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2007年6月20日

INSIDER No.397《SUN-PRO》“火消し役”の大村秀章が“火だるま”に?!──底知れぬ年金シンドローム

 17日のサンプロのメインは、自民党=大村秀章(内閣府副大臣)vs民主党=長妻昭(政調会長代理)の「どうする?年金」対決だった。長妻はちょうど1年前に国会で初めて年金記録の不備について質問した、この問題の“火付け役”。対する大村は厚生畑が専門で、官邸(官房長官)と自民党(幹事長)の両方からこの問題の説明役=“火消し役”に指名された論客。さあどうなるか、われわれコメンテーターも口を出す暇もないほどのやり合いとなったが、結果は、司会を終えて席に戻った田原キャスターも「これじゃあ、自民党は参院選でボロ負けするな」と漏らすほどで、コメンテーター、番組スタッフも全員一致で長妻の勝ちという判定だった。

●責任転嫁の愚

 大村は、しゃべり方がキャンキャンとスピッツ的で、しかも同じことを口数多く繰り返して、説得性に欠けたばかりか、ゆとりのなさを感じさせた。それに、内容的には、民主党が5000万件、1430万件はじめ数字を挙げて問題提起をしているのに対し、「そんな数字は間違っている」「意味がない」「徒に不安を煽るものだ」などと、もっぱら民主党への反撃に終始して、自分の方からは実態解明に関して何の新しい情報も出さないばかりか、長妻の「宙に浮いた5000万件分の保険料総額はいくらなのか。自民党は調べたのに発表を避けて隠しているのではないか」との質問には答えようともしなかった。

 「向いている方向が違うんじゃないか」と財部が言う。その通りで、自民党が真っ先に厚労省・社保庁に厳しく当たって、与党特権をも活用して実態解明を進め対策を打ち出していかなければならないはずなのに、逆に「民主党は間違っている」という印象を作り出そうとして躍起となっている。これは、先に自民党が「悪いのは菅直人だ」というビラを作って世論はもちろん党内からもひんしゅくを買って引っ込めざるを得なかったのと同じ責任転嫁の発想で、これでは国民は「何と卑劣な」「年金を政争の具にしえいるのは自民党じゃないか」と感じてしまう。

 この方向性のまま参院選に突っ込んでいくと、自民党は泥沼にはまる危険がある。私の勘では、こうやってあれこれの記録とその問題点が一応整理されて統合作業の段取りが出来たとして、そこで改めて、上述の「5000万件分の保険料総額は?」から始まって、「年金積立金150兆円」とは言うものの一体全体、社保庁はこれまで国民からいくら預かっていくら支給し、いくらを運用で増やしいくらをグリーンピアなどで失い、その結果として今の残高はどこにどういう形であるのかという、記録ではなくてお金そのものの管理のずさんという問題に焦点が当たっていって、ますます不信が深まることになるだろう。

●金はあるのか?

 先週の『サンデー毎日』で年金ジャーナリストの岩瀬達哉が言っているように、厚生年金の前身は1942年にスタートした労働者年金保険だが、元来が戦費調達が目的だったので、当時は20年、30年先の年金支給などハナから視野になく、集まるだけ集めてどんどん使ってしまって当たり前と考えられていた。これがお上の“年金思想”の原点なのだ。

 今週の『週刊ポスト』は、04年度の厚生年金の保険料と国庫負担分を合わせた収入が23兆7000億円であるのに対して給付支出は32兆円で、単年度収支だけ見れば8兆円の大赤字。国民年金も同様で、厚労省は支給開始年齢を70歳に引き上げることを画策していると指摘している。また『週刊朝日』は、グリーンピア13カ所の建設に1953億円も費やしてわずか48億万円で売却、社会保健センターなど健康施設119カ所のうちこれまでに入札を終えた24カ所の分だけで3073億円を注いでおきながら182億円で売却するなど、国民の金はあれよあれよという間に霧消しつつあり、そのような年金給付以外に無駄遣いされた金は、社保庁経理課によっても05年度末で6兆4000億円に上るという。このように、報道も次第に「金はあるのか?」に関心を向けつつある。

 参院選の投票日までにこの「帳簿上では150兆円あるはずの金が実際にはない?」という疑惑に火が着いた場合は、自民党の負け方は想像を超えたものとなるのではないか。

 なおこの日のサンプロでは特集「イランの核開発はアメリカが支援した」も面白かった。国際情勢通の間ではすでに知られている話ではあるが、テレビで米国や欧州やイランで関係者を見つけて証言をとってドキュメンタリーにしたのはたぶん“世界初”で、大力作だった。(本稿は18日付のブログを補筆したものです。)▲

2007年6月15日

INSIDER No.396《JOHO-HOZEN-TAI》私も自衛隊情報保全隊の“監視対象”だった!

