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2008年2月19日

INSIDER No.430《KOSOVO ARCHIVE》コソボはイスラエルにならないか?──米欧の過剰介入がもたらした悲劇

 旧ユーゴスラビア連邦の一角にあるセルビア共和国のそのまた一角にあるコソボ自治州が17日、「独立宣言」を発したが、これは悲劇の終幕にはほど遠く、むしろ新たな長く続く悲劇の開幕となる公算が大きい。

 コソボのケースは、旧ユーゴ連邦の各共和国が順次独立を果たしてきたのとは違って、セルビア共和国の固有の領土の一部を、当のセルビアとその後見役であるロシアが反対しているにも関わらず、米欧が外から手を突っ込んで無理矢理奪い取るようにしてアルバニア系住民に独立を与え、EUの保護下で何とか国家形成に向かわせようとするもので、1000年もの歴史を持つセルビア人とアルバニア人の対立を解消するには何の役にも立たず、かえってセルビア人側の深い恨みを沈潜させやがてどこかで爆発させるだけのことになるだろう。英米がユダヤ人問題の処理に困って、パレスチナ人の意向をろくに確かめもせずにイスラエル国家を人工的に作ったことが、その後60年以上に及ぶ血腥い抗争の原因となったことを想起すべきだろう。もちろんコソボ問題とパレスチナ問題は性格が違うけれども、コソボがセルビア人にとってセルビア正教の整地であり、セルビア国家の建国の地であるという点ではエルサレムが抱える解決不能の問題と似ているところがあり、そのことを無視した安易な方策の押しつけは禍根を残すことになる。

 しかもこの方式の採用は、国際社会が各所で抱える「分離・独立」問題に複雑な波紋を及ぼし、民族・宗教の違いや歴史的経緯を含んだ紛争を激化させる危険も孕んでいる。コソボ独立は、旧ユーゴから91年に独立したマケドニア共和国の人口の25%を占めるアルバニア系を勢いづけるかもしれず、それに対抗して主流のマケドニア人が民族意識を強めると、ブルガリアやギリシャのマケドニア人問題に再び火が着く危険もある。また地中海に浮かぶキプロス島では、1974年以来、南部のギリシャ系住民を中心とする「キプロス共和国」と北部のトルコ系による「北キプロス・トルコ共和国」の対立が続いており、コソボ独立を見て北キプロスが分離・独立の動きを強めるかもしれない。折しも17日に始まったキプロス共和国の大統領選では、北キプロスとの対話を通じての統合に熱心でない現職と、積極対話を主張する野党の2候補が混戦を続けていて、その行方次第ではキプロス問題の膠着が解けて事態が流動化するだろう。ルーマニア北部=トランシルバニア地方のハンガリー系住民の問題、スペインのバスク問題など、欧州が抱える民族問題、その中の過激な独立派の存在は常に紛争の種である。

 ロシアがコソボ独立に反対するのは当然で、同国自体がチェチェン共和国はじめ分離・独立の武装闘争に手を焼いている。が、ロシアの態度は複雑で、旧ソ連邦から独立したグルジアがNATO加盟を目指しているのを牽制するために、グルジア国内の南オセチア自治州、アブハジア自治州については分離・独立を支持するかの姿勢を採っている。こうして、米欧が各種の民族的分離・独立要求に対処する共通原則を作り上げることを諦めてコソボを特殊なケースとして処理して決着を急いだことにより、各地の民族紛争が激しくなり、それがまた国際テロリズムの温床として利用されるといった最悪の事態もありえなくはない。

 米欧がこのように追い込まれたのも、結局は、1998年に激化したコソボでのアルバニア系とセルビア人の対立を「セルビア人とユーゴ連邦軍によるアルバニア系への“民族浄化”作戦」だと一方的に断定し、NATOによる11週間による「人道的空爆」という粗暴きわまりない愚策を採った、そのボタンの掛け違えに始まっている。以下に、当時の「インサイダー」記事3点を再録するので、米欧の戦争がいかに間違っていたかを、歴史的背景を含めて認識し直して頂きたい。

(1)は、米欧が「空爆」を準備しつつセルビアのミロシェビッチ大統領を脅しで屈服させようとしていた時期のもので、空爆に「ひとたび踏み出してしまえば、米欧はコソボの分離独立を支持してセルビア人側に軍事攻撃をかけ続けなければ辻褄が合わなくなる」と予測している。実際、そこへ踏み出してしまったことの“辻褄合わせ”が今起きていることの本質である。

(2)は、しかし、とうとう空爆が始まってしまい、3週間を経てむしろ事態が悪化しつつあった時期で、特に西側がミロシェビッチを無理矢理に凶悪な独裁者に仕立て上げて血祭りに上げようとすることの誤りを指摘している。同じことが後にサダム・フセインについて繰り返された。

(3)は、11週間に及ぶ空爆が終わって仮初めの和平が成立した後に、余りに大きな犠牲と徒労にあきれ果てながら書いている。

 余談ながら、この空爆の問題点のうちに、後の米国のアフガニスタンやイラクに対する侵略の違法性と不当性をめぐる論点がすでにほとんど出尽くしていたことにも注目して頂きたい。その意味で、ブッシュの間違いのほとんどはすでにクリントン政権の時代に始まっていたとも言えるのであって、本当のところヒラリーはその夫の所業とブッシュのそれとを重ね合わせて、あるべき米外交戦略の“変化”の方向を語ることなしには、大統領選に出馬する資格などありはしない。誰しも、一度間違いを犯すのは恥ではないが、二度繰り返すのは恥であり、三度も四度も繰り返すのは馬鹿である。米大統領選で問われているのはそのことである。

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(1)INSIDER No.415=98年10月15日号

かろうじて回避されたコソボ爆撃
     ——OSCEの役割

 ユーゴスラビア連邦セルビア共和国のコソボ自治州の民族紛争に対するNATOの軍事介入は、瀬戸際でユーゴスラビア連邦側がOSCE監視団の駐留を認める態度に出たことで、かろうじて回避された。

 ホルブルック米特使とミロシェビッチ・ユーゴ大統領との合意は、(1)OSCE(全欧安保協力機構)の文民監視団2000人が現地に駐留する、(2)NATOの非武装機が上空警戒に当たる、(3)コソボ自治権交渉を一定期限内に達成する——というもので、NATOによる直接軍事介入による泥沼化の危険が取り敢えず遠のいたことの意義は大きい。

 しかしこれで紛争解決への道が開けたとはとうてい言えない状況で、今後も事あるごとに米欧は武力行使をちらつかせてセルビア人側を抑えようとするだろう。クリントン米大統領は「武力を背景とした外交が平和への道を開いた」と自賛したが、国連の意思の裏付けが怪しく国際法的に正当かどうか疑わしいNATO軍戦闘機数百機による空爆計画による恫喝という粗暴なやり方を繰り返すなら、事態をかえって悪化させるだろう。NATOによる「力」の解決でなくOSCEによる「話し合い」解決を基調にすべき時である。

●クリントンの動機不純

 クリントンは、不倫疑惑で大陪審に呼び出された直後には、イスラム系テロリストに報復すると称して、交戦状態にあるわけではなく、外交的に米国と特に対立しているわけでもないスーダンとアフガニスタンという2つの独立国家に爆撃を加えて多数の罪のない市民を殺傷、肝心のテロリストは取り逃がすという失態を演じたが、今度は米議会が大統領弾劾審議の開始を決定した直後に、本質的には国内紛争にすぎないコソボ問題に大規模な空爆を発動しようとした。

 スーダンおよびアフガニスタンに対する爆撃と、実施寸前まで行ったコソボへの空爆は、

(1)個人的な恥を対外的な軍事行動でまぎらわせようとする動機が不純であること、

(2)テロや内紛・弾圧といった準軍事的な事態に対して、外からの大規模爆撃という最大級の本格的な軍事作戦をかけるという見当違いを犯していること、

(3)国際法的に正当性を見いだしがたいこと、

(4)従って結果的には何ら問題を解決できず、かえって物事をこじらせるだけであること

——などの点で共通している。違うのは、前回が米国の単独行動だったのに対して、今回は西欧諸国の同意を取り付けてNATO軍の名の下に行動しようとしたことである(とはいえ主力は圧倒的に米軍だが)。

●専門家の懸念

 ユーゴ問題の専門家たちも、米国家安全保障会議のスタッフやペンタゴンの制服トップら軍事専門家も、ほぼ一様に、このような米欧の行動は問題の解決には役立たないどころか、むしろ逆効果になると懸念してきた。

 それは当然で、もし空爆が行われればミロシェビッチとセルビア特別警察はこれを不当な介入だとして態度を硬化させ、アルバニア人に対して一層残虐な弾圧を行うだろうし、アルバニア人側は米欧ひいては世界は自分らの独立を支持していると受け止めて、全面的な内戦を決意するだろう。ひとたび踏み出してしまえば、米欧はコソボの分離独立を支持してセルビア人側に軍事攻撃をかけ続けなければ辻褄が合わなくなる。

 それは例えば北アイルランド紛争で、国際社会が一方的に北アイルランド独立派を支持し、それと敵対している英軍の陣地に爆撃を敢行したという場合と同じである。歴史的・宗教的な根深い対立から発しているこの種の紛争に、外部が介入できる余地は限られていて、人道上どうにも黙視できないという時に両者の合意を取り付けつつ間に割って入り、当事者の交渉による解決を助けるくらいが関の山なのである。

 元々それが唯一の望ましい着地点であって、ユーゴがそれを受け入れなければ空爆だというのは明らかに行き過ぎである。本当にやるつもりはなく、あくまでユーゴの妥協を引き出すための駆け引きだったのだとは、今だから言えることで、仮にミロシェビッチが応じなければ爆撃を実施して事態を滅茶苦茶にしていたはずである。そうならなかったのは単なるラッキーでしかなかった。

●自警団の正義

 イスラム世界に詳しい山内昌之=東大教授は『諸君』11月号の「“ハンチントンの罠”に突き進むアメリカ」で、米国のスーダン・アフガニスタン爆撃という振る舞いについて「自警団の正義」だと指摘している。

「たしかにこの種の対応はアメリカ人の熱狂に訴えやすい。しかし、アメリカには、ソ連解体後に残された唯一の超大国としてイスラムやアジアを含めた世界中の人々を納得させる挙措が要求されるだろう。まずテロリズムを根絶するには、どの地域においても法の支配を要求し、国際紛争解決の際にはいかなる信仰や文化を持つ人たちにも公正さを心がけることが必要であろう」

 ところが米国は、あたかも地球上のどこででも自らの判断と基準において(アメリカン・スタンダード)自由に他の主権国家を攻撃し、国際紛争を武力で処理する権利を持つかのように行動し、敵にしなくてもいい国まで敵に回す一方、テロリストとの「全面戦争」を宣言して彼らの歪んだ自尊心を満足させ、さらなる報復を決意させてしまった。

「テロリストは犯罪者であり殺人者なのである。それとの戦いは凶悪犯罪の取締りのエスカレーションとして位置づければ十二分なのである」

 クリントン政権が昨年来、繰り返しているイラクへの限定爆撃も、サダム・フセイン政権に打撃を与えることが出来ないばかりか、91年の湾岸戦争の時と違って、イスラム圏のどの国もそれを支持せず、かえって嫌米感情を膨らませてしまった。

 こうした米国の中東での「ほとんど最悪に近い」政策の根底には「われわれは君たちの父祖のものよりも優れた文化や生活様式を持っている」という、イスラム圏に対してのみならず日本やアジアに向かっても発せられてきたメッセージがあるが、それこそが「米国の傲慢さ」、あるいは米国人歴史家R・スティールのいう「世界でいちばん“革命的”ではあるが、他者から見るとどうにも鼻持ちのならない“粗野でやや狂った革命家”」ぶりの現れと言える。そしてその米国的野蛮を合理化する役目を果たしているのが、異文明の世界は先天的に衝突に向かうという錯覚と幻像を植え付けるハンチントンの「文明の衝突」論である。

 今回のコソボ爆撃計画の場合、相手はイスラムではなくセルビア人だが、そこに現れた自己絶対化による一方的な武力の乱用という「粗野でやや狂った」としか言いようのないカウボーイぶりっ子は、他のケースと同様、米国が「唯一超大国」幻想に溺れて「米国は何をするか分からない」という恐怖で世界を支配しようとして自ら袋小路に突っ込む危険をはらんでいる。▲

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(2)INSIDER No.426=99年4月15日号

行き詰まるNATO空爆作戦
     ——外交解決への模索も

 NATOによるユーゴに対する“人道的な”空爆は、3週間を経て何ら所期の目的を達成できないばかりか、むしろコソボの状況に全くの逆効果をもたらしている。4月12日に開かれたNATO外相会議は、そうは言ってもいま直ちに大規模な地上軍派遣を決断できないため、とりあえず空爆を続行し、さらに機数を増やして強化する方針を確認しながらも、他方でロシアの仲介と参加による外交的解決に期待をかけるという、何とも中途半端な結論にしか至らず、それをめぐって各国の足並みの乱れも目立ち始めた。

●民間人も殺傷

 彼らの当初の判断は、95年8月のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争収拾の場合と同様に、NATOが大規模な空爆を実施しさえすれば、ユーゴの独裁者ミロシェビッチ大統領がたちまち降参してセルビア人とユーゴ連邦軍をコソボから撤収させ、アルバニア系住民の自治権を認める和平案を受け入れ、そのため国内で支持を失って政権崩壊に至るだろう——というものだった。ところが現実には、セルビア人は屈服しないどころか、ますますミロシェビッチの下に結束を固めて、一層激しくアルバニア系に対する攻撃を展開し、そのために100万人近い人々が難民と化して国境に押し寄せるという深刻きわまりない事態が生じた。

 空爆は、第1段階でユーゴの防空網を破壊した上、第2段階で主要な軍事施設や戦車など部隊の戦力そのものを壊滅するという計画で始まったものの、思わぬ結果に焦って、空爆の効果を早く上げようとする余りに、石油関連施設、自動車工場、鉄道、橋、放送局など市民生活に多大な影響を与える非軍事施設に拡大され、また列車や住宅地への“誤爆”もあって、ユーゴの民間人にも多数の死傷者が出ている。ロシア外務次官は13日「民間人400人以上が死んだ」と述べた。

