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2007年5月31日

INSIDER No.394《MATSUOKA》安部内閣の“アキレス腱”が断裂──松岡農水相自殺の衝撃

 昨秋の安部内閣発足時に農水相として初入閣した松岡利勝は、農林業土木に絡む利権操作や畜産はじめ農林団体・企業の利益の露骨な代弁で名を馳せて、それまでに何度もメディアの調査や検察の捜査の対象となってきた人物であり、就任当初から同内閣の“アキレス腱”と呼ばれてきた。「緑資源機構」の官製談合事件の捜査が身辺に迫る中で28日、彼が首つり自殺したことは、そのアキレス腱がおよそ考え得る最悪の形で断裂したことを意味しており、同内閣にとって歩行困難に陥るほどの衝撃となった。

 彼の死の直前に集計された毎日新聞の世論調査では、内閣支持率が11ポイント急落して内閣発足以来最低の32%(日本経済新聞でも12ポイント減の41%)を記録した。その主な要因は、年金記録5000万件の行方不明という社会保険庁のでたらめに対する怒りと、「ナントカ還元水」などという口から出任せで事務所経費の不正経理を誤魔化そうとした松岡の馬鹿さ加減に対する呆れ返りだが、より根本的には、その2つの国民的関心事のいずれについても断固たる措置を採らないばかりか納得のいく説明をしようともしない安部首相に対する深い不信である。

 このダメージを7月5日の参院選公示までの5週間に回復出来る見込みは少なく、むしろこれを機に安部内閣がレイムダック状態に近づいていく可能性のほうが大きい。上述の毎日調査では、「夏の参院選で勝ってほしい政党」は民主42%、自民33%と、昨年12月以来過去3回の調査ではいずれも自民が民主を上回っていたのに対して今回初めて民主が逆転した。「比例代表でどの政党に投票するか」では、民主35%、自民28%、公明6%、共産4%、社民3%、国民新1%で、自公合計34%を民主が単独で上回っている。もちろん今後の与野党攻防にもよるけれども、もしこの地合いが大きく変わらないまま参院選に突入すれば、安部自民党の敗北は避けられない。

●検察の松岡包囲網

 松岡自殺の真相は不明だが、松岡と35年来の親交がある兄貴分だった鈴木宗男衆院議員がホームページや記者団への談話で明かしているように、松岡本人は国民に向かって率直に事実を説明し、恐らくは大臣辞任を以て償いをしてこの問題から逃れたかったに違いないが、「政府の方針は決まっているし、国対からも言われているので、今は黙っているしかない」(松岡本人)という状況の中で検察の捜査が身に迫り、精神的に追い詰められていったものと推測出来る。

 そもそも安部内閣は、「若くてテレビ映りもいい安部ならば参院選で大負けすることはないだろう」というまことに安易な自民党内のコンセンサスを背景に、事実上、無競争に等しい緊張感を欠いた総裁選を通じて誕生し、さらにそれを反映して、松岡のような能力も資質も疑問が残るような者も含めて論功行賞を旨として人事が行われた結果、昨年末には本間正明=政府税調会長の官舎不倫同棲問題、佐田玄一郎=行革相の経費不正処理問題が浮上して早くも人事面から内閣の一角が崩れ始めた。年明けて柳沢伯夫=厚労相の「産む機械」発言が非難を浴びると、安部は「これ以上、閣僚を辞めさせては“辞任ドミノ”が起きる」と危機感を抱き、国会論戦の場やメディアで何を言われようとも鉄面皮を貫いて彼を擁護することにした。そのため、松岡のナントカ還元水問題が起きても、「辞めるな、しゃべるな、シラを切り続けろ」との内閣の事実上の申し合わせを踏襲せざるを得なかったのである。

 柳沢のは単なる失言の域を出ないが、松岡のは「政治とカネ」の不透明性に直結している問題であり、これで突っ張ることは、国民から失笑混じりの軽蔑を誘ったばかりでなく、長年にわたり松岡を“宿敵”と定めてきた検察当局の“やる気”を掻き立てる結果となった。今年1月に東京地検特捜部長に就いた八木宏幸は、同副部長時代の02年に鈴木宗男が北海道の製材会社「やまりん」から500万円を受け取って同社の救済を林野庁に働きかけた事件(1審有罪、控訴中)を手がけており、その際、同社から200万円を受け取った松岡の事情聴取も担当したものの、請託の立証が出来ずに逮捕を断念した経緯がある。

 八木は就任の会見で「政官財に潜む不正を見つけ、ひそかに悪いことをしている人に恐れられる特捜部でありたい」と、特捜畑一筋の彼らしい宣言を発し、2月には早速、環境ベンチャー企業「イー・エス・アイ」を詐欺の疑いで強制捜査し、京塚光司社長を逮捕した。京塚は、謎めいた宗教団体「慧光塾」の中心メンバーであり、怪しげな経営指導セミナーを開くなどして経営者を中心に信者を集め、彼らから増資などの名目で資金を募ってイー・エス・アイに注ぎ込んだ挙げ句、経営破綻に陥っていたのだが、この慧光塾に傾倒していたのが安部首相の母親の洋子で、安部は同塾のイベントに母親と連れ立って出席して“広告塔”として一役買ってきた。京塚が詐取した金の一部は安部に回ったのではないかと推測されている。

 その八木が次のターゲットとしたのが「緑資源機構」の官製談合事件で、4月には特捜部内でも政界捜査を専門とする「特殊直告1班」をその担当とし、それに他班から5人の刑事を応援に付けたばかりでなく全国からも応援検事を集めて、まさに鈴木宗男事件並みの捜査態勢を整えた。4月19日には公正取引委員会が改めて緑資源を捜索して林道整備をめぐる談合を刑事告発、それを受けて東京地検が5月24日、緑資源の理事ら6人を逮捕すると同時に、翌25日には同じく緑資源が熊本県小国町で進める総事業費154億円の「特定中山間保全整備事業」にまつわる受注企業15社から松岡への金の流れについて本格捜査に着手した。

●福岡からも火の手が

 他方、「やまりん」事件の時に八木の上司の東京地検次席検事、その後、大阪地検検事正として食肉業界の闇の帝王=浅田満ハンナン元会長を血祭りにあげた佐渡賢一は、今は福岡高検検事長で、福岡のコンサルティング会社「エフ・エー・シー」が起業家育成のためと称してWBEFなるNPO法人を立ち上げるに際して、松岡にパーティー券代100万円を渡して内閣府にNPO認可を働きかけたとされる事件の捜査を進めている。

 ハンナン事件は、01年にBSE問題が食肉業界を直撃した際に、松岡が鈴木宗男と共に自民党BSE対策本部の先頭に立って、畜産業者が抱える輸入牛肉の在庫を買い上げる制度を設けるよう農水省に迫りまくり、浅田がその制度を利用して対象外の国産牛肉まで輸入物に偽装して巨額の補助金を詐取していたもの(1審有罪、控訴中)。浅田の会社のビルには鈴木の政治団体が入居しており、過去にその団体から松岡の政治団体に500万円の寄付が行われていた事実も明らかになった。

 松岡の農水利権と言っても、一番おいしい農業土木は伝統的に旧竹下派の牙城であり、叩き上げの松岡は林業関係や、同和問題とも絡んでややこしい畜産関係とかに偏っていた。鈴木を浅田に繋いだのは恐らく松岡で、500万円はそのお礼だったのではないかと推測されている。昨年、週刊誌で報じられたところによると、松岡が女性問題でトラブルに巻き込まれた時には、山口組構成員である浅田の弟が間に入って“解決”しており、松岡の浅田を通じての闇世界との関わりは尋常なものではなかった。

 福岡のエフ・エー・シー=WBEFは、起業指南を名目に1口100万円の出資金を全国8000人から総額130億円も集めて費消しており、それ自体が詐欺容疑としてすでに福岡県警の捜索を受けているが、そのWBEFを事実上仕切っているのは「インド文化協会」会長と称する内田大円で、彼は松岡の有力後援者。同協会が05年10月に「ハリウッド映画『仏陀』製作発表パーティ」を開いた際には、幹事長代理だった安部も出席して挨拶しているが、この映画が実現していないことは言うまでもない。ここにも、単に「パーティー券100万円」というに止まらない闇の深さがある。

 こうして松岡包囲網が次第に狭まる中、八木特捜部長は「国会会期末を(山場と)考えろ」と部内に指示していたと言われ、国会終了後、参院選までの間に松岡逮捕は免れない情勢となっていた。恐らく小国町に捜査が入った時点で松岡は死を覚悟し、先週末には地元を訪れて後援者、母親、父親の墓前を巡って挨拶した上で28日、自ら命を絶ったのである。

