Calendar

2007年2月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28      

Recent Trackbacks

« 2007年1月 | メイン | 2007年3月 »

2007年2月27日

INSIDER No.383《ABE》支持率急落で“破れかぶれ”に傾く安倍首相(その2)──衛藤復党決断と拉致固執演出

 さらに不味いのは、安部の拉致問題への拘り過ぎである。もちろん拉致問題は日本国民にとって重大関心事であり、北朝鮮に対してあくまで全貌解明と生存者の無事帰国を求めて厳しく追及していかなければならないことは言うまでもない。しかし、それを「政権の命綱」(23日付朝日)と位置づけて突出させ、あらゆる外交の場でこの問題への“理解”を取り付けることにばかり関心を注ぎ、また国内世論対策上も「ぶれない姿勢」をことさらに演出してみせるのは、かえって命取りになりかねない。

●6カ国協議への姿勢

 23日付毎日「記者の目」欄の「硬直した日本の北朝鮮政策」で大貫智子記者は、日本が6カ国協議で「拉致問題の進展がなければ北朝鮮へのエネルギー支援を行わない」との方針を貫いたことについて、「核問題解決に後ろ向きともとられかねない今回の対応は正しかったのだろうか。拉致の早期解決のためにも、政府は核問題との両立を図るべきだと思う」と指摘した。

 北京で6カ国協議を取材した彼女を驚かせたのは、「うちは拉致問題が進展すれば、核問題で進展がなくても支援するんだよ」という日本政府関係者の「日本の“極端な”政策を自嘲気味に語る姿」だった。また外務省幹部に今回の対応が妥当だったのかと問うても「首相に聞いてよ」と言葉を濁すばかりだった。さらに別の幹部も、各国との首脳会談で「首相の指示がなくても萎縮して勝手に“拉致”を議題にしてしまう」と嘆いたという。

 実際、北朝鮮の核暴走をどう食い止めるかの瀬戸際の勝負がかかったこの協議で、日本はそのこと自体には何の提案も貢献もせず、ひたすら日本の立場に各国の“理解”を取り付け、エネルギー支援の主体を合意文書に明記させないようにすることだけに努力を集中した。米国と中国は裏では、北がどうしても核施設停止に同意しない場合はピョンヤンで宮廷革命かクーデターを起こして金正日を亡き者にするというシナリオまで用意してこの協議に臨んだと言われており、今後も北が言を左右にして逃れようとすればその米中秘密作戦を発動する覚悟で事に当たっていこうとしている。そのような真剣勝負の場で、独り日本が「拉致、拉致」と言って廊下を走り回っているのでは、北を含めた5カ国から味噌粕扱いされるのは当然で、事実、核合意のいくつかの重要論点では日本は議論から外されて、後になって間接的に結論を聞いただけに終わった。

 21日に来日したチェイニー米副大統領との会談でも、「拉致が解決しない以上“テロ支援国家”指定を外さないでくれ」と申し入れ、チェイニーから「拉致解決は共通の課題だ」という答を引き出して、それを大きな成果として宣伝した。

 もちろん北以外の4カ国は日本の立場に同情的で、問われれば「日本の立場を理解する」とは言うだろう。が、それは加藤紘一元幹事長が言うとおり「外交辞令に近い」もので、彼らの本音は「この伸るか反るかの勝負時に余計な問題を持ち込むな。それは日朝2国間でやってくれ」ということだろう。

 今回の6カ国協議合意は、94年の米朝枠組み合意と違って、「核施設停止」と「エネルギー支援」のバーターに止まらず、金融封鎖の段階的解除、テロ国家指定の解除、米朝国交正常化のための協議開始まで含めた包括的なパッケージとなっており、しかもそれを「60日以内」に始めることになっている。日本の論法から言えば、拉致が解決しないのだから米朝国交樹立は待ってくれと申し入れなければならなくなるが、そんなことが通用するはずもなく、米国は「日本の立場は理解する」と口では繰り返しながら粛々とこのプロセスを進め、日本が孤立感を味わうことになりかねない。他方、この合意の枠内で3月上旬には「日朝国交正常化作業部会」も開かれることになっているが、安部はこれについても「北が拉致を解決する姿勢を示さなければ、何も与えるべきでない」という姿勢で臨むことを指示しており、恐らく何ら前進のないまま決裂状態に陥るだろう。