 イラクやスーダンやアフガニスタンに対する爆撃でもそうだが、元々軍事施設だけに打撃を与える“人道的な”空爆など、テレビゲームのやりすぎによる幻覚にすぎない。まして、そのように空爆の恐怖に晒されたユーゴの人々が、ミロシェビッチに怒りの矛先を向けて政権打倒に立ち上がるだろうなどと期待するのは全くのジョークである。合理的な思考方法を得意とするはずの欧米の指導者たちが、すでにベトナム戦争時の北爆でもバグダッド空爆でも効果のないことが立証済みであるにも関わらず、また同じ判断ミスを繰り返すのは、後に述べるように、東方世界に対する文明論的な無理解、差別意識もしくは憎悪のフィルターを通じてしか物事を見ていないからだと想像される。

 その判断ミスを覆い隠すために地上軍を派遣するなど愚の骨頂で、それよりも、自分らの東方認識に何か根本的な欠陥がなかったかどうか、胸に手を当てて考えるべきではないだろうか。

●引き裂かれた世論

 実際、米国も欧州各国も、国内から高まる「空爆反対」の声に手を焼いている。空爆で政権が揺らいだのは、空爆をされたほうではなくて、むしろ、したほうの側である。

▼ドイツの最大与党=社会民主党は12日、臨時党大会を開いてシュレーダー首相を党首に選出したが、大会の議論はドイツが戦後初めて参加した空爆の是非に集中した。シュレーダーは演説の中で「コソボでの残虐行為から目を逸らせてはならない。NATO諸国との結束を守るべきだ」と訴えたが、党内左派の幹部であるヘルマン・シェールは「空爆は国際社会がとる最終手段ではなかった。国連や欧州安保協力機構(OSCE)を無視してNATOが出て行ったのは誤りだ」と訴えて大きな拍手を浴びた。政権パートナーの「緑の党」も空爆を批判しており、事態が長引けば政権自体が揺らぐ可能性がある。こうしたことから、シュレーダー政権は急遽「NATOでなくOSCEを中心にした平和維持軍」の構想を策定していると言われる。

▼イタリアで昨秋生まれたばかりのダレーマ政権は、空爆を支持しつつも(憲法上の制約もあって)自らは参加せず、北部のアビアノ空軍基地を空爆の出撃に提供するにとどまっているが、同基地周辺で11日、空爆に反対する約1000人がデモを行い、警官隊と衝突して双方に9人の負傷者が出るなど、世論が次第に批判的に傾いている。それを反映して、ダレーマの左翼民主党の連立相手である共産主義者党のディリベルト法相は「イタリア軍が直接攻撃に参加するなら閣僚を辞任する」と宣言し、また同党のコスタ委員長は「国連安保理事会の主導の下に国連平和維持軍を投入すべきだ」との考えを抱いてパリ、モスクワ、ベオグラードに独自外交を展開している。またもう1つの連立相手の緑の党も空爆反対で、アルバニアとユーゴ、ドイツとフランスにそれぞれ代表団を派遣して「武力では解決しない」と訴えている。

▼フランスでも、連立政権に入っている共産党が空爆反対を強く主張して亀裂が生じている。それもあってベドリヌ仏外相はNATO外相会議のあと「多国籍軍は(NATO主導ではなしに)国連安保理の指揮下に編成すべきだ」と語っている。

▼イギリスでは、11日ロンドンの中心部で「空爆を即時停止し、話し合いによる解決を」と求める約2000人のデモがあり、80年代初の反核運動以来の平和運動の健在を示した。与党=労働党左派のトニー・ベン下院議員は集会で演説し、「米英両国はNATOの名で欧州を支配しようとしている。すべての行動は国連を通じて行われるべきだ」と主張した。保守系でも、かつてNATO事務総長を務めたキャリントン卿やヒーリー元国防相など長老クラスが空爆批判の声を上げている。

▼スウェーデンのカールソン前首相は「空爆は国連によって認められたものではない。明らかに国連憲章に違反した、主権国家に対する侵略行為だ。このままでは、力だけが正義となって、大砲によって法が作られる暗黒時代が戻ってしまう」と痛烈な批判をしている。

▼米国では、世論や議会は空爆支持さらには地上軍投入もやむをえないという強硬論に傾きがちだが、外交安保エスタブリッシュメントの中では「クリントンは間違っている」との批判が多い。ヘンリー・キッシンジャー元国務長官は『ニューズウィーク』4月7日号に寄稿して「コソボでの弾圧は道義的に許せない暴挙だという(空爆の)論拠では、クルディスタン、カシミール、アフガニスタンなど、さらに多くの犠牲者が出ている地域に介入しない理由が説明できない」と批判した。

 それはその通りで、15日に大統領選挙が行われるアルジェリアでは、軍事クーデタ政権とイスラム過激派のテロ合戦で92年からだけで7万5000人以上が死んでいる。なぜアルジェは爆撃されないのか。東チモールでは5日に独立派の住民17人が、6日には46人がインドネシア国軍によって殺害されたが、ジャカルタ爆撃は行われていない。

●ポスト冷戦の安保観

 欧州の空爆反対派から一様に「国連安保理」もしくは「OSCE」の主導下での解決という声が上がるのは偶然ではない。

 10年前の冷戦の終結とは、単に米ソ両超大国が率いる東西両陣営の一触即発の力と力の対決を終わらせたのではなくて、もっと原理的なレベルで、国家と国家が敵対して最後は武力で決着をつけようかという、国民国家時代の野蛮な常識を人類が卒業していく端緒を拓いたのであり、それによって初めて、紛争解決の手段として(原則として)武力を用いないという国連憲章やそれと裏腹の日本国憲法の理念が現実に近づくことになった。

 もちろん、拓かれたのは端緒であって、実際にはバルカンでも中東でもアフリカでも内戦や紛争があり、また誰よりも旧ソ連の動向に不安が残るので、それに武力で対処しなければならないケースもあるだろうということで、本質的には冷戦時代の敵対的軍事同盟の遺物にすぎないNATOを存続させ、欧州内部ではなく域外の危機に共同対処することにしたのである。

 とはいえ、紛争を解決するには、まず日常からその地域に存在するすべての国々が、予め誰かが誰かを敵と定めるのでなくテーブルに着いて信頼関係を養い、話し合いを通じて火種を取り除いていこうとする、多国間の協調的安全保障こそが今後の安保観の主流でなければならない。

 実際、当時の西ドイツのブラント社民党政権が主導権を握って、1975年ヘルシンキで初めて東西欧州のほぼすべての国々のトップが一堂に会して全欧安保協力会議(CSCE=OSCEの前身)が開かれて以来、欧州の特にリベラル派がそのような新しい安保原理を訴え続け、それが80年代初の反核運動を通じて全欧州に広がり、やがて84年に登場した旧ソ連のゴルバチョフ政権がその考え方に同調して東西対決思考から決別したことによって、冷戦終結の決定的とも言える条件が整ったのである。

 だから、欧州の人々は、それがまだ問題解決の十分な能力を持っていないことを百も承知で、国連やOSCEの枠組みの下での平和実現を追求しようとする。ところが米国は、旧ソ連の消滅は自国の力の論理の勝利だと錯覚して「唯一超大国」幻想に酔いしれ、NATOに対する事実上の指揮権を確保することで欧州以遠の問題に対処しようとする。

 結局のところ、ユーゴ空爆に現れている矛盾と動揺は、ポスト冷戦の過渡期にあってまだいくつかの紛争が残っているこの段階で、苦難を忍んであくまで話し合い解決を主に努力するのか(米国は北朝鮮に関しては基本的にそのような態度を採っている)、ええい面倒だと力による解決を求めるのか——という新旧2つの安保原理の錯綜であると言える。

●虐殺はあったのか?

 さて、キッシンジャーも指摘するように空爆の最大の理由は「人道上許せない」ということである。作戦開始に当たってのEU首脳の特別声明も「21世紀を目前にして、欧州は人道上の破局を容認できない」と述べた。ロビン・クック英外相も8日付朝日新聞への寄稿で、ミロシェビッチ大統領の軍隊は「民族の違いだけを理由に民間人に組織的な暴力を加えている。その狙いは、国から1つの民族を根絶することにある。それは並外れた規模の人権侵害であり、現代の欧州が守ろうとしている価値観などすべてのものへの侮辱である」と書いている。

 何が人道上、黙過できないのかと言えばセルビア軍による無抵抗のアルバニア系住民に対する民族浄化とも言うべき「虐殺」と「強制追放」だというわけだが、われわれの知る限り、この1年ほどの間に散発的にニュースとして伝えられたのは、どこぞの村にセルビア人部隊が入って数十人を殺して家を焼き払ったというような話である。

 アルバニア人側に独立を求める過激派がいて「コソボ解放軍」という軍事組織を持って武力抵抗している内戦状態では、遺憾ながらそういうことは起こるだろうし、やられた側の解放軍はそれを「虐殺だ」と大いに宣伝して当然である。確かにセルビア人側は兵力において遙かに優勢であり、アルバニア人側に犠牲が多いのは事実だろうが、基本的にはお互い様ということではないのか。

 毎日新聞の笠原敏彦特派員は3月31日付同紙の「記者の目」欄でこう書いた。「コソボ滞在中、外国人記者仲間と『虐殺は本当に起きているのか』ということがよく話題になった。……コソボでは現実の戦争の一方で、激しいプロパガンダ合戦が繰り広げられているからだ。誤解を恐れずに言えば、OSCE(の監視団)が展開中のコソボで、アルバニア系住民が主張する組織的な虐殺が起きていたという印象を私は持てなかった。現場を数多く踏んだ外国人記者でも、コソボ解放軍の兵士らの遺体は見ても、民間人の遺体を見たという人はあまりいなかった」

 戦争である以上、罪のない村人を敵兵士と誤認して殺すことはあったろう。NATOの空爆でもたくさんの民間人を殺しているほどだから。とはいえ、解放軍側の宣伝を鵜呑みにして、アルバニア系を1人残らず抹殺ないし追放する「民族浄化」が行われていて、それこそミロシェビッチが血に飢えた狂気の独裁者である証拠だと、簡単に信じ込むのはいかがなものか。

 例えば、大石芳野という女流カメラマンは8日付読売夕刊の文化欄に大きく登場して、

「難民となった彼らの証言によると、セルビア人の民兵たちが、静かに暮らしている人々に銃口を向けた」

「セルビア人側の言い分は『コソボはセルビアの領土。アルバニア人はアルバニアに行け』というものだ。まさに民族の浄化策といえる。そのコソボに住むセルビア人は、1割にしかすぎない」

「すでに50万人近いアルバニア系の人々が、難民あるいは避難民と化した。民兵たちは寝込みを襲うようなやり方で、16歳からの若い男性を連行もしくは殺し、女性や子供たちを強制移住させた」

「民族の浄化という時代錯誤の思想を、武力に物を言わせている。卑劣きわまりない。まるで、ナチス・ヒトラーの再現ではないか」

 と、まるで見てきたように書いている。この手のヒステリックで一方的な感情論が空爆の論理を支えているのだと言える。

●歴史の闇の中から

 なぜコソボの人口の1割にすぎないセルビア人がアルバニア系住民を痛めつけるのか。それを理解するには多少ともこの地の歴史の闇を覗き込まなくてはならない。

 面積1万平方キロ余り、人口160万人のコソボは、日本で言えば岐阜県ほどの規模の自治州である。

 大昔からアルバニア系イリュリア人が先住し、ローマ帝国、ビザンツ帝国の支配下にあったが、ビザンツの弱体化に乗じて12世紀末にセルビア人が占拠し、先住者をアルバニアに追放してここに中世セルビア王国を建国した(“追放”は1000年近くも前からあったのだ)。西部のメトヒア地方の中心地ペーチには、13〜14世紀の王国隆盛の時代に正教の総主教の座所となった修道院があり、今もセルビア人にとって聖地である。

 セルビアの民族主義的詩人マティヤ・ベチコビッチはこう語る(13日付毎日)。

「セルビア人にとってコソボとは、国家の精神的存亡にかかわる問題だ。かつてのセルビア王国はコソボの戦い(1389年)でオスマン・トルコ帝国に敗れ、我々にとって長い奴隷の時代が始まった。しかし戦いに敗れても、セルビア民族の精神は打ち破られなかった。コソボの戦いでみせた自己犠牲の精神は、苦難の時代を生き延びるための糧となり、現在も我々を支配している」

「コソボはセルビア人の発祥の地であり、終焉の地にもなる。セルビア国家が消滅する場合、我々はコソボの地を選ぶだろう」

 セルビア人に限らず、カトリックと正教とイスラムという3大文明プレートがぶつかり合うこのバルカンで1000年を超える苦難の歴史を刻んできた人々は、誰しも古代や中世の半ば神話と化した栄光によりどころを求める以外に生きることは出来ない。ボスニアは、ユーゴ共産党の発祥の地ではあるがそれ以上ではないために、ミロシェビッチはほどほどの妥協に応じることは出来たが、コソボはそうではない。

 ある人が冗談で言った余り適切でないかもしれない比喩を借りれば、大和国家発祥の地である奈良県の人口の9割がいつの間にか在日外国人に占められて、日本から独立したいと言い出した時に、たいていの日本人は我慢しないのではないか。それよりも遙かにセルビア人のコソボへの思い入れは強い。そのことを欧米は軽く見たのである。セルビアが滅びるときセルビア人はコソボで死ぬだろうという詩人の言葉は余りにも重い。

 コソボの決戦でセルビアが敗れた後も、トルコは遊牧国家独特の異教への寛容政策によって正教会がメトヒアを領地として維持することを認めた。教会がそれを失うのは、チトーの革命政権がそれを接収して国有化したときである。