 結局、安部は、単に閣僚が1人また1人と辞めていって内閣がガタガタになることを恐れただけではなく、自分自身にさえも検察の影がちらつき出していることに脅えつつ、松岡の問題で検察に対して弱気を見せたら自分も危ないという思いから、彼に突っ張りを命じたのではなかったか。事の本質は、安部自身と検察との確執であり、その中で内閣のアキレス腱が真っ先に断裂を起こしたのである。▲

INSIDER No.393《BOOK-LIST》李登輝の教養について

「インテリジェンスの技法」(2)で、李登輝前総統の“教養”について触れた。彼の名著『武士道解題〜ノーブレス・オブリュージュとは〜』の中で引用・言及されている文献を一覧にしたので参考にして頂きたい。

■引用・参考文献(古典篇)

『衣服哲学』カーライル(谷崎隆昭訳・山口書店)
『純粋理性批判』カント(篠田英雄訳・岩波文庫)
『実践理性批判』カント(波多野精一訳・岩波文庫)
『判断力批判』カント(篠田英雄訳・岩波文庫)
『三太郎の日記』阿部次郎(角川書店)
『禅と日本文化』鈴木大拙(北川桃雄訳・岩波新書)
『善の研究』西田幾多郎(岩波文庫)
『出家とその弟子』倉田百三(親潮文庫)
『三四郎』夏目漱石(岩波文庫)
『風土』和辻哲郎(岩波文庫)
『ジャン・クリストフ』ロマン・ロラン(岩波文庫)
『臨済録』(入矢義高訳注・岩波文庫)
『ファウスト』ゲーテ(森鴎外訳・冨山房)
『余は如何にして基督教徒になりし乎』内村鑑三
『代表的日本人』内村鑑三(鈴木範久訳・岩波文庫)
『英和独語集』(内村鑑三全集・岩波書店)
『葉隠』山本常朝、田代陣基(たちばな出版)
『甲陽軍艦』(筑摩書房)
『孟子』(岩波文庫)
『墨子』
『論語』孔子
『パンセ』パスカル(中公クラシックス)
『茶の本』岡倉天心(岩波文庫)
『プルターク英雄伝』(岩波文庫)
『歴史哲学講義』ヘーゲル(長谷川宏訳・岩波文庫)
『アントニーとクレオパトラ』シェイクスピア(新潮文庫)
『オセロ』シェイクスピア(角川文庫)
『リア王』シェイクスピア(光文社文庫)
『じゃじゃ馬馴らし』シェイクスピア
『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア(新潮社文庫)
『リンカン民主主義論集』マリオ・M・クオモ、ハロルド・ホルザー編著(高橋早苗訳・角川選書)
『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
『舊新約聖書 文語訳』(日本聖書協会)
『日本大百科全書』(小学館)

■その他 引用・参考文献

『菊と刀』ルース・ベネディクト(講談社学術文庫)
『台湾人と日本精神』蔡焜燦(小学館文庫)
『アジアの知略』李登輝・中嶋嶺雄共著(光文社カッパ・ブックス)
『街道を行く40 台湾紀行』司馬遼太郎(朝日文庫)

■新渡戸稲造関連

『武士道』新渡戸稲造(矢内原忠雄訳・岩波文庫)
『武士道』新渡戸稲造(奈良本辰也訳・三笠書房)
『武士道』新渡戸稲造(飯島正久訳・築地書館)
『「対訳」武士道』新渡戸稲造(須知徳平訳・講談社バイリンガル・ブックス)
『幼き日の思い出』新渡戸稲造(日本図書センター)
『国際人 新渡戸稲造』花井等(広池学園出版部)
『新渡戸稲造』松隈俊子(みすず書房)
『永遠の青年 新渡戸稲造』内川永一朗(財団法人類渡戸基金)
『太平洋の架け橋 新渡戸稲造』神渡良平(ぱるす出版)
『新渡戸稲造』杉森久英(学陽書房人物文庫)

2007年5月20日

INSIDER No.392《COUNTRY LIFE》半農牧半電脳生活の根拠地としての書斎──安房鴨川に移住して田舎暮らしを始めるの記・3

 私が始めつつあるのは、「半農半X」の自分流の形としての「半農牧半電脳」の暮らしである。「農」とは、ここから車で5〜6分の距離にある農事組合法人・鴨川自然王国でこの十数年来取り組んできた米作りを中心とした農作業や都市農村交流の活動を続けつつ、自分でも家の脇に小さな畑を作って自給自足度を高めることである。「牧」とは、いずれここで馬を飼って周辺の山々を乗り回し、あるいは近所の居酒屋に乗り付けたいという夢である。帰りは、眠りこけても落ちさえしなければ馬が家まで連れて帰ってくれるはずだ。馬は道路交通法上、軽車両扱いなので、厳密には酒酔い運転になるが、今まで馬で検問に引っかかった事例は聞いたことがない。とはいえこれは、私が全国を飛び回って月の半分も留守にしているようでは馬の世話が出来ないので、もう少し落ち着いてここで過ごせるようになってから実現を図る。

 「電脳」とは、言うまでもなく、ネットを通じて連絡しあったり、調べ物をしたり、原稿を書いて送ったりして仕事をすることで、この僻地には光ファイバーが届く予定は全くの未定なのが残念だが、基地局が近いのでADSLでもさほど回線速度に不満を感じることはない。テレビがすべて光ファイバー回線に収まってしまい、地デジだBSだスカパーだといちいちアンテナとチューナーを買いそろえなくてもいい時代が来るには、まだ3〜5年はかかるだろうから、それまでにはいくら何でもここにも光ファイバーが届くと思いたい。ちなみにここは、地デジ以前の地上波アナログの段階ですでに僻地で、地上波テレビを見るにも、勝浦にある局からUHFで送信される地アナを村の共同組合のアンテナで受けてそれを有線で自宅まで引かなければならず、その組合加入料と工事費が30万円ほどかかる。地上波を見るのにですよ! それでその勝浦の局が地デジ対応になると、また負担金を取られる羽目になる公算が大きい。しかもそれではBSデジタルは見られないから、それは別途にアンテナを立てなければならない。テレビを見るにも田舎では手間も金もかかるのだ。

 この半農牧半電脳的生活が成り立つのは、電脳で仕事が出来るからで、その根拠地としての書斎は、機能的合理性と環境的快適性に徹底的にこだわって当たり前である。

▲書斎からの清澄山系の眺め(画像略)

 家の北東の角に位置する書斎は6畳で、北に面した長辺に長さ約350センチ、奥行き58センチ、厚さ6センチの集成材のデスクが据え付けてある。その正面=北面と右側=東面にはそれぞれ幅133センチの嵌め殺し窓と45センチの片開き風通し窓があるので、椅子に座った位置からは約180度の緑の景観が目に入る。北に見えるのは、房総産地の中心部である清澄山系の山並みで、広葉樹にところどころ竹と杉が混じるその山々は、朝は右=東、夕は左=西から陽が差してそれぞれに異なる陰影と色合いを見せ、昼間は後ろ=南からの陽を受けて緑が映える。パソコン画面を1時間見つめたら10分間は遠くの緑を眺めて目を休めなさいとよく言われるが、まさにそれにピッタリの贅沢な眺望である。窓際には、Nikonの双眼鏡も置いてあって、面白い形の木を探したり、下の街道沿いにある大山小学校の校庭で遊ぶ子供らを観察したりしてしばし遊ぶことが出来る。

t070520.jpg

 その細長いデスクの、窓から山がよく見える位置に設置してあるのは、

▼パソコン本体:Apple/Mac mini/1.83GHz Intel Core Duo/80GB harddrive/1GB memory
▼キーボード&マウス:Apple/純正Wireless Keyboard(US)& Mighty Mouse
▼モニター  :EIZO/19インチ液晶モニターFlexScan LCDS1931-SE
▼スピーカー :BOSE/Micro Music Monitor M3
▼音源    :Apple/iPod & iPod Universal Dock
▼電気スタンド:三菱電機/精密作業用蛍光灯スタンドBS0002WCH
▼プリンター :Brother/薄型複合機MFC-630CDW
▼椅子    :Herman Miller/AeronchairAE123AFB

 このうち主要な構成要素であるApple、EIZO、BOSEに共通する特徴があるのにお気づきだろうか。家電量販店では売らない、もしくは売っていても原則としてほとんど値引きをしない、ということである。これについては後で触れる。

●EIZOの液晶モニター

 電脳道具群の中核は、EIZOのモニターである。EIZOは、一般にはそれほど知られているとは言えないが、世界中のデザイナー、写真家、印刷業者など厳密な色扱いをしなければならないプロフェッショナルたちや凝り性の電脳マニアの間では超有名なブランドで、作っているのは石川県白山市(旧松任市)に本拠を置く(株)ナナオである。ナナオは、68年創業のモニター専門メーカーで、CRTモニターを作っている頃から品質に定評があり、欧州市場を中心にEIZOブランドで知られるようになった後に、それを日本に逆輸入。さらに97年からは液晶モニターを手掛けて、その精密な色調整の技術でたちまち世界最先端に躍り出た、典型的なローカルなハイテク中堅企業の1つである。