 拉致被害者・家族と支援者が安部を頼りにするのは当然だが、それに応えて「ぶれない姿勢」をアピールするためにますます拉致問題を突出させ対北交渉のハードルを高くするだけでは、外交は成り立たず、かえって出口を失うことになりかねない。▲

2007年2月26日

INSIDER No.382《ABE》支持率急落で“破れかぶれ”に傾く安倍首相(その1)──衛藤復党決断と拉致固執演出

 26日付毎日に載った世論調査では、内閣不支持率は1月の前回調査より5ポイント増えて41%に達し、同4ポイント減の支持率36%を初めて上回った。20日付朝日の調査でも、不支持率40%で、支持率37%を初めて上回った。黄信号の点滅が次第に速くなって、やがて30%台前半に入ると赤信号の点滅に切り替わる目前の政権末期的様相である。

 不支持の理由としては、毎日では「首相の指導力に期待できない」が前回比7ポイント増の49%、「首相が経験不足で頼りない」21%、「首相の政策に反対」19%など。指導力や経験不足という印象が増しているのは、閣議の“学級崩壊”状況を批判した中川秀直幹事長発言が大いに響いていると推測される。

 朝日では、「首相の仕事ぶりが期待はずれ」が37%で、「もともと期待していない」32%と合わせて69%が不満。「柳沢厚労相を辞めさせる必要がある」が53%で、この問題が不支持増加に影響が大きかったことが窺える。政策面では、「格差問題への取り組みを評価する」が21%に止まり、「評価しない」が54%と過半数を占めた。反面、「拉致問題が前進しなければ北朝鮮を支援しないという姿勢」については、「評価する」が81%と、圧倒的多数を占めた。

●“決断”はいいが、その方向は?

 この状況で、官邸周辺から漏れ伝わるところ、最近、安倍晋三首相の口から「私が決断する」というせりふが出ることが増えているという。指導力を示さなければならないという狙いからのことであるのは言うまでもないが、その真情は「周囲の意見を聞いても内閣支持率が下げ止まらず、最近は『思い通りに決断して国民の審判を仰いだ方がいい』という思いが強くなっている」というもので(24日付読売)、座して死を待つよりも破れかぶれでやって、駄目なら責任を取ればいいんだろうという、ほとんど悲壮な覚悟である。

 その現れが、唐突に浮上した、郵政造反・落選組の衛藤晟一前衆議院議員を復党させて参院比例選から出馬させる問題である。これが破れかぶれなのは、そもそも安部内閣の支持率が大きく落ち込み始めたきっかけが、昨秋の造反・当選組12人の復党問題であり、その際に落選組17人(引退者や他党入党者を除くと復党対象者は9人)については参院選前には復党は認めないとの自民党執行部の方針決定があったというのに、敢えて首相の“決断”でそれを覆して指示したからである。

 指示された中川幹事長は、元々昨秋の当選組復党には慎重な立場で、対象となった12人に党の決定に従うとの「誓約書」を提出させるなどのハードルを設け、結果的に平沼赳夫の復党を阻んだ。この時、安部が世論の反発や与党内の慎重論の強さに惑いながらも最終的に復党を認めたのは、誰よりも、思想・信条的に近く歴史教科書問題など右翼的政治運動の同志として重んじてきた平沼を復党させたいという思いからであった。が、中川の設けたハードルでそれを阻まれ、挙げ句にその心労から平沼は脳梗塞に倒れて入院するという悲惨な結末となった。安部にとっては平沼と同じく同志である衛藤の復党指示は、一面において、中川に対する意趣返しである。中川は、今回の指示に反対であるに違いないが、直前に「閣僚は首相に絶対的な忠誠と自己犠牲の精神が求められている」と発言したばかりで、総裁である安部に幹事長として従わざるを得なかったのだろう。しかし、このことで安部・中川関係は陰に籠もって悪化し、政権運営にさらなる支障が出てくることが予想される。