 5世紀以上に及ぶトルコの支配下で、アルバニア系の人々は、元々のキリスト教異端の信仰がイスラム教と融合しやすかったこともあって、多くがイスラムに改宗し、それゆえにトルコ帝国に重用されて軍人などの職業に就き特権を得るようになった。正教にとどまったセルビア人はトルコ人支配者とその代貸しのようなアルバニア人に迫害され、17世紀末には聖地を捨ててベオグラードの北方のハンガリー系住民の土地ボイボディナ地方に追放された(“追放”は300年前にもあった!)。その空白にアルバニアからさらに大量の人々が移住し、そのためにセルビア人の建国の地が圧倒的多数のアルバニア系住民で占められることになったのである。

 セルビア人が臥薪嘗胆、19世紀初に「セルビア蜂起」を起こして10年以上にもわたる戦いの末にトルコから自治権を獲得した時も、それから100年後、1912年にセルビア人がブルガリア人やギリシャ人と同盟を結んでトルコから独立するための第1次バルカン戦争を仕掛けた時も、コソボのアルバニア人たちはトルコの味方だった。その戦争でセルビア人は勝利し、当然のことながらコソボを手に入れた。聖地を奪われた500年以上もの屈辱を思えば、後にチトーが旧ユーゴスラビア連邦を建てた際にコソボをアルバニア人たちの自治州とすることをセルビア人が認めたのは、相当に寛大な精神の発露だったと言えないだろうか。

 別にセルビア人が正しいと言っているのではなく、彼らのほうから歴史を見ればコソボはそう映っているということを理解しないと、まるで話にならないということである。

●ボスニア紛争の虚構

 ミロシェビッチとセルビア人が虐殺者であり侵略者であると国際社会から認定されて指弾され、空爆までされたのは、もちろん今回が初めてではない。ボスニア紛争でセルビアが西側からどのような扱いを受けたか、その歴史的背景に何があるのかについて最も透徹した分析をしているのは岩田昌征=千葉大教授の『ユーゴスラヴィア』(NTT出版)なので以下主としてそれに依って簡単に振り返ろう。

 冷戦終結とともに東側世界が音を立てて崩れていく中で、ユーゴ連邦もまた共産主義者同盟の支配が立ち行かなくなって、IMFが送り込んだ米国人経済顧問の指導で急激な市場経済への転換に着手した。チトーが編み出した「自主管理社会主義」の理念はもろくも雲散し、経済的な大混乱の中で誰もがうまく立ち回って過去の遺産の取り分を手に入れようとつかみ合いが始まった。

 この連邦解体過程の無政府状態では、頼りになるアイデンティティは社会主義以前の民族感情であり、また悪いことに旧ユーゴが「全人民防衛ドクトリン」という、専門集団としての連邦軍だけでなく、地域・職場単位にくまなく組織された民兵がそれと一体となって外敵(もちろん旧ソ連)の攻撃に備える政策を採って来たために、どこにでも武器があり、誰もが使いこなせる状況があって、それが対立の激発に輪をかけることになった。

 90年から91年にかけて、旧ユーゴの各共和国で一連の自由選挙が行われて、セルビアのミロシェビッチはじめ6人の大統領が選ばれた。91年3月に6人が一堂に会した時には、彼らはまだ連邦の運命を決めかねていたが、その頃すでに連邦政府の無能にうんざりしていた米国人経済顧問は、密かに北部の経済先進国でありカトリック国でもあるクロアチアとスロベニアに、連邦を見限って独立すればその2カ国だけは西側の支援を得て経済発展の軌道に乗ることが出来ると囁いていた。

 この2カ国はかつてのオーストリア・ハンガリー帝国の一部であり、また特にクロアチアは、第2次大戦中はナチスの傀儡「クロアチア独立国」を作ってユーゴ内で支配地域を拡大し、セルビア人などを強制収容所に入れて大量に虐殺した陰惨な歴史を持っている。ドイツの側から見れば、オーストリアもハンガリーもこの北部2カ国も元々自分の勢力圏という意識があり、そのオーストリアは2カ国とは姉妹関係なのだ。そこで早速、スロベニアとクロアチアが揃って独立を宣言するや(同年6月)、電光石火、オーストリアとドイツがそれを承認し、西側の経済援助や国連加盟の手助けもするというシナリオが出来上がる。

 そのシナリオには、いかにしてスロベニアとクロアチアに有利な世界の世論を掻き立てるか、そのためにはいかにして衝突を引き起こしてセルビアを悪者に仕立てるかという演出も含まれていた。

 実際、2カ国の独立宣言の後すぐに、連邦軍がスロベニアに出動し、「スロベニア10日間戦争」が始まった。西側メディアは、独立を決意したスロベニアのカトリック民兵が果敢に空気銃や猟銃を持って抵抗する中、ビザンチン主義と共産主義の息子である野蛮なセルビア軍が戦車でスロベニアを押しつぶそうとしている——といった調子で盛んに報道したが、その連邦軍の出動を命じた連邦首相がクロアチア人、副首相がスロベニア人、国防相がクロアチア出身のクロアチア人とセルビア人のハーフであり、また実際に出動したクロアチアのザグレブを本拠とする第5軍管区の司令官がスロベニア人であることは一言も報じなかった。すなわち、この時点で連邦軍はあくまで連邦軍で、セルビア軍ではなかった。

 しかも、この連邦軍部隊は、スロベニアの独立を阻止するためにその首都であるリュブリャナに向かったのではなく、スロベニアがイタリアとオーストリアへの国境管理を一方的に接収したことに対し、連邦としてその要地を再確保するため税関吏員などを警護して現地に向かおうとしたのであることも、西側では正しく報道されなかった。

 むしろ、独立した2カ国に対してセルビアが不当な侵略を仕掛けているという図式がデッチ上げられ、その延長でクロアチア軍と連邦軍の戦争が、やがて事の必然として、イスラム教徒44%、セルビア人31%、クロアチア人17%が入り組んで混在するボスニア・ヘルツェゴビナの内戦が引き起こされることになる。

●西側が貼ったレッテル

 クロアチアとスロベニアが独立し国際社会に認知されたとなると、ボスニアのイゼトベゴビッチ大統領も独立に踏み込まないわけにはいかない。92年2〜3月に、セルビア人との合意のないままイスラム教とクロアチア人だけの国民投票が実施されそれに基づいて独立宣言が発せられる。欧米は異例の迅速さでボスニアを承認し、「独立国家として承認されたボスニアにセルビア人の連邦軍が軍事干渉している」とセルビアに非難を浴びせた。

 しかし、連邦軍の前身は、クロアチア人だったチトーがボスニアの地で創設した対独抵抗のパルチザン部隊であり、別段セルビア共和国から進駐してそこを占領しているわけではない。むしろボスニアは連邦軍の発祥の地であり、またその構成もセルビア人ばかりというわけではもちろんなかった。

 逆に連邦軍は、旧ユーゴ以来、あれこれの民族紛争に対して中立的な調停者として連邦全体の秩序を維持することに心を砕いてきたのであって、それがある日突然にセルビアの手先のようなレッテルを貼られたのだから戸惑うのは当然だった。しかし、セルビア人とモンテネグロ人はそれでも我慢強く、セルビアとモンテネグロの出身者だけを本国に引き揚げさせ、非難をかわそうとした。しかしその結果、秩序を維持するボスニアの連邦軍は解体され、膨大な武器・弾薬は主としてボスニア内のセルビア人勢力・民兵の手に渡ることになり、なおさら流血に火を注ぐ結果となった。岩田は書いている。

「実際、欧米のやった事は、紛争当事者のある側を国際的合法者、他の側を国際的無法者と宣告したにすぎない。正義と不正義のレッテルを貼ったにすぎない。かっかしている両当事者がかろうじて素手の殴り合いにとどめ、話し合いの解決の余地がまだ残っていた所に、外部から正邪の宣告が下された。正義とされた側は、実力で勝って正義を貫かなければならぬ。邪悪とされた側は、汚名を返上するために、実力で勝たねばならない。国際承認は、戦闘開始の大号砲となった」

 そのようにしてボスニア紛争は泥沼化し、NATOの介入、和平合意を経て未だに解決の目途が立っていないが、同じことがもっと愚かしい形で今コソボで繰り返されているのである。

 岩田は書いている。もしドイツはじめ欧州が、北アイルランドで20年前に今のユーゴに対するやり方を行ったらどうなったか、と。北アイルランドの英国からの分離、アイルランド共和国への合併を促して直ちに国際承認し、それを不満として現地に留まる英国軍を侵略者として指弾してロンドンに空爆をかけるなどということが起こり得るだろうか。それが相手がビザンチン主義や共産主義の生き残りなら許されるというのは「ヨーロッパ史の暗い潜在的情念」の働きと考えるより仕方がないのではないか。

●どうするのか?

 ではどうするのか。第1は、ミロシェビッチが屈服するまで空爆を続けることだが、セルビア人のコソボへの思い入れを考えれば、これは全く成算がない。しかも、これも岩田の書で教えられたことだが、チトーのパルチザンの精神を引き継いだ旧ユーゴの憲法では「何人といえども降伏文書を承認あるいは署名する権利、あるいは共和国およびその一部の占領に同意ないし受容する権利を持たない」という規定があり、これに反した者は「人民に対する裏切りとして罰せられる」とされている。

 今のユーゴの憲法にそれが残っているのかどうかは分からないが、その精神は確実に受け継がれているだろう。「もうじき降参するだろう」と空爆を一日延ばしに続けていると、ますますユーゴの民間人に被害が広がり国際世論が保てなくなるし、第一、1日1億ドルの戦費がひねり出せなくなる。

 第2は地上軍投入だが、これも展望がない。第2次大戦時のナチス・ドイツは、ユーゴのゲリラの頑強な抵抗を抑えるために大変な数の精強師団を長期にわたって張り付け、7万人のドイツ兵の命を失ってなお敗れた。

 それほど犠牲を払ってNATOがコソボをもぎ取ってアルバニア人に与えても、自力で維持できるはずもなく、永久にNATOが守ってやらなければならなくなる。それに、地上軍侵攻となれば、ロシアはユーゴへの軍事支援に踏み切り、それを機にユーゴはロシア、ベラルーシとのスラブ連邦形成に走るなど、取り返しのつかないことになろう。

 第3はミロシェビッチの暗殺。しかし今のCIAにその力量はない……。

 結局、人道上の問題を解決するには道義に基づく説得の力しかなさそうである。しかし英国の歴史家ポール・ジョンソンは「倫理面で信頼を失った米大統領が世界の警察官としてお説教することは不可能だ」と指摘している(14日付毎日)。▲

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(3)INSIDERNo.431=99年7月1日号

何のための戦争だったのか?
——ユーゴ空爆の損益計算

 NATOのユーゴスラビアに対する11週間に及ぶ空爆は、延べ約3万5000回の出撃で巡航ミサイル=トマホーク2000発を含めて2万3000発、広島原爆に換算して10発分を上回るほどの爆弾を投下して、ようやくミロシェビッチ大統領に和平案を受諾させることに成功した。

 ところが不思議なことにこの和平案は、2月のランブイエ和平案と比べると大幅にユーゴ側に譲歩した内容になっている。いったいこれは何のための戦争だったのか。

●和平案の謎

 第1に、旧和平案ではコソボの平和維持にNATOが責任を持つことになっていたのに対し、新和平案では少なくとも形式上、国連を背景にしてロシアも含めた国際混成部隊とされており、現にそのような部隊が現地に進駐している。

 第2に、旧案では進駐部隊がユーゴ内の施設に無制限に立ち入る権利を認めていたが、新案ではその条項は削除された。

 第3に、何より重要なことに、旧案では3年後にコソボの帰属を決める住民投票を行うとの約束が盛り込まれていたが、新案ではそれは消えて、コソボの独立問題にはまったく触れていない。

 つまり、ランブイエでミロシェビッチ側が「主権にかかわることだ」として受け入れを拒否した条件のほとんどがなくなっている。このランブイエ案をミロシェビッチが受諾しないのはけしからん、武力を用いてでも受け入れさせようということで、3月24日から空爆が始まったというのに、その受け入れさせるべき条件を米欧側が取り下げてしまったのはどういうわけなのか。

 しかも、空爆中の5月27日には、オランダのハーグにある国連旧ユーゴ戦犯法廷がミロシェビッチ以下5人のユーゴ高官を「コソボのアルバニア人74万人の追放と348人以上の殺害」を計画し命令した「戦争犯罪人」として起訴し、逮捕状まで発している。米欧側はそれを盾に、ユーゴに新しい政権が出来てミロシェビッチの身柄を引き渡すまでは空爆は止めないという態度を取ることも出来たはずである。にもかかわらず、新和平案ではミロシェビッチの処遇について一言も触れていない。それどころか、ミロシェビッチはこの案を受諾したユーゴ側の最高責任者の地位に留まり続けている。

 これは、米欧側が、ランブイエ合意を呑ませるという外交的目的を十分に達成することが出来なかったばかりか、「ミロシェビッチ体制打倒」という暗黙の政治的目的も、少なくとも当分は、あきらめざるを得なくなったことを意味している。

 元米国務省ユーゴ担当官のジョージ・ケニーが6月10日付毎日新聞で次のように語っているのは、まことに的を射ている。

「和平案は、コソボの独立を要求するアルバニア系住民と、主権を主張するユーゴ側の隔たりをどう埋めるかという重要な長期的問題に答えていない。ユーゴ側は空爆に屈服してNATOの要求を呑んだように見えるが、米国とNATOはアルバニア系住民の関心を引かない形で妥協をした」

「ユーゴ側がランブイエ案を拒否した理由の大半が(新案では)解消された。これなら空爆せずに同じような和平合意を結ぶことが可能だった。米国は、ランブイエでユーゴ側が拒否するような和平案を出して、それを拒否したことを理由に空爆を始めた、とも言えそうだ」

 実際、米国務省高官はランブイエ案について「ユーゴ側が許容できないようにわざとその垣根を高くした」と漏らしているという。ということは、垣根を徐々に低くしながら妥協点を探る、ごく当たり前の外交手法を採っていれば、空爆はやる必要がなかったことになる。これでは、米国は何が何でも戦争をやりたかっただけだったと言われても仕方がない。

