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INSIDER No.441《SENGOSHI》私たちの若かった頃──森詠『黒の機関』文庫版への解説

 作家として活躍する森詠は、私より3つ年長で、私たちがまだ若かった30年余り前には週刊誌のライターをしていて、一緒に仕事をした。彼のその当時の初期作品で、戦後史の闇の部分に迫ったドキュメンタリー『黒の機関』がこのほど祥伝社から文庫として復刻されることになり、その解説を書いた。当時の時代の空気が多少は伝わるかもしれないのと、ジャーナリズム論に触れる部分もあるので、ここに再録して参考に供したい。

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 「ロッキード事件」と言っても、今の若い読者には何の感慨も湧かないだろう。3分の1世紀前のことで、歴史として教えられるには新しすぎるし、事件として知るには古すぎて、どうにも中途半端である。しかし、当時30代そこそこの、目をギラギラさせて取材に走り回るばかりの若手フリーライターだった森詠や私にとっては、その事件は、まさに青天の霹靂という古くさい表現でしか言い表しようのないほどの衝撃だった。喩えられるものがあるとすれば、9・11同時多発テロ事件かもしれない。あのWTCビルが崩落する映像をテレビで見て、それがハリウッドの劇映画ではなくリアルタイムの中継画像なのだと知って、脳天をブチ割られたかの衝撃を受けて、この出来事をいったいどう受け止めればいいのか、頭が回り始めるのに数日間を要するという体験を誰もがしたと思うが、それに匹敵するほどの、日本の政財官界を震撼させた一大疑獄事件がロッキード事件だったのである。

 発端は、米上院外交委員会の多国籍企業小委員会で1976年2月4日から開かれた公聴会である。この席上、米航空・軍需企業大手のロッキード社が、自社製の旅客機トライスターを売り込むため欧州諸国と日本の政府高官に計48億円の賄賂をばらまいたこと、そのうち日本に回ったのは23億円で、表では全日空や輸入代理店の丸紅のトップ経営陣、裏では右翼の大物というより戦後闇世界の帝王だった児玉誉士夫や「政商」と呼ばれるきわどいビジネスで新興財閥=国際興業を築き上げた小佐野賢治を通じて、田中角栄首相はじめ政界に大がかりな賄賂工作を行ったことなどが明らかにされた。日本中が雷に打たれたような騒ぎとなり、それから半年以上、いや一年近くだったろうか、新聞・雑誌・テレビはこの問題の追及で埋め尽くされ、「総理大臣の犯罪」「田中・ニクソン会談で密約」「CIAの陰謀」「地下帝国の攻防」といったおどろおどろしい見出しが連日のように飛び交った。その騒然たる雰囲気の中で、同年七月には田中角栄が受託収賄罪・外国為替管理法違反の容疑で逮捕され、それに前後して収賄側では佐藤孝行運輸政務次官、橋本登美三郎運輸大臣、田中の秘書と運転手、贈賄側では全日空の若狭得治社長、丸紅の檜山広会長はじめ両社の幹部・社員、それに児玉、小佐野らが次々に逮捕・起訴されていった(肩書きはいずれも賄賂工作当時)。

 当時、新聞などは事件そのものの追跡と解明に忙しかったが、週刊誌をはじめ雑誌ジャーナリズムは、それまでは口に出すのもはばかられるようなタブー中のタブーだった「児玉誉士夫」の名前が突如として“解禁”された事態を受けて、弾かれたように、戦前・戦中の上海「児玉機関」の暗躍、アヘン密売を含むその莫大な資金と物資の隠匿、それを原資とした戦後保守政界へのフィクサーとしての影響力、東京裁判で戦犯容疑者とされながらなぜか岸信介(元商工大臣、後に首相)、笹川良一(元国粋大衆党党首、後に日本船舶振興会会長)らと共に釈放され、その直後から米CIAから接触を受けた経緯などを書きまくった。それを通じて、日本の「戦前」と「戦後」は実は地下帝国を通じて繋がっていて、それがそうなったについては、GHQが「日本民主化」を建前としながらも次の米ソ対決時代を予想しつつ日本を「反共の砦」に仕立て上げるべく、旧陸海軍の軍人、軍の周辺にあった児玉機関を含む特殊工作機関や大陸浪人、右翼などを密かに温存し結集を図っていた事情があることが浮き彫りになってきた。

