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言語力

NHKの番組「追跡!AtoZ」で興味ある内容を検証していた。
テーマは"日本の言語力"についてである。
企業の中で文章が書けない、考えを相手に伝えられない若手社員が急増しているというくだりから始まった。なるほど・・・

次にサッカー日本代表がワールドカップ予選敗退の報告書の1部が紹介され、選手間で意思の伝達がうまくできず戦略が統一できなかった、という内容が記載されていた。
日本には"あうんの呼吸"という言葉があるが、日本を取り巻く環境がこれだけグローバル化された今、自分の考えや思いを「わかってくれるだろう」で済ますのは甘えでしかないという意見や、オシム氏(サッカー元日本代表監督)は「日本人は自分の考えを口にすることを恐れている」と語っていたのが印象に残った。

自分の周りを見たときに思うことは、自分の考えを言葉にして上手に伝えられる選手や指導者は、成果を継続的に出せる、支持を得ているケースが多い(私個人の見解としてはこれにキャラクターという要素が加わる)。

著書をみても「オシムの言葉」「野村ノート」「イチロー・・・」などスポーツ界で支持されている方たちの"思考"を紹介しているものが売れている。
"言葉"が受け取る側に伝わった時人の心は動かされる、また人はそういった言葉を待っていることを示しているのではないだろうか。

選手やプロを目指す人には試合後レポートを出してもらっているが、内容がより具体的になるほど練習の目的が明確になり、次の成果につながっていることをみると、ビジネスもスポーツも脳の成長がスキルの進化につながるといえるかもしれない。

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コメント (13)

真摯な投稿文、読ませて戴きました。

しかし今、NHKが「言語力」を追跡する意味は何でしょうか?日本人には言語力がないと一括りに分析する番組は、その本質がブーメランのようにNHKプロデューサーの脳に突き刺さる事でしょう。NHKニュースから、嘘・捏造が垂れ流され、悪貨は良貨を駆逐する世の中を作る一端を担っています。
TVBOXから一方的に流れる言葉を統べる、言語空間に今更「言語力」等、訓話されたくないのが現実です。

NHKは「AtoZ」この番組名の意味を理解して使用しているのだろうか?
すべて・最初から最後まで・全部、表現は色々あるが、これらが「AtoZ」の意味である。
私が見た番組は、せいぜいAtoDぐらいの酷い内容で一部を都合良く切り張りした偏向番組でした。

私もあの番組を見ました。確かにそうだ、若い人たちの日本語力の低下は目を覆うばかりだと頷けるところがある反面、その原因について「メールばかりやるようになったから」などと視聴者に誤った考えを植え付けようとする意図が見え見えでした。また洗脳番組かよと憤慨しました。若い人たちがメールしなくなったらもっと日本語を話せなくなるでしょう。

オシムさんの言葉で印象的なものは多いが、

僕は「相手をリスペクトしなさい」という発言が印象深かったです。
これは選手に対して、相手を過小評価して油断するな、逆に相手を過大評価しておそれるな、ということを伝えるために言った言葉です。相手をリスペクトすることで、自分たちのできること、できないこと、やるべきことが見えてくるというわけです。

リスペクトは日本語で「尊敬」と訳されますが、ニュアンス的には「その価値を尊重する」、「正統に評価する」という意味合いに近いでしょう。

リスペクトの心を持たない議論は生産的ではありません。リスペクトは議論の前提条件でしょう。相手の意見を正統評価することが出来なければ建設的な議論になりませんし、逆に相手を尊重しすぎても付和雷同となってしまう。言論の自由の神髄はここにこそあると思いました。相手に罵詈雑言を言う自由などでは決してない。


オシム語録をいくつかご紹介

>レーニンは『勉強して、勉強して、勉強しろ』と言った。私は選手に『走って、走って、走れ』と言っている。

>あなたは、息子さんを最後まであきらめずに走る子供に育てましたか?もしそうでなければ期待をしない方がいいでしょう。もしそうなら、私が責任を持って育てます。

>限界には、限界はありません。

>夢ばかり見て、その後で現実に打ちのめされるより、現実を見据え、現実を徐々に良くしていくことを考えるべきだろう。

>本当に強いチームというのは夢を見るのではなく、できることをやるものだ

>言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。私は記者を観察している。このメディアは正しい質問をしているのか。(中略)そうでないのか。新聞記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危険な方向に導けるのだから。ユーゴの戦争だってそこから始まった部分がある。

