先の参院選の結果生じた衆参ねじれ国会の下で、かつてない緊迫したやり取りと駆け引きが展開され、それが次の総選挙での文字通り「政権選択」に繋がっていくことを誰もが期待しているというのに、そのねじれ状態の重圧に耐えかねて、まず与党の党首がプッツンし、続いて野党第一党の党首もプッツンしたのでは、話にも何もならない。
6日夜になって小沢は辞意を撤回し「恥を晒すようだがもう一度頑張りたい」と表明、一連のドタバタは一段落したものの、彼の威信低下は避けられない。4日の辞意表明会見の際に彼が他人事のように言い放った、「民主党は様々な面で力量が不足しており、国民からも本当に政権担当能力があるのかという疑問が提起され続け、次期衆院選勝利は厳しい情勢にある」という問題を、自らの責任でどう克服していくのかの覚悟と具体的な方針を党内と国民に示すことなしには、求心力の回復は難しい。
●大連立という選択はあり得ない
そもそも93年に、政治改革をめぐる自民党の分裂によって非自民・改革派8党派連合の細川政権が誕生し、同政権下で94年に小選挙区制が導入されたのは、他でもない、選挙を通じての正々堂々の政権交代が当たり前となるような政治風土を醸成することを通じて、政策と予算の官僚による実質的支配、それを前提とした政官業の癒着と政治の腐敗、密室での政局取り引きといった日本政治の発展途上国的属性を一掃していくことに狙いがあった。
ところが、細川政権とその後継の羽田政権は、まさに政権中枢にあった小沢一郎=新生党代表(当時)の密室的運営が災いして合計わずか10カ月で瓦解し、それ以後は、何としても権力の座にあり続けたい自民党が、野党の四分五裂状態を利用して、社会党とさきがけ、公明党、自由党、保守党などを取っ替え引っ替え連立相手に引き入れて、それらを食いつぶしながら延命を図ってきた13年間であって、その間せっかくの小選挙区制も本格的に作動することを阻まれてきた。03年に小沢の自由党が民主党に合流して、ようやく2大政党制的な構図が出来上がり、さらにいくつかの偶然の重なりによって06年に小沢が民主党代表に就任したことで、政治における「空白の10年」から脱出する条件が整った。その意味で、小沢が代表に就任して以来言い続けてきた「07年参院選で与党を過半数割れさせ、衆院解散に追い込んで政権交代を実現する」というのは、時代の課題の核心をずばり射貫いたものであり、しかもその言葉通り小沢が参院選を勝って見せたことでその言葉はますますリアリティを増した。だからこそ、小沢嫌いの者も少なくない民主党も「小沢で政権を取りに行く」ことで一致結束し、また必ずしも民主党支持でない国民の間にも「何はともあれ選挙で政権が代わるのを見てみたい」という期待が広がったのである。
その矢先に、大連立などという話がある訳がない。大連立は、参院選の敗北直後に森喜郎元首相、中川秀直元幹事長らが「安倍退陣→福田政権→行き詰まった場合の民主との大連立」というシナリオを描いた時に浮上したもので、中曽根康弘元首相、読売のナベツネらもこれをバックアップしていた。2回の首脳会談でどちらがそれを持ちかけたかは、双方の言い分が食い違っていて真相は未解明だが、本質的にはそれは、参院選大敗で自公協力の行方が怪しくなっている中で、自民党が最後の延命装置として民主党を抱き込もうとする「究極の抱きつき作戦」(読売)に他ならない。民主党がそれに乗る(そぶりでも見せる)のは戦略的な自殺行為であり、選択肢として検討することすら馬鹿げている。
●ドイツの例は全く参考にならない
もちろん、一般論としては2大政党制の下での大連立はあり得ないことではない。一新聞の則を超えてこのプロットに首を突っ込んだ読売新聞は、5日付社説で「それでも大連立を目指すべきだ」と叫び、「大連立には、キリスト教民主・社会同盟と社会民主党が2005年11月に発足したドイツのメルケル政権の例がある」と述べているが、これは筋違いというもので、第1に、ドイツに限らず広く欧米では、2大政党制による政権交代可能な成熟した政治風土がすでに培われ、政党も国民もその経験を十分に積んでいて、その上で時々の事情で大連立が組まれることもある。それに対して日本は、選挙を通じての真正面からの政権交代の経験が(大正デモクラシー期を除いて)なく、その風土を培うこと自体が政治の先決課題であって、それ以前の大連立はその課題をブチ壊すだけである。