●あまりに大きな代償

 しかし、ただの火遊びにしては、この戦争の代償はあまりにも大きい。

 第1に、奪われる必要のない人命が奪われた。米欧側は「5000対ゼロ」——ユーゴ軍の兵士5000人を殺し、1万人を負傷させる戦果をあげたのに対して、NATO側は戦闘機を2機失っただけで(そのパイロットも救出されたので)1人の死者も出さなかった、と誇らしげに胸を張るが、ユーゴ側の最終発表では兵士の死者はわずか500人にすぎず、それよりも民間人2000人が殺され、6000人が負傷したことがよほど重大な被害だったという。5月22日の時点でユーゴのユニセフ(国連児童基金)担当の当局者が語ったところでは、その当時1200人だった民間人死者の3分の1、5000人の負傷者の40%が子供だったという。最終的にも、子供の比率はほぼそれに近いと推測していい。

 もちろん、双方とも都合のいいように数字を発表するので、本当のところは分からないが、しかし米欧側が「誤爆」と言って済ませられるような民間人の被害状況でなかったことだけは確かである(後述)。

 第2に、費やされる必要のない戦費が費やされた。

 英軍事専門誌『ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー』を発行するジェーンズ・グループがまとめ6月8日に発表したところでは、NATO全体の空爆に伴う直接の経費は、当初予想を上回って1日当たり4200万ポンド(約81億円)以上に達する。11週間で6237億円の計算である。

 他方、米民間団体の「戦略・予算調査センター」が調べて6月27日明らかにしたところでは、米国の空爆経費は最低で23億ドル、最大で40億ドル(約4800億円)に達する。もちろんペンタゴンは何も発表していないので、あくまで推計だが、1発=1億2000万円の艦上発射のトマホーク巡航ミサイルを約450発、1発=2億4000万円の空中発射の巡航ミサイルを約90発、動員した航空機725機、周辺国に派遣した兵員約5500人……と積算していくとそういうことになる。間接経費まで入れれば軽く1兆円を超えたであろう総経費の半分以上、おそらくは3分の2程度を米国が負担したことになるのではないか。

 しかも米国は、ボスニアの平和維持活動ですでに90億ドルを使っているのに加えて、これから何年間にもわたって年に20〜35億ドルはかかると予想されるコソボでの平和活動の費用も分担しなければならないし、さらにバルカン経済復興計画についても応分の負担(米議会の意向では総額の20%程度)をすることになろう。クリントン大統領は、そこまでしてバルカンに関わり続けるのはなぜか、もっと突っ込んだ説明を国民から求められることになるに違いない。

●ユーゴのGDPは半減

 第3に、ユーゴ側にしてみれば、被らなくてもいい経済的損害を被った。

 ユーゴ政府は「空爆の被害は1000億ドル」と言っているが、これは天然資源、文化財、その他間接的な被害まで含めたおおざっぱな実感的な数字だろう。

 ミロシェビッチ政権の政策に批判的な有力な経済学者や実務家のグループ「G17」は、厳密な意味での経済的な影響についての調査レポートを6月下旬にまとめたが、それによると、空爆によってユーゴが被った経済的損失は少なく見積もっても296億ドル(約3兆5500億円)で、その結果、国内総生産(GDP)は前年比マイナス40.7%、工業生産は同じくマイナス44.4%、輸出入もマイナス55〜58%と、経済規模がほぼ半減してしまい、国際社会からの援助がない場合、98年の工業生産レベルを回復するのに少なくとも15年、連邦崩壊以前のレベルに戻るには45年もかかるという。

 工場などの破壊による失業も深刻で、新ユーゴ発足直後の経済担当副首相を務めたベオグラード大学経済学部のオスカル・コバチュ教授は5月中旬の共同通信社のインタビューに答えて「工場の破壊などで失業した人は50万人にも上る」と述べていたが、G17は「今後さらに25万人が失業する」と見ている。

 ケルン・サミットで米欧日は、ミロシェビッチ政権が続く限り、ユーゴに対しては人道分野を除いて復興援助をしないという態度を明らかにしているが、この経済的壊滅状態では、市民生活の最低限の機能を回復すること自体が人道的な緊急課題となるだろう。とりわけ、NATOが意図的に発電所、送配電施設、石油貯蔵タンクを破壊したため、冬を迎えるまでに全土の電力システムが復旧できない場合、寒気が人々を襲って深刻な事態となる。G17のレポートは「市民が凍え出すと、市民の反感はミロシェビッチ政権ではなく、国際社会に向かうことは間違いなく、ユーゴ民主化を阻む結果となろう」と、電力システム修復のための10億ドルの緊急援助の必要性を訴えている。

 対イラクでも同じだが、米国お得意の“空爆の論理”の中には、軍事目標だけでなく、エネルギー・システムはじめ市民生活の基本的な機能を破壊して民衆を窮迫の瀬戸際にまで追い詰めれば、人々は必ず決起して独裁者を権力の座から引きずり下ろす闘い始めるだろうという、新種の「窮乏化理論」とも呼ぶべき思いこみが含まれている。

 さらにその背景には、イスラムにせよ正教にせよ、非(西側)キリスト教の野蛮世界では、人々は無知ゆえに簡単に独裁者に騙されて言いなりになっていたり、たとえ不満を持っていても勇気を欠くがために行動を起こすきっかけをつかめないでいたりするのであるから、外からのインパクトで彼らを目覚めさせてやらなければならないという、傲慢きわまりない「民主的な空爆」あるいは「空爆による民主化」の理論がある。

 ところが、彼らは彼らなりの歴史と文明に根ざした“民主主義”を生きているのであって、米欧が自分らの西欧風民主主義を唯一絶対と信じて異教世界の人々をローラーで挽きつぶすようなことをすれば、彼らはかえって独裁者の下に固く結束して身を守ろうとする。民主化を促す空爆などという便利な方法はあり得ないことが、すでにイラクで立証されているにもかかわらず、米欧はユーゴで同じ誤りを繰り返した。

●ユーゴ軍は健在?

 第4に、彼我にこれだけの犠牲と負担をかけながら、冒頭に触れたように、出来ればミロシェビッチを打倒するか爆殺したいという政治的目的も、さらにランブイエ合意を呑ませるという外交的目的も、十分に達成することが出来なかっただけでなく、さらにユーゴ軍に壊滅的な打撃を与えるという直接的な軍事的目的も思い通りには実現できなかった。

 ユーゴ軍兵士の死亡者数については、上述のように、NATOは5000、ユーゴは500と言っていて、どちらも過大・過小に発表しているに違いないが、まあだいたい1000人から千数百人というところが本当ではないだろうか。

 ユーゴ軍の兵器の破壊についてはペンタゴンは6月10日、次のように発表した。

《軍部隊・兵器・施設》
■対空迎撃能力 80%以上破壊
ミグ29    14機(85%以上)
ミグ21    24機(約35%)
SA3ミサイル10機(約70%)
■陸上兵力
第1陸軍(在ベオグラード)35%破壊
第2〃 (在モンテネグロ)20%破壊
第3〃 (在コソボ)   60%破壊
戦車・装甲車両  120台以上破壊
兵員輸送車両     220台破壊
■兵器工場
軍車両製造施設    40%破壊
弾薬製造施設     65%破壊
航空機製造・修理施設70%破壊
■指揮統制系統・通信施設
セルビア社会党本部 重大な損害
大統領公邸      重大な損害
TV・ラジオ局・中継所  45%障害
■道路・鉄道・橋
ドナウ川沿岸 道路   70%破壊
   〃   橋    50%破壊
コソボ連絡  鉄道  100%遮断
   〃道路 50%以上遮断
■エネルギー
製油施設       100%破壊
電気 ベオグラード  70%停電
   セルビア共和国 35%停電

 これを発表したコーエン米国防長官は、特にコソボ自治州での戦果について、ユーゴ陸軍第3軍の火砲の半数、戦車の3分の1以上、施設の6割以上を破壊し、またベオグラードからコソボに通じる道路の7割と鉄道の半分を破壊したことを強調した。そもそも、ユーゴ軍に壊滅的打撃を与えるという軍事的目的は何のために設定されたかと言えば、コソボでのセルビア人によるアルバニア系に対する“民族浄化”を止めさせるという人道的目的のためであったのだから、その意味では作戦は「成功だった」ということだろう。

 しかし、まず、この数字は1カ月前、空爆さなかの5月23日のシェイNATO報道官の発表よりだいぶ少ない。彼は、550台以上の戦車・装甲車、前線配備の攻撃用空軍機の半分を超える100機以上の航空機、地対空ミサイルの75%、コソボ自治州内にある弾薬庫の半数、11カ所の大隊司令部——などを破壊したことを明らかにし、「われわれの攻撃によってユーゴ側に大きな打撃を与えているのは明らかだ」と強調した。

 その後1カ月、ますます激しくなった空爆にもかかわらず、最終的な数字が減ったり横這いだったりするのは奇妙である。

 さらにコーエン長官やNATOの将軍たちは、和平合意がなって実際にコソボのユーゴ陸軍が撤収を始めた様子がテレビに映るのを見て驚愕した。破壊されたはずの多数の装甲車や地対空ミサイルを積んだ輸送車が続々と現れて行進し、検問所を通過する兵士たちの表情にも打ちのめされた様子はほとんどなく、むしろ元気とさえ言えた。

 ユーゴ陸軍のラディノビッチ元副参謀総長(退役中将)は23日に共同通信社と会見し次のように謎解きをした。

「ユーゴ軍はコソボの要所に装甲兵員輸送車や地対空ミサイル、戦車、戦闘機などのビニール製模型を配し、NATO軍機のパイロットを欺くことに成功した。彼らが破壊したと思った戦車などの兵器の多くは偽物の模型で、本物の大半は無傷でコソボから撤収した」

「NATO軍機は撃墜を恐れてあまりにも高高度から爆撃したので民間人死傷者が不必要に増えた。反面、その方法では“動いている目標”には空爆効果がほとんどなかった」

 彼が単に強がりを言っているのでないことは、同じく23日付『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』でも明らかになった。同紙によればNATO司令部が軍事施設・兵器・兵員の破壊状況を過大評価していたこと、その原因の1つが、ユーゴ側が精巧に作ったダミーの戦車や迎撃ミサイル発射装置がNATO機のミスを誘ったことを自ら認めた。実は彼らは、攻撃の様子を収めたVTRを見て、標的が被弾した後に不自然な焼け方をしており、金属製ではないことに気づいていたが、空爆続行中には外部に対して伏せていた。

 味方に1人の戦死者を出すまいとするデジタル・ハイテク利用のリモコン戦争の、これが限界である。それで騙されまいとしてパイロットの目という原始的なアナログで補完しようとすると、とんでもない誤爆が増える。その矛盾が端的に現れたのが、助けるべき対象であるアルバニア系避難民まで大量に殺傷してしまうという、まったく何をやっているのか分からない愚かしい行為である。今後、セルビア人がいかに残虐行為を働いていたかの証拠がいろいろ掘り起こされるだろうが、NATOもまたユーゴ側の言うとおりだとすれば兵士を500人しか殺すことが出来ず、殺さなくてもいいアルバニア系を含む2000人民間人を殺してしまったとするなら、世界は「どっちもどっちだ」と受け止めて余り説得力を持つことはないだろう。

●人道的な空爆

 さて、先に述べた「民主的な空爆」の1つのバリエーションが「人道的な空爆」である。

 ある国の内部の人道問題を外圧で解決できるという考え方は、まず第1に、戦略論のレベルで間違っている。その人道問題や人権状況が国際社会が看過できないほど深刻であったとしても、多くの場合、そしてバルカンでは疑いの余地なく、1000年以上にも及ぶ長い歴史的経緯があって、その中で民族的・宗教的・文化的などの要因が複雑に絡み合ってそうなっているのであって、外の者が歴史への無理解と異文明への差別意識を浅薄な正義感で押し包んで善玉悪玉を判定して圧力をかけることで、何がしかの解を与えうると思うのが傲慢である。それはまるで、痛がっている病人の患部を切除して「さあ直りました」と言うばかりで、その病が起きてくる根源を治癒しようとしない藪医者のようなもので、それでは必ずもっと悪い形で再発しするに決まっている。

 こうした根深い対立を抱えた国や地域に対して、外の者が出来ることは、憎しみを和らげるようなねばり強い説得を通じた調停外交、相手の面子を傷つけない控えめな援助や緩衝措置の申し出、政府・国際機関やNGOを通じた文字通り人道的な救援活動の組織化……等々であって、そのようにして国際社会から届けられる“愛”の力が、自分らで問題を解決していこうとする当事者たちの意志を育てるのである。“憎しみ”を掻き立ててしまったのでは何にもならない。

 空爆が始まったころ、米国を筆頭に「主権より人権」というようなことが言われ、内外の知識人の中にはもはやグローバライゼーションとボーダレス化の時代には各国がお互いに主権を尊重して内政不干渉の原則を守り合うという従来の考え方は古くなったといった暴論まで現れた。

 これはボーダレス化の悪乗りというもので、“民主主義の伝道者”を気取るジョージ・ソロスがどこぞの独裁者が気に入らないからと言ってその国の為替相場を崩落させてほくそ笑んだり(通貨的空爆)、イスラエルのハッカー学生がクリントンの倫理的ふしだらに怒ってホワイトハウスのホームページに侵入して猥雑な写真を貼り付けたりする(電子的テロ)と同じ次元のものである。

●戦術的にも無理

 山崎正和という人は相当なインテリだが、それでもこの手の議論に惑わされて、「現代の良心的な人間にとって、大量虐殺のような悪徳はどこで起ころうと座視できないという自然な感情があ」って、そのような感情に基づく人類的な共感という一次的な価値が国境を越え始めた以上、「二次的な価値である国家主権がそれに服従するのは当然だろう」などと書いているのは(6月28日付読売)やや意外な感がある。

 現代に限らず、良心的な人間は誰でも、人間の尊厳に関わるような悲惨が地球上のどこで起ころうとも、それを我がことと受け止めて胸を痛め、何か少しでも自分に出来ることはないかと考え、行動してきた。情報がそれこそボーダレス化し、誰もが瞬時にして世界の果ての出来事まで映像で知ることができる今では、ますます多くの人々がそのような思いで生きている。しかしそれと、他国の国内の出来事に別の国が武力を用いて介入することが許されるかどうかということとは、問題の次元がまったく違う。

