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2009年5月20日

INSIDER No.492《HATOYAMA》鳩山民主党の原点をどこに求めるべきなのか?──96年旧民主党の結成宣言とその背景

 前稿で、鳩山由紀夫代表の「友愛」「愛」という言い方に対してマスコミが間抜けとしか言いようのない低レベルの批評をしていることに腹を立てて、96年に旧民主党が創立された際の結党宣言の該当部分を引用したところ、「日本の政治風土の中で、こんな美文名文が存在していたのかと初めて知り感動した」とか「何度も何度も読み返しています」とか、過分なほどの感想を寄せて頂いたので、改めてその全文を紹介することにする(《資料1》)。

 私がそれを前稿で部分的引用に止めたのは、それを執筆したのが私であることを当時もその後も公にして来てはいるものの、いよいよ民主党が政権を獲ろうかというこの時期に、またぞろそれを持ち出して、「民主党を作ったのは私です」と自慢しているかのように受け取られるのが嫌だったことが1つ。もう1つには、98年4月に羽田孜グループ、細川護煕両元首相、旧民社党系の人々など新進党離脱組の合流を得て「再結成」した際に民主党はこの文書をあっさりと廃棄しアーカイブとしてさえ残そうとはしなかったので、その時点で私の同党への興味と関心は半減し、以後、政策形成などに主体的に関与することは一切止めてしまったという経緯がある。従って、今ではこの文書は単に、96年当時に私と鳩山が共有した同党結成への思い入れを記念するだけの意味しか持っていないが、しかしこの決戦前夜にたまたま鳩山が代表に復帰するという巡り合わせになって、さて彼が何を思想的な原点として政権獲りに挑むだろうかと考えた場合に、間違いなくこれがその1つだと想像される。その意味では、鳩山民主党への理解を助ける歴史的資料として参考になるのではないか。

 この文書が生まれた背景の1つをなすのは、鳩山が月刊『論座』96年6月号に書いた「わがリベラル・友愛革命——若き旗手の政界再々編宣言」で、ここではそれを紹介したINSIDER同年5月15日号(旧No.362)の記事を再録する(《資料2》)。さらに、この記事が言及しているINSIDER同年3月1日号(旧No.357)「司馬遼太郎の読み方・総特集」の前書きの一節も付け加える(《資料3》)。この2つは、当時鳩山と私の間で行われていた議論を反映したもので、ここで使われている表現が上記の結成宣言にそのまま流れ込んでいることが分かる。

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《資料1》96年旧民主党結成時の理念文書・全文

 私たちがいまここに結集を呼びかけるのは、従来の意味における「党」ではない。

 20世紀の残り4年間と21世紀の最初の10年間をつうじて、この国の社会構造を根本的に変革していくことをめざして行動することを決意した、戦後生まれ・戦後育ちの世代を中心として老壮青のバランスに配慮した、未来志向の政治的ネットワークである。

●社会構造の100年目の大転換

 明治国家以来の、欧米に追いつき追いこせという単線的な目標に人々を駆り立ててきた、官僚主導による「強制と保護の上からの民主主義」と、そのための中央集権・垂直統合型の「国家中心社会」システムは、すでに歴史的役割を終えた。それに代わって、市民主体による「自立と共生の下からの民主主義」と、そのための多極分散・水平協働型の「市民中心社会」を築き上げなければならない。いままでの100年間が終わったにもかかわらず、次の100年間はまだ始まっていない。そこに、政治、社会、経済、外交のすべてがゆきづまって出口を見いだせないかのような閉塞感の根源がある。

 3年間の連立時代の経験をつうじてすでに明らかなように、この「100年目の大転換」を成し遂げる力は、過去の官僚依存の利権政治や自主性を欠いた冷戦思考を引きずった既成政党とその亜流からは生まれてこない。いま必要なことは、すでに人口の7割を超えた戦後世代を中心とする市民のもつ創造的なエネルギーを思い切って解き放ち、その問題意識や関心に応じて地域・全国・世界の各レベルの政策決定に参画しながら実行を監視し保障していくような、地球市民的な意識と行動のスタイルをひろげていくことである。

 政治の対象としての「国民」は、何年かに一度の選挙で投票するだけだった。しかし、政治の主体としての「市民」は、自分たちがよりよく生きるために、そして子どもたちに少しでもましな未来をのこすために、自ら情報を求め、知恵を働かせ、別の選択肢を提唱し、いくばくかの労力とお金をさいてその実現のために行動し、公共的な価値の創造に携わるのであって、投票はその行動のごく一部でしかない。私たちがつくろうとする新しい結集は、そのような行動する市民に知的・政策的イニシアティブを提供し、合意の形成と立法化を助け、行動の先頭に立つような、市民の日常的な生活用具の1つである。

●2010年からの政策的発想

 私たちは、過去の延長線上で物事を考えようとする惰性を断って、いまから15年後、2010年にこの国のかたちをどうしたいかに思いをめぐらせるところから出発したい。するとそこでは、小さな中央政府・国会と、大きな権限をもった効率的な地方政府による「地方分権・地域主権国家」が実現し、そのもとで、市民参加・地域共助型の充実した福祉と、将来にツケを回さない財政・医療・年金制度を両立させていく、新しい展望が開かれているだろう。

 経済成長至上主義のもとでの大量生産・大量消費・大量廃棄の産業構造と生活スタイル、旧来型の公共投資による乱開発は影をひそめて、技術創造型のベンチャー企業をはじめ「ものづくりの知恵」を蓄えた中小企業経営者や自立的農業者、それにNPOや協同組合などの市民セクターが生き生きと活動する「共生型・資源循環型の市場経済」が発展して、持続可能な成長とそのもとでの安定した雇用が可能になっているだろう。

 国のつごうに子どもをはめ込む硬直化し画一化した国民教育は克服され、子どもを地域社会で包み込み自由で多様な個性を発揮させながら共同体の一員としての友愛精神を養うような、市民教育が始まっているだろう。

 そして外交の場面では、憲法の平和的理念と事実にもとづいた歴史認識を基本に、これまでの過剰な対米依存を脱して日米関係を新しい次元で深化させていくと同時に、アジア・太平洋の多国間外交を重視し、北東アジアの一角にしっかりと位置を占めて信頼を集めるような国になっていなければならない。

 私たちは、そのようなあるべき未来の名において現在を批判し、当面の問題を解決する。そしてたぶん2010年までにそれらの目標を達成して世代的な責任を果たし、さらなる改革を次のもっと若い世代にゆだねることになるだろう。

 私たちは、未来から現在に向かって吹きつける、颯爽たる一陣の風でありたい。

●友愛精神にもとづく自立と共生の原理

 私たちがこれから社会の根底に据えたいと思っているのは「友愛」の精神である。自由は弱肉強食の放埒に陥りやすく、平等は「出る釘は打たれる」式の悪平等に堕落しかねない。その両者のゆきすぎを克服するのが友愛であるけれども、それはこれまでの100年間はあまりに軽視されてきた。20世紀までの近代国家は、人々を国民として動員するのに急で、そのために人間を一山いくらで計れるような大衆(マス)としてしか扱わなかったからである。

 実際、これまでの世界を動かしてきた2大思想である資本主義的自由主義と社会主義的平等主義は、一見きびしく対立してきたようでありながら、じつは人間を顔のない大衆(マス)としてしか扱わなかったということでは共通していた。日本独特の官僚主導による資本主義的平等主義とも言うべきシステムも、その点では例外でなかった。

 私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという「個の自立」の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという「他との共生」の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない。

 西欧キリスト教文明のなかで生まれてきた友愛の概念は、神を愛するがゆえに隣人を愛し、敵をも愛するという、神との関わりにおいて人間社会のあり方を指し示すもので、そこでは人間と自然の関係は考慮に入っていない。しかし東洋の知恵の教えるところでは、人間はもともと自然の一部であって、一本の樹木も一匹の動物も一人の人間も、同じようにかけがえのない存在であり、そう感じることで自然と人間のあいだにも深い交流が成り立ちうる。そのように、自然への畏怖と命へのいつくしみとを土台にして、その自然の一部である人間同士の関係も律していこうとするところに、必ずしも西欧の借り物でない東洋的な友愛の精神がある。

●「一人一政策」を持って結集を

 私たちの 政治のスタイルも、当然、未来社会のあり方を先取りしたものになる。中央集権的な上意下達型の組織政党は、すでに問題解決の能力を失って20世紀の遺物と化している。私たちは、各個人やグループが自立した思考を保ちながら、横に情報ネットワークを張りめぐらせ、だれかが課題を発見して解決策を提示すればそこに共感する人々が集まって結節点が生まれ、問題が解決すればまた元に戻っていくような、人体における免役システムのような有機的な自立と共助の組織をめざしている。

 したがってまた、この結集にあたっても、後に述べるようにいくつかの中心政策を共有するけれども、それは時の経過と参加者の幅によって常に変化を遂げていくはずだし、また細部に立ち入れば意見の違いがあるのは当然だという前提に立つ。意見の違いこそが創造的な議論の発端であり、それぞれが知的イニシアティブを競い合うことで新しい合意をつくりあげていく、そのプロセスを大事にしたい。

 また私たちは、世界に向かって開かれたこの政治ネットワークの運営に当たって、電子的な情報通信手段をおおいに活用したい。私たちは電子的民主主義の最初の世代であり、地球市民の世代である。

 この「党」は市民の党である。いまから21世紀の最初の10年間をつうじて、この「100年目の大転換」を担おうとする覚悟をもつすべての個人のみなさんが、「私はこれをやりたい」という「一人一政策」を添えて、この結集に加わって下さるよう呼びかける。■

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《資料2》リベラルは愛である——リベラル論ノート(3)

 このシリーズは別に系統立てた研究をしようというのではなく、リベラルという曖昧模糊とした言葉についていろいろなイメージを重ねながらその今日的な意味を探っていくことを企図しているので、今回はいきなり最近話題になった鳩山由紀夫の月刊『論座』6月号の論文「わがリベラル・友愛革命——若き旗手の政界再々編宣言」を採り上げる。