 衛藤復党は、公明党との関係も一気に険悪にした。公明党はこれまで通り、参院選挙区で自民党候補を全面支援する代わりに、比例では自民党から票を貰う、「選挙区は自民党へ、比例は公明党へ」という選挙協力態勢を採っており、衛藤の元々の地元である大分県でも自民党候補者を応援する異を決めている。しかし衛藤が比例に立候補した場合、自民党支持者の比例票が衛藤に流れ公明党には余り回ってこないことが予想される。その結果、衛藤は当選したが公明党は比例で1人取り落とすことになりかねず、単に大分県の選挙協力が壊れるというだけの話ではなくなる。安部はもちろんそのことを承知していて、23日に記者団に「我が党の候補者だから我が党で決めたい。ただ、選挙協力は両党の信頼においてしっかり組むことが大切だ」と語っているが、まさにその信頼関係に敢えて亀裂を入れたに等しい。

 公明党は、安倍政権発足とほぼタイミングを合わせて大田昭宏代表体制に切り替わり、その時から「安部自民党とどこまで付き合うのか」という悩みを抱えてきた。一応「平和と福祉」を売り物にしてきた同党にとって、改憲を呼号する安部は小泉以上に路線的・体質的に相容れない部分があり、それでも自民党との連立=選挙協力を続ける以外に社民党並みの少数政党に転落することを防ぐ道がないという判断から安部の同伴者となって何とか彼を盛り立てようとしてきたのだが、今回のようなことがあると、この政権への思いが急速に冷めて、形の上では選挙協力態勢を敷いても今ひとつ組織動員に力が入らないということが十分に起こり得る。

 言うまでもなく、参院選は自公連立として過半数を維持できるかどうかの勝負で、それには全部で29の一人区で、前回は27区で14勝13敗だった拮抗状況を上回って議席を確保できるかどうかが焦点である。そうでなくとも、参院選に限らず衆院選の小選挙区でも、今や自民党は独力で過半数を確保して政権を維持する力は失っていて、多くの選挙区で平均数万の創価学会票が自民票に上乗せされることで辛うじて民主党を上回っている場合が少なくない。増して今回は、小沢=民主党がまさにその一人区を最大ターゲットとして地を這う選挙戦術を採ってきており、自公の過半数確保は危ないと見られている。その時に、どうして公明党=創価学会のやる気を削ぐような挙に出るのか、政治的判断として理解不能である。自民党内でも、特に再選を控えた舛添要一参院政調会長は危機感を募らせ、「百害あって一利なし。間違った判断だ。こういうことを続けるとますます支持率が下がる」と、公然と安部を批判している。

 衛藤という友人1人を救うことで、中川は陰に籠もり、参院は怒り、公明党はやる気を失い、世論は呆れる。何もいいことがないどころか、自殺願望かと思わせるほどの安部の政局判断で、こういうのは“決断”ではなく単なる破れかぶれである。[続く]▲

2007年2月12日

INSIDER No.381《TAIWAN》「台湾独立→台中軍事衝突」はほとんど幻覚だった!──“台湾お勉強ツァー”の報告

 本誌や《ざ・こもんず》で予告した「高野孟&蓮舫と行く最新台湾を見る旅」を引率して1月11〜14日、私個人としては約20年ぶりに台湾を訪れる機会を得て、大いに学び、かつ遊ぶことが出来た。