 私は、MS-DOSマシン+CRTモニターの時代に秋葉原で実際に画面を見比べてナナオのモニターを買って事務所で使っていたことがあり、その丁寧な色作りについては知っていた。が、この15年ほどはPowerBookやiBOOKなどMacの携帯パソコン1台を持ち歩いて家でも事務所でも旅先でも用を済ませているので、外付けのモニターに関心はなく、今度の引っ越しに当たっても、これを機にIntel Macの携帯型MacBookを買おうと心に決めていた。ところが、今年2月のある日、何の気なしに立ち寄った秋葉原のLAOXのMac館(今はなくなって隣の本館3階に移った)で、Mac本体にApple純正(と言っても台湾かどこかのメーカーのOEMだろうが)のモニターとEIZOのモニターと両方を並べて接続して、比較できるように展示してあるのを見て、その違いに愕然とした。EIZOのほうが文字や画像の細かいところまでくっきりとして鮮明で、それでいて全体としての色調は柔らかくナチュラルなのだ。「えーっ、こんな綺麗なモニターがあるんなら、MacBookはやめてMac miniにしてこれに繋ぐのもいいかもしれないなあ」などと思いながら、それがEIZOであることも、EIZOがナナオのブランド名であることもよく認識しないまま、置いてあったパンフレットをバッグに無造作に突っ込んで店を出た。それから2つ3つ用を足して、夕方に少し時間が合ったので新橋駅前でコーヒーを飲んだときに、「あ、そうそう」と思い出してパンフを取り出して読み始めた。「あれ、EIZOって確か……そうだ、ナナオだよね」。ナナオには、私が早稲田大学でやっているゼミの第1期生だったUがいるじゃないか!

 私はゼミの学生に常々、こう言っている。「お前ら、もう大企業の時代じゃないぞ。東京へ出て、早稲田なんぞというそこそこの大学に入ったんだから名のある大企業に就職して親を喜ばせよう——といった発想からは決別しなければならない。米スタンフォード大学の先生に聞いた話では、同大に限らず米国の一流大学では、一番優秀な1割の学生は在学中からベンチャー起業を目指す。YahooもGoogleもスタンフォードの学生ベンチャーから始まって億万長者になった。次の3〜4割は、既存のベンチャー企業や面白い技術やノウハウを持つ中小企業に就職して、若いうちから大活躍してチャンスを掴もうとする。平均から下の3〜4割は、化学を学んだからデュポン、プログラミングが出来るからIBMといったふうに大企業に普通の就職をする。そして出来の悪い最後の1割が役人になるだそうだ。『日本じゃあ逆ですよ。一番優秀な奴は役人になる。次が大企業で、そのどちらも入れないのが仕方なく中小企業に行く。私のような落ちこぼれがフリーランスのジャーナリストをやっていたりする』と言うと、先生はズバリ、『そりゃあ、日本がまだ発展途上国だからだ。発展途上国では、官僚が天下国家を動かすから、それが面白いに決まっている』と断じた。図星だ。前から言っているように、日本は今、明治から100年余の行け行けドンドンの発展途上国からキッパリと卒業して、GDP5兆ドル=世界経済の7分の1を占める成熟経済大国への扉を押し開けなければならないのだが、それがうまく出来なくてジタバタしている。お前らがどういう就職をするかということが、その100年目の転換を促すのだ」と。

 それでも「先生にはバカにされると思いますが、総務省と読売新聞社が受かったんで、総務省に行くことにしました。すいません」というような奴がいるのだが、Uは私の言うことを真に受けて、地方のハイテク企業を回って結局ナナオに就職した、そういう意味では私のゼミの優等生なのだ。私は早速メールして、有楽町の居酒屋で一杯飲みながら「お前のところのモニターがほしい。ついでに、Webで調べたら32インチの液晶テレビもあってそれも凄いらしいじゃないか。新居に両方を導入したい」と持ちかけた。Uは大いに喜んでくれて、上司にも相談の上、社内特別価格で提供してくれることになった。

●ものづくりへのプライド

 Uの説明で、私は今までほとんど関心を向けることがなかったモニターの世界に目を開かれた。「ナナオの製品はヤマダ電器はじめ家電量販店には置いていない。理由は2つあって、1つは価格面で、うちは値引きしないので初めから置いてくれない」と彼は言う。確かに家電量販店の値引き競争は凄まじいものがあって、それは消費者の立場としてはありがたいことではあるけれども、反面、こんなことでメーカーはやっていけるのかと心配になるほどだ。先週の『週刊ダイヤモンド』は、ヤマダ電器が家電のダントツトップ、家電以外を含む量販店でNo.3に躍り出た様子を大特集していたが、そこでも、ヤマダの本部に呼びつけられたメーカーの担当者が物を作る側のプライドも何も打ち砕かれて屈辱の中で原価割れに等しい仕入れ値を押しつけられる有様が(やんわりとではあるが)描かれている。その結果、例えば薄型テレビの値下がりはますます加速していて、4月30日付日経新聞によると、都内の家電量販店ではシャープAquosの昨秋モデルの32型液晶テレビの(ポイント割引を含めた)実勢価格が11万円程度にまで下落、1インチあたりの価格が1年前に比べて4割近くも安くなっている。それでも、4月25日発表のシャープの07年3月期決算では、売上高が前年比11.8%増の3兆1277億円と初めて3兆円を上回り、当期純利益も14.7%増の1017億円で、共に4年連続で過去最高を更新した。そのうち液晶テレビについては前年比49.4%増の6135億円で、それ自体の利益率がどうなっているのかは見えないが、まあ結局、次々に新製品を売り出して、その実勢価格が半年で半値近くに下落してしまうのを一層の規模拡大と効率化・コスト減で追いかけるようにカバーしていくという構造なのだろう。

 そこで働いているのは、まさに発展途上国的な“量の経済”であり、具体的には、メーカー側が依然として売り上げ=業界シェア至上主義に囚われ続けているので、最大の販売量を誇るヤマダには何を言われても屈服せざるを得ない構造がある。しかし、自分らの作っている物に誇りを持って、一切値引きに応じないというメーカーもあって、パソコンではApple、スピーカーではBOSEがそうである。Appleは、オンラインのApple Storeと、銀座、渋谷、名古屋・栄、大阪・心斎橋、福岡・天神、仙台・一番町、札幌のリアルな直営Apple Storeでの販売を中心に据えていて、LAOXにはMacのフロアがあり、ヤマダ電器でさえも棚1つ分のMacコーナーがあるけれども、値段は直営店と同じ正価でしか売っていない。

「もう1つの理由は技術面で、ナナオはあくまで人の目に優しいナチュラルな色調をめざしている。家電量販店に行くと、テレビのモニターがウワァーッと積み重ねるように置いてあって、爛々たる蛍光灯の照明の下で『これでもか!』というように鮮やかさを競い合っているが、ああいうものを『うわあ、綺麗だな』と思って買って家に据えて薄暗い電気の下で間近で見たら、ギンギン過ぎて目によくないどころか体にもよくない。逆に、ナナオのモニターをあの売り場の中に置いても、埋没してしまって誰も目を向けないだろうから、置くこと自体に意味がない」

 ナナオのテレビ受像器は商品名をFORIS.TVと言って、32インチのSC32XD2が最大・最新モデルで、それを導入して居間に据えた。私も家内も、ナナオのテレビを知る以前からテレビは32インチで十分と考えていた。近頃は、それこそ量販店の売れ筋は50インチで、それを「自宅の部屋で画面から2〜3メートル離れて見ていただくと、映画館の中央の席で見るのと同じような迫力で映像と音を楽しめる」(日立の幹部:14付毎日新聞)のだそうだが、本当にそんな風にテレビを見る必要があるのかどうか。狭い居間兼食堂でそのようなド迫力テレビを置くということは、テレビが中心の生活を送るということであって、たぶんその家では食事の時もお互いに顔も見合わせず言葉も交わさないまま早々に食べ終えて、さっさと自室に戻って今度はマイテレビで親父は野球を、息子はお笑い番組を、奥さんは後片付けをしながら韓流ドラマを見たりしているのだろう。そんなことにならない限度が、32インチではないかというのが私の山勘だったのだが、実際に置いてみてその通りだった。

▲我が家の居間に置かれた32インチのFORIS.TV(画像略)