●友愛と共生

 「リベラルは愛である」と彼は事実上の新党結成の呼びかけであるこの文を書き出している。愛とはラブではなくフラタナティつまり友愛で、その言葉遣いを彼は祖父の鳩山一郎元首相から引いている。

「つきつめて考えれば、近代の歴史は自由か平等かの選択の歴史といえる。自由が過ぎれば平等が失われ、平等が過ぎれば自由が失われる。この両立しがたい自由と平等を結ぶかけ橋が、友愛という精神的絆である」

 弱肉強食と悪平等の中間に位置する友愛社会を実現することが、リベラルの目標だと彼は言う。さらに、友愛とは、多種多様な生命が自由に往来するこの時代に「相手との違いを認識し許容する」ことであり、その意味で「共生の思想」につながるとも彼は言う。

 自由・平等・友愛とひとまとめにして言うが、その中で何となしに付け足しのように扱われてきた友愛を、そのように積極的な価値として位置づけ直すという論点はなかなかおもしろい。そして私はNo.357本欄でも触れたように[下記《資料3》参照]、そこに時間軸を導入して、20世紀の中心思想であった資本主義的自由主義も社会主義的平等主義も、地を這うようにして生きる人々を顔のない大衆として——政治的にも経済的にもひと山いくらで計量できるような存在としてしか扱ってこなかったという点では実は同質であり、その両者を超えて21世紀の中心思想であろうとするリベラリズムは、1人1人の人間の個としてのかけがえのなさを認め合うことを通じて初めて、自分の自由が他者の自由でもあるような共生的な市民社会の実現が可能であると主張するところに、その最大の特徴があるのではないかと考えている。

 人間だけではなしに、個々の地域がやはり限りなく多様な個性を持つことを尊重しようとすれば、それが「分権」ということになり、また生命体としての地球上に存在するすべてがまたそうであると認識すれば、それが「エコロジー」となる。

●多国籍国家=日本

 人間の共生の1つの例として、鳩山は「定住外国人に国政参加権を与えることを真剣に考えてもよいのではないか」と提唱している。

 日本には現在人口の1%に当たる135万人の外国人が住んでいるが、「まず、他の国々に比べて外国人の比率がかなり低いこと自体が大いに問題で」、これは外国人にとって日本が住みにくい国であることを物語っている。そのことは在日外国人にとって問題であるだけではなくて、「日本人の心はけっして外国人に開かれていない」こと、つまり多様な文化を持った他者の自由を認めて受け入れようとしないその程度に応じて実は日本人自身の自由が制約されているのだということに気がつかないことを意味している。

 そのような考えから鳩山は、地方自治体の職員採用に国籍条項をはずすこと、定住外国人に地方参政権を与えることから、さらに進んで国政参政権についても検討すべきだと言う。「行政や政治は、そこに住むあらゆる人々によって運営されてしかるべきである。それができないのは畢竟、日本人が自分に自信がないことの表れである」

 しかし共生すべきは人間同士だけではないはずで、自然に対して「畏怖の気持ちを抱き、自然と共に生かされている感謝の気持ちで行動する原点に戻らなければならない」のであり、その意識を啓発する上からも彼は国内的には「環境税の導入」が必要であり、また国際的には「南が経済的に北に追随する速度以上に、北が環境において南を支えていく」ような南北関係の調和を求めるべきだと主張する。

●個のネットワーク

 新しい政治勢力は既存の政党同士の合併のような形では結集し得ないと鳩山は言う。リベラルが個の自由の尊重であるとすれば、政治家1人1人が個の自由と責任のもとに自分自身の決断として集合しなければならない。

「したがって個の自由によってつくられる政党は、旧来のヒエラルヒー型政党とは必然的に異なる。人体の器官の有機的結合において脳と心臓のどちらが大切か問われても答えられないように、構成する個が有機的なネットワークで結ばれる政党が誕生する」

 その政党は当然、党議拘束から原則的に自由であり、また続々と誕生しているローカル・パーティも含めて他党との間で特定の政策単位で政治契約を結んで協力し合う姿をとるだろう。さらに「このような多層多元的ネットワーク構造を生かしつつ政策決定をするには、政党がシンクタンクを持つことが必須の要件となる」

 官主導から民主導の政治を取り戻すには、議員立法が重要になるが、そのための情報、人材、予算の制約が大きい。そこで、研究者を予め抱え込むようなシンクタンクではなくて「個別課題ごとに有識者をネットワークさせ、自らは編集機能のみを持つシンクタンクが望まれる。またその政策立案の過程では、より多様な意見を反映させる手段として、マルチメディアを活用すべきである、と彼は言う。つまりシンクタンクもまた、専門家や市民の多様な意見を集約するネットワーク型のものでなければならないとイメージされている。それをさらに普遍化すれば「電子技術を用いた国民投票的行為」も可能になる。

●リベラル合同

 鳩山一郎は1955年の「保守合同」の立役者だった。その祖父から友愛という言葉を借りながらそれに新しい意味を見いだそうとしている鳩山由紀夫は、いま自らがなそうとしていることを、今度は「リベラル合同」だと呼んでいる。

「新たな政治の流れは自己の尊厳の確立と共生、すなわち自愛と利他というデュアルメッセージに基づく友愛リベラリズムであり、その形成は“保守合同”に対比して“リベラル合同”と呼ぶことができよう」

 その組織原理は上述のような意味での1人1人の志を基礎にしたネットワークであり、「そのことによって、人間は人為的な国益、省益、企業益といった既得権益の壁を乗り越え、デュアルメッセージである市民益と地球益の重要性に気づくことになろう」

 この一文の冒頭で鳩山は「青臭いとの批判をあえて覚悟のうえで」これを書くと断っている。しかしこの閉塞の中で必要なのはむしろ青臭さであるのかもしれない。■

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《資料3》「司馬遼太郎の読み方・総特集」前書きより

 司馬さんは、日本では数少ない天性のリベラル人だったのではないでしょうか。鳩山由紀夫さんがよく「リベラルは愛だ」なんて言いますが、その意味は、自由は行き過ぎれば放埒と弱肉強食の獣性に行き着きかねず、平等もまたそれだけでは統制の下での画一しかもたらさない。その両者のバランスをとる役目は友愛にあるというのです。

 実際、資本主義的自由主義と社会主義的平等主義という20世紀の2つの主義は、しかし、どちらも地を這って生きる人々を顔のない大衆としてしか扱わなかったことでは一緒で、ただその両者のバランスをとればいいのではなくて、両者を超えて1人1人の個人や1つ1つの地域の個性を限りなく大事なものとして、その違いをこそ尊重し合うような社会にしていくことが、たぶん今日的な意味でのリベラルということなのでしょう。

 司馬さんを今度少し読み直してみて、いろいろな個性が自由闊達に活動して独創性を発揮できる社会が理想だというのでなく、日本はもともとそういう歴史を持った国なのだということを懸命に論証しようとしていたのだなということがよく分かりました。それだけに戦前の軍部と戦後の大蔵省の行いに本気で腹を立ててもいたのです。バブルの果てのこの結末を、太平洋戦争の敗北よりもっと深刻だと言い切る時の司馬さんの無念さを想うと胸が詰まるものがあります。■

2009年5月18日

INSIDER No.491《HATOYAMA》鳩山民主党は「小沢院政」批判に惑わされるな!──戦術的後退と戦略的前進

 13日付の「朝日川柳」欄に一句あって「なぜ辞任白々しくも各メディア」と。

 「小沢辞めろ!」の大合唱を繰り広げた末に、辞めたら辞めたで「なぜ今辞めるのか?」と言うのがマスコミである。で、急遽代表選が行われるとなれば、その延長線上で「親小沢か反小沢か」という虚妄の争点をデッチ上げて、親小沢の鳩山由紀夫では「小沢院政」くらいならまだしも「小沢傀儡」になるとまで言って、反小沢の岡田克也を支援する論説やら世論調査やらを繰り出してのまたまた大合唱である。

●マスコミの虚妄

 それにめげずに鳩山が予想以上の差をつけて代表選に勝利すると、翌日の例えば朝日は「そこで問われたのは、小沢依存体質からの脱却」であり「親小沢vs非小沢の構図が鮮明になった」が「選ばれたのは幹事長として小沢氏を支え、辞任に至るまで深く関わった鳩山氏だった」と、いかにも悔しそうに言い、そして「鳩山氏はまず『小沢院政』の疑念を明確にぬぐわなければならない」と、今後とも朝日が鳩山が小沢の操り人形にならないかを監視していくという報道姿勢を宣言した(17日付1面の前田直人解説)。同日付の社説でも、「『親小沢か、非小沢か』といった点が注目された」(されたんじゃないでしょう、朝日はじめマスコミはそこだけが注目されるよう世論誘導したんでしょうに)けれども、鳩山では「『刷新』という点で疑問符がつきまとうのは避けられない」といちゃもんを付けている。

 マスコミはこぞって、「小沢では選挙に勝って政権交代を果たすことは出来ない」と言い続けてきたのではなかったか。それでいて鳩山になると「鳩山では勝つのはおぼつかない」かのように言い出して、だったら岡田ならどれだけ勝てるのかについて検証もないままに単に気分で「岡田の方がよかった」と言っている。すべてが馬鹿げているのである。

 私は依然として、小沢は辞めるべきでなかったと思っていて、その理由は(これとて検証材料がある訳ではなく直観的判断にすぎないが)小沢代表で戦っても他の代表で戦っても選挙結果には大した違いがないはずで、そうであれば小沢を代表に担いだまま正面突破を図って自民党だけでなく検察とマスコミにも鉄槌を下すべきだからである。前にも書いたように、この総選挙を通じての政権交代の中心争点が、自民党=金権政治に対する民主党=クリーン政治にあるのであったとすれば、小沢代表のクリーン度にいささかでも疑念があれば戦えない。もちろん政治はいつでもクリーンであるべきで、小沢がその点を疑われるような過去を清算し切れていなかったのは残念極まりないことではあったけれども、そのことは少なくとも中心争点ではなく、そうであれば、この事件を逆手にとって民主党が自民党では絶対に受け容れられない「企業・団体献金の禁止」をマニフェストに盛り込んで副次的争点の1つに仕立て上げれば十分に戦うことは出来たはずである。