 私は長年にわたり中日新聞社・栄文化センターで月1回、「新・世界地図の読み方」と題した講座を開いてきたが、昨年、同センターの40周年を記念して、教室から外に出て海を渡ってフィールドワークをしてみようという話になり、第1回の試みとして「高野孟と最新韓国を見る旅」を行った。今回はその“海外お勉強ツァー”の第2弾として、私だけでなく台湾人ハーフである蓮舫=参議院議員の同行も得て台湾に行くことになり、私の講座の受講者やその家族のほか、《ざ・こもんず》などでの告知を見て応募した東京、名古屋、九州からの方々など計約20人が参加した。韓国と台湾の両方に参加した熱心な方も数名おられた。

 李登輝=元総統はじめ、野党=国民党副主席・立法院議員である経済専門家の江丙坤、与党=陳水扁政権の陳唐山=総統府秘書長(官房長官)および羅福全=亜東関係協会会長・前駐日代表、森保祐=共同通信台湾支局長の各氏らによるレクチャーや懇談を中心にして、総統府、中正紀年堂、二二八平和紀年館、改装成った故宮博物院、ハイテク台湾の象徴である南港ソフトウェアパーク、世界一の高さを誇る展望台TAIPEI-101、アジア最大規模で24時間営業の誠品書店などを見学し、さらにその合間を縫って休む暇もなく茶館、骨董市、夜市、漢方薬・乾物の老舗問屋が並ぶ迪化街などを駆けめぐるという、まことに濃密な旅となった。

●独立か統一か?

 台湾問題についての日本の常識と言えば、この独特の歴史的経緯によって作り出された国際法的に曖昧な地域の存在とその台湾海峡を挟んでの大陸中国との関係が、朝鮮半島の38度線と並んで、東アジアの最大のトラブル・スポットの1つであり、そこでは“統一派”=対中国融和派の国民党と“独立派”=対中国強硬派の民進党(さらにその“左”に位置して“急進独立派”と呼ばれる李登輝の台湾団結同盟)の間で政治が振幅を繰り返し、仮に独立派が一線を踏み越えて名目的な「独立」を宣言するなどして中国を挑発するようなことがあれば、たちまち武力紛争となって米軍も介入、日本をも巻き込んだ戦争になる危険がある、ということである。が、そのような想定はほとんど幻覚である。

 なぜなら、台湾は今でもすでに立派な独立国であり、そうであることについて台湾市民の大多数と各政治勢力の大半の間に顕示的なコンセンサスが成り立っているばかりでなく、北京政府もまた少なくとも黙示的にはそのコンセンサスを共有しているからである。国立政治大学選挙研究センターが2006年に行った調査を見ると、台湾市民の世論の分布はこうなっている。

・永遠に現状維持すべきだ ── 20.8%
・現状維持の後(次世代以降で)決定するべきだ ── 38.3%
・現状維持の後(次世代以降で)独立するべきだ ── 12.9%
・現状維持の後(次世代以降で)統一すべきだ ── 11.9%
・すぐに独立すべきだ ── 5.8%
・すぐに統一すべきだ ── 1.7%
・無回答 ── 8.9%

 将来はともかく、すでに事実上の独立国である現状を維持しようという人が約84%を占めている以上、民進党にせよ国民党にせよ他の少数政党にせよ、それ以外の現実的な政治選択などあるはずがなく、せいぜいが大陸との経済融合関係をどの程度に止めるべきかという戦術的レベルの争いがあるだけである。次世代以降の遠い将来ということになれば、その時点までに大陸の民主化・市場化がどこまで進展しているかを変数として、さらにそ先も現状維持を続けるか、独立か、それとも統一かという判断が分かれることになるけれども、そんなことはその時になってみなければ分からないのだから、今論じても仕方がない。