酷い番組でしたね。

>サッカー日本代表がワールドカップ予選敗退の報告書の1部が紹介され、選手間で意思の伝達がうまくできず戦略が統一できなかった、という内容が記載されていた。<

 ワールドカップ1次リーグ敗退の理由だが、真っ当なサッカー国ならありえない話(何だか国会探検の田中良紹氏みたいだ)である。真っ先に問われるべき監督の責任がなぜ問われないのか。船が沈没したのは(船長のせいではなく)水夫の「言語力不足」だというのだろうか。
 この「報告書」には田嶋幸三氏もかかわっていたはずだが、これ自体が政治的理由でかなり歪曲された代物である。

 まず、02年トルシエの後任の日本代表監督を、日本サッカー協会の強化委員会(田嶋氏もここにいたはず)の推薦した人物ではなく、川淵三郎会長が独断でジーコに決めてしまった。
 サッカーで「いかに攻め、いかに守るか」を選手たちに周知徹底させるのは監督の仕事だが、ジーコ氏はそうしたことがまったくできない人で、監督としては無為無策な問題のある人だった(周知徹底できないでいて、選手の言語能力も何もあったものではない)。実際にジーコ率いる日本代表の試合は綱渡りのような危なっかしいものが多く、ドイツW杯に出場できてもその戦いぶりを危ぶむ「声なき声」は多かった。
 予想は悪い方に当たり、実際にドイツW杯では日本は「惨敗」したわけだが、日本協会技術委員会としては技術報告書でジーコ監督の能力を問題視することはできない。なぜなら、ジーコを独断専行で監督にし、なおかつ日本協会内で独裁的な権力を振るうようになった川淵会長の責任を問うことは出来ないからだ。

 前述のようにジーコは監督としては無為無策だった(おまけに億単位の年俸を払っておきながら「税金対策」とかで半年以上日本に滞在しなくていいという馬鹿げた契約だった)。ところが日本のサッカーマスコミは、「日本のサッカーを自由と創造性に溢れた真に世界に通用するものにするために」ジーコは「いかに攻め、いかに守るか」の具体的な指示を出さないのだという不思議な解釈を広めた。
 まともなサッカー国では無為無策な監督をここまで美化・称揚する国はない。実際にジーコ本人の信憑性のある発言でそうした発言をしているところを見つけるのは難しい(おそらくやっていない)。独裁者と化した川淵会長と元ブラジルのスターにおもねて、こんなチイチイパッパな煽りをしていた。チイパッパをやっていた1人に、The Journal 寄稿者でもあるスポーツ&音楽ライター(爆)の玉木正之氏がいる。

 監督も会長も無答責となると、後は一億層懺悔しかない。自身が関わっているアカデミーの教育理論実践の正当化のためもあって、田嶋氏は「ニッポソ人の言語力不足」のせいにしてしまった。ダシにされた日本のサッカーこそいい迷惑だ。

参考:藤島大
「ジーコのせいだ」
http://www.suzukirugby.com/column/no_45.html
「タイソンにもトレーナーが」
http://www.suzukirugby.com/column/no_19.html

 ついでに日本的な“あうんの呼吸”がサッカーというグローバルスポーツにはふさわしくないみたいな話は実は80年代からあって、それは当時の日本サッカーが不振を極めていたことをもっともらしく説明するための屁理屈だった。
 では、なぜ、日本のサッカーはここまで進歩したのか? 日本と同程度またはそれ以下の国はみな「言語力に問題」を抱えているのか?
 日本人のステレオタイプで日本のスポーツ(殊にサッカーはそうだ)を否定的に論じれば、批判的にものをいったと思うのもいい加減止めて欲しい。

 オシム氏も、いつの間にやら「愚鈍なニッポソ人ども」に御託宣を下す結構なご身分となった。しかし、オシム氏はなぜ日本にいるのだろう? 彼はサッカーの監督コーチが仕事であって、ヤンデンマンやポールボネの継承者ではないのだ。これもまともなサッカー国なら病気退任に時点で十分な敬意を払いつつお引取り願っているはずだ。


 ついでに、小沢一郎氏に何かあったら「やっぱり日本は聖徳太子(別に神武天皇でも天照大神でもいい)の昔からニッポソは・・・・・・」と書き込む馬鹿が、このサイトに登場しそうだ。
 みなさん、気をつけましょう。