 森詠は当時、『週刊ポスト』を主な拠点にした気鋭のライターで、そのようなロッキード事件をめぐる調査報道の第一線を担った一人だった。その日夜を分かたぬ取材・執筆活動の中からエッセンスを抽出したのが本書で、ロッキード状況が生んだ傑作ドキュメンタリーの一つとして今も読み応えのある力作である。

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 当時の私自身はと言えば、フリーライターになって間もない頃だった。大学を出て最初に入った左翼系国際通信社は路線をめぐる対立から3年半ほどで追い出され、しばらくは知人の経営する広告制作会社でコピーライターのようなことをしながら、同時に通信社を追われてフリーの政治評論家をしていた師匠の山川暁夫の事務所に通って内外情勢の議論に加わったりしていた。75年夏のある日、その師匠が「ニュースレターを発行しようと思う。手伝ってくれるか」と言う。私は二つ返事で引き受けて、翌日広告会社に辞表を出して、食うあてもないフリーの世界に飛び込み、失業保険を貰いながら「インサイダー」という誌名となるそのニュースレターの刊行準備に取り組んだ。森詠とは、たぶん山川事務所の勉強会に出入りしていたたくさんのマスコミ記者や週刊誌編集者やフリーライターの一人として知り合ったのではないかと思うが、その彼から同じ七五年夏に「実は戦後史の闇の部分に光を当てる本を書きたい。取材チームを作るので参加しないか」と誘いかけられて、これまた一も二もなく賛同した。何しろ私は、本書でも言及されている松本清張の『日本の黒い霧』や『深層海流』を高校生の頃に読んで「世の中にはこんな知られざる裏面があるんだ!」と興奮して、後になって振り返ればそれがジャーナリストの道を選ぶことになる原点ではなかったかと思えるほどだったから、「戦後史の闇」と聞いて武者震いさえ覚えたのだった。

 ほどなく森から紹介されたのが、彼の週刊誌ライター仲間の加納弘明と西城鉄男、それに学陽書房の編集者の江波戸哲夫だった。江波戸は、今では作家として活躍しているが、その当時は、一流大学から一流銀行に入ったものの飽きたらずにわずか数年で出版界に転身し、法律や判例全集などが売り物のその地味な出版社に新たにノンフィクション部門を創立しようと意欲に燃えていた。その新部門の第一弾が我々の戦後史ものとなるはずだったから、出版社と編集者の力の入れようも尋常でなく、我々のために新宿の裏町に小さなアパートを借りてくれた。私より3歳上の森がリーダー格で、私、少し若い他の2人を含めて皆で分担して資料を掘り出してきたり、生き証人を探し出してインタビューしたりしながら、暇さえあればその小部屋に集まって議論を交わした。本書の第二章「幻のKATO機関」の冒頭部分で「私がこの得体の知れぬ名称にぶつかったのは、ある週刊誌でロッキード疑獄を取材している最中であった。取材に協力してくれた高野孟君が持ってきた資料に、たまたま出てきたのである」と、私の名が出てくる背景には、実はそういう「チーム森」のロッキード事件勃発の前から始まっていた共同取材プロジェクトがあったのである。

 資料集めには神田の古書店街と世田谷区松原の「大宅文庫」が役立った。今のように検索システムなどない時代だから、足を棒にして何十軒もの古書店を歩き回って埃だらけの雑本の山の中から戦後秘録ものを見付けてきたり、あまりしょっちゅう顔を出すものだから書店主が興味を持って「どういうものを探しているの?」と声をかけてくれたりしたものだった。大宅文庫は戦後日本を代表する大評論家=大宅壮一ゆかりの雑誌図書館で、月刊誌・週刊誌はもちろん、戦後直後の怪しいエロ・グロ雑誌の類まで所蔵していて、昔懐かしい木箱にきちんと分類された小型の図書カードを繰って、ある人物についての過去の記事を拾ってドサッと重い綴じ込みを出して貰っては閲覧し、必要な部分を1枚いくらだったか有料でコピーして貰う。人物についても事件についても、何か取材を始めるときにはまずは大宅文庫に行って、過去の記事のコピーをしっかりファイルするというのが、今はどうか知らないが、その頃は記者や編集者の誰もがやっている基本中の基本だった。