第2に、ドイツの場合は小選挙区比例代表併用制で、これは比例代表制を基本として小選挙区制の要素も付け加えた制度であり、第1党でも過半数の議席を取るのは難しい(ワイマール共和国時代の完全比例代表制がナチスの台頭を呼んだことの教訓に立って、敢えて圧倒的な第1党が生まれないよう小選挙区制で制約している)。そのため第1党は、単独で少数与党政権を作るか、他の小政党と連立を組んで過半数を制するか、大連立を組むかのいずれかで、メルケル政権以前にも66〜69年に大連立の例がある。それに対して日本は、小選挙区比例代表並立制で、これは小選挙区制を基本として比例代表制で余りに極端な結果となることを制御しようとする制度で、05年の郵政選挙で実証されているように、わずかな得票差でも大きな議席差が出る。ドイツとは逆にドラスティックな政権交代が起きやすいところに特徴がある(が、我々はまだそれを体験していない)。後房雄=名古屋大学教授が6日付朝日「疑問だらけの“大連立”」で述べているように、ドイツの大連立は「第1党でも過半数の議席が獲得できない比例代表制のもとでこそありうる選択肢であるが、ドイツにおいても、通常は第1党が第3党などとの間で連立を組んできた。いわんや、小選挙区制のもとでの大連立など、戦時などの非常時においてしかありえない」。
第3に、現実問題として、大連立政権の下では小選挙区の選挙は戦いようがない。小選挙区では候補者は党代表として政策や政権構想の違いを訴えて他党候補者と論争しながら支持を競うのであって、その違いがないのであれば、有権者は昔通り、地元貢献度や風貌・人柄で選ぶしかなくなる。そういう風土を変えるために小選挙区制にしたのである。
●戦術のために戦略を殺す小沢の性癖
小沢がそのことを認識していないはずはない。が、政局が行き詰まると政権の枠組みを壊して作り替えようとする過激戦術に一人で突っ込んでいって、結果的に戦略的大局を見失って失敗するというのは、小沢がさんざん繰り返してきたことである。
彼のほとんど唯一の成功体験は、自らが羽田孜らと共に自民党を割って出ることによって93年7月に細川政権を作ったことで、それ以来、自民党を掻き割るような政界再編を仕掛けることが彼の基本的な手法となったのかもしれない。細川政権は与党の一角にあった社会党内の守旧派による抵抗を押し切るようにして94年1月に政治改革法案を成立させた後は、政権運営の中枢を握る小沢(新生党)・市川雄一(公明党)のイチイチ・コンビと武村正義官房長官(さきがけ)プラス社会党との対立によって行き詰まり、その時小沢はまずは内閣改造で武村を更迭しようとし、それに失敗すると細川をかついで日本新、新生、公明の3党で「新・新党」を結成して連立の枠組みから社会党とさきがけを追い出し、自民党から渡辺美智雄元蔵相のグループを引っ張り出して政権を組み替えるという成算のない試みに打って出て、そんなことで連立与党がドタバタしている内に自民党から細川スキャンダルの砲撃を食らって、為す術もなく同政権を崩壊させてしまった。この細川政権末期の状況を、当時本誌No.312(94年3月1日号)「“新・新党”に直進する小沢」は彼の「つんのめるような戦術的過激派ぶり」について次のように書いていたので、長くなるが一部を再録・紹介する。
--《参考1》--------------------------------------------------
■問題の3つの次元
この問題がここまでこじれたのは、当面の政局運営、次の総選挙へ向けての選挙協力、さらにその先の政界再編成という、性格もタイミングも異なる3つの次元がゴチャゴチャに絡まってしまったためである。
コメの部分開放、政治改革、税制、日米通商問題と、これまでならそのどれ1つでも内閣が潰れて不思議でないような課題を、スキーの大回転のようにしてすり抜けてきて、これからも同じようにいくつもの問題を突破していかなければならない、改革し続けることを運命づけられたこの政権としては、イチイチ・コンビの時として拙速気味とも言える“決断力”が必要であることは疑いない。そしてそのイチイチ・コンビが決断力を発揮しようというここぞという場面で、武村が撹乱的な役割を果たしてきたのも事実である。
しかし、だからといってこれを官房長官の更迭といった強硬手段で片づけてしまおうとするのは、それこそ決断力のはき違え——というよりも、本来はお互いに腹を割ってとことん話し合うことを通じて、味方陣営の中の“内部矛盾”として処理されるべき問題を、簡単に“敵対矛盾”に転化してしまって、味方を減らし敵を増やす結果を招く一種の左翼日和見主義の誤りである。小沢の剛腕は、一歩間違えると、このようなすべてを死ぬか生きるか、取るか取られるかの権力闘争と捉えるニヒリズムないし人間不信に立って、そこで露悪的なまでの戦術的な過激派として振る舞うことに快感を感じるというサディスティックな歪みに陥る傾向がある。