 まあとにかくこのテレビは画像が美しいし、テレビ画面と同じ大きさのスピーカーパネルから流れるサウンドも良質だ。何でそうなのかという解説は、下記のHPとその中にあるAV(アダルト・ビデオでなくオーディオ・ビジュアル)評論家=麻倉玲士のレポートをお読みいただきたい。

http://www.eizo.co.jp/products/tv/index.html

 この画面から「32V型」→「製品の詳細・購入/個人の方」→「麻倉玲士が語るFORIS.TV」と追えばたどり着く。「一般的な液晶テレビとは、まるで違っています。換言すると液晶らしくない映像なのです。巷間の液晶らしさをいかに減らし、人の目に自然に感じる映像を作ろうというのがナナオの絵づくりの憲法です。……目に優しいという意味は、決して甘い映像という意味ではなく、コントラストや色合い、黒の再現性、白の伸びなどのバランスが、とても心地よいということです」と。

●モニターは縦がいい

 パソコン用のモニターにも、液晶テレビと同じく動画表示の際に中間階調域の応答速度を高速化するオーバードライブ回路が搭載され、またパソコンから送られる256階調のデータを整え直してより滑らかな色を再現するガンマ補正機能、引き締まった黒を表示できる1000:1のコントラスト比の機能が付与されていて、鮮明でありながら優美というナナオの特徴が見事に実現されている。視野角はこのクラスで最上位の178度である。さらに、液晶が周囲の温度変化や経時変化によって明るさが変わってしまうのを自動チェックして調光する機能や、室内の明るさを検知して画面の明るさを適切に調整する機能も備わっている。

http://direct.eizo.co.jp/cgi-bin/omc?port=42531&req=PRODUCT&CODE=FlexScanS1931SE

 メカニカルな領域では、19インチの画面が横でも縦でも使えるのが便利で、試しに縦にしてみるとこれが思いの外、使い勝手がいい。普段の原稿書きに常用しているMac標準のワープロ(TextEdit)をOsaka等幅フォント14ポで40字×60行に設定すると、ちょうど画面の上下一杯近くなって、原稿用紙で言えば400字詰め6枚分が一覧できるから、iBookなどの小さな横長画面で書いているときのように、少し前に書いたことを確かめるのにも、「えーと、どこだっけかな」と上へ下へとスクロールして探さなければならないということがないので、作業効率が格段によくなる。それでいて、入力領域の幅は画面全体の横幅の半分強ほどにしかならないから、余白部分に他の資料や画像をいくつも並べて参照することが出来る。考えてみれば、文書は日本語も英語もほとんど縦長で、それを横長の画面で見ることに無理がある。なぜパソコンの画面は初めから縦長にならなかったのか。テレビの画面の応用だったから、何とはなしに横にしてしまったのだろうか。

 画面を縦横に90度回して切り替えられるモニターは別に珍しくもないが、ナナオの場合、その画面を支える「EZ-UPスタンド」というのがなかなかの優れもので、Z型に折りたためるアームで上下17センチの範囲で高さを調整することが出来る上に、そのアームに対する画面の傾きも調整することが出来るので、その両方の組み合わせによって、画面までの視距離40〜50センチ、見下ろし角度は画面上部で10度程度、下端で30度程度という理想的とされる姿勢になるよう設定することが可能なのだ。これはまことに快適な作業環境である。

 そのモニターに接続してあるのはパソコン本体はMac miniである。上述のように、EIZOのモニターを使いたいというのが先で、だとするとAppleの現在の製品ラインでモニターが別売りなのは最上級のMacProとMac miniしかなく、原稿書きとメール、画像処理とWeb制作程度である私にとって前者は完全にオーバースペックなので、後者に落ち着くのは必然である。miniの本体は縦横16.5センチ、厚さ5センチで、東京駅で売っている「おにぎり駅弁」の箱より小さいくらいだから、デスクに置いてもモニターの陰に隠れてしまうほどで、全く邪魔にならない。これに、ブラザーの複合機(これもゼミ第1期生のAが就職しているので社内特別価格で提供して貰った)とiPodドックを繋ぎ、ドックにさらにBOSEのスピーカーMicro Music Monitorを繋いでモニターの左右に配置してある。

※Mac mini
http://www.apple.com/jp/macmini/

 これだけでも各機器の電源と相互の接続のためのコードは相当な数になるが、作り付けデスクのパソコン・モニターの後ろとプリンターの後ろの2カ所に直径3センチの穴を開けて、ほぼ全部をデスクの下に出して、ホームセンターで買ってきた洗濯機の排水用の蛇腹のビニールパイプにまとめて通してデスクの裏側に固定したので、わざわざデスクの下に潜らない限りコードが見えることはない。

 このBOSEのスピーカーは、高さ・奥行きともに12センチ強、幅6.4センチという小ささであることが信じられないほど深みのある音を出す優れもので、秋葉原のBOSE直営ショップではこれをメインにディスプレーしていたから、同社も力を入れている自慢の製品なのだろう。持ち運び用の布ケースが付属していて、単3電池を4本入れてiPodと一緒に持ち出せば、野外でも高音質が楽しめるというのも、なかなかの趣向ではある(もっとも、AC電源では20W×2もあるスピーカー出力は電池では2W×2に落ちてしまうが)。

※BOSE/MMM
http://www.bose.co.jp/dmg/home_audio/m3/

 旅に出るときは、iPodを外して、やはりBOSEのノイズキャンセリング機能付き大型ヘッドフォンQuietComfort(QC)を接続する。ノイズキャンセリング機能とは、密着度の高いヘッドフォン内部にあるマイクロフォン・センサーが再生音と外部からの騒音とを識別して、騒音に対してだけ逆位相の音波を出して打ち消してしまう技術。同社が最初に開発して、1980年代に無給油・無着陸で世界一周旅行を成し遂げたボイジャー号のパイロットが装着して有名になった。機体の軽量化のために障壁を薄くした同号のコックピットでは、エンジン音が容赦なく侵入してパイロットが難聴に陥る危険が大きかったため、この対策が採られたのだ。私のはずいぶん前に買った旧型で、その後、改良型のQC2が出て、さらに最近はやや小型化されたQC3も発売されている。値段は4万円台で高い。私は一度、半分ほどの値段のSonyの同様の製品も試してみたが、ヘッドフォンに手を触れるとその触れ方によってキーンという騒音が内部で発生するなど、性能はあまり感心しなかった。QCは大きいので、荷物が多いときは持って出るのをためらってしまうことがある。小さくなって性能も向上したQC3をそのうち買うことになるだろう。

 BOSEの創業者で電子工学博士のインド系米国人アマー・ボーズは、技術に夢を持ち、「正しい技術で作った製品は必ず売れるのだ」という信念を崩したことがなかった、と同社の宣伝パンフに書いてある。値段が高いものがいいものだとは限らないが、いいものにはそれなりの値段がつく理由があって、それに自信があるメーカーは、ヤマダ電器ごときに何を言われようと、値引きなどすべきでないし、またその差損を従業員を泣かせたり下請けをいじめたりして取り戻そうとするようなことはしてはならない。私のこのセット——Macmini+EIZOモニター+iPod+BOSEのMMMスピーカー&QCを1つのライフスタイル提案を込めたパッケージにして、3社共同で「安ければいいという時代は終わりました」というキャンペーンでもやったらどうか、と私はナナオの役員に提案している。

 最後に、椅子。なにしろ長時間座っていることが多いので、ここは思い切ってハーマン・ミラーのオフィス用チェアの最上位機種アーロンチェアにした。これもまた、品質に自信を持って決して値引きしない商品だ。詳しくはホームページを見て頂きたいが、9種類の調整機能があってそれぞれの体型や仕事ぶりに合わせた座り心地を実現することが出来る。私が特にありがたいと思っているのは、アーム(肘掛け)の高さと角度を調整して肘をアームに軽く乗せた状態でキーボードを打てることである。これは長時間の作業には絶対必要なことで、前はフィンランド製の可動式アーム台「エルゴレスト」をデスクに装着していた。「肩の筋肉の緊張は、何も支えを使用しない場合と比較して約10分の1」というのが謳い文句で、確かに10分の1かどうかは分からないが、だいぶ疲労が軽減されて助かっていたので新居にも導入しようとした。ところが、デスクに固定する取り付け金具が4.3センチが限度で、今度の作り付けデスクの6センチ厚では付けられない。「弱ったなあ」と思っていたのだが、アーロンチェアが届いてみれば、その機能は椅子自体に備わっているではないか。アーロンチェアは高価だが、エルゴレストはマウスパッド付きロングアーム型だと両手分で3万5000円ほどもするので、そのぶん得をしたような気分である。

※アーロンチェア
http://www2.hermanmiller.com/global/japan/product/aeron.html
※エルゴレスト
http://www.shopavrio.com/goods/ergorest.htm

 こうして、書斎は考え得る最良の環境が整った。が、現実にはまだ外回りの工事で土建屋さんや造園屋さんや電気屋さんが出入りしていて打ち合わせをしなければならないし、注文しておいた植木や草花が届けば植えなければならないし、そうこうするうちに近所の方々や友人たちがお祝いに訪れるてきて酒は飲まなければならないし、てんやわんやで、落ち着いてこの前に座っていられないのが今の最大の悩みである。▲