 なのにマスコミがまるでそれこそが中心争点であるかに騒ぎ立て、それに煽られて、政権交代のための革命的な権力闘争に命懸けで身を投ずる覚悟もない民主党のピーチク議員が「小沢では戦えない」などと、自分がマスコミの虚妄の論調と戦って有権者を説得し抜くだけの力量がないのを棚に上げて全部を小沢のせいにすり替えてパーチク言って、そういうマスコミと議員の連動性の知的レベルにウンザリして小沢は辞めたのだろうが、それはやっぱりプッツンであって、本当は小沢はそのピーチクパーチク連中を全員集めて徹夜でも何でも討論集会を開いて、彼らを革命的戦士に鍛え上げるべきだった。そういうことを「面倒くさい」と思ってしまうところが小沢の最大欠陥であって、鳩山はそこに関しては小沢を見倣うべきでない。

 話を戻して「院政」論だが、17日のサンプロで田原総一朗が鳩山に対して「小沢院政で操り人形になっているんじゃないかと言われているから、これからはいかに小沢さんが深く関わっていないと思わせないと総選挙で勝てない」という趣旨のことを言ったのに対して、私は「それには反対です」と挙手をして、おおむね次のようなことを言った。

「誰がやっても『小沢院政』になるんですよ、岡田さんになったって。小沢の力を十分に活用して政権を獲りにいくという今の戦略局面は変わっていない。それをマスコミが『親小沢・反小沢』という架空の対立軸を作って(引っかき回してきた。)仮に岡田になっても小沢の力を使って選挙をやるんですよ、そんなことは誰もが分かっているじゃないですか」と。

●「愛」について

 もう1つマスコミの虚妄を示す例は、鳩山が代表選の中で「愛」という言葉を口にし、「自立と共生」、その両者をつなぐものとしての「友愛」という価値観を提起したのに対し、お馬鹿な記者が「今時、愛なんて女学生も言わない」とケチをつけたことである。不勉強が過ぎる。たぶんこの記者は、愛がloveだと思っていて、fraternityという言葉を知らない。

 96年の旧民主党結成時の宣言は、4章のうち1章を「友愛精神にもとづく自立と共生の原理」に充て、次のように述べていた。

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 私たちがこれから社会の根底に据えたいと思っているのは「友愛」の精神である。自由は弱肉強食の放埒に陥りやすく、平等は「出る釘は打たれる」式の悪平等に堕落しかねない。その両者のゆきすぎを克服するのが友愛であるけれども、それはこれまでの100年間はあまりに軽視されてきた。20世紀までの近代国家は、人々を国民として動員するのに急で、そのために人間を一山いくらで計れるような大衆(マス)としてしか扱わなかったからである。

 実際、これまでの世界を動かしてきた2大思想である資本主義的自由主義と社会主義的平等主義は、一見きびしく対立してきたようでありながら、じつは人間を顔のない大衆(マス)としてしか扱わなかったということでは共通していた。日本独特の官僚主導による資本主義的平等主義とも言うべきシステムも、その点では例外でなかった。

 私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという「個の自立」の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという「他との共生」の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない。

 西欧キリスト教文明のなかで生まれてきた友愛の概念は、神を愛するがゆえに隣人を愛し、敵をも愛するという、神との関わりにおいて人間社会のあり方を指し示すもので、そこでは人間と自然の関係は考慮に入っていない。しかし東洋の知恵の教えるところでは、人間はもともと自然の一部であって、一本の樹木も一匹の動物も一人の人間も、同じようにかけがえのない存在であり、そう感じることで自然と人間のあいだにも深い交流が成り立ちうる。そのように、自然への畏怖と命へのいつくしみとを土台にして、その自然の一部である人間同士の関係も律していこうとするところに、必ずしも西欧の借り物でない東洋的な友愛の精神がある。

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 これは、旧民主党結成に向かう1年がかりの理念・政策討論の中で鳩山と私が議論し、私が文章としてまとめたもので、西欧的な概念である友愛を東洋的・日本的な八百万の神的な観念に置き換えたところに面白みがあった。これに対しては、当時、キリスト教関係者から「キリスト教を批判するのか」とクレームがあったが、「いや、批判でなく、キリスト教に学びつつそれを日本的に捉え直したんですよ」と言い返すという一幕もあったりした。それはともかく、このような意味での「友愛」こそ、来るべき民主党=鳩山政権の哲学的基礎であって、それをキーワードとして資本主義的自由主義、社会主義的平等主義およびその変種としての日本の明治以来の官僚主義的資本主義の限界を一気に超えていこうとする意欲の表現である。

 こうして、小沢辞任は、民主党全体が一丸となって検察の専横とそれに同調するマスコミの虚妄と戦い続けることを避けたという意味で戦術的な後退ではあるけれども、だからといって、小沢の“剛腕”を十分に活用しつつ総選挙に勝って政権交代を実現するという戦略局面には何ら変わりはなく、その戦術的後退を戦略的前進に転化していくことが鳩山に課せられた使命である。マスコミの虚言に囲まれながらも、彼が小沢を堂々と代表代行・選挙担当に据えたことがその第一歩である。▲

2009年5月 7日

INSIDER No.490《OZAWA》雑誌『選択』が示す「小沢続投論」への異常な反感──名指し批判には答えない訳にはいかない

 会員制月刊誌『選択』5月号の連載コラム「政界スキャン」は、「『小沢続投』支持論に異議あり」と題して、民主党機関紙『プレス民主』4月17日号で田中康夫=新党日本代表と高野が並んで「小沢一郎代表続投」論を書いたことに対し、手厳しい批判を展開している。このコラムの筆者「地雷53」は大手新聞の政治記者の大御所であることが知られているから、新聞マスコミのあり方の問題として反批判させて頂く。

●マスコミは何故「ゼネコン献金」を総ざらいしないのか?

 コラムは、「田中の主張は…極端な小沢礼賛に終始しており、論争の材料にはなりにくい」と片づけた上で、「高野論文は一応は筋が通っている」として(有り難うございます、「一応は」と留保が付いているものの「筋が通っている」というのは書き手にとって最良の褒め言葉です)、次のように述べている。

「第1は検察ファシズム批判で、公権力の乱用に屈せず民主党全体で闘うべきだ、と[高野は]訴えている。検察批判はわからないではなく、今回も検察の悪い癖がでた面があるかもしれない。だが、検察が捜査している秘書の政治資金規正法違反事件と別に、いま問われているのは小沢による巨額の企業献金・蓄財に対する疑惑だ。それは、『何のために政治をやっているのか』という根源的な不信につながっている」

「検察批判はわからないではなく、今回も検察の悪い癖がでた」というなら、これは民主主義の根本に関わることなので、マスコミはまず検察批判を徹底すべきではないのか。ところがコラムはその「面があるかもしれない」と逃げた上で、そのようにちょっと問題がある検察が取り上げている小沢「秘書の政治資金規正法違反事件」と、「小沢による巨額の企業献金・蓄財に対する疑惑」は別のものだと規定し、前者よりも後者のほうが「根源的な不信」につながる重大問題だと言っている。その後者のほうを重視しない高野は間違っているという訳だ。

 マスコミが検察批判をしていないとは言わない。小沢秘書起訴の翌25日付毎日が社会部長名で「検察は説明責任果たせ」という解説を載せたのは画期的なことだった。が、目立ったのはそれ1つくらいで、マスコミが全体としてこの検察の横暴に立ち向かうという姿勢は見たことがない。

 検察が事件化した問題は言わば瑣末なことで、それと小沢が巨額な企業献金を受けて蓄財していた問題とは別だと?

 別扱いするのは構わないが、それだったらマスコミは、民主党だけでなく自民党などを含めて、「巨額な企業献金」を未だに受けている議員のランキング、その中で特に「ゼネコン」から、そして「西松建設」から、献金を受けている議員のランキングを示して、その個々に何か問題がないか総点検して貰いたい。その中で、小沢が企業献金、ゼネコン献金、西松献金それぞれについてランキング何位なのか、またその中身について疑惑の度合いはどれほどなのか、私も知りたいと思う。私は本当はそういうことを自分でシコシコ調べたいがそれだけのゆとりもない。マスコミは何千人も記者を抱えているのだから、普段からそういうことをやって、検察が何を(恣意的に)取り上げるかとは無関係に、警世するのが仕事なのではないのか。それをサボッていて、検察がたまたま小沢秘書の問題を取り上げたとたんに弾かれたように、巨額の企業献金を貰ってけしからんなどと言い募れば、小沢だけがゼネコンを含む企業から怪しい金を持っているかの印象を振りまくことになるのであり、そういう風だから検察の都合に合わせて誰かを(恣意的に)攻撃ターゲットにして捜査に協力する岡っ引き的な癒着体質を指摘されることになるのではないか。

 付け加えると、コラムが「企業献金・蓄財」と言っている、「蓄財」とはどういうことだろうか。言葉のニュアンスは「個人的蓄財」と受け取られる。私は小沢は個人的な蓄財には関心がないと思う。悪名高き小沢の師匠=田中角栄もさんざん「金権」と叩かれたが、彼も個人的な蓄財には関心がなかったと思う。恐らくこれは、小沢が政治資金として集めた金を使ってマンションを購入し、事務所や秘書の住宅として使っていたということを指すのだと思うが、そのマンションを貸したり転売したりして個人として利殖していたというならともかく、広義での政治目的のためにマンションを買って、それを政治資金団体の名義には出来ないから代表者である小沢の名前で登記することがあったとしても、それを「蓄財」と言うことは出来ない。コラムが「蓄財」と言うのは何を指してのことなのか。

