度別の廃校数も平成11年までは毎年150~200校だったが、平成12年度以降は250校以上に達している。さらに「学校規模をさらに適正なものにしていくためには、より一層の努力が必要」(文部科学省初等中等教育企画課長)とされているため、今後も廃校になる学校は増えつづけていくだろう。

 だがその一方で、廃校2125校のうち1748校はなんらかのかたちで活用されており、1573校では既存の校舎が現存し、うち1300校でその校舎が活用されている(文科省「廃校施設の実態及び有効活用状況等調査研究報告書」平成15年)。

 廃校後も、これだけ多くの校舎が現存し、また活用されているということは何を意味するだろうか。それは、一校あたり数千万円~数億円の取り壊し費用を捻出するのが困難という自治体の財政事情によるのかもしれないが、なにより大きいのは「学校はみんなで建てたみんなのもの。また地域のよりどころ。その学校を取り壊すのは忍びない。なんとか残して生かしつづけたい」という校区住民の思いと願いではないだろうか。 
 ともすれば意気消沈してしまいがちな「廃校」という事実。『よみがえる廃校――「母校」の思い出とともに』は、その事実に直面しながらも、「みんなで建てたみんなの学校を生かしつづけたい」という校区の思いと願いを結集し、逆に校区の元気づくりの拠点として活用している全国30校の事例を特集した「現代農業」11月増刊である。

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あきらめずに活用したから交流と広がりが

『よみがえる廃校』には、校区の住民がさながら昭和20年代後半の新校舎建設当時のように心と力を寄せ合って、学校が開かれていたとき以上のにぎわいを取り戻した例に満ちている。
 たとえば山形県金山町立金山小学校谷口分校。明治20年創立のこの学校も、平成8年に110年の歴史の幕を閉じた。残された校舎は昭和25年にやはり団塊の世代の就学を控え、住民も手伝って建設された赤い屋根の木造校舎。残った校舎をどうするか、地区住民の間で話し合いが始まった。

「子どもの教育を考え、分校というかたちはあきらめたけれど、愛着ある校舎を、ただ取り壊すことだけはしたくなかった。みんな、気持ちは同じだったと思う」と語るのは同小の卒業生で稲作専業農家の庄司博司さん(59歳)。だが、そうは言っても、校舎の老朽化は明らか。維持しつづけるには、それ相応の労力と費用が必要だ。それをどう捻出するのか。誰が責任をとるのか。財政難のなか、町に頼むこともできず、これといったアイデアもないまま、かたや校舎解体の準備は着々と進んでいった。

 そんな折、庄司さんらのもとに、校区内外から、積極的にこの問題にかかわり、バックアップしてくれる人びとが現れた。庄司さんにとっては、農業や町づくりについてなど、いろんなことを議論してきた仲間。農協の職員、産直グループのリーダー……さらに彼らのつながりから、分校活用のアドバイスをしてくれる人たちが、仙台や東京からも駆けつけてくれた。

 彼らからヒントを得たことで、「今ある校舎をそのまま生かそう」という気運が高まり、地区内外の有志14名で谷口分校運営委員会を結成。検討の末、「四季の学校」と名づけた農村体験学校、また校舎を維持・管理する資金を得るために、手打ちそば屋「がっこそば」を始めることで話はまとまった。そば屋のスタッフには、畜産農家の加藤トキ子さん(66歳)をはじめ、地元の5人の農家の女性が手を挙げた。

 ただ、この谷口地区ではそれまでソバはほとんど栽培されておらず、庄司さんもそば打ちに関心がなかったという。
「この地域はそばを食べる文化が途絶えていたんです。だから、私はソバの花なんて見たことがなかったし、町には一軒のそば屋もなかった。なのにいきなり始めるなんて、イチかバチかの心境だったというのが正直なところです。ただ、谷口は36戸の小さなむらですが、昔から、まとまりのある元気なむらだと定評がある。集まってきた有志、スタッフの女性たちも、率先して、地域活動にかかわってきた人ばかりです。このメンバーとがんばっていけば、仮に失敗したとしても悔いはない。そんな信頼感がありました」

 さっそく、そば打ちの修業が始まった。町内や新庄市、遠くは東京からわざわざ教えに来てくれたそば打ちの先生のもとで、運営委員の面々や母ちゃんたちは、そば粉にまみれて猛特訓。半年ほどして、「もう開店してもだいじょうぶ」とのお墨付きを得たところで、いよいよ本格的な準備に乗り出した。校舎の改装は、男性陣が力を発揮した。幸い、運営委員のなかに兼業農家の大工さんが2人いる。彼らが棟梁となり、もともと小さな調理場と物置などがあったところを、壁を取り払うなどして、厨房に改造した。

 また、必要な備品は、経費節減のため、業務用冷蔵庫以外は中古品やもらいものを利用した。皿やコップは、ほとんどが地区内外の人たちが寄付してくれたものばかり。畳は町の公民館の不用品、座布団は布団屋さんの展示品を格安で購入、そばを盛りつける板は、大工さんに教えてもらいながら、みんなで手づくりした。