 共産党の志位和夫委員長が6日午後の記者会見で、陸上自衛隊の情報保全隊が作成した、自衛隊のイラク派遣に反対する全国の市民団体・宗教団体・ジャーナリストなどの動向を調査した内部文書を入手したとして、計11部166ページの資料を公開した。発表に当たって同党は、個人名を黒く塗りつぶしていたが、どういうわけか私、辺見庸、山田洋次などの名は消し忘れ?ていて、私の場合は、平成16年2月7日に旭川市内のホテルで開かれた民主党と連合の共催による「イラクへの自衛隊派遣を考える集会」の項に「講演:高野孟(インサイダー編集長)今のイラク現地の状況は、レジスタンスという段階にある。アラブの人々は元々親日的で同じアジアの日本人と位置づけている。その日本人がアメリカの側につくことは、アラブの人々を裏切ることになる」と講演要旨が記載されていた。それで日刊スポーツ、朝日新聞、TV朝日・報道ステーションなど10個所ほどから電話がかかってきて感想を求められることになった。

 報ステは10分くらいしゃべった中のほんの数秒、一言を放映しただけだったし、今日の朝日朝刊も「会場にもぐりこんでメモや録音をしていたのだろうから、一種のスパイ行為。自衛隊に『高野』のファイルがあるかと思うと不愉快極まりない。以前から国民監視活動をしていたのか国会で追及してもらいたい」というだけの引用だったので、各紙・各局にお話ししたことを再現しておこう。

●私のコメント

▼私個人としては、このことに別に驚いてはいない。権力というのはいつも国民に脅えているもので、大変な予算と人員を投入して国民の動きを監視しようとする。私らは60年代後半の学生運動の時代に、警察=公安にさんざん付け回されて、ある時は、早稲田の文学部キャンパスの下の電話ボックスから電話で本庁に報告している刑事を取っ捕まえて暴行にならない程度に締め上げたりしたこともあるくらいで、権力とのお付き合いの仕方はそれなりに知っている。後に、知り合いの警察官僚から「公安の高野さんについてのファイルは結構分厚いですよ」と言われ、「そうでしょうね」と答えたこともある。米CIAの東京ブランチにも「高野」ファイルがあるらしい。権力から嫌がられるのは、ジャーナリストにとって勲章のようなもので、皮肉を込めて言えば、名誉なことである。

▼それにしても、イラクへの自衛隊派遣について、これだけ大がかりな調査をするということは、小泉政権と自衛隊が、いかにイラク派兵政策に自信がなかったか、後ろめたい思いをしていたかを示すものである。情報保全隊というのは、本来、自衛隊員による情報漏洩をチェックする組織なのではないか。それが、国民や言論界の監視までやっているということは、今回初めて明るみに出たことで、イラクに限らずもっと以前からそういうことをやっていたのかどうか、これは税金の使途に関わることなのだから、きちんと情報開示するよう、国会でも追及してもらいたい。

▼そもそも、当時の小泉政権は、安易にブッシュ政権に追随してイラク派兵を決めて、それが本当に正しいのかどうか、国民にきちんと説明し説得することを怠って、陰でこんなことをコソコソやって反対論を抑えようとした。今も、アメリカでさえ議会やメディアで「我々はなぜこんな間違いを犯したのか」について真剣な検証が行われつつあるのに、日本では、なぜそんな判断をしたのか、その結果、日本とイラク国民、アラブ世界との関係はどうなったのか、あるいは日米同盟大事はそれでいいとして、何でもアメリカの言いなりでいいのか、といったことを総括しようともしていない。「失敗の研究」をせずに何でも水に流してしまうのが日本の伝統だが、こんなことでは、何度でも同じ間違いを犯して、それに対して異議を唱える者を陰険に抑え込もうとするようなことが繰り返されるのではないか。[以上は《ざ・こもんず》6日付ブログの再録。以下は追加]

●情報保全隊とは?