 おはようございます。

▼日本人は絶滅ネアンデルタール人になる?▼

 戦後教育の中で、「書き言葉」に対する扱い方が軽視変容し、所謂「ゆとり教育」に象徴される内発的動機付け依存教育の結果、「話し言葉」偏重の社会、延いては日本国が「論理的思考力欠如」の人々によって構成される社会になったのではないかと思います。日本語の持つ特異性と、その言語環境で歴史を重ねてきた日本人にとって、「書き言葉」の持つ論理的意思疎通能力を蔑ろにすることは、強いられるグローバル化の渦中で、ドメスティックに引き篭もる「話し言葉」依存が、日本国の衰退を決定的なものにする危機感を抱いています。

【註】:
 イビチャ・オシム前日本代表監督は東欧の名門サラエヴォ大学で数学学士の資格を取得保し、学業成績も優秀で、サラエヴォ大学の数学科教授の道もあったとされるほどの「論理的思考力」の持ち主です。

 以下、私が別テーマへの「言葉」や「論理的思考力」に関して投稿したものを、一部抜粋再掲させていただきます。

★ 論理的思考未成熟が招く判断能力欠如 ★投稿者: ばろんでっせ | 2009年12月22日 08:18
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 先日、某国営放送で、現代における文章力低下についてクローズアップした番組が放送された。意思を伝えるのに言葉を用いる際、自分の思いを文章に出来ない者が如何に多いか、そして、意思疎通の困難に遭遇し、無力感に苛まれる者の多いこと。また、同国営放送で、子供たちの理科への興味が薄れつつあることをテーマにした子供へ向けてのニュース解説番組では、出演している理科嫌いの女の子に「何故理科が嫌いなの?」とメインキャスターが問いかけると、その女の子は「ん~だって理屈っぽいし・・・」と応えていました。残念な現状です。

 私には、これらの例に見るまでもなく、現代日本人に見る文章力低下傾向(私のことは?(笑 )は、家庭の躾、学校教育、メディアの質、・・・など日常の精神生活において「論理的思考」に基づく「言葉」の意義が蔑ろにされ過ぎてきた結果であると思えます。それぞれ異なった環境で育ち、異なった精神性、異なった習慣、異なった言葉を携えて生活し、異なった価値観を持った人々が、親和性を高めることで安寧な生活や利便性、より確かな将来計画を創造、獲得してきました。その際、「言葉」を共通の意思疎通道具として用い、「論理的思考」の道具として用いてきたと思います。

 数万年前まで共存していた人類異種ネアンデルタール人が絶滅し、現在唯一の人類種ホモサピエンス、人間が生き残れたのは、口腔蓋や気道など器質差による「言葉」使用能力に差があり、人間には狩猟や採取の後の『反省会話』が出来たからだという説あります。意思疎通がスムーズに出来るためには、先ず共通の「論理的思考」を持つ必要がありますが、それは実証的試行錯誤を共有することによって生まれ、異なる言語間で対照表(対訳辞書)を持てば良いことは論理的に帰結され、古代メソポタミヤではシュメール文字、アッシリア文字やバビロニア文字間の音節対照表が用いられ、その粘土板発見が古代文字解明、古代文明解明に繋がったことはご存知の通りです。

 以上のように、人間と人間が意思疎通を通して弁証法的発展、向上出来る所以はその「論理的思考」成熟にこそあるのだと思います。つまり、ただ神に祈り念願するだけ、情緒や感覚に訴えて何と無くの共感を強請るだけでは伝い合え無い感情、意思、情報を、異言語、異価値観、・・etc.を乗り越えて伝えられるのは、「論理的思考」を養うことによって可能であって、互いに理解し合えるのだと思います。