 で、面白いことに、76年2月、ロッキード事件が噴火する直前の1月末から、私はその「チーム森」の作業の一環として、毎日のように大宅文庫に通って朝から晩まで、戦後史の闇に関わる記事を渉猟していた。事件を新聞が全紙面を使うくらいの勢いで一斉に報じたその朝も、私は電車の中で頭がクラクラするのを堪えて食い入るようにいくつかの新聞の紙面を読みながら朝9時の開館に合わせて同文庫に行き、前日から読み始めていた暴露雑誌『真相』の綴じ込みを借り出して、後でコピーを頼む個所に付箋を挟みながらページをめくっていた。すると、共同通信やNHKをはじめ報道各社の記者が黒塗りのハイヤーで次々に乗り付けてきて、カウンターで「児玉誉士夫だ!」「『真相』は?」などと叫んでいる。奥の閲覧室で私はいささかの優越感にひたりながら「今頃来ても遅いぜ」などとつぶやきながら、わざとゆっくり目に夕方までたっぷり時間を使ってその綴じ込みを繰ったのだった。

 本書の中にも触れられている『真相』という雑誌は、敗戦直後の1946年から独立を跨いで56年まで発行され一世を風靡した反骨精神むき出しの事件雑誌で、一体どういう人たちが書いていたのか、たぶんマスコミの事件記者で自分のところの気取ったメディアでは飽き足らないという人たちや、左翼崩れのやや怪しいブラック・ジャーナリストまがいの人たちなどがいろいろ渦巻いていたのだと推測されるが、占領権力とそれにまつわりつく連中の信じられないような所業、一般メディアには到底出て来ない底をえぐるような事件の内幕、正面切った天皇制批判とかを、ザラ紙の粗末な誌面に叩きつけるようにして書いていた。中にはちょっと首をかしげたくなるようなものや、急に歯切れが悪くなって「何か圧力がかかったのかな」と思わせるようなものもないではなかったが、まあとにかく荒々しい時代を突っ切っていくような元気さに溢れていた(後に三一書房から全巻復刻版が出た)。これまた本書で言及されている板垣進助という戯名による『この自由党!』という本も、そういう戦後初期の元気のいい暴露ジャーナリズムの流れに立つもので、我々にはバイブルのように扱われた一冊だった。その流れはやがて1950年代後半から次々と創刊された週刊誌に引き継がれて行って、森や私やもう少し下の全共闘世代がドッと週刊誌ジャーナリズムの世界になだれ込んだ70年代にもその気風はまだ残っていた。

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 さて、「インサイダー」は、山川編集長が大半の記事を書きまくり、補佐役の私が雑記事の執筆からレイアウト、印刷屋とのやりとり、発送、事務、営業まで何でも担当し、森詠を含む周辺のジャーナリストたちが同人となって情報面から協力してくれるという格好で75年11月に創刊された。始まってすぐ、年が明けて2月初めにロッキード事件が起きて「インサイダー」はたちまち有卦に入った。事件そのものの瑣末なディテールよりも、田中角栄という劇薬的な存在を利用するだけ利用してまずくなったら切り捨てようとする日本エスタブリッシュメントの思惑とそれをめぐる権力内部の確執、GHQ以来の戦後支配構造を織りなす表と裏の人脈の絡み合い、ポスト・ベトナムの世界に適合しようとする米国の戦略転換と多国籍企業の国際犯罪摘発の関わり……といったことについて大胆な仮説に基づいて壮大な見取り図を描いてみせるのは、山川インサイダーの最も得意とするところで、時折はチャートなども交えたその鋭利な解析は、毎号のように話題になり、マスコミ関係者や国会議員などにそこそこ読者や支援者が増えていった。米国大使館とソ連大使館が購読申し込みをしてきたのにはいささか驚いた。