 情報保全隊とは、防衛大臣直轄の防諜(カウンター・スパイ)部隊で、以前は「調査隊」と呼ばれていたが、00年に海上自衛隊員が駐日ロシア大使館の武官から接触を受けて機密情報を漏らしていた事件が明るみに出たことから、一般的な調査活動よりも隊内からの情報漏洩対策に一層重きを置いて再編強化され、この名称に変わった。具体的には、「自衛隊に対する外部からの働きかけ等から部隊を保全するために必要な資料及び情報の収集」と「職員と外国駐在武官等との接触状況に係わる資料及び情報の収集整理」が主な任務で、そのほかに各部隊が行う職員の身上把握や秘密取り扱い職員の適性確認などの業務を専門集団として側面から「支援」することになっている。

 市ヶ谷には陸海空それぞれの情報保全隊本部があり、陸の場合は5つの方面隊に方面情報保全隊を置き、そこから各基地や駐屯地に人員が派遣される。海も同様で、5つの地方隊に隊があり各基地に分遣されている。空の場合は、本部から直接、主立った基地に部隊が派遣されている。総数は900人、予算は8000万円弱とビックリするほど少ない。その貴重な(?)人材・予算を投入して自衛隊のイラク派遣に反対する国民の動向を、国会議員や言論人の発言から「高校生のピース・ウォーク、参加者5名」といったものまで克明に監視し記録していた。

 防諜を主任務とする情報保全隊に、そんなことをする権限があるのかについては、共産党は違憲・違法と指摘しているが、防衛省側は、小泉首相(当時)の独断専行で無理矢理イラクに送り出されることになって、隊内にも動揺があり、またそれに乗じて外部の反対勢力から隊員やその家族に「行くな」という攪乱工作が仕掛けられる可能性があると判断して情報収集を行ったもので、「外部からの働きかけ等から部隊を保全するために必要な情報の収集」に当たるので合法である、と主張するのだろう。とはいえ、この行動が憲法に保障された集会、結社および言論、出版などの表現の自由、自衛隊法に規定された同隊の任務に照らして正当であるかは国会を通じて国民が判断しなければならないことで、防衛省には徹底した情報開示が求められる。

 それにしても、情報保全部隊の資料が事もあろうに共産党に持ち込まれるというのも間抜けな話で、情報保全部隊の情報を保全する部隊が必要なのではないか。▲

2007年6月13日

INSIDER No.395《SEMINAR-02》高野孟の「インテリジェンスの技法」(3)──インフォメーションとインテリジェンス/ジャーナリストの発想と方法

 これからが本論で、情報をどう捉え、どう扱うかという問題に入っていく。が、世に溢れている「情報術」のような手っ取り早いノウハウの伝授を求めている人には期待はずれに終わるかもしれない。後で実技的なことについても触れるつもりではあるけれども、私がまず皆さんにお話しするのは、世の中に立ち向かう心構えというか、複雑な要素が絡み合いながらしばしば予想を超えた展開を見せる世界をそのダイナミズムのままに捉えるための逞しい思考方法についてである。東西の哲学・思想史についていくらかの知識を身につけていない人にとっては結構しんどいかもしれないが、何学部で何学を学ぶにしてもそのような思考方法の訓練は普遍的な基礎を提供するはずのもので、それこそが一般教養科目の目的でなければならない。とはいえ、今の日本の大学の一般教養はそのように組織されていないから、私の話が多少分かりにくかったとしても、それは必ずしも皆さんのせいではない。

●たった1人で全世界を

 一般教養は英語でリベラル・アーツといい、その原義は、ギリシャの哲学者プラトンに端を発し、ローマ時代末期になって定式化された「自由7科」である。商人や職人に必要な技術の習得と区別された自由人となるための教養の中枢は「哲学」であり、それを身につけるには文法、修辞学、弁証法(論理学)、算術、幾何、天文、音楽の7科が基本とされ、それが13世紀になってヨーロッパで大学というものが誕生した際に公式に取り入れられた(Wikipedea「リベラル・アーツ」の項)。最初の3つは言語と論理力に関わる3科、次の3つは数学的な思考にかかわる3科、それに音楽が付け加わっているが、音楽は一面において感性的・情緒的であるけれども他面において数学的・論理的であるので、この音楽までを含めて数学的4科と呼ぶ。今日でも、欧米のエリートの条件には「楽器の1つも演奏できること」が含まれていて、シュミット元独首相がオーケストラをバックにピアノ協奏曲を弾いたり、クリントン前米大統領がサックスを吹いたりするのは、その伝統に則ったことなのである。