●マスコミの「小沢辞めろ」の大合唱

「高野は『辞任せよ』の大合唱が続いている、と世間の付和雷同性に反発しているふうだが、合唱なんかしていない。この場面での小沢の挙動を世間はじっと凝視しているだけだ」とコラムは書いている。

 これは私の筆が足りなかった。「『辞任せよ』のマスコミの大合唱」と書くべきであった。確かに、世間は(後述のようにネット上は別にして)合唱なんかしておらず、むしろ醒めているが、独りマスコミだけは狂ったように反小沢の合唱を歌い続けている。それが問題なのだ。例えば、小沢秘書の起訴後、3月25日付各紙の社説の見出しはこうだ。

朝日:小沢代表は身を引くべきだ
毎日:説得力のない会見だった/検察は与野党問わず捜査を
読売:小沢代表続投後のイバラの道
産経:小沢氏続投は通らない
日経:小沢氏続投は有権者の理解得られるか

 毎日だけ取り出せば、同紙はさらに6日後の31日付社説「千葉・民主大敗/早く不信をぬぐい去れ」で、千葉県知事選の結果を「政治資金規正法違反事件と、小沢氏の続投表明など、その後の対応が影響したとみて間違いなかろう」と一方的に断定した上で、「やはり、ここは小沢氏が身を引き、早急に新体制を作ることではないか」と辞任を勧告している。4月5日付「社説ウォッチング」では「千葉県知事選などを受け、各紙は改めて社説で民主党を取り上げた。立場は異なるが総じて民主党への目は厳しく、小沢氏の続投を容認している社説は一つもない」と分析しつつ、「小沢氏は早くけじめをつけた方がいいというのが、毎日の基本的な立場だ」と強調した。

 社説以外でも、毎週月曜日掲載の山田孝男=専門編集委員のコラム「風知草」は4月に入って3週間続けて、「よほど恨みがあるのか…と冷やかされることがあるが」と自分でも断りながら小沢批判を繰り返している。20日付の松田喬和=専門編集委員の「政治の“いろは”」も「『政治家小粒論』に拍車」と題して「小沢の続投は政権交代の好機を逸しかねない」と書いた。岩見隆夫は『サンデー毎日』4月19日号のコラムで「再びぶざまな姿見せるな、小沢さん」と呼びかけた。

 こういうのを大合唱と言うのではないのか。大合唱しているのはマスコミであって、そのことをマスコミ自身が「変だ」と自覚していないことが危機的である。

●ネットでは「小沢辞めるな」の声が圧倒

 世間は反小沢の合唱なんかしておらず、ネットで見る限り、反小沢どころか親小沢の合唱が起きている。しかもそれは「親小沢」という単純なものではなく、小沢の限界を百も承知の上で、それでも小沢を押し立てて政権交代を実現すべきであるという、極めて質の高い意見の集積で、世論の健全さはむしろネットに表れていると言える。

 それはTHEJOURNALの高野、田中、山口などの記事に対して書き込まれた読者コメントを見れば一目瞭然だが、他にも例えば「小沢一郎ウェブサイト」の中の「掲示板・投稿」→「ご意見・投稿」には、「小沢さんを支持している国民は本気で、というより必死で、応援していると思います。絶対にあきらめないで下さい」(茨城、自営業、40歳代)といった熱い支持が2万通以上も集中している。

※小沢一郎ウェブサイト:https://www.ozawa-ichiro.jp/

 他方、政治に関心ある比較的若い層が集まる「Yahoo!みんなの政治」でも、小沢頑張れ論は主流で、4月30日に始まった「主な民主党議員の中で、これからの同党のリーダーとして最もふさわしいと思うのは?」というアンケートには5月5日現在2805人が投票し、57%が「小沢一郎」と答えている。

※Yahoo!みんなの政治:http://seiji.yahoo.co.jp/

 このように言うと、ネットで書き込みをするのは若い層が中心で、しかもマニアックな連中が多いんだろうと言った偏見に満ちた声が聞こえてきそうだが、小沢サイトに投稿している人々の年齢層を見ると、50〜60歳代が中心で70歳以上も少なくない反面、40歳代はそう多くなく30歳代は稀である。小沢支持者に高年齢層が多いことが分かるが、それにしても、60歳代や70歳以上の人たちまでがネットを通じて「小沢負けるな」の意見を競い合うように表明している様子は新鮮に映る。

 またこれは、THE JOURNALなどへの投稿にも共通することだが、この事件が起きるまで「特に政治に関心がなかった」り、「小沢はむしろ好きではなかった」りした人たちの投稿も少なくない。小沢サイトへの投稿の中に「小沢さんは分かっていると思いますが、今となっては、インターネットでの書きこみは無党派層の人たちも参加しています。マスコミの小さい範囲での世論調査などより民意が読み取れるのです」と書いた人がいるが(北海道、会社役員、40歳代)、そのように、必ずしも前々からの小沢ファンでも民主党支持者でもなく、無党派ないし政治的無関心層までもがが、検察の横暴とマスコミの堕落に危機感を持ってネット世論の形成に参加してきていることが窺える。

●世論の“量”と“質”

 上の投稿者が「ネットでの書き込みは…マスコミの小さな範囲での世論調査などより民意が読み取れるのです」と書いているが、ここが1つのポイントである。

 マスコミの世論調査は、それなりに学問的に裏付けられた(と思われている)方法によって行われるけれども、そのサンプル数は数千程度にすぎない場合が多い上に回収率が低く、また別に答えたい訳でもなくその準備もない人にいきなり質問を浴びせて無理にでも答えさせるのであって、そこで採集できるのは言わば「受動的な世論」である。しかも、前稿でも述べたように、設問の表現や配列、質問前の説明の仕方、念押し・重ね聞きなどによる無理矢理の括り方等々によってマスコミにとって都合のいいようにバイアスをかけられやすい。そういうことが仮になかったとしても、しょせん世論調査が示すのは「賛成?%、反対?%」という“量”であって、例えば「小沢続投賛成」と言っても、それぞれの思いや微妙なニュアンスは一切反映されない。

 それに対してネットの掲示板では、投稿者は自分から意見表明に相応しいサイトを探してアクセスし、単なる賛成・反対でなく自分なりの論理を立てて思いを込めて書き込むのであって、それは「能動的な世論」であると言える。しかもサンプル数は、サイト管理者が制限でもかけない限り、事実上、無限である。またネットの書き込みの1つの特徴として、例えば「小沢辞めるな」という論調がひとたびサイトの一角に出来るとそれに賛同する似たような意見が殺到して、それに対する反論が出て大討論になることは滅多にない。誰もが自分の思いを書き込むのに相応しく、また話が通じやすいレベルのたくさんの人たちに読んで貰えそうな場所を探し求めているし、反対論の人はそこで口を挟んで袋叩きに遭うようも、別の自分と似たような意見が多い場所に行って発言した方が盛り上がるから、見ただけで黙って去っていくので、そういうことが起こりやすい。それはそれで問題で、もっと普通にネットの各所で生産的な議論が湧き起こるようにならないものかとは思うけれども、それはともかく、その特徴のためにネットでは世論は“量”として%で把握されにくい反面、“質”を汲み取ることが出来る。

 こうして、マスコミ世論調査では「小沢辞めろ」が60〜70%に達するのに、ネット世論ではむしろ正反対の意識の流れが表現されることになる。サンプル数が少なく限定された中から汲み出された受動的な世論を“量”として掴むのと、サンプル数が事実上無限である書き込みの中から能動的な世論を“質”として捉えるのと、どちらが正しいかと言い切ることはまだ出来ないが、少なくともネット世論の“質”を無視すると致命的に状況判断を間違えかねない時代が到来しつつあるのは事実である。検察もマスコミの大勢も民主党内の反小沢派もみなそこで判断が狂ってしまった。

 余談ながら、このマスコミ的世論とネット世論のギャップに、さすがの新聞も「このままではまずい」と思い始めたのかと思わせる兆候が、朝日の投書欄に現れている。4月27日付に出た「西松献金巡る4つの疑問」という東京都八王子市、61歳の投書は、朝日の21日付の小沢辞任を促した社説に「反対である」として、(1)検察の強引な捜査、(2)マスコミの権力批判を忘れた「大本営発表」的な報道、(3)それをうのみにした国民が「ワルの小沢」と思ったこと、(4)ゼネコン献金というが自民党は企業や業界から民主党の10倍も貰っている、の4点を疑問として提出、「私は28%の小沢続投の意見に賛同する」と結んでいる。5月4日付には「新聞の軸足は市民に置いて」と題した岩手県陸前高田市、68歳の投書が載り、上述の投書に同感しながら、この問題で朝日新聞は独自の調査で本質をえぐるような記事を見受けなかったと批判、「それに比べて、親子関係にある週刊朝日は当初から検察の強引な捜査に疑問を呈する論陣を張った。…権力に迎合しない編集姿勢は市民の側に軸足を置いているからだ」と週刊朝日に拍手を送った。いずれも、ネットでは当たり前の議論だが、それを新聞が投書欄とはいえ載せるようになったのは、1つの進歩かも知れない。

●何のための「改革」なのか?

