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INSIDER No.463《CRISIS》米国式金融資本主義の大崩壊──その先に何があるのか?

 サブプライム問題に端を発した米国式金融資本主義の大崩壊は止まるところを知らない有様で、米政府の金融安定化法(10月3日)、その不備を「国際協調」で補おうとするG7の「断固たる対応」声明(10日)、その限界を大手銀行への「一括資本注入」でしようとした米政府決定(14日)といった堤防が次々に決壊して、世界金融動乱はますます深刻化している。

 米国式金融資本主義が破産したのは疑いないとして、金融は、資本主義は、そして米国はこの先どうなるのかという議論が高まるのは当然である。

●社会主義には戻らないにしても

 野村ホールディングスの渡部賢一社長は、17日付毎日新聞の「米国型資本主義は終わったか?」と題したインタビューで、「投資銀行のビジネスモデルや米国型資本主義は終幕したと言われています」という問いに、こう答えている。

「マスコミが言っているだけだ。この4、5年、世界中で過剰流動性(金余り状態)が進行したことで、行き過ぎが生じた。異常なレバレッジ(元手が少ないのに巨額借り入れで過剰な投資をすること)はなくなると思うが投資銀行業務そのものはなくならない。ヘッジファンドも一定部分以上はあだ花だったが、適正なヘッジファンドは残る。正常に戻る過程が始まるのであり、マルクス、レーニンの計画経済になることはない」

 そりゃあ、いくら何でもマルクス、レーニンには戻るはずもないが、この人がまるで分かっていないのは、マルクスはもちろんレーニンも、単純な意味での計画経済など唱えたことはなく、旧ソ連型の計画経済とは、ロシア革命直後の内乱状態の下での非常事態がそのまま第1次大戦(ナチス・ドイツの対ソ侵攻)に対する戦時の危機管理体制に引き継がれていく中で、スターリンによって「これこそが社会主義だ」というように定式化されてしまった「戦時統制体制の不当な一般化」と呼ぶべき代物であって、ここで渡部が選ぶべき言葉があったとすれば「スターリン型の計画経済」である。しかし、計画経済はスターリンの専売特許ではなく、1930年の世界大恐慌に直面したルーズベルト米大統領が採用したケインズ型の政府による市場への介入もまた計画経済の一種であって、その意味でスターリンとケインズには同時代性があった。渡部は「スターリンの計画経済にもケインズの計画経済にもならない」と言いたかったのかどうか。もしそうなら、ルーズベルト由来のケインズ型の流れを断ち切って新自由主義モデルを導入したレーガン政権以来の米国の生き方が破綻した今、スターリン型があり得ないのは当たり前として、ケインズ型もないのかどうか。現にブッシュ政権がやっていることは、広い意味のケインズ型への逆流と言えないこともない。そう考えると、渡部の言い方は二重三重に不正確である。

 要は、政府の失敗と市場の失敗の競い合いという古くて新しい問題であって、今は市場が失敗した上に政府も失敗しつつあるという深刻な事態で、そこから抜け出すについて、政府と市場とどちらの失敗が少ない方に賭けるかという問題なのではないか。

 これに関連して、面白いのは、米誌ニューズウィーク10月8日号で中国の温家宝首相がインタビューで「中国の急激な経済成長の成功のカギは何か」の問いに答えて、次のように言っていることである。

「78年に導入した改革開放路線だ。われわれには重要な考えがあった。それは社会主義が市場経済を実践できるというものだ。マクロコントロールと規制の下、資源の分配で市場の基本的役割を十分に発揮させる。アダム・スミスは『国富論』で市場原理について書いているが、彼は社会の平等と正義についても書いている。そこでは、富を分配する政府の調整能力の重要性が強調されている。富の多くが一部に集中すれば、国家の調和と安定性が脅かされる」

 中国の首相からアダム・スミスについて講義を受けるというのも驚きである。確かにスミスは、1776年に書いた主著『国富論』では理論の基礎に「利己心」を据えたが、その17年前に書いたもう1つの主著『道徳感情論』では「利他心」とそれに基づく「同感の論理」を重視し、こう述べた。

「人間がどんなに利己的なものと想定されうるものにしても、自由で平等な利己的個人の平和的共存が権力の介入なしに可能なのは、同感の論理の存在ゆえである。利己心も同感の論理に支えられなければならない」

 利他心を失った利己心の暴走が権力の介入を招いたというのが今日の米国だろう。伊東光晴=京都大学名誉教授は、そのことに触れつつ、「21世紀は、利己心と利他心のバランスを欠いた覇権国アメリカの、崩壊の世紀になるかもしれません。……これに対して21世紀の少なくとも前半は、中国経済の成長発展の世紀となるでしょう。中国は……豊かな未知の資源に恵まれ、アメリカの数倍の可能性を秘めた市場を持っています」と指摘している(エコノミスト08年4月15日号)。