 このリベラル・アーツが日本に入ってきて、明治の啓蒙思想家=西周がそれを「芸術」と訳した。旧制高校がまさにその芸術的教養を身につける場となったのだが、前回も述べたように、その自由な教養主義は次第に衰退し、芸術という言葉もAV(オーディオ・ヴィジュアル)系のパフォーマンスという狭い意味でしか使われなくなった。しかし、皆さんはジャーナリストなり何らかの分野のリーダーなりとして世の中に影響を与えるような存在になっていこうとするわけだから、一般論として「教養は身につけたほうがいい」というにとどまらず、まさに人類の知的資産の全部を背中に負って現実の世界に立ち向かうくらいの誇大妄想的な気概を持たなければならない。私がジャーナリズムの世界に入ってすぐに先輩から教えられたことの1つも、「ジャーナリストは、たった1人で全世界を引き受けなければならない」ということだった。

 たった1人で全世界を…そんなこと言われても…。「という心意気が必要だということだ。ジャーナリストは『広く浅く』と言うのはそういう意味なのだ。経済のことを聞かれて『私は政治が専門なので分かりません』と答えるのは落第。『経済に詳しくはないんですが、私はこう思います』と、何か気の利いた、望むらくは少しでもユニークな見解を瞬時に返せるようでなければダメだ。政治と経済は新聞の紙面では分かれているが、現実の世の中では表裏一体、相互に影響し合いながら動いているのであって、経済が分からなくてロクな政治記事が書ける訳がないだろう。レバノンと言われて、『私、行ったことないんで分かりません』では済まない。今日、世界で起きた出来事は、明日の日本の政治や経済と連動して来るかもしれないじゃないか」と。

 昔、インサイダーに在籍した若いスタッフが、「すべての事象は同時進行し、しかも相互連関していて、その裏には陰謀がある——というのがインサイダー史観の3原則ですよね」と言ったことがある。私は「同時進行と相互連関はその通りだが、“すべてはユダヤが操っている”という類の単純な陰謀論には与しない。すべての事象の裏には当事者たちの思惑や意図や戦略が錯綜していて、そのぶつかり合いから生じるベクトルが物事を突き動かしているという意味なら賛成だが」と答えた。

●インテリジェンスの意味

 日本は世界でも珍しいくらい情報が豊かな国で、放っておいても向こうから情報が押し寄せてきて、情報洪水とか情報公害とかを問題にしなければならないような状況がある。それほど情報が豊かであれば、世の中の先行きがもう少し鮮やかになって然るべきだが、なかなかそうはならないのはなぜだろうか。 同じ「情報」と言っても、英語ではインフォメーションとインテリジェンスの2つがある。『広辞苑』で「情報」を引くと、

「(information)(1)或ることがらについての知らせ。(2)判断を下したり行動を起こしたりするために必要な知識」

 と書いてある。(2)のほうは、どちらかというとインテリジェンスに近いが、いずれにしても日本語にはインフォメーションとインテリジェンスの区別がない。また『コンサイス英和辞典』では、informationに「通知、情報、知識、受付(係)、告発」の訳語をつけ、intelligenceを「知能、知恵、理解(力)、物わかりのよさ、情報、情報機関(員)、知性的存在、霊」などとしている。ついでにintellectは「知力、理知、英知、知性」で、知識や情報をベースにして1つの認識にまで高めていく精神的な働きを指す。英語世界では「犬は知恵を持つが知性はない(Dogs have intelligence, but they have not intellect)」という言い方をする。犬には生きるための知恵は備わっていて、それは本能による部分と経験を通じて学習する部分とがあるのだろうが、その知識や経験を体系的な認識に編み上げていったり、それを言語的に表現したりする能力はない。そういう意味では、私がこれから述べるインテリジェンスの定義はむしろインテレクトと重なり合っている。