 『選択』に戻って、コラムは次に、高野が「検察が粗暴な行動に出た背景には、『明治以来100年間の官僚支配を打破する革命的改革』を呼号する小沢代表への恐怖心があるに違いない」と書いていることについて、次のように言う。

「確かに官僚機構は政権交代に不安感を抱いているだろうが、小沢続投に反対する世間は官僚とほとんど無縁だ。小沢は改革者の資格があるか、と世間は疑っている」

 うーん、ここはちょっと論理が混濁していてよく理解できない。いま政権交代を通じて行われるべき革命的改革とは、明治以来100年余の、官僚が実質的な権力を握ってこの国を動かし政治家はただそれに随伴しておこぼれ頂戴のような無様な態度を演じてきた、発展途上国丸出しの支配体制を爆砕することである。世間の大勢は、そのような革命的改革の端緒を切り開くのは、資金面でクリーンかも知れないが屁理屈ばかり言っているようなヤワな指導者では到底無理で、仮にその面でクリーンかどうかは疑わしくとも官僚体制の表も裏も知り尽くして一流の剛腕を用いてダイナマイトを連発で仕掛けてくれるはずの小沢こそ「改革者の資格」があると思っている。

 ところがこのコラムは、まず「世間は小沢続投に反対している」と誤解している。その原因はたぶん、上に述べたような意味での世論の“質”が読めていないからだろう。その上で、世間が反小沢なのは、別に官僚に頼まれたり吹き込まれたりしてそうなっているのではなくて、何よりも資金面でクリーンでないと改革者は務まらないという基準で純粋にそして正しく判断しているからだと言いたいらしい。繰り返すが、世間は反小沢ではなく、官僚体制を爆砕して貰いたいと思っている人ほど親小沢であって、その際クリーンかどうかなどと言う判断基準を少なくとも最優先する人はいないのではないか。

 コラムはさらに、高野が「そもそも小沢一郎という政治家を清廉潔自のクリーンな人だと思っている人は、失礼ながら、誰もいない。田中金権政治の直系の秘蔵っ子という過去については誰知らぬ者もない。しかし、過去の政治を知り尽くしているがゆえにそれを最もラディカルに否定できるというのが小沢という政治家の面白さであり、そこにこそ彼の破壊的なエネルギーの源泉があるのであって、そのことを民主党の皆さんはもちろん国民の多くも百も承知で、彼に政権交代への道を切り開く役目を託してきたのではなかったのか」と述べている部分を引用して、次のように言う。

「小沢の『面白さ』について異論がある。過去を知り尽くしているがゆえに、と言うが、知り尽くすことと過去の体質を引きずっていることとは根本的に違う。引きずりながら破壊的なエネルギーを発揮できるとは到底思えない。過去を知っているのは結構だが、過去と訣別するけじめと勇気がなければ、次のステップは程度が知れている。今回の衝撃は、小沢の引きずり方が並みでないのを初めて知ったことだった。高野はそこを軽視している」

●小沢における弁証法

 確かに、過去の体制を知り尽くすことと過去の体質を引きずっていることとは違う。私も、出来れば小沢がここへ来るまでにその引きずりを清算しておいてくれれば(マスコミがブレて世間を惑わすようなことも起きずに)どんなによかったかとは思う。しかし、革命的改革のための政権交代が実現するかどうかの瀬戸際という今の戦略局面において、そのことは「根本的」でも何でもない。むしろ、過去を知るが故に何ほどか過去を引きずっているであろうことは多くの人々にとって想定内であって、コラムがその「引きずり方が並みでないのを初めて知った」とウブなようなことを言っているのは分からない。誰が「並み」で小沢の何が「並みでない」と言うのだろうか。

 これが93年で、自民党一党支配が金権腐敗の汚濁の中で自壊し、次に金権腐敗を打破して政治改革を推進する政権を作らなければならないという戦略局面であれば、そのことは「根本的」で、小沢のようなその点で疑いの残る人物を総理にする訳にはいかなかったし、小沢もそれを知っているからクリーンそうで爽やかムードの細川護煕を担いで自分は裏に回った。今はそれを争点とした政権交代をしようという場面ではないから、そのことは、出来ればそんな紛れの要素は予め除去しておいて貰いたかったけれども、しかし「根本的」ではない。「そこを軽視している」と言われればその通りで、私は重視しているポイントが違う。戦略局面の認識が狂うと、根本的なこととそうでないことの見分けが付かなくなって、このコラムのような判断軸の大きなブレが生じるのである。

「過去を引きずりながら破壊的なエネルギーを発揮するとは思えない」と言うが、それはやってみなければ分からない。現に既に小沢は、過去を引きずってきたことの非を悟ったためだろう、ゼネコンからの献金禁止という民主党の過去の及び腰のテーゼを一挙に乗り越えて「企業・団体献金の禁止」を選挙公約に盛り込むよう党に支持した。自民党政権では全く起こりえないこのような決断は「けじめと勇気」ではないのだろうか。過去の引きずりが重いだけにそのフックが外れた時に前へ飛んで行く弾け方もまた大きい、というふうに、弁証法的ダイナミズムにおいて小沢を捉えることは出来ないのだろうか。そのように見れば、政治はもっと「面白く」なると思うのだが。▲

2009年5月 1日

INSIDER No.489《100 DAYS》「核のない世界」への第一歩を踏み出した米大統領──オバマ政権最初の100日間・その1

 オバマ米大統領が就任して100日間が過ぎ、政権当初の仕事ぶりの評価をめぐる議論がかまびすしいが、外交面で何と言っても最もインパクトが大きかったのは、4月1日メドベージェフ露大統領との初会談で新しい戦略核兵器削減条約について交渉を開始することで合意、続く5日のプラハでの演説で米国が「核兵器のない世界」の実現に向かって率先イニシアティブを発揮することを宣言したことである。

 もちろんオバマは選挙期間中から「核兵器のない世界」への取り組みを公約に掲げていたので、意外性こそないが、米外交政策マフィアや戦略家たちの間に意見対立があることもあり、誰もが第1期4年間の内には何とか手を着けるのが精一杯だろうくらいに思っていたこの人類史的課題を、最初の欧州訪問・米露首脳会談の目玉として打ち出した手腕と演出力は鮮やかである。とりわけ日本人にとっては、「核兵器を使用した唯一の核保有国として米国には行動する道義的責任がある」と、米指導者として初めて、原爆投下国としての責任に言及したことが強く印象に残った。

●プラハ演説の趣旨とその限界

 プラハ演説の主なポイントは次の通り(趣旨は《資料1》を参照。

▼「核兵器のない世界」への具体的措置として、我が国の国家安保戦略における核兵器の役割を低下させ、他の国にも同調を求める。ロシアとの間で新たな戦略兵器削減条約を交渉し、今年末までに合意を達成する。

▼我が政権は速やかにかつ果敢に、CTBT(包括的核実験禁止条約)の批准を追求する。また、核兵器用の核分裂物質の生産を検証可能な形で禁止する新たな条約を追求する。

▼NPT(核不拡散条約)を強化していく。国際査察の強化にはさらなる資源と権限が必要だ。また正当な理由なくルールを破り、条約からの脱退を試みる国は報いを受けなければならない。

▼北朝鮮が長距離ミサイルに使用可能なロケット実験によって再びルールを破ったことに対しては断固とした行動が必要だ。我々は一致協力して北朝鮮に路線変更を迫っていかなければならない。

▼イランはまだ核兵器を製造していないが、同国の核および弾道ミサイル活動の脅威は実在している。我が政権は相互利益・相互尊重の精神に基づいてイランへの関与を進め、同国が国際社会で正当な地位を占めつつ厳格な査察の下での平和的核エネルギー利用の権利を享受するのか、さらなる孤立と国際的な圧力の中で地域的な核軍拡競争に道を開くのか、その選択を迫る。

▼イランの脅威が存在する限り、チェコとポーランドへのミサイル防衛システムを推進する。

▼テロリストが核兵器を手に入れることは、グローバルな安全保障にとって最も緊急かつ危機的な脅威である。攻撃対象となりうる世界各地のすべての核物質の保安管理体制を4年以内に実現したい。

 一見して明らかな通り、これは、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ジョージ・シュルツ元国務長官、ウィリアム・ペリー元国防長官、サム・ナン前上院軍事委員会議長の4人が07年1月と08年1月の2回にわたって米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」に寄稿した論文「核のない世界へ」の焼き直しである(《資料2》《資料3》を参照)。

 ただし、キッシンジャーらが、米国が率先して核廃絶に向かうことによって北朝鮮やイランの核を阻止するための交渉や核テロの防止策を効果的に進めることが出来るという、やや理想主義的なスタンスを採っているのに対して、オバマはそれに寄り添いつつも、次のように付け加えるのを忘れない。

「もちろん、核兵器が存在する限り、わが国は、いかなる敵であろうとこれを抑止し、同盟諸国に対する防衛を保証するために、安全かつ効果的な兵器を維持します」

 現職大統領としては当然とも言えるが、まさにここがディレンマの元で、核兵器をなくすことには誰もが賛成なのにそれがおいそれとは進まないのは、米露や米中の間で破滅的な核戦争が起きる可能性はゼロに近くなったけれども、米国vs北朝鮮をはじめインドvs中国・パキスタン、イスラエルvsイランなどの地域的な核対立の構図が解消されず、またその構図の中でテロリストが核兵器や核物質を手に入れて核テロを引き起こす危険がむしろ増大していて、それに対して米国が「核抑止力」によって対処しようとすれば、いつまで経っても核を手放すことが出来ず、そうすると米国からの直接の核の脅威にさらされていると思っている北朝鮮も、イスラエル経由で間接の脅威に直面していると感じているイランも、核開発の権利を手放そうとはしない。「核抑止力」論が地域的な核対立を煽るというディレンマをどう乗り越えていくのかの論理は、オバマ演説には示されていない。

 さらにその根底には、周知のように、NPTが国連常任安保理事国でもある5大核武装国の既得権益を保証する一方で、それ以外の国が新たに核保有することだけを禁じている差別条約であるという問題が横たわる。もちろんNPTは、5大国の特権を野放しに認めているのでなく、5大国が進んで核の削減に取り組むことを通じてこの差別を解消していくことを義務づけているのだが、彼らはこの義務を誠実に果たしているとは言えず、そうであるがゆえにインド、パキスタン、イスラエルは同条約に未加盟であり、北朝鮮は事あるごとに脱退を宣言するというのが現状である。それをそのままにして国際査察の強化や違反者への罰則強化をいくら叫んでも根本的解決にはならない。