 元々、武力によってでも中国全土を「統一」しようというのは、北京にとっても台北にとっても、一応そう言い続けなければならない建前であって、初めからフィクションだった。1945年から4年間の中国内戦の結果、敗北した蒋介石=国民党が南京を捨てて台湾に逃れ、台北を“臨時首都”として辛うじて「中華民国」を存続させ、他方勝利した毛沢東=共産党が北京で「中華人民共和国」の成立を宣言して以来、両者はお互いに相手を「あってはならないもの」と規定し、台北は本土の「大陸反攻」を、北京は台湾の「武力解放」を大義として掲げては来たものの、冷戦下の国際的パワー・バランスと世界の世論動向からして、ある日突然どちらかが他方を武力併合しようと戦争を仕掛けることなど、(朝鮮戦争から1950年代半ばまでを除けば)現実には起こりようもなかった。しかし、一度大義を掲げてしまった以上、理由なしに取り下げることが出来ないのが国家の悲しい宿命で、今でも北京で中華人民共和国地図を買えば台湾が自国領と表示されているし、台湾で中華民国地図を求めれば大陸全土が(どういう訳かモンゴル共和国まで含めて)自国の版図に組み込まれている。中華民国地図では、今の東北3省はまだ熱河、遼寧、遼北、安東、吉林、松江、嫩江、興安、黒竜江、合江の10省に分かれているし、北京は昔の「北平」の呼称のままになっているのがご愛敬で、そこに「統一」という思考の化石性が端的に表れている。

 冷戦後の今では、台湾側では「大陸反攻」=武力統一という選択が完全に絶滅していることは言うまでもない。台湾で「統一」を口にする者があるとすれば、それは第1に経済的な融合・浸透を続けていくことであり、第2には(そこは将来意見が分かれるところだが)大陸の民主化の進展度合いに応じて台湾型民主主義の主導の下で政治的統合を果たすことである。他方、大陸側では、建前としての武力統一は残っていて、それは唯一、台湾が公然と独立を宣言した時にのみ発動されざるを得ない。だから、お願いだからそれだけはやらないでくれ、というのが北京の本音である。そこさえ台湾側が抑えてくれれば、経済交流はいくらでも深めていって、その先には香港型の「一国二制度」式も含めて北京主導による政治的統合もあり得よう、ということである(北京の言う“平和的解決”:ただし台湾側が応じる可能性はほとんどない)。独立派の闘士である陳水扁総統といえども、そこはもちろん分かっていて、だから政治的なゲームとして「独立」をちらつかせることはあっても、決して最後の一線を超えることはしない。

●二二八事件は風化せず

 台湾「独立」論の意味は昔と今で違う。本来の独立論は、戦後になってやって来た国民党政権=外省人の軍事独裁に抵抗する元々の台湾人=本省人の自立・自治の要求だった。当時の国民党にしてみれば、本土を一時的に支配している“共産匪賊”との内戦はなお継続中であり、いずれ台湾を基地に米国の支援を得て大陸に反攻し、中華民国の全領土を回復して反共統一を成し遂げなければならず、そのためにこの島を要塞化して国民党に異を唱える者を容赦なく弾圧した。ところが本省人からすればそれは降って湧いたような大迷惑であり、一刻も早く国民党に出て行って貰いたいと思うのは当然である。清国時代には辺境としてほとんど放って置かれた挙げ句に日本に売り渡され、しかし日本統治下では確かに政治的自由はあるはずもなかったがそれなりの経済・文化の発展を体験した台湾人にとって、国民党独裁は日本の植民地支配よりも遙かに我慢のならないものであり、それを当時の彼らは「犬が去って豚が来た」と表現した。「豚は出て行け」というのが、つまりは独立論だった。