 インフォメーションは、昨日総理大臣が記者会見でこう言ったとか、大阪の街角で酔っぱらいがヤクザに殴られたとか、どこぞのラーメンはおいしいとか、すでに起こった事柄や存在している物事についての事実情報である。それに対してインテリジェンスは、そういうたくさんのインフォメーションの海の中から、「これは大事だ、これはちょっと気にかけておいてもいい、これはくだらない」という具合に取捨選択し、優先順位を確定した上で、「これとこれとは表面だけを一見すると関係がないが、実は裏側では関連があるのではないか」と見えない部分にまで想像力を働かせたり、「平成不況は昭和恐慌とどこが違うか」というようにある出来事を歴史の文脈の中に置き直してアナロジーを求めたり、あんまり皆が同じような観点である問題を論じているのはうさんくさいから裏側から見たらどうなるだろうかとアマノジャク的な視点の移し換えをしたりと、いろいろなフィルターを使って知的処理をして、その出来事を構成している諸要素が織りなすベクトル構造を炙り出していって、煮詰められるだけ煮詰めていって得られる最後の仮説的な結論である。

 例えて言えば、収穫した葡萄を篭に山積みしているのがインフォメーションである。その中から粒を選んでワインを醸造して、さらにその中から極上のものを選んで蒸留器にかけて、一滴ずつエッセンスを取り出したのがブランディーであって、それがインテリジェンスである。新聞やテレビなどのマスコミが提供できるのは、主には葡萄の山であって、中には少し気の利いた解説者がいてワインを試飲させてはくれる。しかし、国家や企業や個人が将来に向かって何事かを決断するについて本当に必要なのは良質のブランディーであって、それは余りにも提供されることが少ない。

 アメリカの国家的情報機関としてCIAがある。世界国家としてのアメリカの大統領は、地球上で日々起こる様々な出来事に目配りしながら、判断を示したり決定を下したりしなければならない。そのためにCIAは、世界各地のブランチやエージェントから1日平均数万件とも言われる膨大な報告を吸い上げて、それを緊急性のあるもの、一応留意して大事に保存するもの、そうでないものというふうに振り分けた上で、それらを評価し、他のものと関連づけ、優先順位を明らかにして、最終的にはたった1枚のタイプ用紙に要約して毎朝8時までに大統領のデスクに届けるのだという。

 この場合、各地から寄せられる数万件の報告はCIA本部にとってインフォメーションであり、それを処理して1枚の紙に凝縮したものがインテリジェンスである。ところが両者の区別は相対的なもので、その数万件の報告の1つ1つが実は、各スタッフが膨大なインフォメーションの中から抽出したインテリジェンス作業の結果にほかならない。このように昨日の全世界をたった1枚の紙に要約する仕事をしているのがセントラル・インテリジェンス・エージェンシー(中央情報局)で、だからそのIは決してインフォメーションではなくてインテリジェンスなのである。これに対して、例えば駅の中央案内所は、トイレは向こうの柱の陰にあるとか、地下鉄に乗り換えるにはこちらの階段を降りればいいとか、既存の事実について告知するのが役目だから、セントラル・インフォメーション・センターであってこの場合にインテリジェンスという言葉を使うことはできない。

 インフォメーションは出来るだけたくさん“量”を集めることが問題であるのに対し、インテリジェンスは反対に、その量をどんどん捨てていきながら“質”の高さをつくり出すことが課題になる。そこを取り違えて、もっと量を集めれば世の中の先行きが見えるのではないかと思い込むと、やがて情報過食症になって消化不良や肥満症になり、さらには拒食症に陥って衰弱してしまうことにもなりかねない。国家だけでなく企業にとっても個人にとっても、将来に向かって何事かを決断しながら生きていくについて、肝心なのはインテリジェンスであって、ジャーナリストも経営者も指導者も、何よりもまずそのインテリジェンスのプロにならなくては、その役目を果たすことが出来ない。

●実体論の領域

 現象についてのインフォメーションが、様々な知的操作を経て本質についてのインテリジェンスに昇華されていく、その操作が展開される広大な空間を、私は「実体論」の領域と名付けている。私は84年に出した『世界関連地図の読み方』(PHP刊)のあとがきで次のように書いた({}の中は引用に際しての補注)。

▲『世界関連地図の読み方』の表紙(画像略)

「既存の枠組みに頼って、それに都合のいい現象だけを拾って散りばめるといったやり方が、もはや何の役にも立たないことが自明である以上、われわれは現実そのものから出発し直すしかない。しかし、その現実というのは、諸現象を果てしもなく横並びに並べ立てたからといって、必ず見えてくるというものではない。諸現象を突き動かしているいくつもの実体的なファクターを析出し、それらの相互関連や優先順位を検討し、目に見えないベクトルや構造にまで想像力を差しのべていく作業が、どうしても必要である。それが、インフォーメーションをインテリジェンスに昇華させるということでもある」