 私はINSIDERNo.429(08年2月14日)で「中国型の『社会主義市場経済』、すなわち一部は社会主義的に制御された市場経済というのは、これまでは『共産党一党独裁の下で市場経済を発展させることなど出来るはずがない』という幼稚な偏見に晒されていたけれども、もしかしたら米欧型の金融資本主義を超える、コントロールされた資本主義の別のモデルになるのではないか」と述べておいたが、北京指導部がまさにそのような問題意識に基づいて中国経済の運営を図ってきたのだとすれば、伊東の言うように、21世紀は中国の世紀となるのかもしれない。

●行き過ぎの是正で済むのかどうか

 さて、投資銀行業務そのものはなくならない、と渡部が言うのはその通りだろう。が、投資銀行業務はなくならないとしても、「ビジネスモデルとしての投資銀行」はすでに消滅した。米投資銀行(証券会社)第5位だったベア・スターンズは破綻して米商業銀行第2位のJPモルガン・チェースに買収され(3月)、第4位だったリーマン・ブラザーズも破綻して米国部門は英バークレイズ銀行に、欧州・中東・アジア各部門は野村ホールディングスに、分割・買収され(9月)、第3位だったメリル・リンチは米商業銀行第2位のバンク・オブ・アメリカに買収され(同)、生き残った第1位のゴールドマン・サックスと第2位のモルガン・スタンレーは銀行持ち株会社に移行し(同)、こうして投資銀行というものそのものがなくなってしまった。

 ということは、1933年グラス・スティーガル法(銀行法)に基づく商業銀行と証券の分離の75年間に及ぶ歴史が終わったということである。グラス・スティーガル法は、証券取引のような価格変動リスクが大きい業務を銀行が手がけていると、預金者保護の責務が果たせなくなる危険が大きいということで、銀行業務と証券業務の兼営を禁止し、また銀行が証券会社を系列下に置いたり、両者の役員を兼務することをも禁止したもので、日本の証券取引法65条の銀証分離もこれをモデルとしている。これは、銀行に節度を保たせるという点では大いに効果があったが、逆に証券側は節度を失って、その本来の業務から次第に乖離して、もっと大きいリスクを賭けて一か八かの巨莫利益を求める「投資銀行」へと発展を遂げることになった。

 証券会社らしい業務とは、(1)投資家からの委託を受けて証券を売買して手数料を受け取るブローカー業務、(2)自己資金でポジションを組んで公共債などを売買するディーリング、(3)企業が株式や債券を発行する際にそれを支援し、一旦引き受けた上で投資家への販売を行うアンダーライティング業務などである。

 それに対して投資銀行が扱うのは、(4)企業の合併・買収の仲介と助言で手数料を得るM&Aはまだしも、(5)これから買収しようとする相手先の資産やキャッシュフローを勝手に担保に入れて買収資金を調達し、買収が成功した暁にはその企業の資産を売却したり、キャッシュフローを流用したりして返済をしていくという、企業強奪に等しいLBO(レバレッジド・バイアウト)、(6)株式や債券では気が済まずに、不動産、通貨、原油、商品などありとあらゆる投機市場でのプリンシパル(自らが投資主体となった)ビジネス、さらには(7)金融技術を駆使して複数のリスクを組み合わせて新しい金融商品を組成して、それを小口に分けて売り飛ばす「証券化」、(8)その証券化の怪しい部分をカバーするための装置としてのヘッジファンドやモノラインや格付け会社の育成・提携・貸出や、あるいは本体では扱えないリスキーな投資を簿外で行うためのSIV(仕組み投資会社)の設立などによる裏での荒稼ぎ——などで、これらを通じて投資銀行は、ハイ・レバレッジ、ということはそれだけハイ・リスク&ハイ・リターンの金が金を生む資本主義のカジノ化を主導することになった。

 この投資銀行全盛を見て商業銀行側が嫉妬したのは当然で、99年のグラム・リーチ・ブライリー法(金融制度改革法)によって銀行の証券業務はじめ投資銀行業務への進出が認められることになった。この境界溶融によって金融バブルは米欧のすべての金融機関を巻き込んでさらなる膨張を遂げ、今日の危機を招いたのである。

 倉都康行=RPテック代表取締役はこう指摘する(エコノミスト08年9月30日号)。「商業銀行は特にバブルが発生しなくても、融資という利ざやのストックで生計を立てる余裕がある。一方で投資銀行は、バブルを作り続けないと人件費やシステム費用など巨額に膨れあがったコストを賄えない。現代の投資銀行は、何らかのバブルが発生していないと経営が揺らぐという、危険な土壌にそびえ立つ摩天楼なのだ。投資銀行の役割や性格を考えれば、彼らが簡単に衰退するはずもないと考える人は少なくないだろう。ただし、世の中に永久機関が存在しないように、バブルを作り出しながら生き延びる戦略は、永続しないビジネスモデルである」