2007年5月12日

INSIDER No.391《SEMINAR-02》高野孟の「インテリジェンスの技法」(2)──高野孟とは誰か?/マルチアイデンティティな生き方について

お断り・再

 本「インテリジェンスの技法」シリーズは、本来、写真や図版等が多く含まれているが、インサイダー読者向けのメルマガでは余りに多くの画像を添付することに制約があり、また《ざ・こもんず》ブログ上では写真等の大きさや配置に制約が大きいので、本文ではタイトルのみ記して写真・図版は省略してある。画像付きPDF形式のファイルをご覧になりたい方はインサイダーHP上にアップロードしてあるので、下記URLから閲覧またはダウンロードして頂きたい。

http://www.smn.co.jp/insider/takano/takano-semi02.pdf

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▲高野孟のアイデンティティ曼荼羅図(画像省略)
▲上の自画像曼荼羅を描くための頭の体操(画像省略)

●自画像を描く試み

 今回も、曼荼羅図から入る。これは「高野孟とは誰か?」の説明のために、07年正月休みに家で一杯飲みながら作成した、私の自画像すなわちアイデンティティ・マップである。諸君も、大隈塾授業でもテレビでも田原さんの斜め後ろあたりに控えている私を見ていて、「あれはどういう奴なのか」と思っていたことだろうし、これから1年間付き合っていくについては、私が誰であるかをある程度は知っておいて貰わないと困る。とはいえ、「ひと言で言えば」という言い方があるけれども、私の場合は到底ひと言では収まりようもなく、マルチアイデンティティというか、多重生活空間を飛び回ってどこまでが仕事でどこまでが遊びか見境がつかないような日々を送っているので、時折こうやって1枚の絵に整理しないと自分でも何が何だか分からなくなる。

 参考までに、こういうものをどうやって作るかと言えば紙1枚と鉛筆と消しゴムを用意して、思いつくままに要素を書き込んで、眺めては消しまた眺めては付け加えたりして大体の形を整えていって、最後にフィールドの分け方や配置をもう一度考えて、サインペンと色鉛筆で別の紙に清書にかかる。少し慣れてくれば、下書きから清書まで1時間か1時間半で出来る。そこで皆さんに宿題である。これに見習って来週までにそれぞれ「自分とは誰か?」を自己紹介するアイデンティティ曼荼羅図を作ることを試みてほしい。まあ最初は稚拙なものしか出来ないかもしれないが、それでもそれが今の自分なのだから仕方がない。前夜までに画像ファイルにしてメーリスに流すのがベスト。それが出来なければ当日朝、自前で人数分コピーを取って配布し、各自3分程度で皆に説明する。

 前期のレポートは「『矛盾論』の視点で○○を論ずる」、後期のレポートは「私の人生戦略」を提出して貰うのが、ここ2〜3年の恒例となっている。一昨年から、その最終レポートを中心に1冊の文集を編んでゼミ終了記念とするようになり、昨年からは、その最終レポートに「私の人生戦略」に即した自分とは誰かの曼荼羅図を添えることが付け加わった。今年もそれを踏襲する。来週までに描くものと後期の終わりに描くものを比べれば、自分が1年間でどれだけ成長したかしなかったか、曼荼羅技法がどれだけ進歩したかしなかったか、一目瞭然となる。1年後にもっと豊富で洗練された自画像を描けるようになることを目標に、このゼミに励んでほしい。そして、ゼミを出た後も、社会に出た後も、毎年正月にでも、この自分曼荼羅の改訂版を作ることを習慣づけるといいだろう。就職すれば、あるいは結婚すれば、子供が生まれれば、その都度、曼荼羅は大きく変化して当然で、去年のそれに何も付け加えるものもなく修正する必要もなかったとすると、その1年間、自分がほとんど成長しなかったということがバレるのである。

●マルチなアイデンティティ

 本来、1人の人間がそれなりの人生を送り、いろいろなことに関わりを持ち、そのそれぞれについて人の繋がりを築いていけば、その人のアイデンティティが単一である訳がない。単純に言って、皆さんは「日本国民」であり(あ、留学生もいたかな)、「○○県出身」であり、「早稲田の学生」であり、「□□学部の学生」であり、このゼミの「ゼミ生」であり、「△△サークル」のメンバーでもある。例えばそのサークルがアジア支援のためのインターカレッジのNPOであったとすると、その人の中では「日本国民」よりも「アジア人」とか「地球市民」という自己意識のほうが上位に立つのかもしれないし、「早稲田の学生」であるよりもその「NPOのメンバー」であることのほうが価値があるのかもしれない。あるいは、毎年ゼミ生の中に「早稲田に来てこのゼミが一番面白かった」と言ってくれる人が何人かはいるので、そういう人は「□□学部の学生」より「ゼミ生」であることを重く見ているということになる。

 そのように、アイデンティティは決して1つではなくいくつもあって、しかもその優先順位や軽重や相互関係は常に変化し進化し成長を遂げていくはずで、その多重的かつ動態的(ダイナミックな)自分自身のアイデンティティ構造について明晰な自覚を持って、巧く統合しマネージしていくことが、つまりは「格好いい生き方」ということになる。

 あるいは、こういう言い方をしたほうが分かりやすいのかもしれない。みなさんは、余り自覚的でない状態では、自分でも他人の目から見ても、いろいろな場面で「自分(彼奴)ってこういう人間なのかな」と感じたり感じられたりすることがあって、その散発的な印象が“現象”としての自分である。そこに留まっている限りは「自分が何であるのかよく分からない」という悩みを脱することが出来ないだろう。ところが、それを自覚的に吟味して、上述の日本国民、早稲田の学生等々のように、それぞれの次元や方面で自分は実際にどのように世の中と関わっているのかを示すいくつかのサブ・アイデンティティズに整理し、それらの織りなす動態構造を見極めることができれば、それが“実体”としての自分である。そして、それらのサブ・アイデンティティズをどのように統合しマネージして将来に向かって発展させていくかの人生戦略を仮にでもいいから(そんなものはいつも仮であって、上述のように毎年のように改訂し続けなければならないのはもちろんだが)持った時に初めて「自分とは誰か」という統合された1つの全体としてのアイデンティティが見えてきて、それが“本質”としての自分である。物事を見極めるのに、現象ー実体ー本質の3段階で捉えるという思考方法論は、毛沢東『矛盾論』を学んだ直後に、武谷三男博士の論に触れることがあるはずなので、そこでもう少し原理的に理解することが出来るだろう。これを、ヘーゲル弁証法で言う「即自(ansich)」、「対自(fursich)」、「即自かつ対自(anundfursich)」と重ねてもいい。

※武谷三段階論・論文抄
http://www.smn.co.jp/takano/Taketani.html

 我々は「人間」という言葉を何気なく使っているが、江戸時代まではそう書いて「じんかん」と読ませていたそうで、そのほうがむしろ、他者との間=関係性こそが実は人を規定するというニュアンスを表していて新鮮ですらある。人間は他者=世界=宇宙との関係性の中で生きている——というよりも、その中でしか生きられない社会的動物であり、もっと言えば、自分が持っている関係性の総和こそが実は自分なのであって、それと切り離された純粋の個などというものは哲学的思弁の中にしか存在しない。ある人の生き方が格好よかったり、美しく映ったりするのは、その人の持っている関係性の豊かさと、それらを1つの全体として統合して自分らしい暮らしぶりを実現している巧みさがごく自然に滲み出ていることによるのである。皆さんの年代だと、特に失恋して落ち込んだりしたした時に、下宿の電気もつけずにうずくまり、「自分とは何なのか」と思い悩んだりすることだろうが、そうやって内へ内へと自分を覗き込むようにしても何も見えてこないはずで、なぜなら人は誰も真ん中はドーナツのように“空”であって実体がなく、色や味や歯ごたえがあるのは円環状のドーナツの身の部分であってそれが実体であり、しかしそうは言っても真ん中はただの空っぽなのではなくて、その回りの円環によって支えられた仮想あるいは仮説として「自分」というものがそこに浮遊しているにすぎない。禅の修業で悟るというのはたぶんそういうことで、自分は空であって自分の都合で勝手に「生きている」のではなく、ただひたすら無限の時空の広がりを持つ宇宙ー自然ー社会によって「生かされている」のだと心底感じられた時に、初めて味わう解放感のことを指すのだと、私は思っている。

 鈴木大拙は言う(『新編・東洋的な見方』、岩波文庫)。「人間には、自分の外に出てまた自分を見ることができるはたらきがある。このはたらきの故に、人間は、自分らの社会集団だけでなく、自分以外の他の生物でも無機物でも何でも1つにした絶大の社会集団を認めることができる。これを仏の煩悩という。大慈大悲ともいう。弥陀の本願の出処はここにある」「“空”は空空寂寂の空ではなくて、森羅万象、有耶無耶が雑然として、無尽に織れているところ、それが直ちに“空”の座である。これを『色即是空、空即是色』という。どうかしてこの一点に覚醒してほしいものだ」「自分はこれを、0=∞、すなわち『零イコール無限』という。自分だけの数式である。『空』の世界をここに認得したい」