「とはいえ、われわれジャーナリストがやれるのはせいぜいそこまでであって、その先のもっと抽象的なレベルで理論的な体系を編み上げていくのは、むしろアカデミシャンの仕事となるはずである。知の世界に対してジャーナリストが貢献できることがあるとすれば、それは命知らずの斥候兵の役割を引き受けることだと、私はつねづね思っている」

「20年前{今だと40数年前になる}、ほとんど勉強しない哲学科の学生だった私が、今でも忘れないでいる数少ない言説の1つに《武谷3段階論》がある。従来の認識論の教科書が、現象から本質へ向かう人間の知の発展を説いていたのに対して、武谷三男博士は、現象と本質の中間に実体(サブスタンス)の領域を設定することを提唱した。その学問的意義はさておくとして、今日のわれわれの知的・情報的状況に照らしていうなら、ジャーナリズムは、現象について饒舌に語りはするものの、それ以上には進もうとはせず、かたやアカデミズムは、古びた理論をいじくりまわすばかりで、現実のダイナミズムにほとんど関心を払っていないかのようであり、その中間の実体論の領域は、広大な荒野のまま、どちらの側からも踏み込まれずに残されている。『世の中がわからなくなった』『先が読めない時代になった』と誰もが口にするのは、じつはそういうことだったのではあるまいか」

「ニュー・ジャーナリズム{という変な言葉が当時流行っていた}の何がニューであるのかについて、人によって定義はさまざまだが、私の意見では、それは実体論的ジャーナリズムのことである。ある者は、徹底的に足で歩いて取材をして、人の知らない事実のディテールまでえぐり出して描き上げるのがニュー・ジャーナリズムだと主張するが、それなら伝統的なルポルタージュの手法と、そう質的に変わりはない。私はむしろ、ほとんどは人に知られている事実から出発して、まだ多くの人が見えていないある事柄なり問題なりの実体=構造を解明していくところに、ニュー・ジャーナリズムのニューたるゆえんがあると考えている……」

 現象の面白おかしさだけを求めるのはマスコミではあってもジャーナリズムではない。逆にひからびた理論的モデルやイデオロギーに現象をはめ込むだけでは知の世界は一向に深まることがない。例えば『赤旗』は新聞としてはなかなか面白くて、社会の深層をえぐるようなスクープも時折飛ばすけれども、しかしやはりそこは政党機関紙の悲しさで、最後はいつも「だから大資本が悪い」といった固定された本質論に簡単に飛び移ってしまって読者を白けさせる。かつて丸山真男はこのような安易な飛び移りを「基底体制還元主義」と呼んで批判した。

 現象論の次元をさまようのでもなく、かといって本質論の次元に逃げ込んで事たれりとするのでもなく、あくまでも執拗に実体論の領域にとどまろうとする節度と覚悟がジャーナリストにとって大事である。立花隆が『田中角栄研究』を書いたあと、幾人もの大新聞の記者や総会屋ふうの情報屋が「あんなことはオレは前から知っていた」とか「あの部分はウチの資料を使っている」とかいった批評を聞いた。その度に私が説明したのは、誰かが知っていたり、すでに活字にしたりしていたことも含めて、既存の材料のすべてを集めるだけ集めるところから出発して、そこから問題点を整理して作業仮説を立て、足を使い知力を尽くして、田中金脈の見えない実体=構造をあぶりだしていったからこそ、つまり実体論的な立場と方法を貫いたからこそ、その仕事が一国の総理を追い落とすだけの迫力を持ち得たのだ、ということだった。

●武谷3段階論

 武谷は、湯川秀樹、坂田昌一と並び称された京大物理学の三羽烏の1人で、「現代物理学と認識論」という論文の中で、次のように述べた(『武谷三男著作集1』[勁草書房、1968年]所収、一部表記は引用者が変更した)。

▲『武谷三男著作集1』の表紙(画像略)

「物理学の発展は、第1に即自的な現象を記述する段階たる現象論的段階、第2に向自的な、何がいかなる構造にあるかという実体論的段階、第3にそれが相互作用の下でいかなる運動原理に従って運動しているかという即自かつ向自的な本質論的段階の三つの段階において行なわれる……。そしてこの3つの段階は宿命的に相次いで現われるものではなく、自然がこのような立体的な構造をもっており、それを人間の認識がつぎつぎと皮をはいで行くのでこのような発展が得られる。すなわち歴史的発展と論理的構造の一致である」