連立である以上、意見の違いがあるのは当たり前で、それを説得や妥協や教育などの方法を通じてお互いが自分を変革しながら、よりましな運営を目指していくという作法を、この政権はまだ作り出していない。更迭とか降格とかいった人事手段は、普通の社会では、取り返しのつかない不祥事を起こしたか、あるいは誤りを犯したにもかかわらず反省のかけらもなく、これ以上説得によって本人を立ち直らせることは不可能だと判断される場合に採られるものである。
■小沢の焦りの根源
しかし、小沢が細川に武村更迭を求めた本当の動機は、当面の政局運営にとって武村が邪魔だというレベルにあるのではない。彼はもっと先を見て、二重の意味で焦っている。消息通はこう見ている。
▼イチイチ・コンビは昨年末の段階で、現在の連立与党5党が整然と選挙協力の態勢をとって次の総選挙に臨むことは到底不可能だと判断、選挙前に日本新党、新生党、公明党の3党が先行する形で“新・新党”の結成に踏み切る腹を固めた。その3党でそれぞれ100人ずつの候補者を立てて全選挙区で自民党と対抗する構えをとった上で、それを見て社会党のデモクラッツなど改革派や、さきがけの反武村派や、自民党の一部などが合流したいと言ってくれば、何ほどかの立候補シェアを与えるという考え方である。
▼12月26日にイチイチが細川と会談して、「新生・公明両党は解党して、細川さん、あなたを党首に新・新党を作る。だから武村は切れ」と迫り、細川は意外と簡単にこれに乗ってしまう。恐らく細川は、社会党執行部が党内をまとめきれないでゴタゴタが続いていることにうんざりしていたし、日本新党とさきがけの結婚話が進まないまま武村が地方への勢力拡大に力を入れていることに不快感も持っていたので、「こっちの御輿に乗ったほうが楽かな」くらいに思ったのではないか。
▼武村はやがてその細川・小沢密約を察知して、2人への不信感を強めた。さきがけの田中秀征が首相補佐官を辞して党務と党勢拡張に専念することになったのも、もちろんその不信感ゆえである……。
■強さより弱さの現れ
小沢が武村を気に入らないのは、小沢のいう“普通の国”に“小さくてもキラリと光る国”を対置し、また“軍事貢献”に“環境貢献”を対置して路線の違いを押し出しているだけでなく、それを旗印に社会党デモクラッツから民社党、後藤田元副総理や北川正恭グループまでブリッジしたリベラル結集の核になろうとしていることである。
実際にこのような結集が進んでいった場合、(1)細川自身も路線的=体質的にはそれに近く、また小池百合子はじめ日本新党内部には反小沢感情が根強くあることから、日本新党の大勢がリベラル側に傾く可能性が大きく、(2)新生党でさえも羽田は路線的には小沢より武村に近く、(3)さらに公明党も、市川は小沢と心中覚悟でも、もともと都市部の低所得層を基盤とする創価学会を母体に反腐敗・福祉・平和などを掲げて誕生したこの党の性格が小沢流の新保守主義と馴染むわけもなく、若手が市川に最後まで従って行くかどうか分からない。
だとすると、イチイチにとって最悪のケースでは、武村・赤松・大内らが細川をかついでリベラル結集を図り、それに新生党の羽田グループや公明党の一部若手、それに自民党の北川グループなども合流してしまい、小沢と市川がほとんど裸同然で抱き合って、せいぜい民社党の米沢と自民党の渡辺ミッチー的勢力がうしろに付いているという、どうにもならない姿が露呈されることになる。
そうなったら破滅だ——というイチイチの焦りが、細川を武村から切り離して新生・公明側に奪取し、裸同然の姿を隠すガウンに使おうという遮二無二の作戦となって現れた。その意味では小沢は、追い込まれて強行突破に出ているのであって、それは彼の強さよりもむしろ弱さの表現である。
しかし、細川をしっかりと確保しさえすれば、民社の米沢は以前からイチイチの同伴者だし、赤松や園田も社会党やさきがけを割って合流してこないとは限らないのだから、自民党の一部も加えて“新・新党”のほうが主流になる。これがイチイチにとっての最善ケースで、まさに一か八かの勝負に出ているわけである。
■選挙協力か新党か