 日本としては、北朝鮮核問題の「6者協議」を通じて“朝鮮半島の非核化”(ということは、北が米国の核に脅されていると思う根拠を除去することを含む)を達成しつつ、さらにその枠組みを発展させて米中露を含む「北東アジア非核地帯」の実現にイニシアティブを発揮すべき時である。5大国のうち3国が、少なくともこの地域で核の使用や核による恫喝を行わないことを保証すれば、北が核開発に取り組む口実はなくなる。ちなみに、イランの場合も同様で、米国の後ろ盾でイスラエルが核武装している現状をなくせばイランが核開発をする理由はない。

 こうして、オバマのプラハ演説は全体として画期的な意味があるものの、肝心要の問題については打開策を示唆さえもしておらず、彼に任せておけば「核のない世界」が実現するといった過剰な期待を持つことは禁物である。▲

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《資料1》オバマ大統領のプラハ演説(2009年4月5日)

 在日米大使館による仮翻訳のうち核に関する部分を省略・要約なしに以下に転載した。それ以外の部分を含む全文は次のURLを参照のこと。
http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-20090405-77.html

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 今日私が重点を置いてお話しする課題のひとつは、この両国の安全保障にとって、また世界の平和にとって根本的な課題、すなわち21世紀における核兵器の未来、という問題です。

 何千発もの核兵器の存在は、冷戦が残した最も危険な遺産です。米国とソ連の間に核戦争が起きることはありませんでしたが、何世代にもわたり人々は、この世界が一瞬の閃光(せんこう)の下に消失してしまうこともあり得ると承知の上で生活していました。プラハのように何世紀にもわたって存在し、人類の美しさと才能を体現した都市が消え去ってしまう可能性がありました。

 今日、冷戦はなくなりましたが、何千発もの核兵器はまだ存在しています。歴史の奇妙な展開により、世界規模の核戦争の脅威が少なくなる一方で、核攻撃の危険性は高まっています。核兵器を保有する国家が増えています。核実験が続けられています。闇市場では核の機密と核物質が大量に取引されています。核爆弾の製造技術が拡散しています。テロリストは、核爆弾を購入、製造、あるいは盗む決意を固めています。こうした危険を封じ込めるための私たちの努力は、全世界的な不拡散体制を軸としていますが、規則を破る人々や国家が増えるに従い、この軸が持ちこたえられなくなる時期が来る可能性があります。

 これは、世界中のあらゆる人々に影響を及ぼします。ひとつの都市で1発の核兵器が爆発すれば、それがニューヨークであろうとモスクワであろうと、イスラマバードあるいはムンバイであろうと、東京、テルアビブ、パリ、プラハのどの都市であろうと、何十万もの人々が犠牲となる可能性があります。そして、それがどこで発生しようとも、世界の安全、安全保障、社会、経済、そして究極的には私たちの生存など、その影響には際限がありません。

 こうした兵器の拡散を抑えることはできない、私たちは究極の破壊手段を保有する国家や人々がますます増加する世界に生きる運命にある、と主張する人もいます。このような運命論は、極めて危険な敵です。なぜなら、核兵器の拡散が不可避であると考えることは、ある意味、核兵器の使用が不可避であると認めることになるからです。

 私たちは、20世紀に自由のために戦ったように、21世紀には、世界中の人々が恐怖のない生活を送る権利を求めて共に戦わなければなりません。そして、核保有国として、核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任があります。米国だけではこの活動で成功を収めることはできませんが、その先頭に立つことはできます。その活動を始めることはできます。

 従って本日、私は、米国が核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意であることを、信念を持って明言いたします。私は甘い考えは持っていません。この目標は、すぐに達成されるものではありません。おそらく私の生きているうちには達成されないでしょう。この目標を達成するには、忍耐と粘り強さが必要です。しかし今、私たちは、世界は変わることができないという声を取り合ってはいけません。「イエス・ウィ・キャン」と主張しなければならないのです。

 では、私たちが取らなければならない道筋を説明しましょう。まず、米国は、核兵器のない世界に向けて、具体的な措置を取ります。冷戦時代の考え方に終止符を打つために、米国は国家安全保障戦略における核兵器の役割を縮小し、他国にも同様の措置を取ることを求めます。もちろん、核兵器が存在する限り、わが国は、いかなる敵であろうとこれを抑止し、チェコ共和国を含む同盟諸国に対する防衛を保証するために、安全かつ効果的な兵器を維持します。しかし、私たちは、兵器の保有量を削減する努力を始めます。

 米国は今年、弾頭と備蓄量を削減するために、ロシアと、新たな戦略兵器削減条約の交渉を行います。メドベージェフ大統領と私は、ロンドンでこの作業を開始しました。そして今年末までには、法的拘束力を持ち、十分に大胆な新しい合意を目指す予定です。これは、さらなる削減に向けた準備段階となるものであり、この努力にすべての核兵器保有国を参加させることを目指します。

 全世界的な核実験の禁止を実現するために、私の政権は、米国による包括的核実験禁止条約の批准を直ちに、積極的に推し進めます。この問題については50年以上にわたって交渉が続けられていますが、今こそ、核兵器実験を禁止する時です。

 そして、核爆弾の製造に必要な物質の供給を断つために、米国は、国家による核兵器製造に使用することを目的とする核分裂性物質の生産を、検証可能な形で禁止する新たな条約の締結に努めます。核兵器の拡散阻止に本気で取り組むのであれば、核兵器の製造に使われる兵器級物質の製造を停止すべきです。これが初めの1歩です。

 第2に、私たちは共に、協力の基盤として、核不拡散条約を強化します。

 条約の基本的な内容は、理にかなったものです。核保有国は軍縮へ向かって進み、核兵器を保有しない国は今後も核兵器を入手せず、すべての国々に対し原子力エネルギーの平和利用を可能にする、という内容です。不拡散条約を強化するために私たちが受け入れるべき原則がいくつかあります。国際的な査察を強化するための資源と権限の増強が必要です。規則に違反していることが発覚した国や、理由なしに条約を脱退しようとする国が、即座に実質的な報いを受けるような制度が必要です。

 そして、私たちは、各国が、拡散の危険を高めることなく、平和的に原子力エネルギーを利用できるようにするために、国際燃料バンクなど、原子力の民生利用での協力に関する新たな枠組みを構築すべきです。これは、核兵器を放棄するすべての国、特に原子力の平和利用計画に着手しつつある開発途上国の権利でなければなりません。規則に従う国家の権利を拒否することを前提とする手法は、決して成功することはありません。私たちは、気候変動と戦い、すべての人々にとって平和の機会を推進するために、原子力エネルギーを利用しなければなりません。

 しかし、私たちは前進するに当たり、幻想を抱いてはいません。規則を破る国も出てくると思われます。いかなる国であろうとも規則を破れば、必ずその報いを受けるような制度を整備する必要があるのは、そのためです。

 今朝、私たちは、こうした脅威に対処するための新しい、より厳格な手段が必要であることを、改めて実感させられました。北朝鮮が再び規則を破り、長距離ミサイル用にも使うことが可能なロケットの発射実験を行ったのです。この挑発行為は、行動を取ることの必要性を浮き彫りにしています。それは、本日午後の国連安全保障理事会での行動だけでなく、核兵器の拡散を阻止するという決意の下に取る行動です。

 規則は、拘束力を持たなければなりません。違反は、罰せられなければなりません。言葉は、実際に意味を持たなければなりません。世界は結束して、核兵器の拡散を防がなければなりません。今こそ、国際社会が断固とした対応を取る時です。北朝鮮は、脅威と違法な兵器によって安全保障と尊敬を勝ち取る道を切り開くことは決してできない、ということを理解しなければなりません。すべての国家が、より強力な国際体制を築くために協力しなければなりません。私たちが協力して北朝鮮に圧力をかけ、方針を変更するよう迫らなければならないのはそのためです。

 イランは、まだ核兵器を製造していません。私の政権は、イランとの相互の利益と尊敬に基づき、イランとの関与を求めていきます。私たちは対話を信じています。しかし、対話の中で明確な選択肢を提示していきます。私たちは、イランが政治的にも経済的にも、国際社会の中で正当な位置を占めることを望んでいます。私たちは、厳しい査察の下で原子力エネルギーを平和的に利用するイランの権利を支持します。これこそ、イラン・イスラム共和国が取ることができる道です。一方で、イラン政府は、さらなる孤立と、国際的な圧力と、すべての国々にとって危険を高めることになる、中東地域における核軍拡競争の道を選ぶこともできます。

 はっきり言いましょう。イランの核開発・弾道ミサイル開発活動は、米国だけでなく、イランの近隣諸国および米国の同盟国にも真の脅威を及ぼします。チェコ共和国とポーランドは勇敢にも、こうしたミサイルに対する防衛システムの配備に同意してくれました。イランからの脅威が続く限り、私たちは、費用対効果の高い、実績のあるミサイル防衛システムの導入を続けていきます。イランの脅威がなくなれば、私たちの安全保障の基盤が強化され、ヨーロッパにミサイル防衛システムを配備する動機がなくなります。

 最後に、私たちは、テロリストが決して核兵器を入手することがないようにしなければなりません。これは、世界の安全保障に対する、最も差し迫った、かつ最大の脅威です。1人のテロリストが核兵器を持てば、膨大な破壊力を発揮することができます。アルカイダは、核爆弾の入手を目指す、そしてためらうことなくそれを使う、と言っています。そして、管理が不十分な核物質が世界各地に存在することが分かっています。国民を守るためには、直ちに、目的意識を持って行動しなければなりません。

 本日、私は、世界中の脆弱(ぜいじゃく)な核物質を4年以内に保護管理することを目的とした、新たな国際活動を発表します。私たちは、新しい基準を設定し、ロシアとの協力を拡大し、こうした機微物質を管理するための新たなパートナーシップの構築に努めます。

 また私たちは、闇市場を解体し、物質の輸送を発見してこれを阻止し、金融手段を使ってこの危険な取引を停止させる活動を拡充しなければなりません。この脅威は長期的なものとなるため、私たちは、「拡散に対する安全保障構想」や「核テロリズムに対抗するためのグローバル・イニシアチブ」などの活動を、持続的な国際制度に転換するために協力すべきです。そして、手始めとして、米国の主催による核安全保障に関する国際サミットを今後1年以内に開催します。