・・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<“東京カワイイ”な政治家発言>投稿者: ばろんでっせ | 2009年11月 1日 14:26
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 自然界には私たち人間が見て、美しいや愛おしい、畏怖や恐怖 ・・等様々な感情を湧き起こさせる種々の生物がある。整った顔立ち・鍛え上げられた筋肉を持った男の肉体、整った顔立ち・腰や胸がふくよかな女の肉体等は美しいものとされてきたし、色とりどりの花々の放つ匂い、色彩豊かで艶やかな甲虫、・・・等も美しいとされてきた。また、幼年期の獣は何であれ愛おしく感じ、眼光鋭く背筋の伸びた青年期の獣には畏怖や恐怖の念を抱く。これらの感情は、それぞれに生殖と種の存続という生物に組み込まれた本質的戦略の一つである。我々が他者を意識し、身に纏って表現する体型、臭い、衣服、言葉には、そもそもその戦略を原点とする合理性があるはずだが、日常的な生命の危機が薄れ、生きることの困難が少なくなった現代、特に都市生活に措いては、その戦略の合理性が希薄化しているように感じる。生活の合理的必要性からかけ離れた衣服デザイン、その人間の本質からかけ離れて時や場所を無視した人工的香り、体力や健康を二の次にした体型、言葉の持つ意味や語る文章の論理性を軽視した発言、これらが精子の不活発化を齎し、Y染色体の劣化を招き、セックスしない夫婦や恋人同士が増えたこと等と関係すると断言するつもりはないが、無関係だとも思えない。バブル時、ちょ~ミニスカートやワンレンボディコンで踊り狂うお立ち台の女に群がるミツグクンやアッシーな男が、大いに話題になったが、それが最後の足掻きだったのか?(笑 その後、シャツの裾を外に出したり、腰からパンツやケツを見せたり、胸の張りや谷間を強調してみたりの試行錯誤はあったが、モノトーン・ユニセクシャルなファッションがヒタヒタと世相を覆い、今ではスカート男子が街を闊歩してもそれ程違和感を感じない。

 そんな中、ヨーロッパやロシア、米東海岸大都市の一部で所謂“東京カワイイ”ファッションが注目されていると聞きます。セックスの対象でもなく、暴力の対象にも成り難い“カワイイ”というコンセプトで装飾されたファッション、所謂“東京カワイイ”(ギャルファッショントレンドの一つ?)は、安価な素材を、それぞれが感じる“カワイイ”というコンセプトで、機能を度返しして、継ぎ接ぎ重ね着し、少女漫画の登場少女そのものや少女が憧れるお嬢様(や彼氏)、読者モデル等の中にカリズマを見出し、それらファッション等を模倣創作しているように見える。欧米のファッションは、男女のセックスアピールを基調にしたものが好まれていたはずなのに、一部とはいえ何故それが注目されるのか、日本同様ヨーロッパでも精子の不活発化・Y染色体劣化が顕在化していることと関係あるのか、どうなんだろう?(今また日本で、特に女性に「セクシー」がキーワードに成りつつあるようにも感じてはいますが・・・、男性は?) 話が少しそれたので本論に戻すと、私は、所謂“東京カワイイ”的都会型ファッションのような、一見無害に見える本来の意味から外れて機能を度返しした装飾の好まれ方のトレンドに、底知れぬ不安を感じるのです。
 私は、ここで取り上げられる記事やテーマへの投稿で、鳩山氏が語る言葉の、レトリックの、メタファー等の持つ欺瞞性や偽善性について、不必要・不遜と感じられても仕方がないほど強い表現で指摘・批判してきました。聴衆(や読者)に意思や見解を、正確に、ある程度の説得力をもって、理解や情動喚起をさせようとするとき、そこにはある種の扇情的表現、つまり、レトリックやメタファー等の装飾が必要になることは理解できます。しかし、他方で、そのことによって、伝えたいことに反する多くのことも内包せざるを得なくなるのだから、先ずは正確に伝わることを真摯に考え、表現の論理性を保つ努力をすることが、特に政治家の言動に何より必要だと思うのです。日本語はその成り立ち上、音やモーラ(拍)によって印象付けられ、漢字伝来以後、音を漢字に置き換えることから始めて、成立してきた言語ですから、語彙中名詞・動詞の占める割合が多く、西欧言語に比べて形容詞が少ないことを名詞・動詞へ語尾付与することによって形容動詞等を増す等して、修飾表現語彙数の少なさを補ってきたと思います。日本語の成り立ち方と、漢字、ひらがな、カタカナという三つもの表現形を有していること、題述構造など独特の文法があること等から、日本語の言葉・文章の意味を論理的に正確に理解し、論理的に正確に駆使するのは相当に困難なことだと思います。だからこそ、私は、日本語の扱い方には十分な注意が必要だと思うのです(私自身が言葉を扱うのは不得手なので、特にそのように感じるのかもしれませんが、このことを含めて、日本語教育のあり方にも、経験として、疑義を抱いています。【Yoronz】豊後の小兵衛さんの“ことばを失った日本人”を興味深く読ませて頂いています。)。前述の“東京カワイイ”に見られる本質からズレテ機能性を度返ししたように見える装飾、虚飾?ファッションと、正確に伝えるという本来の意味を蔑ろにしたかのようなレトリック・メタファー等で装飾、虚飾した、欺瞞性・偽善性の臭い立つ鳩山氏の表現や他の政治家・言論人諸氏等の軽い言葉は、それぞれが『時代性』という意味でシンクロしているように思えてならないのです。
・・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最後に、鳩山氏の施政方針演説について書いた部分

