INSIDER No.385《COUNTRY LIFE》いよいよ念願の田舎暮らしが実現する──安房鴨川に移住して田舎暮らしを始めるの記・1
3月26日に長年住み慣れた横浜市戸塚区から千葉県鴨川市に住民登録を移した。生まれてからこれまでに9回引っ越しをしているが、間違いなく10回目の今回が最後で、ここが終の棲家となるだろう。
鴨川の山中に建設中の新居はすでに9割方出来上がっているが、実はまだ完成・引き渡しに至っていない。昨年8月末に地鎮祭を執り行って当初予定では2月末に完工するはずが半月延びて、さらにその段階で一部の家具・建具の施工が終わらなかった上に、建築家が細部に渡って監査して厳しい手直し要求をいくつも提起したため、もう1カ月延びて4月15日に引き渡しということになった。横浜の家がすぐになくなる訳ではないので、こちらとしてはじっくり丁寧に仕上げて貰ったほうがいい。4月から5月連休にかけて、まさに五月雨的に引っ越しを進め、念願のエセ(?)田舎暮らしが始まることになる。
ここに至る経緯の途中までは、土地を入手した直後の03年10月20日付「インサイダー」No.154から約1年後に家のプランニングに入った頃の04年10月28日付No.236まで、「人生二毛作開墾記」と題して14回に渡り断続的に連載(サイドメニューのCATEGORY「DOUBLE-CROPPING」にまとめてあります)したが、その後は事情あって中断していた。いよいよ引っ越しが実現することになったので、上記の連載を一部補正の上、アーカイブとして収録すると共に、改めて「安房鴨川に移住して田舎暮らしを始めるの記」と題して、中断後の進展、実際にこれからそこで暮らし始めて何が起きるのかを「インサイダー」紙上で順次報告していくことにする。
●そもそもの始まり
こういうことになったそもそものきっかけは、何度も書いたりしゃべったりしてきたことだが、故・藤本敏夫との再びの出会いである。藤本とは学生運動時代から党派の違いを超えて遠目でお互いに見知っていて、その後もポツンポツンとは付き合いがあった。彼が参院選に立候補したときには事前に相談があって、麻布十番のおでん屋でじっくり話をして、「止めた方がいいよ」とアドバイスしたりもした。50歳になった時に、ちょうど10歳上の田原総一朗さんが原因不明の消化機能衰弱で痩せ衰えて入院するのを見ていて、「そうか、あと10年で俺も還暦かあ」としみじみ思うことがあり、同じ昭和19年生まれの藤本に久しぶりに声をかけて2人の呼びかけで「一休会」を結成した。19年のイチキュウと、「ここらで人生一休み、今から還暦の迎え方を考えよう」というヒトヤスミの意味と、そう言えば一休禅師は80歳を超えても洒脱で、行きずりの女を庵に引き込んで同棲しエロチックな歌など詠んでいつまでも元気だったのにあやかりたいというイッキュウさん願望とを重ね合わせたネーミングで、時折酒を飲んでは談論風発した。その席で藤本が、学生時代と変わらぬアジテーション口調で、「諸君、還暦とは人生二毛作目に入るということであり、二毛作というなら『農』である。石原莞爾は戦後『国民皆農』と言った。日本人すべからく、何らかの程度、土に触れて農のある暮らしを目指さなければならない」と大演説をブッた。それでその会の有志で彼の鴨川自然王国を訪ねてみようじゃないかということで行ったのが、そこに填り込んだ始まりだった。
都心からも横浜からも、アクアラインを通って車で飛ばせば1時間半という近さでありながら、そこには日本の農村の原風景と言える美しい里山風景が広がっていて、「東京近郊にこんなところがあったのか」と感動する。しかし、ひとたび中に分け入って見れば、超過疎の村々、放棄されて荒れ果てた田畑、手入れされずに真っ暗になった森など、触れるものすべてがほとんど半死状態であることに胸が引き裂かれる。放っておけない気分に駆り立てられてそこへ通って農作業や森林整備作業に取り組むようになり、ややもして棚田保全のトラストを組織して自分らで田植え・稲刈りをし、大豆を撒いて味噌を作り、年間日程を立てて都市と農村を往復する暮らしが始まった。
●藤本敏夫の遺志
鴨川では1日の作業が終われば必ず焚き火を囲んでの宴会で、そういう席で藤本とはたくさんのことを語り合った。思いきって要約すれば、1つは、産業政策としての農業政策の立て直しの問題で、折からアメリカ型の大規模化・効率化一本槍の旧農基法下の農政破綻の果てに多少ともヨーロッパ型の環境や農村共同体重視の新農基法に置き換えようという流れが生じて、それまでは危険人物視されていた藤本が関東農政局のそのための諮問会議の事実上の座長に指名されるということもあって、彼は大いに意欲を燃やしていた。私は、そこまでその転換に主体的に関わる見識もゆとりもなかったので、彼の熱弁に頷くばかりだったが、しかし直感的に、法律の文言がどう変わるかよりも農業の現場の実践が現実にどうサポートされるのかが大事なのではないかと思っていた。それは、今で言えば、教育基本法をいじくってもいじめや自殺はなくならず、結局は校長を筆頭とする教師や親や地域の現場での闘いを国がどう励ますことが出来るかに帰着するというのと同様である。結果を見れば、新農基法農政は、大規模化・効率化幻想を捨てきれずに零細農家の足切りを強行するばかりとなってしまった。