 私たちが、このように幅広い課題について行動を起こせるのかと疑問を持つ人もいると思います。国家間には避けられない立場の相違があるため、真の国際協力が可能であるかどうか疑問を持つ人もいます。そして、核兵器のない世界の話を聞き、実現不可能と思える目標を設定することに価値があるのかという疑問を持つ人もいます。

 しかし間違ってはいけません。そうした考え方の行き着く先は分かっています。国家や国民が、相違点によって特徴付けられることを良しとするとき、相互の溝は深まります。私たちが平和の追求を怠るときには、永久に平和をつかむことができません。希望ではなく恐怖を選んだときにどうなるかは分かっています。協力を求める声を非難し、あるいは無視することは、容易であると同時に、卑劣なことでもあります。戦争はそのようにして始まります。人間の進歩はそこで止まってしまうのです。

 この世界には暴力と不正があり、私たちはそれに立ち向かわなければなりません。その際に、私たちは、分裂するのではなく、自由な国家、自由な国民として結束しなければなりません。武器を捨てることを呼びかけるより、武器を取ることを呼びかける方が、人々の感情をかき立てるものです。だからこそ、私たちは団結して、平和と進歩を求める声を上げなければなりません。

 それは、今もプラハの街にこだまする声です。1968年の亡霊です。ビロード革命のときに聞こえた歓喜に満ちた声です。一度も発砲することなく、核を保有する帝国の打倒に貢献したチェコの人々の声です。

 人間の運命は、私たちが自ら切り開くものです。ここプラハで、より良い未来を求めることによって、私たちの過去に敬意を示そうではありませんか。私たちの間にある溝に橋を架け、希望を基にさらに前進し、これまでより大きな繁栄と平和をこの世界にもたらす責任を引き受けようではありませんか。共に手を携えれば、それを実現することができます。ありがとうございました。プラハの皆さん、ありがとうございました。■

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《資料2》キッシンジャーらの「核のない世界へ」論文(2007年1月4日付「ウォール・ストリート・ジャーナル」)

 NPOピースデポ機関誌「核兵器・核実験モニター」による抄訳を転載する。ピースデポのURLは…
※http://www.peacedepot.org/
 

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 今日の核兵器はすさまじい危険を呈しているが、それは同時に歴史的な機会をもたらしている。米国の指導者たちは、世界を新段階へと導くよう求められている。すなわち、潜在的危険を孕む者達への核拡散を防止し、究極的には世界の脅威である核兵器の存在に終止符を打つための決定的な貢献として、核兵器依存の世界的な中止に向かう確固たるコンセンサスへと導くことである。

 冷戦時代においては、核兵器は、抑止の手段として、国家安全保障の維持に不可欠なものであった。しかし冷戦の終焉によって、ソビエト連邦とアメリカ合衆国のあいだの相互抑止という教義は時代遅れのものになった。抑止は、他の国家による脅威という文脈においては、多くの国家にとって依然として十分な考慮に価するものとされているが、このような目的のために核兵器に依存することは、ますます危険になっており、その有効性は低減する一方である。

 北朝鮮の最近の核実験や、(兵器級物質生産の可能性もある)イランのウラン濃縮計画の中止拒否などによって、世界がいま、新らたな、そして危険な核時代のがけっぷちに立っているという事実が浮き彫りとなった。最も警戒を要することは、非国家のテロリスト集団が核兵器を手にする可能性が増大しているということである。今日、テロリストによって引き起こされる世界秩序に対する戦争においては、核兵器の使用は大規模な惨禍を招く究極的な手段である。そして、核兵器を手にした非国家のテロリスト集団は、概念上、抑止戦略の枠外にあり、そのことが解決困難な新しい安全保障上の課題を生み出している。

 テロリストによる脅威を別としても、緊急に新たな行動を起こさなければ、アメリカ合衆国は新たな核時代へと突き進むことを余儀なくされるであろう。それは、冷戦時代の抑止よりもいっそう不安定で、心理的な混乱を生み、経済的コストの高いものである。核兵器を所持しうる敵が世界中でその数を増す中で、核兵器使用の危険性を劇的に増大させることなく、かつての米ソ間の「相互確証破壊(MAD)」を再現して成功するどうかは極めて疑わしい。

 核兵器によって引き起こされる不測の事態や判断ミス、または無許可使用を回避する目的で、冷戦時代には段階的な保障措置が有効に働いていた。しかし、新たな核保有国はこうした長年の経験による利益を得ることはないだろう。アメリカ合衆国やソビエト連邦は、結果的には致命的とはならなかった数々の過ちから様々なことを学んだ。両国は、意図的にしろ、偶発的にしろ、核兵器が一発も使用されることのなきよう、冷戦時代に絶え間ない努力を積み重ねてきた。今後50年間、新たな核保有国にとって、そして世界にとって、冷戦時代のこのような幸運は望めるのだろうか。(中略)

 核不拡散条約(NPT)が描くものは、全ての核兵器の廃絶である。この条約は、(a)1967年の時点で核兵器を保有していない国家が核兵器を取得しないことに合意すること、及び(b)核兵器を保有している国家は、それを後々放棄することに合意することを定めている。リチャード・ニクソン米大統領以降の民主・共和両党の大統領は全員、この条約下の義務を再確認してきたが、非核兵器国は、核大国がどれほど条約の規定を誠実に遵守しているか、ますます懐疑的になってきた。

 核不拡散を推進する強力な取組みが進行中である。「協調的脅威削減(CTR)プログラム」、「地球的規模脅威削減イニシアチブ(GTRI)」、「拡散防止構想(PSI)」、そして国際原子力機関(IAEA)追加議定書などの取り決めは、NPT違反や世界の安全を危機にさらすような行いを探知する強力な新しい手段を提供する革新的なアプローチである。これらの取り決めは完全に履行されるべきものである。北朝鮮やイランによる核兵器拡散問題に対し、国連安全保障理事会の常任理事国に加え、ドイツ・日本を巻き込んだ交渉を行うことが極めて重要である。これらの手段を精力的に追求することを行わなければならない。

 しかしながら、これらだけでは、危機に対応する十分な措置とはいえない。レーガン大統領とゴルバチョフ書記長は、20年前のレイキャビクの会談において、核兵器の完全廃棄という、より大きな目標の達成を目指した。彼らのビジョンは、核抑止教義を信奉する専門家の度肝を抜いたが、世界中の人々の期待を膨ませるものであった。最大数の核兵器を保有する両国の指導者たちが、最も破壊力のある武器を廃絶しようと、議論を始めたのであるから。

 では、どのような手段がとられるべきだろうか。NPTにおいて取り交わされた約束や、レイキャビクで構想された可能性は結実することとなるのだろうか。堅実な段階を経て、めざす答えに行き着くためには、アメリカ合衆国が先導して最大限の努力を行うことが必要である、と私たちは確信している。

 何よりもまず、核兵器を所持している国々の指導者たちが、核兵器なき世界を創造するという目標を、共同の事業に変えていく集中的な取り組みが必要である。このような共同事業は、核保有国の体質を変容させることなどを含むが、これらによって、北朝鮮やイランが核武装国となることを阻止しようという現在進行中の努力にいっそうの重みが加えられることとなるだろう。合意を目指すべき計画とは、核による脅威のない世界を実現するための基礎作業となる、一連の合意された緊急措置で構成される。そのような措置には、次のようなものが挙げられる。

▼冷戦態勢の核兵器配備を変え、警告の時間を増やし、これによって核兵器が偶発的に使用されたり、無許可で使用されたりする危険性を減らすこと。
▼すべての核保有国が核戦力の実質的な削減を継続的に行うこと。
▼前進配備のために設計された短射程核兵器を廃棄すること。
▼上院と協力して超党派的な活動を始めること。たとえば、包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を達成するために信頼を深め定期的な審議の場を設けるという理解を得ること、当代の技術的な進歩を活用すること、他の重要な国家にもCTBTを批准するよう働きかけること。
▼世界中のすべての兵器、兵器利用可能なプルトニウム、および高濃縮ウランの備蓄を対象にした安全基準値をできるだけ高く設定すること。
▼ウラン濃縮過程を管理下に置くこと。その際、原子炉で使用されるウランが、まずは原子力供給国グループ(NSG)を通して、次に国際原子力機関(IAEA)やその他の国際的に管理された備蓄から、相応な値段で入手できるという保証が伴うべきである。また、発電用の原子炉で発生する使用済み燃料が原因となって生じる核拡散の問題に対応することも
必要である。
▼兵器製造に使用される核分裂性物質の生産を地球規模で中断させること。具体的には、民間レベルでの高濃縮ウランの使用を段階的に廃止してゆくこと、世界中の研究施設から発生する兵器利用可能なウランを除去すること、核分裂性物質を無害なものに変質させること。
▼新たな核保有国の出現を許してしまうような、地域での対立や紛争の解決に向けた私たちの努力を倍加させること。

 核兵器のない世界という目標を達成するためには、いかなる国家や人々の安全をも脅かす可能性のあるあらゆる核関連行為を防止し、それらに立ち向かう、効果的な措置を講じる必要がある。核兵器のない世界というビジョン、ならびにそのような目標の達成に向かう実際的な措置を再び世に訴えることは、アメリカの道徳的遺産と一致した力強いイニシアティブとなるであろうし、またそのようなものと受け止められるであろう。このような努力を積み重ねれば、次世代の安全保障に極めて前向きな影響を与えることができるであろう。大胆なビジョンなくては、これらの行動が正しいことも、緊急であることも理解されないだろう。逆に、行動なくては、このビジョンは、現実的であるとも実現可能性であるとも思われないことであろう。

 私たちは、核兵器のない世界を実現するという目標を立て、その目的の達成に求められる行動を精力的に起こすことを支持する。その際、上記のような措置をとることからまず始めなければならないのである。■