☆ 憂きごとを 海月に語る 海鼠かな ☆
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・・
 ディベート指導専門家が、今回の通常国会予算委員会における鳩山首相と谷垣自民党総裁のやりとりを評して、鳩山首相の発言は「書き言葉」、谷垣自民党総裁の発言は「話し言葉」の様であると語っていました。それは恐らくそれぞれがおかれた立場に因るのだと思いますが、何れも聴衆が持つ既存の文法、つまり、生成文法で構築された文脈の中の異なる既成概念(先入観)へ訴えなのだと思います。
・・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

について、誤解があるといけませんので、加筆させていただきます。私は、鳩山由紀夫氏が政治家として言葉を発するとき、普段は意識的に自らを所謂「庶民目線」に落し、「話し言葉」の持つ情緒性に頼り、言葉の定義や文脈の論理性を蔑ろにする傾向が非常に強いと感じています。

 上記の「書き言葉」的鳩山首相発言は、視力の弱い方に意識集中する傾向が強いドライバー行動と同様な防御本能が働いた、自身の言動の弱点「蔑ろになっている言葉の定義や文脈の論理性」への防御姿勢の現れであったと思っています。

 コミュニケーション能力の劣化は、

▼日本人は絶滅ネアンデルタール人になる?▼

危機感を抱かせます。

よろしければ、書きリンク先もお読み下さい。

★ 成長戦略議論は『人づくり』から-競争心 ★投稿者: ばろんでっせ | 2010年1月 8日 20:57
★努力評価の放棄と自律的な動機付け不能★投稿者: ばろんでっせ | 2010年1月12日 09:03
考え言葉は脳の右?左?投稿者: ばろんでっせ | 2010年1月14日 12:39

>つむら・ひくし 様

そもそも、あの報告書は責任者が責任をとらないようにするための屁理屈で、日本サッカーを強くするためという大義など微塵も感じられないのだから仕方ないですね。目的を歪曲・隠ぺいする議論がいかに無駄なことか。

検察の小沢氏に対する捜査と一緒です。社会正義などではなく既得権益を守るためという本音が見え隠れする。社会正義のためなら、こんな事件が二度と起こらないようにすることを考えた方が遥かに建設的。

話を戻します。
ダメな理由を日本人の特性にまで持っていくと、おっしゃる通り一億総懺悔となってしまう。責任者の処罰などありえなくなる。コミュニケーション能力の不足を選手たちの未熟、日本人の未熟としてしまうのは腑に落ちない。小学生のチームだって良好なコミュニケーションを構築することはできる。

責任の所在は監督や監督を選んだ者に在るとするのが当たり前で現実的な考え方。当時の責任とは何か。これはまた別の話で当時の戦力で優勝しろというのは無茶な話。それが出来なかったからと言って責められるのは当然間違い。しかし、WCで惨敗しました。日本人の未熟のせいです。誰のせいでもありません。では永遠に進歩はない。

>オシム氏はなぜ日本にいるのだろう? 

オシム氏は別に日本に居てもいいんじゃないですか?すぐに出ていけってことですか?オシム氏は日本サッカーに対する愛情と責任感、そして監督業への復帰のために個人的に頑張っていると僕は解釈してます。少なくとも、現監督の岡田氏の邪魔になるようなことは一切してませんし、そんな非難じみたことをいわれる筋合いはないと思います。


ジーコにもオシムにも協会会長にも、権威という見えない冠のせいで、適切な処置を施せない日本サッカー界を批判するのはごもっともだと思います。

>ばろんでっせ様

長文の書き込みご苦労様です。

>【註】:イビチャ・オシム前日本代表監督は東欧の名門サラエヴォ大学で・・・

単純な頭の良し悪し、教養の有る無し、は「(日本人の)国民性のステレオタイプ」なるトンデモ言説へのリテラシーや批判力とは何の関係もありません。

オシムさんも、下手に教養が有ると、サフイフモノにかえって染まりやすいかもね。

日本の中高の国語教育で、純文学や「詩」、あるいは小林秀雄あたりの飛躍と断定にみちて、それでいて蠱惑的な「批評」(と称する文学作品)を読ませておいて、日本語は非論理的だ、日本人は主張が弱いなどというのは、おかしいと思いますがね。