 空に至るのもまた三段階論的な「矛盾道」のプロセスである。大拙はこうも述べている。「ある禅坊さんは次のようにもいっている。『まだ禅にはいらない前は、山は山、水は水であった。少し禅をやるようになったら、山は山でなくなり、水は水でなくなった。ところが、修行もすすんだということになったら、山はまた山、水はまた水になった。』山が山でない、水が水でない時節を、一遍、通らなくてはならぬ。そうでないと本当の山が見られぬ、水は見られぬ。般若心経には『AはAでない、それ故に、AはAだ』というようなことが書かれている。これはアリストテレス的論理のわなにかからぬ考え方だ。ところが、物の真相にはいるには、この『矛盾』道を経過しなくてはならぬ。言葉の上で片付けないで、『体得』しなければならぬ、『知見』しなくてはならぬ」 まあ、今は「何のこっちゃ」と思っていればいい。いずれ、勉強も仕事も恋愛も結婚も、人生すべからく「矛盾のマネジメント」に尽きると“体得”することもあるだろう。

●李登輝の教養

 さて、そう言うわけで、矛盾論の方法を用いて自分とは何かを見極めて人生の戦略を描くのは簡単なことではない。明治以降の日本には「教養主義」の流れというものがあって、明治から大正、昭和初期までは、若者は古今東西の古典を乱読する中で自分なりのアイデンティティすなわち生きる道筋を自由に模索していくべきであるとする気風があった。ところが戦時中ともなると、そんな呑気なことは言っていられなくなって、「日本国家の一員」という単一アイデンティティにすべてを流し込んで、挙国一致・滅私奉公で戦争遂行ということになり、学生も学業を投げ捨てて戦地に赴かなければならなかった。

▲07年1月李先生にお目にかかった時に頂いた記念の色紙(画像省略)

 戦前の「教養教育」がどういうものであったかを知るには、李登輝(元台湾総統)の『「武士道」解題』という本を読むのが手っ取り早い。彼は日本統治下の台湾に生まれて、自らそう公言しているように“日本人”として育ち、1943年に旧制台北高校を卒業して京都帝国大学農学部に進学したが、翌年学徒出陣、千葉高射砲部隊の見習士官として終戦を迎えた。主としてその旧制高校時代までに、新渡戸稲造への傾倒を中心軸としてどんな本を読みながらどんなふうにして自己形成していったかを振り返りながら、新渡戸の名著『武士道』を解説したのがこの本で、その中で彼が特に影響を受けたものとして採り上げている書名を一覧表にすると別表のようである。これ以外に、彼がマルクス主義の文献にも親しんだことは間違いなく、実際彼は46年に帰国して国立台湾大学に編入した直後に共産党に入党し、2年間ほど地下活動に従事している。こうしてみると、李が20歳前後までに読みふけった書と、約20年の隔たりの後に私が読んだ書とがほとんど同じであることに驚いてしまう。私の両親は明治末の生まれで大正リベラリズム真っ盛りの時代に青春を過ごして、とりわけ母は絵に描いたような大正教養人だったから、ここに出てくるような書はたいてい家の本棚のどこかに埃をかぶって並んでいて、そこは私にとって、かなり背伸びをしてドキドキしながら覗き込む「大人の世界」への潜り穴だった。

※李登輝『「武士道」解題』(小学館文庫)
※新渡戸稲造『武士道』(岩波文庫)

 話は逸れるが、「親父(お袋でもいいのだが)の本棚」というのは1つのテーマである。ジャーナリストの嶌信彦がまだ毎日新聞社を辞める前、ワシントン特派員生活から帰国して元のマンションに戻った時に、「日本の住宅では本棚を置くスペースがないんだよ」としみじみと言っていた。アメリカでは(社費で)大きな家に住んで、好きなように本を並べていたが、帰ってきたらとても本など置く場所はなく、段ボール箱の大半はビニールシートを被せてベランダに積んでおくしかなかった。「俺たちが子供の頃は、大なり小なり親父の本棚というものがあって、背表紙を見ると『何の本だか分からないが、自分も大人になったらどういう本を読むのかなあ』と思ったりしたじゃないか。今の親は、本を読んだとしても、置くところもないから文庫本で読んで捨てる。これじゃあね」と。皆さんもいずれ人の親となるわけだが、その時に子供が胸ときめかせるような本棚を持つことが出来ているだろうか。「百科事典」や何とか「全集」を買いそろえて並べておけばいいというものではない。自分の魂の軌跡を滲ませるような本棚でなければならず、それが、子が親の背を見て育つということの重要な要素の1つである。慌てて付け加えると、百科事典はあったほうがいい。私はそれほどではなかったが、昔は親戚や知り合いに「暇さえあれば百科事典を開いて読んでいる」というおかしな子が結構いて、そういうのは大体において後に大物になっている。昨今はWikipediaというわけだが、あれは常時未完成で間違いもあるし、第一、1つの項目を引いて、関連項目に素早くリンクを辿るにはまことに便利でも、ついでに隣の全く関係のない別の項目に興味を惹かれるということが起こり得ない。新聞も同じで、いくらネットで無駄なく便利に何でも検索出来るようになっても、印刷メディアの無駄で不便なところに実は文化が宿るという機微はネットが逆立ちしても追いつくことが出来ないので、紙メディアは贅沢品としていつまでも残る。

 話を戻して、大正育ちの私の両親世代と戦時下の李と戦後1950〜60年代の私の教養項目とがほぼ共通しているとなると、日本的教養主義は連綿と続いて今に生きているかのようだが、実際にはそうではない。李の時代には実は教養主義としてのリベラリズムは瀕死寸前まで痛めつけられていたのであり、それでもなお彼の逞しい知性は時代の濁流に抗してギリギリまで教養を求めて闘い続けたのだろう。日本全体はとっくに「日本国家の一員」=天皇の赤子という唯一絶対のアイデンティティによって染め抜かれて打って一丸団子状態となっていたのである。戦後、民主主義のありがたいご時世になって、その団子状態は解消されたのかと言うとそうではなく、そのまま目標が戦争から経済に、アイデンティティが「日本国家」から「会社の一員」に置き換えられただけだった。戦前型の教養は、私の両親のようなやや変わり者のインテリ層によって多少とも復元と継承が図られたものの、その子である私らの世代あたりを最後に絶滅に瀕し、その後に「戦後教育」が蔓延し、挙げ句の果てに今日の教育荒廃があるという訳である。

 私は、今後も折に触れてそのことに触れることになると思うが、今の日本が抱えるさまざまな問題の根源は、明治から100年余り、欧米に追いつき追い越せをスローガンに、ひたすら経済成長を追求し、自国が豊かになるためなら戦争をも辞さないという具合にして突っ走って来た日本的発展途上国ないし開発独裁の時代が1980年前後を境にして終わって、世界第2の規模の成熟先進国として次の100年に向かって踏み込まなければならないにもかかわらず、その意識の変革、価値観の転換が出来ていないところにあると考えている。その「100年目の大転換」には例えば次のようなことが含まれる。

《100年目の価値観の転換》
[スケール]   これまでの100年    < これからの100年

《政治》
[意思決定]   一極集中       < 多極分散
[主権所在]   官権=中央集権    < 民権=地方主権
[民主主義]   強制と保護の上からの < 自立と共生の下からの
[地方意識]   ないものねだり    < あるものさがし
[社会]     欧米モデル追求    < 江戸モデル回帰
[外交]     日英・日米同盟    < アジア共同体

《国際》
[文明基盤]   石油         < 脱石油
[国家形態]   国民国家       < 脱国民国家
[戦争形態]   国家間戦争      < 非国家間戦争
[価値基準]   国益万能       < グローバル益重視
[安全保障]   敵対的軍事同盟    < 協調的集団安全保障
[国際秩序]   一国覇権主義     < 多国間協調主義
[繁栄中心]   アメリカの世紀    < ユーラシアの世紀
[核]      核恐怖        < 核廃絶

《経済》
[経済目標]   量(的拡大)     < 質(的充実)
[産業中心]   カネづくり      < モノづくり
[産業構造]   産業社会       < 知識社会
[企業形態]   大企業        < 中小企業
[税体系]    直接税中心      < 間接税中心
[組織論]    ピラミッド型     < ネットワーク型
[メディア]   アナログ(1tox)   < デジタル(xtox)
[アイデンティティ]シングル      < マルチ