 1945年8月に台湾が日本から中華民国に移管されると、南京の国民党政権はすぐに軍隊と行政官を送り込んだが、その軍隊はほとんど敗残兵で、強盗、略奪、婦女暴行を恣にし、また高官や警官も汚職、ゆすり、たかりに明け暮れた。食料はじめあらゆる物資が強制徴集され大陸に運び出されたため、極度の物不足、インフレ、失業が進んで台湾経済は崩壊、最初は爆竹を鳴らして“解放”を祝った台湾人もたちまち国民党に失望し、怨嗟が渦巻いた。そうした中、1947年2月27日の夕方、密輸取締官が台湾人街で闇タバコを売っていた中年女性から商品と売上金を没収し、金だけは返してと哀願する彼女の頭部を銃床で殴りつけた。周りの人々や通行人が取り囲んで抗議すると、取締官は囲みを破って逃げようとして発砲、単なる見物人だった1人の青年を即死させた。怒った群衆は翌28日、行政長官公署前で抗議デモを行ったが、それに対し官憲は機銃掃射を以て応じ、数十人の死傷者が出る惨事となった。このため抗議行動は台北市内全域に広がり、激昂した市民が各地で官公署や警察を襲撃、台湾新公園(現在の二二八公園)にあったラジオ局をも占拠、なんと軍艦マーチを流しながら日本語で「台湾人よ、起ち上がれ!」と放送した。このため翌3月1日には暴動は台湾全土に広がった。

 度を失った台湾行政長官兼警備総司令の陳儀が南京に「台湾人が独立を企てて組織的な反乱を起こした」と緊急打電すると、蒋介石はただちに第21師団1万余の精鋭部隊を送り込み、徹底的な弾圧を行った。人の集団を見れば機銃で無差別に殺戮し、検問で北京語がしゃべれない者を選別して紐で縛って海に投げ込み、日本時代に高等教育を受けたエリートや知識人はただそれだけの理由で逮捕して、耳をそぎ落としたり手の平を鉄棒で刺し貫くなどの拷問を加え、なぶり殺しにした。後に李登輝総統の時代になって初めて政府による調査が行われ、約2週間に及んだ大虐殺の結果、2万2000人が犠牲となったと推定されたが、その個々の人々がどんな目に遭って遺体をどこに捨てられたのかなど具体的な事情は今なおほとんど不明である。

 李登輝が初の民選総統となった翌年の97年、事件の象徴となったラジオ局の建物を改装して「二二八紀年館」として開館、豊富な資料や写真で事件の概要を展示すると同時に、今後もさらに真相究明の調査・研究を続けていくことになった。同紀年館のパンフにはこう書いてある。

「228事件の全真相は未だ明らかにされておらず、この苦渋に満ちた事件はまだ終わりを告げていない。未だに心に大きな悲しみによる痛みを抱えたままの被害者家族もいる。国家のアイデンティティ問題、政治構造の改革、エスニック(族群)間の社会的・文化的対立など、現社会における諸問題もこの悲劇がもたらしたものといえよう」

 実際、事件はそれだけで終わったのでなく、その直後に発布された戒厳令を通じて、その後40年間もの長きにわたって“白色テロ”支配が続き、その下では「独立」を口にするだけで投獄され、あるいは帰国を許されなかったりした。今回、我々の旅を支援し招宴まで開いていただいた羅福全=亜東関係協会会長はまさにそのように迫害を受けた独立闘士の代表で、彼は終戦までを日本の小学校で過ごして空襲・疎開も経験し、戦後台湾に戻って台湾大学を卒業後、早稲田大学政治経済研究所修士課程に留学中の63年に「台湾青年会」(後の台湾独立連盟日本本部)に加入、さらに米ペンシルバニア大学に留学して「全米台湾独立連盟」を興して機関誌『台湾公論報』の発行人も務めた。その後、米国のいくつかの大学や国連大学で教官・研究員を歴任するものの、2000年に陳水扁政権になって亜東関係協会駐日代表(台湾駐日大使)に任命されるまで、一度として台湾の土を踏むことはなかった。今は事もなげに「私、40年間も帰国できなかったんですよ」と語るが、そのおだやかな笑顔にむしろこの人たちがほとんど全生涯を賭けてきた「独立」の一語の重みを知るのである。