>図南さま

「オシムの言葉」も、だんだんサッカープロパーから離れてその種の言説ばかりになっていきました(先日の「Ato
Z」での発言はまさにそうです)。

オシム氏の本業はサッカーの監督・コーチです。彼に語ってほしいのは、サッカーの話です。
今のオシム氏の役割など、「セルジオ越後GT-R」でしかないでしょう。
サッカーの言葉をはかない、マスコミ受けしそうな「日本人は云々カンヌン・・・」という話など意味などないと思います。


真面目な問題として、The journalに、日本人論の俗説を批判できる人材を寄稿者に募るべきではないかと思います。

 おはようございます。
 
 つむら・ひくしさん、早速のコメントをありがとうございます。

 しかし、私が書いていないことを論評されても困りますので、論評されるなら、先ずは全て読んでいただき、そのような情緒的に反応なさらないで、冷静に、真面目に、論理的に、実証的に判断論評して下さい。よろしくお願いします。

 私は、真面目さの度合いは、感情の高ぶりとは無関係であると思います。感受した「酷さ」をそのまま「感情の高ぶり」として、何の咀嚼も、分析も不十分なまま、ただ拒絶感情を「感情の高ぶり」として表現するだけで「わかってくれるだろう」で済ますのは甘えでしかない、不真面目だと思います。

 私は、自分の考えを言葉にして上手に伝えられる為には、「共通の決まり事」、つまり、個々に固有の情動反応に頼るだけの言葉ではなく、言葉に「論理性」(と、検証可能な事実)が必要不可欠であると思います。
 
 私は、日本語の持つ特性から、日本語によって意思疎通を図る日本人がその「論理性」を保つには、意識して自制的に「日本語」を使用する必要があると思うのです。
 
 サッカーという狭いフィールドを離れて、日本人の言語力という視点で意思疎通のあり方や現状を見ると、私には、「論理性」の欠如が、多くの日本人が抱えている大変大きな問題のように思うのです。

サッカー協会や日本社会に対する問題意識は、僕とあなたではそんなに違わないと考えています。

ただ、僕はオシム氏に対して好意的なので、まるで、オシム氏がサッカー以外のことばかり語っていると言わんばかりのおっしゃりようには抵抗を感じます。

オシム氏はサッカーのことを語るため、世界と戦うために日本人の相対的な特徴を語らざるえないから語っているのですよ。その部分をとりあげて日本人論の補強に使ったのは番組編集者に責任があるのであって、オシム氏には責任はないでしょう。オシム氏はあくまでサッカーを通じてみた日本人という立場で発言している。サッカー専門家が専門以外のことに口を突っ込むなという批判はおかしいでしょう。

それにその道を極めた人の発言は一分野に留まらず、人生全般に当てはまることがあるということはご理解されることと思います。サッカーや野球などのスポーツは決して狭い限定的なフィールドなどではなく、人生の縮図と捉えることも出来ると思います。

あなたの言いたいことは大筋、理解・共感してます。些細な部分への反論失礼しました。

久しぶりに覗いてみたら、とても投稿が多く驚きました。投稿内容を見てみると、ゴルフに関することが大変少ないですね。私より前に書いた投稿者全てにいいたい。ここはゴルフの場です。高邁なある意味自分勝手な独善を述べるなら、せいぜいゴルフに関してのみとしてもらたい。自由という言葉や権利の裏には一体として責任という言葉があるのだ。独善を主張する前にこのことを勉強しなさい。
さて本題ですか、石渡プロのいうとおりです。言葉で伝えることは大切な技術です。したがって習得する必要があります。特に多くの人々に指導するとか、複数でプレーする選手には強く求められる技術です。そしてそれはNHKの主張と同じです。ゴルフに限らず、レッスンプロや解説者の発言には、こう、パチッ、バッ、というような擬音が多い。すなわち言葉で伝えられないレッスンプロや解説者が多数存在している。ゴルフでは小林プロ、村口プロ、佐藤プロなんか画像を見ないで聞いていると何を伝えたいのか、まったくわかりません。
平易な具体的な言葉で、真髄を伝える。真髄を知っているだけでは指導者としていまいちです。こんな擬音が流行ったのは、長島茂雄さんからかも。長島さんの悪影響で、しっかり言葉で伝えられない、ある意味無能な解説者やプロにも、マスメディアへの出場機会が与えられたのかもしれません。最後は多少脱線しましたが、レッスンプロとか、解説者は、実績だけのみならず、(実績なら選手としての評価だけで言葉での伝達が出来ないなら表に出で来るな)言葉で伝えられる技術も伴って初めて許されるべきものと強く思います。
中国の太極拳では「名師必ずしも明師ならず」という言葉があります。
石渡フーロのように平易な言葉で教えてくれるプロが増えることを願っています。