 この解説はまた日を改めるとして、今日の主題に即して言えば、過去の100年間を通じて基本的にこの国は、国家=会社が真ん中にあって光を放つ太陽であって個々人はその周りを回る衛星にすぎず、それぞれが独自のアイデンティティなど持つことは許されなかったし持とうという気も起こらなかった。が、次の100年には真ん中にあるのは個々人であり、そのそれぞれが自分なりに周りに会社、仕事、地域社会での役割、家庭、趣味やこだわり等々の活動領域すなわちサブ・アイデンティティズを適切に配置して、それらに上手に時間とエネルギーを配分してコーディネートすることを通じてその人らしい暮らしぶりを実現するのでなければならない。私は、不遜ながら、すでにして小なりといえども1個の太陽である。みなさんはこのゼミで、私という太陽から否応なく光を浴びざるを得ないのだが、それで終わっては意味がなく、それを通じて自分がミニ太陽となって光を放つにはどうしたいいかを体得するのである。

 ちなみに、私のような人間がどのようにして形成されてしまったのかに関心があれば、下記の高野個人HPへのリンクを参照して貰いたい。

※余り短くない自分史
http://www.smn.co.jp/takano/who.html
※我カク戦ヘリ/二十一世紀への冀望
http://www.smn.co.jp/takano/warekaku.html

 前者は98年のある日、突然思い立って一晩で執筆して個人HPに搭載したもの。後者は早稲田大学文学部哲学科の同窓生有志が04年に同人誌『西東』を創刊し、その第1号の巻頭に掲載したもの。62年入学の西洋哲学科同級生で僧侶にして絶叫詩人の福島泰樹が私にインタビューするという形をとって当時の時代の空気を掴みだそうとしている。■

2007年5月11日

INSIDER No.390《MARIJUANA》マリファナを解禁せよ!──2007マリファナ・マーチのお知らせ

 マリファナを解禁すべきである。先進国でマリファナを医療用としてさえ認めていないのは米国と日本くらいで、日本のやたら厳しい大麻取締法は昭和23年にGHQの支配下で米国の押し付けで作られたもので、マリファナを他の麻薬類と同レベルで害悪視してその医療用効果を無視しているばかりでなく、そもそも日本の衣食住文化の原点とも言うべき麻の多様な価値を全面的に否定した許し難い悪法である。

 戦後憲法を米国の押し付けだという人がいるが、あれは単なる押し付けでなく、20世紀を通じての国際法の領域での“戦争の違法化”に向かっての人類史的努力の到達点としての国連憲章の精神と、日本国民の「もう戦争はご免だ」という心底からの気持ちとが合一して出来上がった一個の“世界遺産”である。それに対して大麻取締法は、疑いもなく米国の押し付けで、このために日本人は、この国の気候風土に似つかわしい麻の着物を着ることも、麻の実や油を食べるたり住まいの中で活かすことも、不当に制約されていて、そのことに疑念を抱くことすらなくなってしまった。安部首相が「美しい国」と言うなら、まず見直すべきは憲法より先に大麻取締法である。

 知人からこういうお知らせが届いている。

《2007マリファナ・マーチのお知らせ》

 5月13日(日)に東京、港区の青山公園(南地区)でマリファナ・マーチを行います(注1)。これまで2回のお知らせでお伝えしました
が、この催しは、大麻(マリファナ)の規制見直しを訴えた非営利の市民集会です。2001年から毎年5月に開催されてきましたが、今回はじめて六本木周辺から渋谷駅前まで行進する「ヒューマン・パレード」を行います。
http://www.cannabist.org/report/mmm2007/index.html
http://marijuanamarchjapan.blog56.fc2.com/

■この「マリファナ・マーチ」は、昼の12時から開催され、内容は、音楽、フリースピーチ、展示、パフォーマンスのほかフリーマーケットなどもあります。
 
 「ヒューマン・パレード」は、午後4時スタートの予定ですが、前部は大麻問題を訴える人たちが中心になったパレードです。変わったコスチュームの参加者もいるかもしれません。後部は飾り付けの車で音楽を流し、それにあわせてダンスをするような雰囲気のパレード(サウンドデモ)になるはずです。

■ヒューマン・パレードには、大麻・薬物問題だけでなく、難民認定申請を行っている在日外国人・そしてその子供さんの人権、セクシャル・マイノリティ、性同一性障害の問題に取り組んでいる人たちなど、今の社会で偏見や誤解の目にさらされている人々が参加の声を上げています。
 
 わたしたちは、未だ社会で認知されていない人権、あるいは一般には人権の問題とは見なされていない人権問題が存在していると訴えてきました。大麻の問題はそのひとつです。

■日本の大麻取締りは公権力による人権侵害であると言わざるをえません。当然ながら取締りは法律に基づいたもので、取締りを行っている警察官や厚労省の職員は法律に基づいて職務を執行しています。裁判官は、法律に基づいて判決を下しています。
 
 しかし、そういった手続きの大本、最高法規の日本国憲法に反していると言わざるを得ません。基本的自由の最も基本は人身の自由、自分の意思で体を動かし行動する自由です。人間を刑務所に入れることは、自由刑と呼ばれていますが、そのような刑罰を科すことが許されるのは、重大な犯罪を犯したケースに限られます。憲法第18条の奴隷的拘束・苦役からの自由、第31条の罪刑の均衡に反しています。
 
 大麻は人に自由刑を科すようなものではありません。大麻に規制は必要だと思いますが、刑罰として自由刑を科すほど危険な存在ではありません。
 
 事実、世界のほとんどの先進国で大麻は、刑事罰の対象からは外されています。オランダ、イギリス、ドイツ、フランス、スペイン、スイス、ロシア、カナダ、オーストラリアなどでは、大麻は非犯罪化(社会的容認)、あるいは非刑罰化されています。アメリカでも、12の州では州法で非犯罪化(社会的容認)され、連邦法でも常習的ではない個人の所持や栽培に関しては、日本のような重い刑罰を科せられることはありません。

■わが国では、大麻をはじめとした薬物問題を自由に語ることはタブーになっています。行政(取締り側)の一方的見解だけが公表を許されていて、それ以外の意見が存在していることは国民の目にふれないように扱われています。その背景に、大麻や薬物問題に対する誤解や偏見があります。
 
 大麻問題、薬物問題というと、マスメディアでは、ほぼ100%、廃人や病的な人、生活破綻者たちといった反社会的イメージで報じられます。しかし、マリファナ・マーチに参加している人たちを見れば、一目瞭然ですがが、現実に、大麻や薬物問題に関心のある、そして「自由化」(=非犯罪化)を最も望んでいるのは、ごく普通の人々です。

■先ほど新しい人権と述べましたが、人権の問題は、誰かがこれは人権と認めるがこれは認められないとか判断できることではないという思いがあります。条文のようなものがあって、それに定められているようなものでもないはずです。まず自分たちの人権が侵害されていると自覚し、声をあげる当事者たちが存在していることに目を向けるべきではないでしょうか。
 
 人権といっても、他者の人権や公共の福祉を妨げるような性格のものは、制限があってしかるべきだと思います。しかし大麻の個人使用については、そういった問題はないと言っても過言ではありません。大麻に対する誤解や偏見が不安や危惧を生みだしているのです。
 
 わたしたち、マリファナ・マーチに参加する人々はみな、言葉上の表現はどうあれ、今の大麻規制はおかしいと、人を牢獄に放り込むことに異議を唱えています。今の大麻の規制のあり方はおかしいと声を上げている人々がいるのです。この主張に賛同する人たちが数多くいます。
 
 日本の大麻の体験者数は、公的な調査によれば数十万人から100万人と推定されています。大麻取締法の逮捕者は、年間3000人を超えています。こういった数字は、大麻規制のあり方が、社会的に議論されるべき問題になっていることを示しています。

■マスメディアの取材など、積極的に対応いたします。ご関心のある方は、カンナビストまでご連絡ください(注2)。

○連絡先 カンナビスト 電話03-3706-6885 090-6049-0518

○マリファナ・マーチの日時・場所
日時:5月13日(日)午後1時〜。ヒューマン・パレードは午後4時スタート(予定)。
場所:青山公園(南地区)/港区六本木7丁目。
東京メトロ千代田線「乃木坂」徒歩1分、日比谷線・都営大江戸線「六本木」徒歩5分

(注1)マリファナ・マーチは毎年5月に世界各国の180を超える都市、町、村で行われる非営利の世界同時イベントです。大麻(マリファナ)の規制の見直しを求めて1998年にスタートし、日本では東京、大阪、札幌などで開催されています。

 マリファナ・マーチの世界共通スローガン……「医薬品として認めよ!(Release The Medicine) 大麻で逮捕するな!(Stop All Cannabis Arrests) 病人を救え!(Heal The Sick)真実を語れ!(Stop The Lies) 自由を奪うな!(End The Prison State)」

(注2)カンナビスト……日本の大麻(マリファナ、カンナビス)取締りは、著しい有害性は認められない大麻に対し過剰に厳しい刑罰を科しており、年間3000人以上の市民が逮捕されている状況は公権力による人権侵害であると訴えている非営利の市民運動。1999年設立、会員4288人。
http://www.cannabist.org/index.html