 当時は赤坂にあったインサイダー事務所の6畳間には、夜な夜な、マスコミのロッキード取材班のキャップ級や主だった週刊誌の編集者、フリーライター、時には海外メディアの在日特派員までが集まって来て、会社やジャンルの壁を超えて直近の取材結果を報告し合って分析を競い合い、我々はその議論を「インサイダー」の記事に反映し、他の記者たちもそれぞれなりにヒントを掴んで自分の次の取材企画の展開に役立てるという、熱気に満ちたサイクルが途絶えることがなかった。同じ新聞社でも、政治部と経済部と社会部それぞれのロッキード班は必ずしも意思疎通が出来ていなくて、うちの事務所でたまたま顔を合わせた同じ社の別の部のロッキード担当同士が「お前のところはそこを狙ってたのか。じゃあ俺の持っているこの資料をそっちに回すよ」といった会話を交わしたりすることもあった。私の知る限り、日本のジャーナリズム界が社や部の壁を外し、新聞と週刊誌の区別やマスコミ記者とフリーランスの差別をも超えて、一大共同戦線を築いたのは空前絶後のことで、それほどまでにすべての記者たちに高揚感と連帯感をもたらしたのがこの事件だったということだろう。

 そういう渦の目は「インサイダー」に限らずあちこちにたくさん生まれていて、PARC(アジア太平洋資料センター)もその1つだった。武藤一羊が主宰し吉川勇一、鶴見良行といったべ平連系の知識人が集うそこにもたくさんの記者たちが寄って、その中で吉岡忍(ノンフィクション作家)や私の愚弟=津村喬(文芸評論家)ら全共闘世代が『週刊ピーナツ』を刊行してマスコミの話題となった。ピーナツとは、ロッキード事件の贈賄側が賄賂を億単位で数えるときに使った隠語で、そのとき流行語となっていた。この週刊ピーナツに森詠や私や山川も協力した。田原総一朗もよくPARCやインサイダーに来ていて、そこから有名になった論文「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」(『中央公論』76年7月号)も生まれた。

 こういう騒然たる雰囲気の中で「チーム森」の作業はなおさら拍車がかかった。その間、森詠は週刊誌のロッキード取材の仕事に忙殺されてやや手を引いた形となり、私と加納の共著の形で成果をまとめ『内幕』というタイトルで学陽書房から76年秋に出版した。マッカーサー資金の符牒だとされた謎の巨大闇融資基金「M資金」伝説、本書の中心テーマであるGHQによる日本再軍備の陰謀、石炭から石油への米政府と石油メジャーズによる対日エネルギー支配などを取り上げたその本は、私や加納にとってもちろん初めての単行本であり、懐かしくも誇らしい一冊である。そして、本来ならこの本の共著者として名を連ねるはずだった森詠はそういう事情で執筆に参加できなかったので、「チーム森」の資料をベースにさらに独自の徹底取材を続け、翌77年に本書を出版したのである。そういう意味では、私らの『内幕』と本書とは兄弟関係にある。

 ちなみに、『内幕』の執筆に取りかかっていた76年の夏、田原総一朗が東京12チャンネルのTVディレクターを辞めて活字世界で大型ドキュメンタリーの企画を進めて行くこ腹を固め、「取材を助けてくれるチームを作りたい」という相談があった。食うや食わずというと少し大げさだが、当時はたくさんあった『現代の眼』『月刊日本』『情況』など“総会屋雑誌”と呼ばれたマイナー月刊誌に原稿を書きながらボランティアで「インサイダー」の仕事をする生活に追われていた私は、このときもまた二つ返事で引き受けて、早速、森詠が不在の「チーム森」の残り2人と語らって、3人で第一期「田原総一朗取材班」を結成した。「チーム森」が「チーム田原」に移行したわけである。雑誌の世界では、その2年前に立花隆が「田中角栄研究」を、児玉隆也が「淋しき越山会の女王」を『文芸春秋』に書いて田中角栄首相を退陣に追い込んだことがきっかけとなって、「ニュー・ジャーナリズム」ブームが起きていて、物書きに転じた田原は週刊誌や月刊誌で1カ月も2カ月も取材して百枚程度の原稿をまとめる大型企画を次々に展開した。文芸春秋社の2階には立花(隆)部屋、上之郷(利昭)部屋と並んで田原部屋が出来て、我々3人は取材に散っては深夜に戻ってデータ原稿を作ったり資料を整理して、そのまま文春の仮眠室に倒れ込むといういった生活が続いた。「チーム田原」は3年間ほどフルに稼働して初期の田原を支えた。他方、森は、その旺盛な取材力を活かして冒険小説や国際情報小説を書いて作家として活躍するようになった。