このように、将来の政界再編を睨んで横路北海道知事の中央復帰も含めていろいろな動きが出てくるのは必然だが、だからといってイチイチが、次の総選挙をめざす選挙協力のための努力を飛び越えて、いきなり選挙前の新・新党結成に突き進もうとするのは、これまた焦りのもう1つの現れである。
本誌が繰り返し述べてきたように、細川政権が誕生してから新制度で第1回の総選挙が行われるまでのひと連なりの政局過程では、「政治改革実現のための非自民結集」は引き続き有効であり、(1)政治改革法案の成立を受けてその区割りを含めた細部を仕上げるとともに、引き続き国会改革、参院改革などを進めつつ、(2)直間比率の見直しを含む税制
の抜本改正や地方分権など次の大きな改革課題を準備し、(3)それと並行してゼネコン疑惑や農協体制など自民党の支配構造の岩盤部分にもつるはしを入れて、(4)次の選挙で2度と自民党の長期単独政権という化け物が蘇ることのないよう打撃を与える——ことが連立政権の任務である。
しかしこの過程は矛盾に満ちていて、その選挙で勝利した瞬間に“非自民”という結集軸は無用になり、政策路線での再編が始まることが分かり切っているにもかかわらず、その選挙に向けて与党は結束して選挙協力の態勢をとらなければならない。
どの党もその矛盾に耐えながら自制し、選挙協力の可能性をねばり強く追求することが、自民党を利さないための鍵であって、そのためにはまず各党の選挙担当者の協議機関を設けて半年以上かけて徹底的なすり合わせを行うのが筋だろう。ところがイチイチは、選挙協力はしょせん無理だと、協議もしないうちから勝手に決めつけて、選挙前に連立勢力を断ち割って新・新党結成という方向に踏み切り、細川もまた安易にそれを許容しようとしている。
日本新、新生、公明の3党なら確かに選挙協力は達成しやすい。現状でも選挙区での競合が少ない上、公明の場合は命令ひとつで候補者を動かすことが出来る。細川はもともと日本新党の組織を大事に育てていこうなどというつもりはないから、どうにでも対応できる。ところがこれに社会党が加わった場合は、地方ではとりわけ左派色が残っており、例えばA区で新生党候補を引っ込めてB区で社会党を立てるという取り引きをしても、社会党支持者がA区で新生党に投票するかどうかはまったく分からない。
従って、各党協議の結果、5党のままではどうしても選挙協力は成り立たないという結論に達し、合意の上で連立内部を2党もしくは2勢力に集約してその両者の間で可能な限りの選挙協力を行うといった選択はあり得よう。しかしその合意の努力を初めから放棄して、力の論理で新党結成を繰り上げようというのは、武村の言うとおり“帝国主義”的である。
ここにも小沢のつんのめるような戦術的過激派ぶりが出ている。ところが、過去を見ても、彼がこのように強腕が高じてただの拙速に陥った場合はたいてい失敗に終わっている。
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このような状況で、連立から社会党とさきがけが去って羽田少数与党内閣が出来たが、予想通り2カ月で立ち往生する。それを打開するには社会党とさきがけを連立に復帰させて第2次羽田政権を作って改革の旗を掲げ続けるしかないということで、羽田自身と社会党の久保亘書記長はじめ同党改革派との間で折衝が進んでいたにもかかわらず、小沢は社会党の連立復帰を嫌い、またもや自民党から海部俊樹元首相を引っ張り出そうとする工作に没入、その間に自民党が社会党長老・守旧派を抱き込んで自民党・社会党・さきがけのそれこそ大連立による村山政権を作ってしまう。その羽田政権末期の様子を本誌No.316(94年5月1日号)「小沢が羽田政権を潰す?」は次のように書いている。
--《参考2》---------------------------------------------------
■小沢の認識の狂い
なぜ、何もかもだいなしにするようなこんな馬鹿馬鹿しいことが起きるのか。答えは明らかで、連立政権のプロモーターを自認してきたイチイチ・コンビの戦略判断と局面認識が狂っているからである。
およそ変革を導こうとする政治的指導者は、世界の動きや時代の流れを大きく見渡しながら、今がどういう戦略状況で、そこでの主要矛盾ないし対抗軸が何であるのか、そして1つの戦略状況の中でもこの瞬間がどういう局面ないし段階にあるのかを明確に捉える必要がある。
本誌が昨年初め以来、執拗に書いてきたことを、またここで繰り返すのは気が引けるが、大事なことなので敢えてもう1度整理しておこう。