日頃より石渡プロの語り口を拝聴していて、お話をすることが大好きで、明解で、そしてゴルフ理論に止まらず人間観察とその人の性格等に対する洞察力に優れた方だと思っていました。
人を指導するのに最も必要な事だとも思います。

日本人の言語能力についてですが、ヤフーのサービスに知恵袋と言うものがあります。その中にマナーや手紙の書き方のカテゴリーがあり、そこで少々回答をしてみたことがありました。

若い人だけでなく、年配の方も含め、まったく手紙が書けない、という人があまりにも多いのに驚愕しました。
同時に、それは感情の欠如と言っては大袈裟ですが、それにちかいものにも繋がっていることに気付きました。

実際にあった質問としては。。。

娘が結婚するのでセレモニーで、母から娘への手紙を読まなくてはならないので、何と書いていいかわかりません、教えて下さい。

お世話になった先輩に年賀状、何を書いていいかわかりません。

私は小学校の先生をしています。卒業する生徒に、一言書いてあげるのに何を書けばいいでしょうか?

等々です。
溢れる気持ちはあっても、それを言葉にできないのか、書けないのか?
それとも、その感情さえ枯渇しかかっているのか?
面倒なので知恵袋に尋ねた方がいいと安易にすませたいのか?

日本の教育を根本から見直さなくてはならないような危機感さえ感じた次第です。

言語によって意志や感情を疎通させる能力は人間の得た最良のものであったはずが、その恩典を人間自ら粗末にし始めているのかもしれません。
言葉を持たない動物のほうがより自然に上手に感情を伝えあっているような。。。

昔、言語はその民族の誇りであり、言語を守らない民族は滅びる、というような意味の言葉を聞いたことがありますが、日本人が形だけ繁栄したように見えて、精神が滅びることのないように、言葉=心を育てる力を呼び戻したいと切に願います。

ご無沙汰してます。
以前、ファンクショナルの方で、お世話になりました。

”ご無沙汰”というより、未だに、”ご豚”でなんですけど、、、

最近、多少上達して、ミスや難しい状況も楽しくなって来て、思うんですけど、、、怪我の功名というか、痛いところが、スイングの状況を良く教えてくれるんでうよね!?

レッスンの再放送を見たりしながら、思うのは、欠点を直すことも大事だけど、それを認識することが、もっと大事で、、、そこを学べるレッスンが欲しいなぁ~、、、

ミスや怪我に対する解決策よりも、その理由に至る原因を遡りたい、、、

教えて頂いた、前傾し、腰椎を立てて、構えて、上手くなったけど、、、、まだまだ、フィニッシュで、フラフラしながら、、、

ではまた、

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Profile

石渡俊彦(いしわた・としひこ)

-----<経歴>-----

プロゴルファー&フィジカルトレーナー。
スポーツコンディショニング研究所代表。
1965年千葉県生まれ。
高校時代、野球で甲子園をめざすも肩の故障で断念。
地元のゴルフ練習場で働きながらプロをめざし、その練習場で知り合った中嶋常幸プロの門下生に。
95年、30歳でプロテストに合格したが、3年後に背中を痛めツァープロの道を断たれる。
しかしその体験を元に専門学校に通って整体、運動医療を学び、スイングのことも体のことも分かるフィジカル・トレーナーとして独自の世界を拓く。
中嶋や服部道子のコーチとして復活・優勝を助けたことが高く評価され、04年「レッスン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。
現在ヴィクトリアゴルフ五反田店、青山店、世田谷店において「けんこう寺子屋ゴルフスクール」を主宰。
また05年10月に千葉駅前に「Golf Studio "f"」を開設した。

BookMarks

石渡俊彦のスポーツコンディショニング研究所
http://www.sc-labo.com/

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