 A国とB国があって、そのどちらかが道徳的にも問題解決能力の上でも優れているなどということはありえないし、仮にあったとして誰がそれを判定するのか。それを自分が優れていると思う側が勝手にそう決めて相手国に介入する権利があるというのでは、世界はただの野蛮に戻ってしまい、例えばイスラム諸国連合軍がモニカ嬢を救うためにワシントンに侵攻してホワイトハウスを占拠するのも自由ということになる。国家的暴力という厄介な代物を何とかして押さえ込んでコントロールしようとし、そのために国連はじめさまざまな装置や戦争の不法化のための国際法体系を作ってきた、近現代を通じての国際社会の苦闘のプロセスを、ただの感情論で逆転させてはならない。

 クリントンはサミットの場でも、「人道介入」の正当性を盛んに主張したが、カナダやフランスはむしろ今回のケースを“例外”と見て、今後の先例とすることに慎重な態度をとっている。また28日からリオデジャネイロで開かれた中南米・カリブ海諸国とEUの48ヶ国首脳会議では、中南米側が強く要求して「内政不干渉の原則を尊重する」ことが政治宣言に盛り込まれた。

 第2に、人道問題を外圧で解決できそうなケースが仮にあったとして、その手段が空爆であるというのは、戦術論・技術論のレベルで間違っている。

 軍事目標だけに当たるミサイルとか軍人だけを殺す爆弾などというものはそもそもあり得ないし、出来るだけそうしようと相当努力したところで、ハイテク兵器の精度など知れているし、ましてユーゴの退役将校が指摘したように、自分が撃墜されないよう高々度から爆撃するのであればなおさら、民間人や無関係の民生用施設の“誤爆”や巻き添えが出るのは避けられない。つまり、空爆そのものが非人道的なのであって、それを人道問題解決の手段にしようという発想がすでに狂っている。

 しかも、米欧はアルバニア人のすべてが今にも殺されそうになっていると思ったのかも知れないが、コソボでは両者は昔から混在して暮らしてきたし、爆撃にさらされたベオグラードでさえ今なお多くのアルバニア人が住んでいる。彼らは、一般的には根深い対立感情を持っていて、時にはミリシアと一緒になって相手を袋叩きにしたりもするけれども、個別には仲良く隣人付き合いをしている場合も少なくない。そういうところに介入して両者を引き離す手段として、高々度からの爆撃くらい不適切な手段はない。

 さらに、当初の予定通り、軍事目標にだけ打撃を限定するというルールを厳守していればまだしも、ミロシェビッチを脅し上げる一方で民衆の怒りを彼に向けさせるという政治的な目的が入り込むと、何だかんだと理屈をつけて爆撃対象を広げる結果となり、それで余計に民間人の被害が大きくなった。

 どう考えても空爆は、この地域のこの問題を何とかするためには適切な戦術的選択ではなかった。

●NATOの戦争犯罪

 実際、NATO軍による意図的もしくは意図的でない“誤爆”は惨憺たる結果を招いた。主としてユーゴ側発砲に基づいていくつか例を挙げよう。

▼4月12日、レスコバツ近郊の鉄橋を通過中のギリシャ行き国際列車をミサイルが直撃、10歳の子供を含む10人が死亡、16人が負傷。

▼同日、クラグエバツの自動車工場が爆撃され労働者36人が負傷。

▼4月14日、コソボ州でアルバニアとの国境地帯から故郷に帰ろうと行進していたアルバニア人避難民の列が爆撃され70人が死亡、多数が負傷。

▼4月22日、ベオグラードの大統領公邸と社会党本部が「電話で指令・統制を行うセンター」とみなされて爆撃を受ける。

▼4月23日、ベオグラードの国営テレビ局が「非人道的な抑圧を煽る宣伝マシン」とみなされて爆撃され、15人が死亡、多数が負傷。以後、数日にわたりテレビ塔などへの爆撃が続く。

▼4月24日、コソボ州ドカノビチで家畜を放牧中の子供4人がNATO機の落とした不発弾に近づき死亡。

▼4月27日、南部スルドリツァで住宅地が誤爆され、500軒近い民家が破壊され、子供11人を含む20人が死亡、11人が負傷。

▼4月30日、ベオグラードで住宅地が爆撃され、市民の救難に当たっていた警官4人が死亡。

▼同日、ユーゴとの国境に近いブルガリアのソフィア郊外の民家にレーザー誘導弾が当たる(これが2度目)。

▼5月1日、コソボ州ルジャネ付近で橋の上を進行中のバスが爆撃され40人以上が死亡。

▼5月3日、コソボ州ペチで道路上のバスが撃たれ20人が死亡、10人が負傷。同日から発電所・送電線への“ソフト爆弾”(黒鉛を振りまいて電気をショートさせる特殊爆弾)の投下が始まり、停電で市民生活が重大な傷害を受け、特にほとんどの病院が自家発電装置を備えていないため患者に被害が拡大。

▼5月7日、南東部の全国第3位の都市ニシュで、中央病院と市場にクラスター爆弾(空中でバラバラになって落ちる集束爆弾)が落とされ、10人が死亡、50人が負傷。

▼5月7日、ベオグラードの中国大使館が爆撃され、女性記者など4人が死亡、重大な外交問題に発展。

▼5月14日、コソボ州コリシャ村で、隠れていた森から出て移動し始めたアルバニア系避難民の隊列にクラスター爆弾が大量投下され、87人が死亡、150人が負傷。

▼5月19日以降、コソボ州イストクの刑務所が爆撃され、アルバニア人政治犯を含めて一説では100人が死に200人が負傷した。NATOは「庭に警察部隊がいたので」と弁解したが、そりゃ刑務所だから警官はいますよね。

▼同日、別の町でバス会社など3つの会社のオフィスが爆撃され会社員4人が死んだ。

▼5月20日、ベオグラードの高級住宅地が爆撃にあい、デディエ病院にレーザー誘導ミサイルが当たって患者3人が死亡。

▼5月21日、コソボ州コシャレでアルバニア系のコソボ解放軍陣地が誤爆され7人死亡。

▼5月29日、コソボ州プリズレン近くのトンネルがミサイル攻撃され、近くにいた2人が死亡した。

▼同日、南部ニシェ近郊の村で爆撃があり、2人が死亡、子供3人と大人1人が負傷。

▼5月30日、コソボとマケドニアの国境近くを走行中の欧米記者団の車列が攻撃され、セルビア人運転手1人が死亡、英人記者と仏人学者が負傷した。

▼同日、中部バルバリンで橋が空爆され、市民11人が死亡。

▼同日、中部ヤシケ村で宗教的な行事に集まっていた正装した人々に爆弾が落とされ、9人が死んだ。1度目の攻撃で橋が崩れて、しがみついている人を助けるために近くの教会でミサ中だった司祭が飛び出してきて救援に当たっていたところ、2度目の攻撃があり、司祭の首が吹き飛んだ。

▼5月31日、スルドゥリツァの養老院と療養所にミサイル5発が撃ち込まれ、20人が死に50人が負傷。またオブレノバッツでは住宅や学校にミサイル4発が命中した。

▼同日、南部ノビパザルで町の中心部のアパートなどに20発のミサイルが撃たれ、20人以上が死んだ。

▼バルバリンでも9人が死に6人が行方不明。

▼6月1日、コソボとの国境近くのアルバニア領内にあるアルバニ
ア軍の機関銃座が誤爆された。

▼6月8日、ボルジェバツ近郊でミサイルが農家に撃ち込まれ4人が死亡。

▼同日、連邦第2の都市ノビサドの石油精製施設と住宅地が爆撃され市民1人が死亡、5人が負傷……。

 以上は、報道の中から主な事件を拾ってリストしたものだが、このなかでNATOが誤爆と認めて謝罪したのは一部だけである。カーター元米大統領はこの有様を見て、5月27日付のニューヨーク・タイムズに寄稿し「一般市民生活に対する破壊は無意味であまりに残忍だ。空爆作戦の成功を示唆するものはほとんど何もない」と強く批判し、少なくとも電気や水道など市民生活に必要な施設の攻撃や、殺傷力の大きいクラスター(集束)爆弾の使用は止めるべきだと主張した。またこの日、キューバ外務省スポークスマンは、旧ユーゴ戦犯法廷がミロシェビッチら5人を住民虐殺の罪で起訴したことに関連して「空爆で多数の死傷者を出しているNATO側の責任者が起訴されないのは不公平だ」と指摘した。

●環境・文化財の破壊

 キューバが言うのは正論で、第1に、一般住民と民生用施設に対する軍事攻撃は一連の戦争法・国際人道法のうち特に78年の「国際的武力紛争の犠牲者保護に関する第1追加議定書」で厳しく禁じられている。

 その第48条(基本原則)は「紛争当事国は、常に一般住民と戦闘員とを、また民用物と軍事目標とを区別しなければならず、従ってまた、その軍事行動を軍事目標に対してのみ向けなければならない」とし、「個々の文民、一般住民そのものを攻撃の対象としてはならない。一般住民の間に恐怖を広めることをその主たる目的とする暴力行為又は暴力による威嚇は、禁止する」(51条2)、「無差別攻撃は、禁止する」(同4)、「特に、次の形態の攻撃は、無差別とみなされる。予期される具体的かつ直接的な軍事的利益に比して過度の付随的な文民の生命の損失、文民に対する危害、民用物に対する損害、又はそれらの組み合せを生じせしめると予想される攻撃」(同5b)、「礼拝所、家屋その他の住居又は学校のような通常もっぱら民用目的に充てられる物が軍事活動に有効な貢献をするために使用されているかどうか疑いがある場合には、そのように使用されていないものと推定されなければならない」(53条3)、などと詳しく規定している。さらに57条(攻撃の際の予防措置)では、「軍事行動の実施に当たっては、一般住民、文民及び民用物を免れさせるために、不断の注意をはらわなければならない」として、具体的な措置を列記している。

 どう見ても、上述の“誤爆”例はすべてこれらに違反している。

 第2に、同議定書は55条(自然環境の保護)で「戦争においては、広汎な、長期の且つ重大な損害から自然環境を保護するために、注意を払わなければならない」としている。

 NATOの石油貯蔵施設や石油精製施設に対する徹底的な破壊は、それが軍事目標の範囲に入るのかどうかという問題を別にして、特にドナウ川に深刻な石油流出による汚染をもたらしている。

 またNATO軍はコソボで、特に戦車を破壊する目的で劣化ウラン弾を大量に使用した。ビンチャ核科学研究所のパブロビッチ研究員は共同通信社との会見で「(コソボに進駐した)約5万人の国際平和維持部隊が通常の数百倍もの放射能を浴びることは確実で、91年の湾岸戦争を経験した米軍兵士が体調異常を訴えているのと同様の症状がいずれ表れる」「イラクでは300トンだったがコソボではその数倍を使った。影響の大きさは湾岸戦争の比ではない」と警告した。

 劣化ウランが長期にわたって生態系に及ぼす悪影響は深刻で、同様にNATO軍が劣化ウラン弾を使ったボスニア・ヘルツェゴビナでは、異常出産や癌患者の大量発生、農産物の放射能汚染が多数報告されている。

 同研究員によると、乾燥地帯のイラクと違って、起伏が激しく四季がはっきりしたコソボでは、雨水によって劣化ウランが地中に染み込み、遠くアドリア海と黒海にも汚染が拡大する恐れがあるという。

 ペンタゴンは劣化ウラン弾の使用を否定しているが、4月29日付米紙クリスチャン・サイエンス・モニターは「イタリア・アビアノ基地でA10攻撃機用に劣化ウラン弾を用意する米兵」の写真を1面で掲載し、4ページの大特集でその危険さを告発した。

 第3に、同議定書は53条(文化財及び礼拝所の保護)で、「自民の文化的又は精神的遺産である歴史上の記念建造物、芸術作品又は礼拝所に対して敵対行為を行うこと」を禁じている。

 ユーゴは歴史の奥深い土地で、数々の文化遺産があるが、同国のペリシッチ=ユネスコ大使は6月1日パリで記者会見し、NATO空爆でユネスコの世界遺産に登録されているユーゴ南西部ノビパザルのスタリラス修道院地区などユーゴ全土の文化遺産が「危機に瀕している」と訴えた。

 スタリラス修道院地区は9〜13世紀に建造された中世セルビアの代表的な遺跡で、79年に世界遺産に登録されたが、近くへの空爆で骨組みや外壁が傷んでいる可能性がある。またコソボ自治州グラチャニツァでは、世界遺産に仮登録されている14世紀のセルビア修道院で壁のフレスコ画にひびが入ったほか、15〜16世紀のイスラム寺院も被害を受けているという。

 ベオグラードの政府庁舎や北部ノビサドのボイボディナ自治州政庁も重要な歴史的建造物だが、空爆で破損した。

 こうしたNATOの行動は、戦争法・国際人道法違反である疑いが濃厚であり、旧ユーゴ全域での非人道的行為を裁くために、ボスニア紛争をきっかけに国連が開設したハーグの旧ユーゴ戦犯法廷がこれを取り上げて審理しないのは不公正である。

●ミロシェビッチの追及

 もちろんそのことは、ミロシェビッチ政権の非人道性を免罪するものではない。彼がコソボでのユーゴ軍及びセルビア人ミリシアによる残虐行為に政治的な責任を負う立場にあることに疑いの余地はなく、今後コソボに進駐した平和維持部隊や、最終的には300人になる大規模な旧ユーゴ戦犯法廷の調査団によって、数々の具体的な証拠が突きつけられ追及を受けることになろう。

 英外務省によると、すでにこれまでにも、各地で主にセルビア武装勢力によるとされるアルバニア系住民らの虐殺の実態が続々と明らかになっている。過去3カ月間にコソボ各地の約100カ所で約1万人が「民族純化」で虐殺されたと英外務省は概算している。英外務省高官は「人間が同じ人間である子供らに銃弾を浴びせ、集団レイプし、多数の墓を掘り、証拠隠滅のため遺体を焼いた。信じ難い行為がコソボで起きた」と強調した。

 ただし、そのような追及が予断と偏見に基づく一方的かつ感情的なものとならないようにするために、いくつかの留意事項があるはずである。

 第1に、コソボの紛争を通じて、セルビア人だけが残虐行為を働いてアルバニア人はただ一方的にやられるばかりの可哀想な人たちだという思い込みから出発してはならない。

 上述のように、これは1000年以上にわたる確執の1場面であって、そこだけを脈絡抜きに切り取って「お前が悪い」と決めつけるようなやり方は何も問題を解決しない。

 ここ数年の経緯を見ても、ボスニア紛争が始まった後も総じてコソボは平穏というか、少なくとも血で血を洗う抗争は広がっていなかった。内戦状態になったのは、98年3月に米欧の支援で格段に武器も強力になったアルバニア人ゲリラがセルビア人の村を襲うようになり、それに対してクロアチアやボスニアから避難もしくは撤収してきたミリシアも合流して報復作戦を開始し、その間ユーゴ軍は、もちろんセルビア人側に立っているとはいえ、基本的にはコソボの治安を維持するというスタンスで行動した。また住民同士の間で抗争も起きたとはいえ、多くの場所では彼らは共存しており、隣人同士で協力さえしていた。

 法廷のミロシェビッチへの起訴状は、今年1月以降5月下旬の起訴時点までに「74万人のアルバニア人を強制追放し、348人以上を殺害した」ことを主な罪状に挙げているが、よく知られているように、NATOの空爆以前は国外難民は10万人のオーダーに留まっていたのであり、空爆が始まったために多くの人々が逃げ出して急増したのであって、別にミロシェビッチが追放したわけではない。348人の殺害というのも(それがたとえ英外務省の言うように1万人であったとしても)上述のややこしい関係の中で内戦状態が深まっていく過程で起きたことで、彼の命令一下、組織的に行われたという筋合いのものではないしその証拠も少なくとも起訴状には書かれていない。国際法廷が単なるプロパガンダの道具に自らを貶めては自殺行為である。

●民族浄化?