 分校が閉校して1年余りが経った平成9年6月、「四季の学校」を開校。第1回目の「春の学校」には、県内をはじめ、宮城、東京などから30名余りの参加があり、校庭脇につくった畑での農作業体験、花壇づくりや草刈りなどの校舎の環境整備を行なった。夜の交流会では、そばや郷土料理をふるまい、酒を酌み交わし、翌日は、山菜採りなどを楽しんだ。また、第2回目の「夏の学校」では、2日かけて校舎のペンキ塗りを行なったが、校区住民とともに校舎の補修にかかわったことで、参加者の心に校舎に対する愛着が自然と芽生えていった。

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(おおい・まちこさん撮影)

「がっこそば」の営業は土日のみ。時間は午前11時から午後3時までのわずか4時間だが、オープン後10年目のいまでは年間1万5000人が訪れる金山町きっての観光スポットとなった。そしてほとんど栽培されていなかったソバは、現在80ヘクタールも栽培されるようになった。地元で採れた玄ソバを元教員住宅の製粉所で自家製粉した粉を使うようになったら常連のお客が「そばがおいしくなったね」とすぐに気がついた。

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(同上)

「四季の学校」の生徒のなかには、「がっこそばで働きたい」と、町内の農家に嫁いだ仙台出身の女性もいて、現在は「がっこそば」の経理を担当している。また、「四季の学校」への参加が縁で結ばれたカップルも5組。「四季の学校」二世も誕生した。なによりうれしいことは、校区の人たちが誇らしげに親戚や友だちを連れてそばを食べに来てくれること。同窓会や老人クラブの懇親会に、法事の集まりにと「がっこそば」を利用してくれること。廃校をきっかけに校区の人びとの心が離れてしまうこともよくありがちだが、ここでは心をひとつにするきっかけになった。
「校舎をあきらめないで活用したことで新しい交流が生まれ、世界が広がった。地域の人の校舎への愛着、人とのつながり、どれが欠けても今のような姿はなかったと思う」と、庄司さんはふり返る。
 
拡大版「ふるさとの親戚の家」として

 宮城県南三陸町(旧志津川町)の「旧林際小学校運営事業組合」組合長の菅原辰雄さんも庄司さんと同じ59歳。林際小学校の創立は昭和29年で、菅原さんはその一期生。校舎は地元の良材を吟味し、頑丈に建てられた。「だから長持ちして、50年以上たった今も使えるんです」と、菅原さん。卒業生ら12人が出資した組合で運営する「校舎の宿 さんさん館」は、平成11年に廃校となった、その木造校舎を生かした農山漁村体験・宿泊施設である。

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(小山厚子さん撮影)

 グリーンツーリズムの拠点となった「さんさん館」の大きな特徴は、校区をはじめ、地域の農林漁家の協力で実現した驚くほど豊富な体験メニュー。「さんさん館」のある入谷地区は、かつては養蚕や林業がさかんだった中山間地。小川が流れ、ゆるやかな棚田と畑、果樹園が点在。穏やかであたたかな農山村景観を見せている。海までも5~6㎞だ。田植え、稲刈り、リンゴ狩り、芋掘り、山菜・きのこ狩り、栗拾い、わら細工、むしろ編み、まゆ細工、豆腐・コンニャクづくり、杉の枝打ち、炭焼き、シイタケ植菌、海で刺し網漁、かごカニ漁……。ざっと100種以上。体験は内容によって2~4時間。体験料は1人につき、竹とんぼづくりの735円から、刺し網漁体験の3150円(獲れた魚付き)までさまざま。予約の受け付けと橋渡しは、手数料をもらって「さんさん館」が行なう。

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(同上)

 その体験学習のために、学校や子ども会などの団体利用が多いのも特徴だが、もうひとつ、最近では帰省客の利用が増えてきた。大家族だった昔なら、訪れる親戚を泊められた農山漁村の家も、家族構成も家のつくりも変わったいまはむずかしい。代が替わればなおさらだ。冠婚葬祭などでやって来ても、ここに泊まれば迎える方も訪ねる方も気兼ねがない。そしてなつかしいふるさとを満喫できる。
「さんさん館」は言わば「ふるさとの親戚の家」の拡大版としての役割も果たしているのだ。
*   *   *
 庄司さん、菅原さんの世代の都会に出た同級生たちは、来年がいよいよ定年退職。これまでは会社と家族のために働いてきた彼らだが、せめて定年後には、先人が彼ら世代のために建ててくれた母校と校区に報いるために何ができるのか、『よみがえる廃校』の講読をすすめ、ともに考えてもらってもよいのではないだろうか。      

Profile

甲斐良治(かい・りょうじ)

-----<経歴>-----

1955年宮崎県生まれ。
九州大学経済学部卒。
社団法人・農山漁村文化協会(農文協)「増刊現代農業」編集主幹。
『定年帰農 6万人の人生二毛作』『田園住宅 建てる借りる通う住まう』『田園就職 これからは田舎の仕事が面白い』『帰農時代 むらの元気で「不況」を超える』の「帰農4部作」で、1999年農業ジャーナリスト賞受賞。
その後も『青年帰農』『団塊の帰農』『若者はなぜ、農山村に向かうのか』などの「帰農シリーズ」で新しい農的生き方を追究するとともに、「地元学」(ないものねだりではなく、あるもの探し)による各地の地域づくりにかかわる。
都市と農山漁村の共生・対流推進会議運営委員、100万人のふるさと回帰支援センター・里山帰農塾講師。
建築家・石山修武氏、民俗研究家・結城登美雄氏と「21世紀型農村研究会」05年に結成。

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