 確かに、商業銀行は余裕があるので投資銀行を買収したのだし、ゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーは銀行持ち株会社に移行することで余裕を作り出そうとしたのだろう。そのようにして投資銀行業務は銀行の一部門として生き残るに違いないが、倉都の言う「バブル的経営」は、今後予想される厳しい法的規制という面からも、投資家に見向きもされなくなるという面からも、国民の怨嗟に満ちた監視の目から逃れられないという面からも、存続不可能で、だとすると次には一体何を目指すのか。そこが明確でないまま単に銀行の中に身を潜めても、逆に銀行そのものを内部から浸食して一層深刻な金融危機を準備するだけに終わることにもなりかねない。なぜなら、商業銀行はすでに99年以降、投資銀行の道を追いかけていて、今年前半の統計を見ると、株式・債券の引き受けやABS(資産担保証券)の引き受けでは投資銀行を上回り、また新規公開株式発行やM&A助言の業務でもそれと同等の地位を占めていて、新たに投資銀行を抱え込まずとも、とうの昔に投資銀行化しているからである。

 御立尚資=ボストン・コンサルティング日本代表は日本経済新聞10月17日付「経済教室」欄で「投資銀行は“原点回帰”へ」と論じ、こう言っている。「[投資銀行は]商業銀行の3〜4倍のレバレッジ(てこ)をかけ、実体経済と距離を置き、自らリスクを取るビジネスに傾斜していった。……投資銀行業務を取り込んだ商業銀行、すなわちユニバーサルバンクは、行き過ぎたレバレッジを調整する中で、当面、より実体経済に近い業務に注力することになろう。一種の揺り戻し、原点回帰だ」と。

●市場が解決できない価値

 しかし、事は「レバレッジの調整」程度で済む話なのか。投資銀行の実体経済からの乖離というのは現象論で、その裏に潜むのは、実体論次元では、71年にニクソン政権が断行したドルと金の交換停止による金の裏付けのないドルの大量印刷とそれ故の80年代以降の過剰流動性を背景に、為替が貿易とは無関係に投機資金によって左右されることになってしまった金融の実生活に対する反作用であり、より本質論次元で言えば、つまりは財と貨幣の乖離である。

 思想面で言えば、この過剰流動性の暴走による不安定化を肯定し合理化さえして扇動したのは、ミルトン・フリードマンらシカゴ学派の「新自由主義」イデオロギーである。佐伯啓思=京都大学大学院教授は「米国的資本主義が破綻する理由」という一稿でこう述べている(エコノミスト08年9月9日号)。

「“新自由主義”もしくは、今日の米国経済学の誤りは、市場経済をあたかも抽象的に組み立てられた普遍的体型とみなしてしまう点にある。市場競争原理は普遍的なものだから、どこにいても通用する、とみなされている。あらゆるものを商品化し、市場化することで、効率性は向上するとみなしている。この考え方の決定的な誤りは、“市場経済”を“社会”から切り離してしまう点にある。“社会”とは、そこで人々が交わり、生活を行い、一定の価値観を涵養する場所であり、さまざまな活動の土台を与えるものである。1人の人間が一人前の経済人になるのは、それなりの教育、文化(真津メディアや情報なども含めて)、家族、組織、そして医療や福祉などによる“支え”が必要なのである。“社会”はそれを提供する。……[しかし]過剰な市場競争は“社会”を破壊しかねない。そして、その結果として、逆に市場経済そのものがきわめて不安定化するわけである」

 してみると、投資銀行(業務を抱え込んだ商業銀行)が実体経済寄りにシフトするなどと言っても、金融が実体経済を傷つけてしまうようなこれまでの構造を変革する論理と筋道を見付けられない限りは絵空事に過ぎず、しかも、その論理と筋道を見付けるための出発点は、市場原理で解決可能な部門と、佐伯の言う“社会”すなわち市場原理が通用しない部門とを峻別するところに置かれなければならないだろう。古くは経済人類学の創始者とされるカール・ポランニーが『経済と文明』(ちくま学芸文庫)などで提起したように、非市場社会では「経済が社会に埋め込まれている」のであって、それを市場社会の論理で扱うことは出来ない。大きな三角形のてっぺんに、貨幣をも商品にする金融市場があり、その下に貨幣以外のすべてを商品とする私的企業社会があり、その下に政府・公的部門があって様々のインフラを提供しており、そこまでがGDPとして貨幣的にカウントできる世界である。しかし、その下により広大な、必ずしも貨幣にだけ置き換える訳にはいかない人々の生活コミュニティがあり、さらにその下には自然の資源というものがある。

 金融経済は企業経済を前提にしなければ成り立たないのはもちろんのこと、さらにその下の公共部門や地域の実生活や自然の資源の恩恵を被ることなしには存続することすら出来ず、だからこそ金融機関や企業も社会の一員として、公共を支えコミュニティに貢献し自然を保護しなければならない。ところが新自由主義は、それらを無視し、あるいは平気で傷つけながら、すべては市場を通じて解決できると思い込む傲慢に陥った。この馬鹿げた事態が爆発しなければならなかったのは必然で、しからばいかなる価値を定立するのかが今問われていることである。▲

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