第1に、金丸5億円事件と佐川スキャンダルの深刻さにもかかわらず自民党がもはや自浄能力を持たないことがさらけ出され、92年末には中核にあった竹下派がついに分裂して羽田・小沢グループが誕生した時点から、その羽田・小沢グループが離党したことをきっかけに自民党の融解が起こって細川連立政権が成立し、その手で政治改革が成し遂げられて、新しい選挙制度で第1回の総選挙が実施されて連立側が自民党の足腰が立たなくなるほどの勝利を収める時点までが、ひと連なりの戦略状況である。
第2に、その戦略状況にあっては、主要な矛盾すなわち対抗軸は、腐敗して自らを改革できない自民党と、改革の実現で一致した非自民勢力との間に存在する。従って、攻める連立側から見れば、いかなる困難も乗り越えて自民vs非自民という戦略的枠組みを維持しながら、自民党体制をその社会的・経済的基盤のところまで掘り崩して、2度とあの恐竜のような長期単独政権が蘇ることのないようにすることが課題である。他方、守る自民党側は、再び単独政権が復活するかのような幻想を早く捨てて、同党に残っている最も良質な部分に依拠して健全なる保守党として再生を図り、連立政治という新しい時代の条件の下で政権を奪回することを目指さなければならない。
■4つの局面
第3に、そのひと連なりの戦略状況の中にも段階性があって、
▼第一の局面は、自民vs非自民という矛盾の2つの側面のうち自民のほうが優勢で、自浄能力がないことをさらけ出しながらもまだ分裂を起こさずに政権に留まっていた段階、
▼第2の局面は、それが逆転して、非自民が優勢に転じて政権を握り、政治改革の実現を目指す段階、
▼第3の局面は、政治改革法案はともかくも成立したが、区割りを含めたその細部を仕上げながら、引き続き国会改革や参院改革など広い意味での政治改革を次々に提起し、並行してその先の税制、地方制度、規制緩和、安保・防衛など国家改造のプログラムについて広く論議を呼び起こしていく段階、
▼第4の局面は、いよいよ新制度での第1回総選挙を迎えて、連立側が可能な限りの選挙協力を通じて自民党に必勝する態勢を整え、実際に必勝して“55年体制”の葬式を出した上で、自民vs非自民の対抗軸を廃棄して、新保守vsリベラルvs旧保守となるのかどうか、政策路線の選択という新しい対抗軸による政界再編という別の戦略状況に入っていく段階、
——である。イチイチの誤りは、ようやく第3の局面に入ったところで、早くも政治改革という1つの戦略状況が終わって次の課題は税制や安保に移ったと錯覚して、その遂行のためには自民vs非自民の枠組みを崩しても構わないという判断を立てたことである。
それが国民福祉税でのさきがけ・社会党それに民社党無視、それが失敗に終わった逆恨みとしてのさきがけ外し、守旧派の権化のような渡辺美智雄との幻の提携、そして今回の社会党外しという錯誤の連続を招いた。
そのために、今の時点では、肝心の区割り法案が今国会で成立するかどうかの目途もまったく立たなくなったばかりか、中選挙区制のままもう1度総選挙をやらなければならないかもしれないという筋違いのリスクを背負い込み、結果として、第2の局面の政治改革法案の成立という成果さえ守れないかもしれないという出鱈目な混迷状態に日本政治を突き落としてしまったのである。
手順前後は将棋のプロの世界なら即敗北であり、ということはイチイチは実はアマ並みだったということになる。
●対抗軸の二重化
上述の第3の局面以降がそれ以前と違うのは、自民vs非自民という戦略的枠組みは引き続き有効であり維持されなければならないにもかかわらず、その背後から次の戦略状況の対抗軸である新保守vsリベラルそれに旧保守という2極ないし3極構図が次第に浮き出てくるのを避けられないことである。
そこで連立側として肝心なことはその2つの対抗軸の主従関係を間違えないことである。自民vs非自民の軸は依然としてまだ主であり、政策路線をめぐる2極ないし3極構図はまだ従であって、そこでは前者を黒の実線でくっきりと描いている状態を保ちながら後者が灰色の点線で少しずつ浮き出てくる状態に抑制するといった、高度の運営が強いられていたはずである。ところがイチイチは短気にも、すでに政治改革は終わり、従って自民vs非自民の軸よりも政策路線の軸が優先される戦略状況に転換したと錯覚した。そこからありとあらゆる間違いが起きたのである。