※このイベントは日本国憲法第19条(思想・良心の自由)、21条(表現の自由)に基づくもので法律を遵守して行われます。▲

2007年5月 1日

INSIDER No.389《DPJ》小沢民主党は「格差」争点で参院選に勝てるのか?──グローバリゼーション3.0の地平

 統一地方選第2波及びそれと同時に行われた沖縄・福島の参院補選の結果について、民主党の鳩山由紀夫幹事長は22日夜の会見で「福島では『もっと格差是正を前向きにやれ』との厳しいメッセージを出せた」「安部内閣に対し今まで以上に格差の問題を議論すべきだと主張したい」と述べたが、果たしてこの総括は正しいか。

 日本経済新聞23日付第1面の論説で西田睦美編集委員は「民主は補選でも地方選でも争点設定に成功したとは言い難い。景気は回復基調が続き、格差是正の主張はいまひとつ浸透していない」と指摘したが、私自身も、19日に都内のホテルで開かれた小沢一郎後援会に呼ばれて講演した際に、冒頭次のような趣旨を述べた。

●小沢後援会の講演で

▼統一地方選、とりわけ東京はじめいくつかの知事選を通じて明らかになったことは、「格差是正」が必ずしも争点になっていない、もしくは争点にすることに成功していないということだ。

▼なぜなら、21世紀に入って基本的に2%成長が続いている中で、確かに格差が各所に目立つとはいえ、それは相対的格差であり、絶対的格差ではないからだ。相対的格差であるということは、かなりの程度、気分の問題で、格差を重大問題だと考える人と成長持続のメリットに目を向ける人とバラつきが出てくるので、「そうだ!」と有権者の気持ちが1つにはなりにくい。

▼社民党や共産党は、古くさい経済学にしがみついて、あたかもこの日本で絶対的格差、あるいは絶対的貧困化が進んでいるかのようなことを言っているが、少なくとも民主党は、そのような主張とは自らを峻別しなければならないのではないか。

▼民主党がこのまま進めば、22日の選挙も、さらに参院選も、決定的に勝利を収めることは出来ず、自民・公明も民主もどちらも勝ったとは言えないドローに近い結果になる可能性がある。

▼私は、参院選の本当の争点は、改革ビジョンの全体性であると思う。小泉内閣は、あれほど大騒ぎをして「改革だ、改革だ」と叫んだが、結局のところ、手近なドアをいくつか蹴破ってみせただけで、それらのいくつかの課題の行き着く先と全体的な関連性、すなわち「改革とは何か」、「それらをやり遂げることでどういう国を作りたいのか」というトータルなビジョンを示すことは出来なかった。増して後を継いだ安部は、ただ「美しい国」という空疎なことを言うだけで、本当に改革をやるのかどいうかも疑わしい。

▼私が期待するのは、ご本人にも代表就任直後から何度か直接申し上げたが、かつて93年に80万部を売った『日本改造計画』を書いた小沢代表が、今の時点でその新版を世に問うて、それを前面に掲げて、「自民党では改革は出来ない、21世紀の日本は民主党に任せろ!」と訴えることである。今は小沢の顔が見えない。組織戦略だけで参院選に勝つのは難しく、もちろん地を這う組織戦略は大事だけれども、同時に政策・ビジョン面でのイメージ戦略も実行して貰いたい。それで参院選が面白くなる……。

●格差問題の捉え方

 実際、率直に言って格差問題の捉え方を間違えると、民主党は袋小路に填り込みかねない。

 第1に、格差問題は、世界経済の7分の1に当たる5兆ドルの経済規模を誇るこの国で、しかも2%程度の持続的成長を実現している中で、その成果の配分が地域的・産業的・階層的に偏りがちであることによって生じている、まさに相対的な格差であり、その受け止め方は人によって相当大きな違いがある。従って、それを問題にするには、格差一般ではなく、分野によってきめ細かく実態と対策を明らかにして具体的に政府・与党に迫らなければ、争点化は難しい。

 第2に、その背景には、冷戦後の世界経済の構造変化があり、日本一国的に解決することは出来ないことを認識しておく必要がある。『週刊エコノミスト』今週号は、過去に例のない世界同時成長の持続を「世界経済“黄金の10年”」と呼んで特集を組み、これを、15世紀末からの大航海時代のグローバリゼーション1.0、産業革命以後、多国籍企業の時代までの同2.0に続いて、世紀末頃からの世界のフラット化による資本主義の大発展=同3.0が訪れていると規定している。

 その通りで、冷戦の終結によって、一方では、旧ソ連・東欧、インド、中国など社会主義国やブラジルなど発展途上国から、一挙に数十億人の、おおむね教育水準が高くしかも豊かになるためにいくらでも働こうという意欲満々の人々が市場経済に参入し、資本主義は世界中どこででも低コストの労働力を調達することが出来るようになった。他方、同じく冷戦の終結によって、米国を筆頭として、軍事目的に開発された高度技術が民用に転用され、とりわけその象徴であるインターネットの普及が世界をますますフラット化させると同時に、資源とそのコストの観念に一大変革をもたらした。情報資源は言わば無限であり、例えば1つのコンピューター・ソフトを開発したとして、それを1本売るのと100万本売るのとでは製造・販売コストはほとんど変わらない。その特質を逆用すると、ソフトを無料で無制限に配布したとしても別の形で利益を得る場合もあるし、あるいは、利益はないが名誉を得て満足する場合もある。そこでは既存の経済学も経営学も通用しない“無償経済”の世界が広がっていく。

 グローバリゼーション3.0によって、旧社会主義圏や途上国の人々は、もちろん世界資本主義の搾取に身を晒しながらではあるが、閉鎖経済の下では叶うはずもなかった豊かになる夢を追うことが出来るようになった。反面、先進国では人々は、ますます世界単一化する労働市場を通じて旧社会主義圏や途上国の人々と直接競合することによる賃金抑制という未体験ゾーンに突入し、労働環境や雇用形態の激変の中で、より質の高く付加価値の大きい労働力としてスキルを高め、自らを鍛え直すことを通じてしか根本的にはこの状況に対処することは出来ない。このグローバリゼーション3.0への適合を巡って、勝ち組と負け組が分かれるのはある意味で当然で、それは小泉政権が市場原理主義に傾いたせいでも何でもない。

●フリーター出現を恐れるな

 第3に、このグローバリゼーション3.0に、明治から100年余りの「発展途上国型経済」をきっぱりと卒業して次の100年の「成熟先進国型経済」へと踏み込まなければならないという「100年目の改革」課題が折り重なったのが、その日本バージョンである。上述の「改革とは何か」の答えも、まさにこの点に求めなければならない。それは一言で言えば、中央官僚主導の政策や所得配分の仕組みを全面的に解体して新たな市民・民間・地方主導の物事の決定の基本システムを作り上げることであり、またそれと裏腹の「お上にお任せ」の奴隷根性から自立自存の「下々に任せろ」の真の国民主権意識への変革である。

 この100年目の大転換にあっては、誰も今までと同じに安穏に生きていくことは出来ない。石原慎太郎都知事までが選挙で「安心」を訴えたのは噴飯もので、世界経済構造の変化と日本独自の100年目の転換がもたらす不安を耐え抜いて新しい生き方を見つけることが時代の課題である。一例を挙げれば、「フリーターがかわいそうだ」などと思うのは、今までの価値観や労働観がこれからも続くという前提に立った時代遅れの発想で、ましてや政府と連合労組が手を組んで「正規社員とフリーターでは生涯賃金が1億円も違ってくるぞ」などと脅迫して、若者たちを“正業”に就けようなどとしているのは滑稽でさえある。

 もちろん、フリーターには単にだらしないだけの奴もいるし、ニートの中には精神的治療が必要な者もいる。しかし、全体としてのフリーターは、自分らの親や先輩たちのようではない新しい生き方をしなければならないと考えていて、それについて親も教師もアドバイスを与えることが出来ないでいるから、自分らで模索するしかないのである。彼らの中には、ホリエモンに憧れて、それこそ付加価値の高いIT産業でベンチャーを興して勝ち組になろうと思っている者もいれば、何年間かはバイトで過ごして小金を貯めて、NPOを創立してアフリカ難民救済に取り組もうとしている者もいる。そのどちらもが、それなりに、自覚・無自覚は別として、グローバリゼーション3.0と100年目の転換への適合のための苦闘なのであり、むしろ彼らの苦闘の中にこそこの国の未来が宿ると言って過言ではない。

 従って格差を後ろ向きに、発展途上国型経済の常識に立脚して是正しようとするのは愚の骨頂である。前に向かって、21世紀日本の新しい生き方とそれをサポートするシステムを提案することであり、それがつまりは「改革」の本旨である。▲

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