「現実の物理学の発展ははなはだ錯綜した現象形態をとることになるが、しかし前述の3つの段階は物理学の発展を分析するための基本的な指標である。ある場合にはこの二つの段階は錯綜しまたある揚合には3つの段階が錯綜することがある。この錯綜の具体的形態を分析し出すことが問題なのである。そしてこれは弁証法の論理によってのみ行ないうることである。ちょうど各国の封建制や資本制の発展を分析するのと同じである。純粋の封建制社会と言われるものから純粋の資本制社会と言われるものが何の錯綜もなしに続いて現われる事などはないと言ってよい。とくに日本などでは農村の封建体制を破壊する事なく、むしろそれを基礎として工業の資本主義が発展する事ができたのであって、すなわち半封建制と言われるものである。このような分析こそが弁証法的分析というものであって、実践の指針となりうるものである」

「物理学においても、当面の物理学の諸矛盾を上述の方法によって分析し、現在を正しく位置づけ、その発展の方向を知り、いかなる方向に努力がなされるべきであるかを知る事ができる。これは無意味なる混乱を顕著に防止し、すべての努力を有効なるものにする事ができるのである。すなわちボーアやベックのベーター崩壊のために取った無駄な努力、その他1930年以後の素粒子の発見のたぴごとにこのような無駄が行なわれた。その著しい例は、湯川粒子の主張が1935年に発表されていながら、世界の学会は2年間もこれを相手にせず、1937年に日本を訪れたボーアも当時この理論をきいて頭から否定した事である」

 武谷はさらに「ニュートン力学の形成について」(同上所収)では、エジプト、バビロニアで始まった天体観測が、ピタゴラス、コペルニクス、ティコ、ケプレル、ガリレイを経てニュートンに至って「万有引力の法則」の発見にたどり着くまでの歴史を、現象論的・実体論的・本質論的な段階性において略述した上で、次のように述べている。

「以上のことから自然認識が三つの段階をもっていることがわかる。すなわち第1段階として現象の記述、実験結果の記述が行われる。この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。これは判断ということからすれば、へ一ゲルがその概念論で述べているように個別的判断に当るものであって、すなわちDaseinの肯定的判断として、個別的な事実の記述の段階であり、an sichである。これを現象論的段階と名づける。ティコの段階。第2に、現象が起こるべき実体的な構造を知り、この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得ることである。ただしこの法則的な知識は1つの事象に他の事象が続いて起こることを記するのみであって、必然的に1つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬということにはならない。すなわちこれはpost hocという言葉で特徴づけられるもので、これは概念論の言葉でいえば、特殊的判断と言えるものである。特殊的な構造は特殊的な事情において特殊的な現象をもつことを述べるものである。fur sichの段階でその法則は実体との対応の形において実体の属性としての意味をもつのである。これを実体論的段階と名づける。ケプレルの段階であり、論理はスピノザ的である」

「第3の段階においては、認識はこの実体的段階を媒介として本質に深まる。これはさきにニュートンの例において示したように、諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。すなわちこの段階においてはpropter hocという言葉で特徴づけられる。an und fur sichの段階であり、概念論でいえば普遍的判断であり概念の判断である。すなわち任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明かにするものである。これを本質論的段階と名づける」

「物理学的認識は『ますますどうなる』というように一律に進むのではなく、この3つの段階の環をくりかえして進むのである。すなわち1つの環の本質論は次の環から見れば1つの現象論として次の環が進むという工合である。……この三つの段階は論理的にこのように示したのであって、現実においては、この論理がその現実に応じてさまざまなる形態をとってあらわれるのであって、各対象及ぴ認識実践の他の側からの制約によってさまざまなる形をとるから、われわれはただ機械的にこの3段階を考えることはできない」

 まあ学者の話は難しいので、差しあたりは、現象・実体・本質という認識の3段階論はあくまで理論モデルであって、決して機械的・固定的に何にでもこれを当てはめればいいという訳ではないことを理解すればいいだろう。もう少し詳しく勉強したい者は、次の文献抄を参照してほしい。

※武谷文献抄
http://www.smn.co.jp/takano/Taketani.html

●ジャーナリズムとアカデミズム

 難しいついでにもう1つ補論。ジャーナリズムとアカデミズムの弁証法的な関係について原理的な考察をしたのは、戦前日本の独創的な唯物論哲学者=戸坂潤である。彼は1932年に書いた『イデオロギー概論』(戸坂潤全集第2巻所収、勁草書房刊)の中で要旨次のように論じた。