さらに、次の戦略状況における対抗軸を、新生・公明両党主軸の新保守と自民党の残党である旧保守とによる“保守2大政党制”と決め込んでいるのも、イチイチの性急さである。小選挙区制だからといって必ず2大政党で1つの議席を争わなければならないというものではなく、現に中央・地方選挙とも単純小選挙区制のイギリスでさえも第3党である自民党の増勢が目立っている。まして中選挙区制から比例代表制も加味した小選挙区制へと移行していく日本の場合、小選挙区の1議席を3〜5人で争ったり、少数党が比例代表制に的を絞って数議席確保をめざしたりして、少なくともある期間、かなり多党化する可能性もある。
さらにそれがやがて2大政党的な形に収斂されていくことがあったとしても、その座標は新保守vs旧保守ではなく、新保守vsリベラルとなろう。その時に自民党がまだかなりの勢力を残していて、伝統を重んじる真正保守として何らかの意味ある政策路線を打ち出すことが出来れば3極になり、またリベラルがさきがけを中心とする米民主党型の穏健リベラルと、社会党改革派を中心とするドイツ社民党型のリベラル的社民とに分かれながら提携するということになれば4極になる。
このあたりは、誰かがあらかじめ勝手に決めることの出来る筋合いのものでなく、時の流れの中で、基本的には国民の選択の結果として自ずと姿が定まってくるもので、イチイチの見通しのようになる保証はなにもない。
こうしてイチイチは、局面の認識を間違えている上に、さらにその先の政界再編構図でもやや見当違いの思い込みが激しく、そのために簡単にさきがけや社会党など、今の局面ではあくまで味方として尊重して結束を図らなければならない相手を、まるで敵のように扱って外へ追いやる結果になるのである。
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以上、長々引用したのは、他でもない、今回の事態についてメディアが「また小沢の悪い癖が出た」という具合に揶揄的に評しているけれども、これは癖というような生やさしいものでなく、戦略と戦術についての彼の思考パターンに根ざす事柄であることを理解してもらうためである。
《参考2》が述べているように、「新しい選挙制度で第1回の総選挙が実施されて連立側が自民党の足腰が立たなくなるほどの勝利を収める時点までが、ひと連なりの戦略状況」であり、そこでは「主要な矛盾すなわち対抗軸は、腐敗して自らを改革できない自民党と、改革の実現で一致した非自民勢力との間に存在する」ことにあった。当時もその後も、その戦略状況を打ち抜くには非自民諸党による選挙協力が不可欠であったが、それはいかにも難しく、冒頭にも述べたように、その野党バラバラ状態を利用して自民党が政権に留まり続けてきた。自由党の民主党への合流でようやく非自民勢力が1つの政治的表現を持つことが可能となり、これで初めて、94年に始まって13年間も鬱屈したままだった戦略状況を打開することが可能になった。それを担う以外に小沢の歴史の中での役割はないはずなのである。
民主党の幹部はもちろん末端党員も、どれほど明確にかは別として、94年以来の戦略次元が今も続いていて、そこで選挙を通じての正々堂々の政権交代を成し遂げることで初めて次の次元に移ることが出来ることを認識している。それを成し遂げるには小沢ほどふさわしい指導者はいない。なぜなら、その戦略次元を拓いた張本人は彼だからであり、同時に、《参考》に描いたような錯誤の連続によって村山政権とその後の連立の形を採った自民党政権の延命に道を開いたA級戦犯もまた彼だからである。
本人は勘違いしているかもしれないが、小沢への求心力とは、彼への人間的信頼や思想的共鳴や政策的一致に支えられているのではない。単にこの戦略次元を打開するのにぴったりの役回りであることについての機能主義的な合意があるだけである。役員ばかりでなく議員のほとんども、大連立の迷妄をためらうことなく拒み、またそれでもなお小沢の留任を求めたのは、その合意の強さ、従ってまた民主党の意外なほどの健全さの現れであって、浅薄な解説が言うような「他に人がいない」「トップに閉じこめておかないと離党して新党に走る」などという事情によるのではない。とはいえ、留任した小沢が本当にその役回りを果たし切って歴史に名を留めるには、彼自身が94年以来の自分のありようを胸に手を当てて省みなければならない。「心の整理に時間が必要だ」と言った彼が、そこまで心が整理できたのかどうかが、これから問われることになる。▲