 余計なエピソードを1つ付け加えれば、そのように別の道を進むようになっても森と私とは新宿ゴールデン街の店でよく飲んだ。そこはライターや編集者ばかりが集まる店で、83年のある夜、森詠が酔った勢いで「ラグビーチームを作ろうよ」と言い出した。居合わせた中には、大学ラグビー部出身の週刊誌編集者がいたし、私も無類のラグビー好きで、ラグビー部ではないが高校時代に遊びでクラス対抗の試合に出たりしていたので、口を揃えて「いやあ、森ちゃん、ラグビーだけは止めたほうがいい。こんな酔っぱらいばかり集まっても、首の骨を折って死ぬのが関の山だよ」と諫めたのだが、彼は聞かない。彼が仲間入りしたばかりの冒険作家協会の面々はそれぞれに野球チームなどを組織していてお互いに試合をしたりしているが、その後追いをしてもたいして面白くもない、ラグビーなら「えっ、ラグビー始めたの?」とかなり驚かれるだろうという魂胆だったのだろう。結局、そのチームは本当に出来て、米国人がアル中になると桃色の象が歩き回る幻覚を見るという話から「ピンクエレファンツ」、日本名は桃象闘球団というチーム名となった。言い出しっぺの森が団長、ラグビー部出身の編集者が初代キャプテンで、最初のうちはどこと試合をしてもボロ負けだったが、翌年、私が2代目キャプテンになった頃からは少しは勝つようになって、その後、私が2代目団長を引き受けて今日に至っている。08年春に創立25周年を迎えた今では「日本ラグビー界の最底辺を支える名門草ラグビーチーム」と呼ばれている。

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 本書は、一種の謎解きゲームになっていて、ここで改めて筋書きを追って個々の部分に注釈を加えるという解説の仕方は不適当だろう。ただ、特に本書の後半部分で扱われる衣笠丸事件をはじめ一連の旧軍人・特務によるスパイ船事件(言っておくがスパイ船は北朝鮮の専売特許ではなく、日本のほうが先輩ということになる)の真相解明にこれほどこだわるのかは、若い読者にはただちに胸に落ちないかもしれないという懸念が残る。そこで何より大事なのは、本書がどういう時代の躍動的な気分の中から生まれたのかを理解して頂くことであり、森詠と私の関わりを個人的なことまで含めていささか長々と述べたのもそのためである。当時のロッキード状況の中で、書き手の誰もが戦後史の闇にどう切り込んでいくか、その切り込みの角度と深さを競い合っていた。森詠は本書で、この角度と深さで戦後史を撃ったのであり、それが少なくともその角度では、松本清張や大宅壮一を超えることになったのかどうかは、読者の判断にお任せしよう。

 あるいはまた一部の読者は、今はもうほとんど故人となっているであろう旧軍人・特務・右翼らの名前がズラズラと出てくることを煩雑に感じるかもしれない。が。ある事件を取り上げるというときに、まず全当事者・関係者のリストを作って、そのそれぞれの経歴を調べ上げ、それからお互いの関係の濃淡やある組織との関わりの深い浅いを見極め、さらに可能な限り生存者を捜し出して接触し説得し取材して証言を得、既存資料の間違いや思い込みを補正し、そのようにして本書に挿入されているような「人脈図」を正確に描き上げていくことこそ、ジャーナリストの仕事の本道であり、取材のプロセスそのものなのである。近頃は、大新聞の記者でも当事者に取材しないまま書き飛ばすという腐敗堕落が横行しているが、そういう連中には本書は「取材とは何か」を学ぶための教科書ともなるはずである。読者にはその人名リストと人脈図も謎解きゲームの一部として楽しんで頂きたい。

 少し一般化して言うと、人脈研究というのは実体論的ジャーナリズムの重要な手法の一つである。私は84年に出した『世界関連地図の読み方』(PHP刊)のあとがきで次のように書いたことがある。「既存の枠組みに頼って、それに都合のいい現象だけを拾ってちりばめるといったやり方が、もはや何の役にも立たないことが自明である以上、われわれは現実そのものから出発し直すしかない。しかし、その現実というのは、諸現象を果てしもなく横並びに並べ立てたからといって、必ず見えてくるというものではない。諸現象を突き動かしているいくつもの実体的なファクターを析出し、それらの相互関連や優先順位を検討し、目に見えないベクトルや構造にまで想像力を差しのべていく作業が、どうしても必要である。それが、インフォーメーションをインテリジェンスに昇華させるということでもある」