 第2に、ミロシェビッチの残虐さを際だたせるために、まこと安易に“民族浄化”という言葉が乱用されるが、それを言うなら、ナチス支配下のクロアチア王国で、ウスタシャというナチス親衛隊的なパラミリタリー組織がセルビア人を徹底弾圧し、収容所などで約70万人を虐殺したとされていることが、それ以前の歴史は別にして、現代的な民族浄化の始まりであることに目を向けなければならない。

 91年にクロアチアが一方的に旧ユーゴから独立を宣言した際には、クロアチア在住の57万人のセルビア人が武器を持って抵抗しようとして弾圧され、20万人以上のセルビア人が故郷の家を焼かれて難民と化した。また、クロアチアの独立に刺激されてこれも旧ユーゴから独立を宣言したボスニアでも、多数派のモスリムがセルビア人を浄化した。そのいずれの場合も、米欧が浄化された側のセルビア人のために人道的空爆をすることはなく、むしろ逆にセルビア人を叩く側に回った。

 クリントンが希望しているように人道的な介入や空爆が新しい国際法理となるためには、その場の思いつきや先入見によって恣意的に適用されるのではない、誰もが納得できる基準とルールが伴わなければならない。

 そして第3に、NATOは自らの戦争犯罪嫌疑に対して頬被りするような態度をとってはなるまい。旧ユーゴ戦犯法廷は、NATOであろうとアルバニア人ゲリラであろうとムスリムであろうと、公正な裁きをする必要がある。

 さて、冒頭に指摘したように、米欧は、自分らが育てたアルバニア人ゲリラに「コソボ解放軍」というもっともらしい名称を与えてランブイエ合意の当事者として国際的に公認し、その時にはこれを核としてコソボを独立させる方針だったが、それを中途半端に取り下げた。これまでは、ゲリラと闘って秩序を維持しつつ双方の融和を計っていくことは専らユーゴの責任に属していたのに対して、NATOはそれを無理矢理に肩代わりした格好になった。

 いくら自治州とはいえユーゴの領土であることに疑いの余地のないものを、奪い取るようにして独立させれば、ユーゴとの全面戦争は避けられまい。かといって、アルバニア人に自治州の中でおとなしく暮らせと言って今さら収まりがつくのだろうか。はまり込んだ溝は深い。▲

2008年2月14日

INSIDER No.429《CAPITALISM》金融資本主義に破滅回避の道はあるのか?──春山昇華『サブプライム問題とは何か』を読もう!

 レーニン『帝国主義』を読もうというのは半ば冗談だが、米国内の住宅ローンの返済遅滞がなぜ米欧各国の政府・中央銀行が銀行救済に乗り出すような世界的な金融システムの危機に繋がるのかを少し突っ込んで知るには、春山昇華『サブプライム問題とは何か』(宝島新書)を読むべきである。著者は国際投資の専門家で、96年から個人投資家向けのブログ「おかねのこねた」を主宰、その記事をベースにまとめた、これもいま流行のブログ本である。昨年11月に出版されてすでに6刷を重ねている。その結論もまた私と同じく、今回の事態が「アメリカ帝国の終わりのはじまりなのかもしれない」(P.194)ということである。

ブログ「おかねのこねた」:
http://www.doblog.com/weblog/myblog/17202

●市場と国家という古くて新しい問題

 レーニンは、大銀行の支配が全産業・全社会を覆い尽くし、政治までをも従属させつつある金融寡頭制的な金融独占資本主義=帝国主義の放埒は、やがて主要国の間の全世界的な市場と資源の分割をめぐる戦争を引き起こして破滅的な結末を迎え、その瓦礫の中から、より高度で合理的な社会主義の生産システムが立ち上がって資本主義に置き換わると考えた。実際、20世紀の世界は2度に及ぶ破滅的な大戦争を体験し、それを通じて彼はロシアにおいて初の社会主義国家を創設したが、世紀末になってみれば、生き残ったのは資本主義で、自滅したのは旧ソ連をはじめ社会主義の方だった。市場の働きを全く無視して、産業と金融を国有化して官僚の統制に任せるという、高度でも合理的でもない稚拙な方法では、そうなったのも当然だが、しかし金融資本主義のやりたい放題に何らかの社会的規制を加えなければ資本主義そのものが破滅するというレーニンの命題は、依然として、と言うより、ますます正しい。

 結局のところそれは、市場での自由競争の暴走による失敗と、それに対する国家の過剰な介入による失敗とを、共に回避する道筋はあるのかという、古くて新しい難問を我々がまだ抱え続けているということであり、そこで、ソ連型社会主義は解決策にならなことが明らかとなった後では、次のような選択肢が検討課題となるだろう。

(1)欧州の社民政権が模索している、市場経済を原理としつつも、誰も彼もが同等に競争に参加出来る強者であるはずもない以上、強者に対する社会的規制と弱者に対するセイフティー・ネットとを政府が手厚く用意しなければならないとする「第3の道」路線の多様な模索も、つまりはコントロールされた市場経済を目指すものだが、それはどこまで有効で、しかもその規制と自由の適切なバランスはどこにあるのか。

(2)中国型の「社会主義市場経済」、すなわち一部は社会主義的に制御された市場経済というのは、これまでは「共産党一党独裁の下で市場経済を発展させることなど出来るはずがない」という幼稚な偏見に晒されていたけれども、もしかしたら米欧型の金融資本主義を超える、コントロールされた資本主義の別のモデルになるのではないか。少なくとも北京指導部は、日本のバブルとその崩壊、今日の米欧銀行の破綻を深く研究しつつ、「我々のやり方ならあんな風にはならない」と考えているのではないか。

(3)カネがカネを生む利子収入を原理的に禁じた「イスラム金融」という方式は、米欧型の金融とは異質の、金融の節度についての確固たる信念を指し示していて、世界はそれに学ぶことが出来るのではないか。

●世界政府・世界中央銀行が必要?

(4)さらには、世界政府と世界中央銀行という構想はどうか。これについては昨年8月21日の本欄「サブプライム問題ごときでなぜ世界がガタガタするのか?」の末尾で、そのしばらく前の「サンデー・プロジェクト」の楽屋で中原伸之=元日銀審議委員、水野和夫=三菱UFJ証券チーフエコノミストの両氏と私が交わした次のような禅問答風の会話を紹介しておいた。

高野「結局、サブプライム問題というのは単なる住宅ローン問題で
なく、アメリカ経済の放埒の象徴なんですよね」
水野「そうです。カネ、カネ、カネの欲望がどこまでも広がる」
高野「マネーの無政府性が解き放たれて誰も制御できない」
水野「だから、世界中央銀行が必要なんですね」
中原「いや、そうなると(金融だけでなく)税もやらないと」
高野「あ、世界政府ですか」
中原「そう」

 世界政府・中央銀行が出来る現実的な可能性はゼロに等しいが、今日の事態の論理的な帰結はそれなのかもしれない。とすると、世界政府は無理でも、せめて主要国サミットが経済政策調整という本来の機能を取り戻して、そのためにはロシアだけでなく中国やインド、さらにはイスラム代表なども正式メンバーに迎え入れて、世界資本主義の救済方法について議論すべきではないか。7月洞爺湖サミットでは地球温暖化対策が主な議題となるとされているが、それよりも遙かに重大かつ緊急な課題がここにある。

 春川も書いている(P.169〜171)。

▼この数年、マネーサプライや金利のコントロールの面で、にわかに状況が変化し…中央銀行が金利を引き締めても、市場金利は上昇しなくなった。市場勢力が債券市場に資金を流入させ続けているからだ。…市場勢力とはいわゆるヘッジファンド、ブライベート・エクイティ・ファンド(未公開株投資)、LBOファンド(レバレッジド・バイアウト=企業買収等への投資)だ。…銀行も多数のファンドを設定しており、市場勢力の一翼を担っている。

▼市場勢力に流入する資金は近年、とてつもないスピードで増大している。国境を越えた存在となった大量の資金は、地域・通貨・時間を超えて調達・運用・投資され…そこでは、効率性、資産の増殖スピードの速さ、国境を超えた普遍性という基準が優先される「市場経済民主主義」の社会である。

▼一方、それに対抗する政府などの体制側には、世界政府とか世界中央銀行というものは存在しない。個々の政府・中央銀行が自国の金融機関を独立して監督しており、国際的な連携プレーは少ないのが現状だ。国境があって、内政不干渉であることが近代国家の基本原則である…のに反して市場勢力は利害が一致すれば誰とでも連携し、競争も激しい。どちらの側が進歩が速いかは明白だろう。

▼[そのため]中央銀行などがとる行動は歴史的に見ると徒労に終わってきた。…これは、いわゆる少数エリートによる失敗と言われている。今や市場参加者という多数の目(=集合知)の方が遙かに効率的に物事を観察・判断している…。

 アダム・スミスが「神の見えざる手」と呼んだものを、Web2.0用語を使って「集合知」と言われると、ややたじろいでしまうが、確かにグローバル化した金融市場のカネ、カネ、カネの欲望のあくなき追求に対して、国家はほとんど無力で、失敗を続ける以外にないのである。しかしそれでは、資本主義は自損する。

 問題は、実体論的には電子的手段によって極大化しグローバル化したマネーの無政府性と未だ国境の中に留まっている政府・中央銀行との矛盾、本質論的には金融と人々の暮らしぶりという意味での経済との乖離にある。それをどの方向に打開すればいいかについての哲学的ないし文明論的議論が客観的には求められているサミットで、福田康夫首相がイニシアティブを発揮する可能性はもちろんゼロである。(《ざ・こもんず》2月14日掲載)▲

INSIDER No.428《SUBPRIME》レーニン『帝国主義』を読もう!?──G7サブプライム対策の不毛

 10日のサンプロに、その前日に東京で開かれたG7(7カ国蔵相・中銀総裁会議)を終えたばかりの額賀福志郎財務相が出演して、サブプライム問題をきっかけとした世界金融システムの動揺について、全く危機感のない緩んだ話を綿々しているのにだんだん腹が立ってきて、思わず「レーニンの『帝国主義』でも読んだらどうか」と、あらぬことを口走ってしまった。発言を記憶に従って再現すればほぼ次のような趣旨だった。

 「金融商品の透明化を図るとおっしゃいますが、根本的な問題は、1つは、さきほど額賀さんが言及した“金融安定化フォーラム”がG7に対して提出した中間報告がサブプライム・ローンについて『詐欺的な融資慣行が横行している』と言っているわけで、まずアメリカ国内の問題としてこんな詐欺まがいのローンを止めさせなければならない。もう1つは、さらなる詐欺的行為として、その怪しいサブプライムを束にしてさらに別のローンの束と一緒にして証券化して金融工学なるもので数式をまぶして『ほれこのようにリスク分散されていますよ』と言いくるめて売り飛ばすというやり方。これはインチキなビーフ・ハンバーグみたいなもので、豚肉が混じっていたからその部分だけ取り除けと言ってもミンチになっているから今更取り出せない。だから透明化は無理なんですね」

 「私は、G7の皆さんにレーニンの『帝国主義』の勉強会を開いて貰いたいと思います。本来は産業に対する“控えめな仲介者”であった銀行それ自体が独占体となって産業を支配し、そうなると資本主義はモノ作りを通じて富を生産するという本来のあり方を失って、金利が金利を生む金融詐術(騙しのテクニックですね)によって利潤を生むようになって、資本主義が腐っていく——と言っている。アメリカ流というかアングロ・サクソン式の金融資本主義の根太が腐って底が抜け始めている。レーニンが100年前に言っていたとおりのことが今まさに起きているんですよ。そういう根本的な構造問題にメスを入れることなく“透明化”なんて言っていてもしょうがないじゃないですか」

 それに対する額賀の返答は、引き続きムニャムニャしたもので、何を言ったか私はよく覚えていない。まあ、財務相に対して「レーニンを読め」などとガサツなことを言う人はいないだろうから、彼も戸惑ったことだろう。番組後、隣にいた司会の寺崎貴司が「そうですか、レーニンが100年前に言っていたんですか」と盛んに感心し、番組スタッフの何人かも同じことを言い、さらに昼食会の席で田原総一朗さんが「いやあ、サンプロでレーニンが出てくるとは思わなかった。レーニンは死んだと思われていたけど、日本で生きていた」と面白がってくれたので、私は「額賀がモッチャモッチャラ言っているので段々腹が立って来て、思わず言ってしまった。どうも、私の歪んだ基礎教養が出てしまって、すいません」と茶化した。