2つには、しかし藤本がそれよりももっと心を砕いていたのは、“業”の付かない“農”のことである。「農業に帰れと言っても、農業はプロの農家が逃げ出しているのが現実だ。都会人に、都会を捨てて農村に行き、農業を始めるべきだなどと言うのは非現実的で、都会人であってもマンションのベランダにプランターを置いてハーブを植えるのも農だし、それで飽きたらずに市民農園を借りて五坪で野菜を作るのも農だ。条件があるなら、鴨川自然王国の会員になって田植えや草取り、芋や大豆作りに参加するのもいいし、畑を借りて小屋を建てて週末農作業をやるのでもいい。定年を機に田舎に引っ越して、農業は無理でも米と野菜の自給くらいは達成しようというならそれに越したことはない。実際、21世紀の日本はそれが最大のテーマだ」と藤本は言った。都会に本宅があって田舎が別荘なのではなく、都会と田舎を自由闊達に行き来して、そのどちらもが本拠であるような多重生活空間を生きるべきであり、そのために鴨川自然王国をもっとみんなに活用して貰いたいというのが、彼の考えだった。
3つには、特に晩年の藤本は、若い世代が農的生活に関心を向けるようになることに期待をかけていた。我々やそのちょっと下の団塊世代はいずれ還暦を迎えて、その中の少なくとも一部はごく自然に田舎暮らしに向かうだろう。しかしこの世代が出来ることは先鞭をつけることだけで、そこで拓かれた道を辿ってそのジュニアやもっと若い人たちが、最初からの人生戦略として農的生活を目指すようにならなければ日本は変わらない、と彼は言った。その遺言のような期待は、早くも鴨川自然王国において現実となりつつあって、藤本の死と入れ替わるようにして王国には数人の30歳代の若者がスタッフとして身を投じ、そのうち2人は揃って一昨年地元で結婚してそれぞれに子供を設けた。年に4〜5回開いている「帰農塾」でも、最近は20歳代、30歳代の受講生が過半を占めるようになった。その人たちや、私が毎年王国に稲刈り合宿に連れてくるゼミ学生たちの中には、生まれて初めて田んぼに入って泥だらけになると、それだけで人生観がでんぐり返ってしまって、卒業したら会社に就職というだけが人生ではなく、もっと多様で豊かな仕事の仕方、人生の送り方があるんだと目覚めてしまう者もいる。
●移住への決意
そうしたことを語り合う中で、私もいつしか、還暦を機にこの地に移住して藤本と共に「国民皆農」時代を切り開くために第2の人生を捧げようと思うようになった。藤本の影響と言えばそうなのだが、それ以上に、子供の時以来何十年ぶりに土にまみれて汗をかいたことで、私の人間としての本能というか、本来あるべき姿に目覚めてしまったのではないか。
藤本が4年前に亡くなってからは、王国の指導は加藤登紀子さんに引き継がれ、彼女が女王(永六輔さんに言わせると皇太后)、次女で歌手のヤエさんがプリンセス、農事組合法人代表の地元の農家・石田三示さんが首相、私が通いの官房長官といった役回りで、上記トラストの運営、王国産の野菜の頒布、年4〜5回の「帰農塾」の開催など多彩な都市・農村交流の事業を進めてきた。これからも王国を盛り立てて藤本の遺志を継いでいかなければならないと思っている。
こうして、私にとっての鴨川移住は、まだ時折誤解する人がいるのだが、引退でも引きこもりでも都落ちでもなく、まさに土に根ざした人生二毛作目の出発である。本業の方で《ざ・こもんず》という新たな挑戦的事業を起ち上げている最中なので、東京と鴨川を行き来する私の二都物語はしばらくは慌ただしいものとなるだろうが、それを通じて私の人生曼荼羅はなおさら豊穣さを増していくことだろう。
●建設計画の中断と再開
さて、それで私が王国からほど近い1800坪の山林を手に入れ、たくさんの方々の力を借りながら約1年かかって開墾し、さあ家のプランニングに入ろうかというところまで漕ぎ着けた経緯は、上述の「人生二毛作開墾記」連載で述べた。
家と庭の設計監修は友人の庭園デザイナーSさんに依頼していた。彼は常々、「本来、家というものは、環境があって、景観があって、庭があって、だからこういう家を建てるというのでなければならない。と言っても今の都会ではそんなことは到底無理で、誰もが周りとは無関係に家の設計図だけ引いて、後になって『ここは水道管が目立つので木を植えてくれ』という程度の認識でしかない」と嘆いていた。私はそれに大いに共感し、こういう広大な敷地だからこそ環境・景観・庭園そして家屋という順序で物を考えていくプロセスを彼と一緒に楽しむことが出来るだろうと考えて、彼に白羽の矢を立てたのだった。彼はもちろん造園が仕事であって建築家ではない。しかし彼がそのような考え方に沿って全体的なプランニングをして、後は信頼できる建築家や大工に任せれば、私の思い通りの家が出来るだろうと期待した。
しかし、結論から言うとこの仕事は彼には荷が重すぎたようで、プランニングは難航した。とりわけ、上記連載の第13回に述べているように、この土地が「地滑り防止区域」であって地盤に不安があるという問題があって、私はそこは腹を括って前進するという立場だったのに対して、Sさんはどうしてもこだわり続け、そのことがプランニングも設計も工程も著しく制約することになって、とうとう05年末、基礎工事に着手した段階で行き詰まってしまった。私としては、それまでに土地入手からすでに2年間を費やしていて、それ以上の遅延はそこで暮らす時間を縮めるだけになることから、やむなくSさんに降りて貰い、友人の木工作家Bさんの知り合いの別の建築家Tさんに設計を依頼することにした。06年1月に正式依頼、半年かけてプランを煮詰め、8月着工、それでようやくこの春に私の移住が実現することになったのである。
その際に私が「作りたい家」のイメージを建築家に伝えるために、マインドマップの手法を活用して図示したのが下図である。この説明は次回に述べる。▲