「とはいえ、われわれジャーナリストがやれるのはせいぜいそこまでであって、その先のもっと抽象的なレベルで理論的な体系を編み上げていくのは、むしろアカデミシャンの仕事となるはずである。知の世界に対してジャーナリストが貢献できることがあるとすれば、それは命知らずの斥候兵の役割を引き受けることだと、私はつねづね思っている」

「20年前[今だと40年以上前になる]、ほとんど勉強しない哲学科の学生だった私が、今でも忘れないでいる数少ない言説の1つに《武谷3段階論》がある。従来の認識論の教科書が、現象から本質へ向かう人間の知の発展を説いていたのに対して、物理学の泰斗=武谷三男博士は、現象と本質の中間に実体(サブスタンス)の領域を設定することを提唱した。その学問的意義はさておくとして、我々の関心に引きつけて言えば、ジャーナリズムは、現象について饒舌に語りはするものの、それ以上には進もうとはせず、かたやアカデミズムは、古びた理論をいじくりまわすばかりで、現実のダイナミズムにほとんど関心を払っていないかのようであり、その中間の実体論の領域は、広大な荒野のまま、どちらの側からも踏み込まれずに残されている。『世の中がわからなくなった』『先が読めない時代になった』と誰もが口にするのは、じつはそういうことだったのではあるまいか」

「ニュー・ジャーナリズムの何がニューであるのかについて、人によって定義はさまざまだが、私の意見では、それは実体論的ジャーナリズムのことである。ある者は、徹底的に足で歩いて取材をして、人の知らない事実のディテールまでえぐり出して描き上げるのがニュー・ジャーナリズムだと主張するが、それなら伝統的なルポルタージュの手法と、そう質的に変わりはない。私はむしろ、ほとんどは人に知られている事実から出発して、まだ多くの人が見えていないある事柄なり問題なりの実体=構造を解明していくところに、ニュー・ジャーナリズムのニューたるゆえんがあると考えている……」

 現象の面白おかしさだけを求めるのはマスコミではあってもジャーナリズムではない。逆にひからびた理論的モデルやイデオロギーに現象をはめ込むだけでは知の世界は一向に深まることがない。例えばロッキード事件という現象が突発したときに、「ほらみろ、だから自民党政治は薄汚い」と断罪して分かったような気になるというのは、一種の退廃である。現象論の次元をさまようのでもなく、かといって本質論の次元に逃げ込んで事たれりとするのでもなく、あくまでも執拗に実体論の領域にとどまろうとする節度と覚悟がジャーナリストにとって大事なのである。立花隆が『田中角栄研究』を書いたあと、幾人もの大新聞の記者や総会屋ふうの情報屋から「あんなことはオレは前から知っていた」とか「あの部分はウチの資料を使っている」とかいった批評を聞いた。その度に私が説明したのは、誰かが知っていたり、すでに活字にしたりしていたことも含めて、既存の材料のすべてを集めるだけ集めるところから出発して、そこから問題点を整理して作業仮説を立て、足を使い知力を尽くして、田中の人脈と金脈の見えない実体=構造をあぶりだしていったからこそ、つまり実体論的な立場と方法を貫いたからこそ、その仕事が一国の総理を追い落とすだけの迫力を持ち得たのだ、ということだった。

 森詠の作家としての活躍は多彩で、冒険小説、近未来戦争シミュレーション小説から警察小説、自伝的少年小説まで表現のスタイルと扱う分野はさまざまだが、その根底には、週刊誌ジャーナリズムの第一線で培った執拗なまでの取材力の展開、そして徹底して取材をした者にだけ許される大胆な想像力の発露があると私は思っている。私はよく若いジャーナリスト志望者に「想像力には足がある、空想力には足がない」と言っている。空想力だけでも小説は書けないわけではないらしく、しかしそういうものはたいてい途中で投げ出したくなる。森詠の作品には本物の想像力が満ちている。そういう森詠の出立点を示しているのが本書であるとも言える。(文中敬称略)

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コメント (1)

はじめまして。森詠氏の「黒の機関」最近拝読いたしました。内容について切実に問いたい事柄ありまして、森氏へコンタクトを希望するのですが、どのように可能でしょうか?千葉在住50歳♂。

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