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《資料3》キッシンジャーらによる「核のない世界へ」第2論文(2008年1月15日、ウォール・ストリート・ジャーナル)

 NPOピースデポ機関誌「核兵器・核実験モニター」による全訳を転載する。

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 核兵器、核の知識、また核物質が加速して拡散した結果、私たちは今危うい核の崖っぷちに立たされている。歴史上発明された中で最悪の破壊兵器が、危険な者の手に落ちる現実の可能性に直面している。

 現在我々がこの脅威に対してとっている対処措置は適切ではない。核兵器が広く入手可能な現状においては、抑止はますます効果を失い、危険をますます増加させている。

 1年前、我々は、本紙のエッセイにおいて、核兵器への依存を減らし、潜在的に危険な者への手に渡ることを防止し、世界への脅威として究極的に核兵器を廃棄することを目指して世界的な努力をするよう呼びかけた。これらの問題に取り組むために昨年を通じて作り出された関心、勢い、そして政治的空間の増加は、特筆すべきものであり、世界中の人々から強い支持の反応を頂いた。

 07年1月、ミハイル・ゴルバチョフは、核兵器の実質削減をした最初の条約の署名者であった者として、我々の緊急行動の訴えを支持するのは自分の義務であると考える、と書いた。「核兵器はもはや安全保障を実現する手段ではないことが、ますます明らかになっている。事実、1年経つ毎に、核兵器は我々の安全保障を危ういものにしている。

 6月、英国の外務大臣マーガレット・ベケットは、次のように述べて英国政府の支持のシグナルを送った。「我々にはビジョン、すなわち核兵器のない世界のためのシナリオと、行動、すなわち核弾頭数の削減と安全保障政策における核兵器の役割の制限のための前進的措置の両方が必要である。これら2本のより糸は別々のものであるが相互に強化し合うものである。両方とも必要であるが、現在は極めて弱い」

 我々はまた、その他にも国務長官、国防長官、国家安全保障顧問などの経験豊富な米国の元高官から、このプロジェクトに対して一般的な支持表明を受けて勇気づけられてきた。その中には、マデレーン・オルブライト、リチャード・V・アレン、ジェイムス・A・ベイカー3世、サミュエル・R・バーガー、ズビグニェフ・ブレジンスキー、フランク・カールッチ、ウォレン・クリストファー、ウィリアム・コーエン、ローレンス・イーグルバーガー、メルビン・レアド、アンソニー・レイク、ロバート・マクファーレン、ロバート・マクナマラ、コリン・パーウェルなどがいる。

 この反応に鼓舞されて、2007年10月、我々は過去6代の政権の元高官に呼びかけて、他の多くの核問題専門家とともに、スタンフォード大学フーバー研究所で会議をもった。そこでは、核政策を考える指針として「核兵器のない世界」というビジョンが大切であること、核の危機から我々を引き離すような一連の措置が必要であること、について一般的な合意があった。

 世界の核弾頭の95%近くを保有する米国とロシアがリーダーシップを発揮すべき特別の責任と義務と経験を持っているが、他の国々も参加すべきである。

 現在進行している、長距離の、言い換えれば戦略的、爆撃機やミサイルに搭載される核弾頭数の削減など、すでに行われている措置もある。米国とロシアが2008年を起点として短期的にとることができる措置があれば、それ自身として、自ずと核の危機を劇的に減ずることができる。それには次のような措置が含まれる。

▼1991年の戦略兵器削減条約の重要条項を延長する!
 これらの条項の適用から、検証という決定的に重要な業務について多くを学んできた。条約は2009年12月5日に失効する。監視と検証という必須要件などこの条約の重要条項は延長されるべきであり、また、2002年の戦略攻撃力削減に関するモスクワ条約はできるだけ早期に完了すべきである。

▼すべての核弾道ミサイルの発射における警報・決定の時間を延長する措置をとり、偶発的あるいは無認可攻撃のリスクを軽減する!
 最高司令部が注意深く慎重な決定を下す時間の余裕を与えない発射手順は、今日の環境においては不必要かつ危険である。さらに、サイバー戦争の発展の結果、いずれかの核兵器国の指揮統制システムが、万一、愉快犯や敵ハッカーによって壊されたときに破滅的な結果を招くことになる。米ロ関係に信頼が増している現在、相互に合意され検証された物理的障壁を指揮統制の手順に導入することによって、早急に新しい対策を講じることが可能であろう。

▼冷戦時代から引きずって今も存在している大量攻撃のための作戦計画をすべて廃棄する!
 米国とロシアが対テロの同盟国であり、もはや相互に敵と見なさないと正式に宣言している今日の世界において、抑止のために相互確証破壊(MAD)が必要だと考えるのは時代遅れの政策である。

▼2002年のモスクワ首脳会談でブッシュ大統領とプーチン大統領が提案したように、協調的相互ミサイル防衛・早期警戒システムを開発するための交渉を開始する!
 これには中東からヨーロッパ、ロシア、米国に対するミサイルの脅威に対抗する計画に対する合意やモスクワに共同データ交換センターを設置する作業の完成などを含むべきである。ミサイル防衛を巡っての緊張を緩和することは、我々の安全保障にとって余りにも重要な、より広範な核問題について進展がもたらされる可能性を高めるであろう。これに失敗すると、広範囲の核協力ははるかに困難になるであろう。

▼テロリストが核爆弾を獲得することを阻止するために、世界中において核兵器および核物質に対する最高の保安基準を適用する作業を劇的に加速する!
 世界中の40カ国以上に核兵器材料が存在し、最近も東ヨーロッパとコーカサスで核物質を密輸しようとしたとされる事例が報告されている。米国、ロシアなどナン・ルーガー計画で活動してきた国々は、国際原子力機関(IAEA)と協力して、核の保安の改善に関する国連安保理決議154の履行を援助するのに中心的な役割を果たすべきである。核物質に対する適切で効果的な保安を定めたこの決議の義務を満たすよう、国と協力するチームを派遣することによって、この援助を行うことができる。アーノルド・シュワルツネッガー知事が我々の10月会議で述べたように、「人間の努力には誤りが付きものである。核兵器も例外であろうはずがない」。知事の発言を裏書きするように、2007年8月29日〜30日、核弾頭付きの巡航ミサイル6発が米空軍航空機に搭載され、我が国上空を横断飛行し、荷下ろしされた。36時間の間、誰も核弾頭の所在を知らず、行方不明であることすら分からなかった。

▼NATO内部、ロシアなどとの間で、核兵器の保安を高めるために、また正確な計量、さらには究極的な廃棄への第一歩として、前進配備用に設計された核兵器を統合するための対話を開始する!
 これらの比較的小型で持ち運びし易い核兵器は、その特質のために、テロリスト集団の獲得標的になりやすい。

▼先端技術の世界的な拡散への対抗手段として、核不拡散条約(NPT)遵守を監視する手段を強化する!
 この面での一層の進展が急を要しているが、IAEAによって作成された監視条項(追加議定書)をNPT署名国すべてに適用することを要求することによって達成できるであろう。

▼包括的核実験禁止条約(CTBT)を発効させるプロセスを採択する。これによってNPTは強化され、核活動の国際的監視が容易になる!
 このためには、第1に、CTBT違反の地下核爆発実験を検出し場所を特定する国際監視システムの過去10年にわたる改善を点検するために、第2に、米国の保有核兵器を、核実験禁止のもとで、その信頼性、安全性、および効果に高い信頼性を維持するという面における過去10年にわたる技術的進歩を評価するために、超党派の調査が必要である。CTBT機構は、核実験を検出するための新規の監視ステーションを設置しようとしている。米国はCTBT批准前においても緊急にこの努力を支援すべきである。

 米国とロシアによるこれらの措置と平行して、核保有国はもちろん非保有国も含んで対話は国際規模に広がらなければならない。

 中心課題の1つは、優先順位に関する国際的コンセンサスを構築するのに必要な政治意志を行使することによって、「核兵器のない世界」という目標を、国家間の実際的事業に転換することである。ノルウェー政府が、このプロセスに貢献するような会議を2月に主催する。

 もう1つの主題がある。それは、核燃料サイクルの危険性を管理する国際システムの開発である。核エネルギー開発への関心の増加と核濃縮能力が拡散する可能性の中で、核先進国と強化されたIAEAによって何らかの国際計画が創出されるべきである。その目的は、核燃料の信頼できる供給、濃縮ウランの備蓄、インフラストラクチャーの支援、金融、使用済み燃料の管理を提供すること、すなわち、核兵器の材料を作る手段が世界中に拡散しないことを確実にすることである。

 また、米国とロシアは、米ロ戦略攻撃力削減条約に記されている以上に核戦力の相当量の削減を行うことに合意すべきである。削減が進行すれば、他の核保有国も関与してくるであろう。

 「信頼せよ。しかし検証せよ」というレーガン大統領の格言を再確認すべきである。国家が兵器用核物質を生産することを防止する検証可能な条約を完成させることは、核物質の計量と保安のためのより厳密なシステムのために役立つであろう。

 我々は、また、合意違反を犯す国を抑止する、あるいは、必要なときには対応する、方法に関しても国際的な合意を形成しなければならない。

 我々の究極の目標を明瞭に述べることによって前進がより容易になるに違いない。実際、これこそが、今日の脅威に効果的に対処するのに必要な国際的信頼と広範な協力を構築する唯一の方法である。ゼロに向かうというビジョン無しには、我々の下降スパイラルを止めるのに必要不可欠な協力を得られないであろう。

 ある意味では、「核兵器のない世界」という目標は、極めて高い山の頂上に似ている。今日の困難な世界という立地点からみると、山の頂上は見ることさえできない。したがってここから頂上に行くのは不可能であると言いたくなるし、言うのは簡単である。しかし、山を下り続ける危険、あるいは現状を変えない危険は、余りにも現実的であり無視できない。山の頂上が見えるような、より高い地点への登山コースを描かなければならない。■

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