 家に帰って、私の要約の仕方が正しかったかどうか気になって、『帝国主義』(岩波文庫)を読み直した。要点は以下の通り。

●レーニンの見通しは正しかった

▼ケストナーはこう書いている。「純経済的な活動の部面でも、従来の意味での商人的活動から組織的=投機的活動へのある推移が起こっている。最大の成功を収める者は、自分の技術的および商業的経験にもとづいて、顧客の欲望をもっとも正確に理解し、まだ潜在的な状態にある需要を発見して、これをいわば『あかるみに出す』ことのできる商人ではなくて、組織の発展と、個々の企業と銀行のあいだの特定の結びつきの可能性とを、予測できるか、あるいは予感だけでもできる投機的天才(?!)である」。普通の人の言葉に翻訳すれば、これは次のことを意味する。すなわち、たとえ商品生産は従来どおり支配的で全経済の基礎と考えられるにしても、しかし実際には、それはすでに破壊されており、主要な利潤は金融的術策のの“天才たち”の手に帰するようになるほどに、資本主義の発展は進行した、ということである。これらの術策と詐欺との基礎には生産の社会化があるが、やっとこの社会化までこぎつけた人類の巨大な進歩が、なんと、投機者を利するようになっているのだ(第1章、P.45)。

▼銀行業務の発展と少数の銀行業務の集積とにつれて、銀行は仲介者という控えめの役割から成長転化して、資本家と小経営主との総体の貨幣資本のほとんどすべてと、またその国やいくたの国々の生産手段および原料資源の大部分とを自由にする、全能の独占者となる。多数の控えめの仲介者からひとにぎりの独占者へのこの転化は、資本主義的帝国主義への資本主義の成長転化の基本的過程の1つをなすものである(第2章、P.51)。

▼少数者の手に集積されて事実上の独占を享有している金融資本は、会社設立、有価証券の発行、国債の引受、等々によって、巨額の、しかもますます増大する利潤を獲得し、こうして金融寡頭制の支配を強化し、全社会に対して独占者への貢物を課している(第3章、P.89)。

▼資本の所有と資本の生産への投下との分離、貨幣資本と産業資本あるいは生産資本との分離、貨幣資本からの収益によってのみ生活している金利生活者と企業家および資本の運用に直接たずさわっているすべての人々との分離——これらは資本主義一般に固有のものである。帝国主義とは、あるいは金融資本の支配とは、このような分離が巨大な規模に達している資本主義の最高段階である。他のあらゆる形態の資本に対する金資本の優越は、金利生活者と金融寡頭制の支配を意味し、金融上の“力”を持つ少数国家がその他すべての国家に対して傑出することを意味する(第3章、P.98)。

▼帝国主義とは…ある少数に国々における…貨幣資本の膨大な累積である。その結果、金利生活者、すなわち“利札切り”で生活している人々、どのような企業にもまったく参加していない人々…の階層が、異常に増加するようになる。帝国主義のもっとも本質的な経済的な基礎の1つである資本輸出は、金利生活者の生産からの分離のこの完全な離脱状態をさらにいっそう深め、いくつかの海外の諸国や植民地の労働の搾取によって生活している国全体にたいして、寄生性という刻印を押す(第8章、P.162))。

▼輸出の増加はまさに、金融資本の詐欺的な術策と結びついているのであって、この金融資本は、ブルジョア道徳などにはおかまいなしに、1頭の牛から2枚の皮を剥ぎとるように…」(第9章、P.189)。

▼独占は銀行から発生した。銀行は控えめな仲介的企業から金融資本の独占者に転化した。もっとも進んだ資本主義国はどの国でも、3つか5つぐらいの最大銀行が、産業資本と銀行資本との“人的結合”を実現し、全国の資本と貨幣収入の大部分をなす幾十億の金の支配権をその手に集中した。現代ブルジョア社会の、例外なしにすべての経済機関と政治機関の上に従属関係の濃密な編みを張り巡らしている金融寡頭制——これこそが、この独占のもっとも鮮やかな現れである(第10章、P.200)。

▼帝国主義の諸傾向の1つとして、“金利生活者”、高利貸国家の形成ということが、ますます明瞭にあらわれてくる。この国家のブルジョワジーはますます資本の輸出と“利札切り”とによって暮らしている(第10章、P.201)。

 ということなので、私のとっさの要約はそう間違っていなかったことになる。問題は、ここでレーニンが言っている金融寡頭制が、およそ100年後の今日、その中心が米国に移り、なおかつコンピューターとインターネットという電子的手段を得て、彼には全く想像もできなかったほどにまで肥大化したことである。

●スーザン・ストレンジの警告

 金融の電子的肥大化について、真っ先に警鐘を鳴らしたのは、私の知る限り、スーザン・ストレンジの『カジノ資本主義』(岩波書店、88年刊)。この書は、訳書が刊行された直後からインサイダーでは何度か引用しているが、改めて要点をまとめておこう。

▼西側世界の金融システムは急速の巨大なカジノ以外の何物でもなくなりつつある。毎日ゲームが繰り広げられ、想像できないほど多額のお金がつぎ込まれている。夜になると、ゲームは地球の反対側に移動する。世界のすべての大都市にタワーのようにそびえ立つオフィス・ビル街の部屋々々は、たて続けにタバコに火をつけながらゲームにふけっている若者でいっぱいである。彼らの目は、値段が変わるたびに点滅するコンピュータ・スクリーンでじっと注がれている。彼らは国際電話や電子機器を叩きながらゲームを行っている。彼らは、ルーレットの円盤の上の銀の玉がかちっと音を立てて回転するのを眺めながら、赤へ黒へ、奇数か偶数へ自分のチップを置いて遊んでいるカジノのギャンブラーに非常に似ている。

▼カジノと同じように、今日の金融界の中枢ではゲームの選択ができる。ルーレット、ブラックジャックやポーカーの代わりに、ディーリング——外国為替やその変種、政府証券、債券、株式の売買——が行われている。これらの市場では先物を売買したり、オプションあるいは他のあらゆる種類の難解な金融新商品を売ったり買ったりすることで将来に賭をできる。遊び人の中では、特に銀行が非常に多額の賭をしている。きわめて小口の相場師も数多くいる。アドバイスを売っている予想屋も、騙されやすい一般投資家を狙うセールスマンもいる。この世界的な金融カジノの元締めが大銀行と大ブローカーである。…国際金融システムを賭博場と非常に似たものにしてしまった、何か根本的で深刻な事態が起きたのである。それがいかにして生じたのかは明らかでない。

▼確かなことは、それがすべての者に影響を及ぼしていることである。自由に出入りができるふつうのカジノと、金融中枢の世界的カジノとの間の大きな違いは、後者では我々のすべてが心ならずもその日のゲームに巻き込まれていることである。通貨価値の変動は農民の農作物の価値を収穫前に半減させてしまうかもしれないし、輸出業者を失業させてしまうかもしれない。金利の上昇は小売商の在庫保有コストを致命的なまでに引き上げてしまうかもしれない。金融的利害に基づいて行われる企業買収が工場労働者から仕事を奪ってしまうかもしれない。大金融センターのオフィス街のカジノで進められていることが、新卒者から年金受領者まですべての人々の生活に、突然で予期できない、しかも避けられない影響を与えてしまうのである。金融カジノでは誰もが“双六”ゲームにふけっている。サイコロの目がうまく揃って突然に幸運をもたらすか、、あるいは振り出しに戻してしまうかは、運がよいかどうかの問題である。

▼このことは深刻な結果をもたらさざるを得ない。将来何が起きるかは全くの運によって左右されるようになり、熟練や努力、創意、決断、勤勉がだんだん評価されなくなる。そうなると社会体制や政治体制への信念や信頼が急速に消えていく。自由な民主社会が最終的に依拠している倫理的価値への尊敬が薄らいでいく危険な兆候が生じる(以上第1章)。

▼はるかに重大なことは、この不況の経済シナリオの政治的影響である。一世代全体が経済システムに幻滅し、デフレーションとスタグフレーションが代わる代わるにやってくるジェットコースターから逃れることができない時、政治的反作用が必ず生じる。1930年代のヨーロッパの経験は2つの共通の対応があることを示唆している。1つはあらゆる種類の政治に対する完全な反発、第4共和制下のフランスで多分頂点に達したような精神的無気力である。いま1つは、アドルフ・ヒットラーのようなデマゴーグ、政治的売薬行商人の後に従うことである、デマゴーグは、ごたまぜの社会的偏見を激しい国民感情を喚起するインチキな歴史とインチキな科学の中に包み込むであろう。前者の場合には政府は弱く、不安定になる。後者の場合には、政府は野蛮で、堕落し、弾圧的で、しばしば攻撃的になる。これらの政治的帰結は、いずれ国際関係に波及する。…共通の価値を持った自由民主主義国の同盟を維持することがますます困難になる。将来がどうなるかについてのビジョンの欠如は、現在の道徳も損なってしまう。アメリカはしばらくの間、おそらく現在のように軍事的、政治的、経済的に支配的な立場からする特権的免疫を享受できるであろう。アメリカは、自分の思い通りに進み、多国に苦痛に満ちた調整を引き受けさせるために、軍事的保護者として、あるいは干渉主義のおせっかい屋として、あるいは主要貿易相手国としてその交渉力を発揮できるだろう。しかし、最終的には、そのようにして同盟を繁栄させたり、維持することはできない(第7章)。

 事実上無制限の電子空間での金融取引が、限りある地球上での実物経済の100倍にも達しようかという、レーニンも想像しなかったほどの金融的ふしだらの果てに、典型的には、石油が実物としては需給が逼迫していないというのに先物相場に乱入した一握りのギャンブラーたちのせいで史上空前のレベルにまで高騰し、世界中の人々の暮らしに打撃を与えているといった事態が、ますます深刻化する。そのギャンブラー達は、サブプライム問題で証券化された金融新商品ではゲームが続けられないので石油に目を付けたのである。このような電子的カジノの創設者であり推進者である米国は、これまではそうやって世界中から資金を環流させてその借金で自分らの生活を膨らませる特権を享受してきたが、いよいよそれが立ち行かなくなって、同盟国を引き続き協力させるための方策も尽きているというのが、G7が直面している本当の問題であるというのに、彼らは「金融商品の透明化」などと間抜けなことを話し合ってそれさえも有効な解決策を見いだすことができなかった。私の1年半前の著書のタイトル『滅びゆくアメリカ帝国』がますます現実のこととなりつつある。(《ざ・こもんず》2月11日掲載)▲

2008年2月 6日

INSIDER No.427《ASAHI》きちんと取材もしないで中傷記事を書く朝日新聞商法にご用心!──5日付デタラメ報道への反論

 5日付『朝日新聞』経済面「くらしとマネー」欄(首都圏版のみ?大阪では出ていなかった)に「未公開株商法にご用心/『近く公開』も実際は上場せず/違法な無登録業者も」という記事が載った。

*記事全文:
http://www.asahi.com/business/topics/TKY200802050024.html

 要約すると、千葉県内の自営業者Aさんが04年秋にコンサルタント会社「ビー・ウッド」(本社・東京都港区)からの勧めに応じて、2年後に上場予定のIT会社の未公開株5株を100万円で購入し、また05年夏にも別の未公開株を計50万円で購入したところ、両者とも2年以上経っても上場の動きがないため、07年夏に返金を求めたが、返ってこなかった。ビー社側によると、投資相談などのテレマーケティングをしていたころの顧客リストなどに基づき延べ40人前後に電話で購入を勧誘。ビー社は登録をしておらず、株の売買・仲介をするのは法律違反だ。大森社長は「法には抵触していないという認識だったが、問題があったことは弁護士などから指摘された。真摯に受け止めたい」と釈明しているが、金融庁担当者は、無登録業者がこれほど堂々と株取引をしていたケースは「まれだ」と話す、と。

 ここまではともかくとして、同記事はその後半で「HPに著名人の顔写真」という小見出しを立てて、ビー社が我が「ざ・こもんず」のサポーター企業となっていたことが「未公開株詐欺事件」に利用されたという趣旨を強調する。その部分を上記asahi.com掲載の記事から引用する。

(1)ビー社が株を売った2社は、ホームページ上で大手損保代理店向けの事業を実績に挙げたり、出願中の特許があることを示したりしていた。両社とも「上場を目指していたが、予想外の障害で実現していない」と説明する。実際にどの程度上場の可能性があったのか、業界に詳しくない人が見極めるのは難しい。

(2)Aさんも両社の株を購入後、不安になった。他にも未公開株詐欺事件が多数報じられたためだ。そのとき、Aさんを安心させた一つは、ビー社のホームページだった。

(3)最初のページに「ビー・ウッドの事業に各界著名人が参画」とうたい、評論家の高野孟氏や田原総一朗氏の顔写真を大きく掲載。2氏をはじめとした評論家や政治家、マスコミ関係者らが寄稿する「ざ・こもんず」というネットコラム集への会員登録の入り口になっている。

(4)「ざ・こもんず」は高野氏と高光産業(福岡市)が共催、全国約200社のスポンサー企業から資金提供を受けている。ビー社はその一つとして月20万円を提供。高野氏は「(未公開株勧誘と)こもんずとは何の関係もない」としている。ただ、スポンサーの審査は「していないと思う」と話す。

(5)ビー社は、未公開株売買とスポンサーになった時期とは違う、としているが、Aさんから見れば、著名人への信頼をうまく利用された形だ……。

●ベンチャー精神そのものへの反感?