●独立論の変位

 このように、長い間、台湾人の国民党暴政への抵抗の論理としての「独立」論はタブー化されてきた。しかし、1975年に蒋介石が亡くなって蒋経国が後を継ぎ、経国が84年に本省人である李登輝を副総統にし、87年に経国が自ら戒厳令を38年ぶりに解除しそれを置き土産に翌年亡くなって李が後を襲い、96年に李が初の総統直接選挙を実施して自ら初の民選総統となり、さらに2000年の総統選で野党の陳水扁に(平和的に!)政権を譲るという、四半世紀がかりのゆるやかな独裁解除=民主化の過程を通じて、「独立」は国民党と民進党その他との関係を超えた台湾人全体のアイデンティティとそれに基づく大陸中国との関係の持ち方の問題へと変質していく。

 李登輝前総統はこう語った。

「台湾住民にはこの50年間で生まれた台湾アイデンティティーがある。その中にもともと台湾人だと思っている人も、戦後蒋介石と台湾に渡って来た人もいるが、後者ももう4代目になって、道徳的な関係、人間的な関係が尊重される台湾社会が暮らしやすいことを、身を以て知っている。だからいつまでも中国大陸にアイデンティティーをもつということはきっと難しいだろう」

 アイデンティティは台湾では「認同」と言われ、2つの次元でそれが問題になる。1つは、上述「二二八紀年館」パンフに「族群」=エスニックという言葉があったが、台湾住民を構成する出身別の言語・文化の差異と同化をどう捉えるかの族群アイデンティティ問題であり、もう1つは、自分を中国人と考えるか台湾人と考えるか、それによって「中華人民共和国」及び「中華民国」にどういうスタンスと距離感を持つかという台湾アイデンティティの問題であり、もちろん両者は重なり合っている。

 森=共同通信支局長のレクチャーや彼の先輩で今は台湾在住のジャーナリスト=酒井亨の著書『台湾・したたかな隣人』(集英社新書)などを参考にまとめると、族群は主にはホーロー(福ロウ=人偏に老、あるいは河洛などと漢字表記)人、ハッカ(客家)人、原住民(先住民)、外省人がある。

 ホーロー人は人口の70%を占め、清国時代からの中国福建系の移民と台湾土着のオーストロネシア(マレー・ポリネシア)系の平地に住む原住民「平埔族」との混血の子孫である。ホーロー語は福建省南部の厦門を中心とするビン南語(ビン=門構えに虫)から主として台湾で独自に発展した言語で、これが本来の台湾語である。ホーロー人以外の族群の間でも広く使われ、テレビでもホーロー語によるドラマや歌謡が放送されるし、また国内線の空港ではアナウンスが北京語、ホーロー語、客家語、英語の順でアナウンスが行われる。ホーロー語は台湾支配下の金門や福建省でも通じ、厦門のテレビでも最近はホーロー語の番組が放送されるようになった。厦門は北京語ではシアメンだが、それをアモイと発音するのはビン南語でそう呼ぶからで、元々はビン南語もホーロー語も漢字起源の言語でなく、自分らの言語に後から漢字を当てはめた歴史を持つのだろう。

 北京語を標準語とする漢字表記の中国語というものがあって、地方によって様々な方言があるとする言語観は、それ自体「漢民族」中心主義の1つのイデオロギーであって、本当は古代中国の市場でたくさんの異なる言葉を語る諸民族が筆談で商取引を行う方便として、あの膨大な象形文字の体系としての漢字が生まれたのである。

 客家人は人口の15%を占め、元は中国の広東省や福建省の山間部を発祥の地とし、台湾に渡ってやはり平埔族と混血した。

 原住民は2%弱で、現在も山地に住む高砂族と平野に住む平埔族に大別され、さらにそれぞれが、9〜11の部族に分かれる。平埔族は、台北はケタガラン族、宜蘭はクヴァラン族、新竹はタオカス族、台中はパゼッヘ族、彰化はバブザ族、嘉義はホアニヤ族、台南はシラヤ族、高雄はマカタオ族というように分かれていて、言語も習慣も異なる。と言っても、平埔族はほとんどホーロー人と同化してしまったので、原住民と言えば高砂族だけを指す場合もあるという。