 ジャーナリズムという言葉は、カエサルの官報である世界最古の新聞紙Acta Diurnaから来たと言われている。DiurnaはJournalと訳され、つまり日々(Jour)に関するものである。従ってジャーナリズムはまず日々の生活と関係し、そこに根を張っているものであり、普通世間の人々の平均的・日常的な知識である「常識」によって運ばれる。ところで常識は一方では平均化された凡庸な知識を意味するが、他方では健全な良識(ボンサンス)をも意味しており、それ自身の原理を持っている。専門的知識を扱うアカデミズムが、しばしば日常生活に根ざした常識を何ら積極的な価値を持たないかのように言うのは間違いである。

 むしろジャーナリズムの特色は、その現実行動性・時事性(actuality)にある。時事性とは何かと言えば、歴史の上からは現在性として、存在ないし事実の上からは現実性として、行為の上からは活動性として、生活の上からは社会性として、規定される。そのようなものとしてのジャーナリズムの内容は、社会人の持っている世界観・哲学の1つの直接的な表現でなくてはならない。例えばジャーナリズムが何か非日常的・超常識的・非時事的・非政治的な部門の学芸を取り扱うときも、必ずこれに何か思想的・世界観的な視覚を与えることによって、これを時事化・政治化・現実行動化することを忘れないだろう。

 現実行動性・時事性から出てくるジャーナリズムのもう1つの規定は、その総合統一性である。ジャーナリズムはその世界観的統一によって、それぞれの専門的な諸科学を、またそれぞれの分科的な諸文化を、初めて関連せしめることが出来る。言わばそれはエンサイクロペディックな特徴を持っている。常識とは実際そういうものである。ジャーナリズムは元来常に話題(Topic)に上がるものでなければならないが、話題とは、あらゆる部門的な分科的な事物が、言葉という共通の場所(Topos)をめざして集まることを意味する。その場所で一切の知識が交換され(ニュース・評判)、訂正総合され(議論)、また誇張されたり捏造されたりする(虚偽)。やがてここでまた範疇が発生し、論理が構成され、理論が出来上がる。これが哲学的世界観にほかならず、だから、哲学は常識のものであり、ジャーナリズムのものである……。

 戸坂はこのようにジャーナリズムを位置づけ、それがアカデミズムに対して何か一段低級なもののように見る俗論をいましめた。そしてジャーナリズムとアカデミズムをお互いに対立しつつ浸透しあう2つの対等な契機とみなして、その2極のメカニズムにおいて文化・イデオロギーの弁証法的な構造原理を論じた。さらに彼は言う。

 アカデミズムは、容易に皮相化しようとするジャーナリズムを牽制してこれを基本的な労作に向かわしめ、ジャーナリズムは、容易に停滞に陥ろうとするアカデミズムを刺激してこれを時代への関心に引き込むことが出来るはずである。アカデミズムは基本的・原理的なものを用意し、ジャーナリズムは当面的・実際的なものを用意する。

 本来両者はそのように有機的に連関しなければならないが、資本主義制度の下ではそうなっていない。アカデミズムは歴史的社会の動きからまったく無関係に高踏化して行き、ジャーナリズムはまたそれとは独立にその動きを断片的な諸刹那に分解することによってますますそれを見失い、その結果両者はお互いを傷つけるようにしか作用しない。これを克服する手がかりはどこにもないように見えるが、しかし、封建制度からの伝統を持つ老いたアカデミズムよりも、純粋に資本主義制度の産物である若いジャーナリズムのほうに多くの可能性が残されており、両者の矛盾の止揚はジャーナリズムの側から行われるはずである……。

今回の冒頭に引用した本のあとがきでジャーナリズムとアカデミズムについて触れているのは、この戸坂の論を念頭に置いたものである。ちなみに、私の西洋哲学科の卒業論文は、この戸坂のイデオロギー論にまつわるもので、その時に「哲学は常識のものであり、ジャーナリズムのものである」という言葉に出会ったことが、学生運動に明け暮れた6年間が何となく空しくて、大学院に行ってもう少し勉強しようかどうしようかと迷っていた私を、ためらうことなくジャーナリストの道に進ませることになった。■

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