 順番に検討しよう。

 第1に、朝日の見出しは「『近く公開』も実際は上場せず」と断定的に書き、後半部分の(1)で「実際にどの程度上場の可能性があったのか、業界に詳しくない人が見極めるのは難しい」と、2社の上場話が初めからインチキだったかのように臭わせているが、上場を目指すベンチャー型の企業が出願中の特許などを含めて実績を宣伝するのは当たり前だし、それが予定通り行かなくて上場が先延ばしになるのも当たり前だし、そのことを「業界に詳しくない人が見極めるのは難しい」のも当たり前だし、見極められなければ投資しないのが当たり前である。業界に詳しい人、あるいは当該企業でさえもベンチャー上場の確実性を保障出来るはずがなく、だからこそベンチャーなのである。米国ではベンチャー投資は10社に9社は失敗するのが前提で、投資家は10社に投資してその内1社が当たってその株価が上場後に10倍になれば元は取れるというつもりで投資する。株式投資を一切しない私でも知っているそのようなベンチャー上場のハイリスク・ハイリターン原則を知らないでAさんが勧誘に応じたとすれば、それは基本的には投資家としての自己責任の問題である。しかも、ビー社の説明によれば、同社は「(そのリスクについて)十分に情報開示をしてきたし、その両社は今なお上場をめざして頑張っている」という。もしビー社が「2年後には必ず上場し、必ず儲かります」というセールストークをしていたとしたらそれは問題だが、「予想外の障害で」上場が達成出来ていない企業を「上場せず」と、初めから上場する可能性がなかったかもしれないような言い方で断罪するというのは、ベンチャー精神そのものを叩き潰そうとする意図が朝日にあったのではないか。

 第2に、記事は「ビー社は登録をしておらず、株の売買・仲介をするのは法律違反だ」と言い、「無登録業者がこれほど堂々と株取引をしていたケースは『まれだ』」という金融庁担当者の談話を引き出しているが、少なくともビー社とAさんとの間でこの取引が行われた当時、この辺はグレーゾーンだった。ビー社は、上場を目指す2社の資金調達を含む経営コンサルティングを業務としていて、その一環として「投資相談などのテレマーケティングをしていたころの顧客リストなどに基づき延べ40人前後に電話で購入を勧誘。……大森社長は『法には抵触していないという認識だったが、問題があったことは弁護士などから指摘された。真摯に受け止めたい』と釈明した」と朝日は書いているが、この意味は、ビー社はコンサルタント業務先である2社の資金調達のため、不特定多数ではなくビー社の手元にある既存の顧客リストを中心に「延べ40人前後」の限られた数の顧客に対して2社の上場可能性を含む将来性をアピールして相対の個別取引の形で出資を求めたのであって、当時はそのことに明白な違法性はなかった。ただし、当時でも違法であったかもしれないのは、Aさんが拠出した投資資金をビー社が預かって預かり証を発行し手数料を受領した上で残りを発行元の2社に手渡したことであって、これを、両社とAさんの間で決済して後に株の発行元である両社からビー社が手数料を受け取るということであれば、少なくとも当時は、明白な違法性はなかったのではないか。株の発行元でない第3者が出資を取りまとめたり預かり証を出したりするのが違法とされたのは最近の判例による。

 これはホリエモン事件の場合と同様で(インサイダーNo.341、342、357など参照)、法のグレーゾーンに踏み込んで金融的イノベーションを達成しようとする冒険者に対して、マスコミが“後出しジャンケン”のような狡賢くも安全な立場に身を置いて、不道徳性ならまだしも違法性を盾にとって過去に遡って断罪するという構図である。このようなマスコミの保守性というか官僚迎合性が、いまこの国に一番求められているベンチャー精神の自由闊達な発揮を殺すのである。

●未公開株に投資する投資家の自己責任

 第3に、Aさんが騙されたのは、怪しい企業が「ざ・こもんず」の入り口をHPに貼り付けて田原や高野らの名前を掲げていたからだというのは本当か。

 朝日の記事では(2)のようにAさんが「両社の株を購入後、不安になった」が「安心させた一つは、ビー社のホームページだった」と、“購入後”の影響という風に巧みにズラして書いているが、佐藤某という記者がビー社に対して取材し、私に対して電話取材して来た時には、Aさんが株を買ったこと自体が「ざ・こもんず」の入り口がビー社のHPに田原や高野の名前が出ていたので信用したからだという想定に立っていた。

 ビー社の私に対する説明によると、Aさんが両社の株を買ったのは04年秋から05年夏のことであるのに対し、ビー社が「ざ・こもんず」のサポーター企業となってその入り口をHPに貼り付けたのは06年7月のことである。このことについて、ビー社は佐藤記者に契約書等を示して繰り返し説明したが、彼は「Aさんが田原や高野らの名前に騙された」との想定を変えることなく、(5)にあるように「著名人への信頼をうまく利用された形だ」と断定した。

 ちなみに、新聞本紙の記事では、上述(4)〜(5)の部分は、「ただ、スポンサーの審査は『していないと思う』と話す。Aさんから見れば、著名人への信頼をうまく利用された形だ」となっており、さらにその後に「Aさんは、昨年5月、別の電話勧誘で人工知能開発企業の未公開株にも手を出し、一部返金を受けていない。こちらの企業には同技術に携わる私大教授が顧問格として名を連ねており、Aさんの関心を引いた。やはり著名人への信頼が投資行動に影響した」という文が続く。ところが、asahi.comに再録された記事では、「ただ、スポンサーの審査は『していないと思う』と話す」の後に「ビー社は、未公開株売買とスポンサーになった時期とは違う、としているが」の一文が挿入され、「Aさんから見れば、著名人への信頼をうまく利用された形だ」と続く。そしてその後のAさんが別の会社の株にも著名人の名前に騙されて手を出した話は削除されている。

 「ビー社は、未公開株売買とスポンサーになった時期とは違う、としているが」を挿入したのは、さすがに時期のズレをビー社から説明されていたことを無視するのはまずいという判断からのことだろう。またAさんが別の件でも著名人の名前に騙されたという記述を削除したのは、「ざ・こもんず」の影響の印象を弱める狙いからだと推測される。このあたりに、朝日の記者が何が何でも「ざ・こもんず」が詐欺に利用されたという図式に持ち込みたい邪悪な意図が表れている。

 確かに記事では、Aさんが「購入後に不安になったがそれを安心させたのは『ざ・こもんず』だ」という書きぶりになっていて、購入前にビー社が「ざ・こもんず」サポーター企業だから信用したという風にはなっていない。が、繰り返すけれども、そもそも未公開のベンチャー企業への投資は不安なもので、それを見極めるのは投資家としての自己責任である。購入後にビー社への不安が生じたけれども「ざ・こもんず」がHPにあるので安心したというのは子供じみた話で、不安が生じたのであればビー社なり株の発行元なりに問いただし、納得がいかなければ投資を引き上げることを法的手段を含めて手続きすればいいだけのことだろう。

 実際にAさんは、いつの時点で不安に陥り、しかしいつの時点でビー社のHPを見て安心し、それでも不安になってビー社に対していつの時点でどういう申し入れをし、どのような対応を受けたのか。記事では「07年夏にビー社に返金を求めたが、返ってこない」「Aさんによると、ビー社は朝日新聞の取材後に、2月中に返金すると連絡してきたという」とされているが、06年7月にビー社HPに「ざ・こもんず」の入り口が貼り付けられて、それから約1年後まで不安に駆られつつ返金を求めなかったのは「ざ・こもんず」のせいなのか。それは投資家としてのAさんと仲介したビー社及び株の発行元企業との間のビジネスライクな問題であって、Aさんが未公開株に投資するというはどういうことかという投資家としてのイロハを心得ていなかったというだけのことである。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。なおビー社によれば、「2月中に返金する」とビー社がAさんに連絡したのは「朝日新聞の取材後」ではない。

 この「くらしとマネー」欄は、見出しの下に「金融商品や金融機関へのご意見や情報を朝日新聞東京本社『くらしとマネー取材班』にお寄せ下さい」と公告し、情報提供を促している。Aさんもこれに応じて情報提供をしたのだろうが、自分が欲得ずくで未公開株に出資して思い通りにならなかったことを「詐欺だ」と騒ぎ立てるのは投資家としての自覚に欠けているし、それを「被害者」であるかに仕立てて、しかも「ざ・こもんず」がそれを幇助したかに報道する朝日新聞も狂っている。

●ちゃんと取材に来ないと…

 第4に、この記事を書いた佐藤某という記者は私に会いに来ていない。ビー社ばかりでなく「ざ・こもんず」の信用を決定的に毀損し社会的に葬りかねない記事を書くのに、当事者に会いもしないというこのおぞましい感覚は一体何なのか。大新聞は「公器」であり「正義の味方」であるという奢り以外の何者でもない。

 佐藤某という記者(私は会っていないし名刺も貰っていないので所属も名前も知らない)は、ある日電話を掛けてきて、「『ざ・こもんず』のスポンサーであるビー・ウッド社が証券取引法違反の疑いがある。被害者はビー社のHPに『ざ・こもんず』の入り口があるので信用したと言っている。『ざ・こもんず』のシステム自体を否定はしないが、問題があることを記事にしたい」という趣旨のことを言った。私は「その会社のことはよくは知らない。『ざ・こもんず』の共同事業者である高光産業の紹介だったと思うので、そちらに問い合わせたらどうか。いずれにせよ証取法違反とかいう話と『ざ・こもんず』は関係ない。『ざ・こもんず』はその趣旨に賛同頂く企業には誰でもサポーターになって頂いていて、特に審査などしていない」という趣旨のことを述べた。後日、佐藤某から留守電が入っていて、「金融庁はビー社が違法だと言っているので記事にする。高野さんのコメントは要約すれば『その企業は知らない。「ざ・こもんず」とは関係ない。審査はしていない』ということになりますがよろしいですか」という趣旨の記録があった。私はコールバックし、留守電に「あなたの要約は極めて不適切でこのままでは使えないと思います。一度お会いしてよくお話しした方がいいと思います」という趣旨を残した。佐藤記者からはまた留守電に「お目に掛かればいいと思いますが、電話でも結構です」という趣旨の伝言があり、それ以降何のアプローチもないまま5日付の記事となった。「メディアは凶器である」という自覚を欠いた、信じられない行為である。

 「ざ・こもんず」は、設立趣旨にも述べているように、中小企業のHPが放っておけばアクセスする人も少なくリピーターも増えないという状況に鑑みて、それを活性化する1つの手段として、当該企業にサポーター企業となって頂くことによってイメージアップを図り、その見返りとして月々最低1万円のコンテンツ・フィーを払って頂くというビジネスモデルを基礎としている。そのビジネスモデル特許を持っているのが福岡の高光産業(株)であり、「ざ・こもんず」はそのビジネス特許の提供者である同社とコンテンツの提供者である(株)インサイダーとの共同事業として成り立っている。その趣旨からして、サポーター企業になって頂いた企業が自社のHPのイメージアップ作戦として「ざ・こもんず」との繋がりを利用して頂くのは当然として、朝日が(3)で言うようにビー社が「ビー・ウッドの事業に各界著名人が参画」と謳っていたとすれば(ビー社のHPが閉鎖されているので未確認。今は「一部報道により、お取引先様及びお客様にご迷惑をお掛け致しましたので、サービスを一時停止停止致します。今回の報道内容と高野孟氏・高光産業株式会社・「ざ・こもんず」及び「ざ・こもんず」のブロガー各氏は一切関係御座いません」という表示が出ている)いささか行き過ぎだとは思うが、それが投資家の判断を誤らせたというほどのことではない。

 また、朝日が(5)で「全国約200社のスポンサー企業から資金提供を受けている。ビー社はその一つとして月20万円を提供。高野氏は『(未公開株勧誘と)こもんずとは何の関係もない』としている。ただ、スポンサーの審査は『していないと思う』と話す」と書いている中で、「全国約200社のスポンサー企業」というのはどこから聞いた話なのか。私の知る限り、まだ200社も集まっていない。それに我々は「スポンサー」でなく「サポーター」と言っていて、それには理由がある。さらに「ビー社が…月20万円を提供」というのは私の与り知らぬ話で、高光産業が子代理店、ビー社が孫代理店という関係の中で発生している料金設定である。我々はサポーター企業1000社を目指していて、それを手伝ってくれる営業代理店をいくつも認可しているが、その子代理店が孫代理店を設けること、その場合に子代理店及び孫代理店が独自の付加サービスを設定していくらに料金設定するかは自由に任せていて、ただ我々としては加入したサポーター企業1社当たり月1万円のコンテンツ料をお支払い下さいという形をとっている。そのような説明抜きに「200社×20万円」などという印象を朝日が振りまくと、税務署が「そんなに稼いでいるのか」と調べに来たりして大迷惑である。

 さらに、サポーター企業を「審査」していないことが朝日は気に入らないらしいが、「ざ・こもんず」の趣旨とシステムに賛同してくれるかどうかという限られた接点でしか付き合っていない我々が、信用調査機関まで使ってその企業の全貌を把握することなど出来るわけもないしその必要もない。ましてやその企業が過去にどういう行動をしていたかなど掌握のしようもないし、それを金融庁が後出しでどう評価しているかなどということも全く関心がない。私はビー社の大森社長に、グループのメイン事業であるドッグショップ、ドッグホテルの経営支援及びコンサルティング事業を営んでいる方として紹介を受け、その際に投資コンサルティング事業も展開していると聞いたような気もするけれども、ともかくも一見して立派な見識を持った経営者だと判断してサポーター企業に加わって頂いている。それ以上にどんな審査が必要だというのか。朝日は私が「スポンサーの審査は『していないと思う』と話す」と書いているが、私はこの記者に(あなたが思うような審査は)「していない」と言ったのであって、「していないと思う」とは言っていない。「思う」ということは、それは私の責任でなく当社かそれ以外の誰かがやっているのだろう、というニュアンスであり、つまりは私が無責任な経営者であることを臭わせようという趣旨であり、事実にも道義にも反する捏造である。

 こんなことはすべて、私にちゃんと会って取材すれば分かることで、会いもせずに「ざ・こもんず」というベンチャーにもビー社のベンチャー支援業務にも大打撃を与えかねないことを不正確なままに平気で書き飛ばすこの朝日の非常識は一体何なのか。朝日の佐藤某、Aさん、ビー社の大森社長、それに私で「未公開株投資とそれを巡る報道のあり方」をテーマに公開討論会を開きたいと思うが、どうだろうか。朝日という「公器=凶器」を用いて社会に影響を与えた佐藤某は必ずこれに応じなければなるまい。▲

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