 外省人は、言うまでもなく国民党と共に大陸各地からやってきた新住民で、人口の13%を占める。多いのはやはり福建省と広東省の出身だが、国民党体制側に付く支配的族群としての誇りにかけて北京語を使う。イラクの旧支配勢力であるスンニ派と同様、人口的には圧倒的少数派の外省人が権力を握り続けようとする無理が過酷な独裁に走らせることになるのである。しかし、李が言うように、50年の国民党支配を通じて外省人も世代が代わり、今ではほとんどが台湾で生まれ育った人たちである。大陸の共産党支配を倒して父祖の地に帰ろうなどと考える者がいるはずもなく、その意味では本省人と外省人という族群の区分そのものが意味を失いつつあると言える。とはいえ、昨年6月の世論調査では、「台湾人と思うか中国人と思うか?」の問いに対して、

・台湾人=44.4%
・中国人= 6.2%
・両方 =44.1%

 という結果となっていて、ホーロー人や客家人の中でも必ずしも「台湾人」と自己認識するのでなく「両方」と考える人がいるし、また外省人の中にも「台湾人」と思う人や「両方」と思う人がいることを窺わせるが、「中国人」だと思う人はほとんどいない。台湾アイデンティティは広がりと深まりを見せながらも、しかしまだそれは確定されるには至らず、その揺れが大陸との付き合い方にも反映するのである。

 アナロジー的には、これは沖縄アイデンティティの振幅を思い起こさせる。ここにも2次元のアイデンティティ問題があって、1つは、同じ琉球弧でも、奄美は九州の縄文だけでなく弥生の文化も流入しているが、沖縄本島とその南の先島と呼ばれる宮古・八重山では縄文文化は本土と共有するが弥生文化の影響は乏しく、さらに先島はポリネシアから台湾に連なる南方文化の影響があって独自の石器時代を過ごし、13世紀になって沖縄と歴史が撚り合わされることになる。もう1つは、その沖縄の縦構造の問題で、基礎には縄文的原住民としての沖縄人があり、そこに明国時代以来の中国との交流を通じてこれまた主として福建省方面から移住した大陸系の人々が入り交じりつつ政治的・経済的に大きな力を持ち、さらに後には薩摩人が植民者として南下してきて折り重なる。原住民系の喜納昌吉が「あの知事は久米島出身の中国系だからダメだ」などと言い放つのを聞いていると、沖縄アイデンティティもまた複雑骨折的になっていて、その捉え方が日本に対する沖縄「独立」論への距離感の違いとなって現れていることが分かる。

●大陸との付き合い方

 さて、そのような中で、台湾の大陸との付き合い方はどうなっていくのだろうか。李登輝は96年に初の民選総統となった直後に、大陸との関係について「戒急用忍」原則を打ち出した。これは、当時過熱化していた台湾から大陸への投資について、ハイテク関連や基礎建設に関わる分野、また5000万ドルを超える大型案件などを制限し「急がず忍耐強く」対中経済関係を進めるべきだというもので、選挙中に台湾近海にミサイルを撃ち込むなど威嚇を行った北京政府に対し毅然たる態度を示す政治的意図もあったに違いないが、それ以上に、台湾有力企業が我も我もと大陸投資に殺到し、それをいいことに北京が進出企業に「投資を認めるから台湾独立に反対、一国二制度に賛成と表明しろ」などと工作を仕掛けていたのに対して「国家安全と経済利益のバランスを取る」(李)という意味合いがあった。

 2000年の第2回総統直接選挙で当選した陳水扁は、すぐにこれを見直して「積極管理、有効開放」政策に改めたが、これはハイテクや大規模投資はある程度慎重にしつつも李の対中投資制限は大幅に緩和しようとするもので、李の厳しい制限に不満を持つ経済界が選挙で陳支持に回ったことへの返礼とも言えた。本来「独立派」であるはずの陳と民進党が政権に就いて間もなく、李時代の対中交流制限を緩和して投資促進を打ち出したのだから、話は逆さまである。

 他方、敗北の責任をとって国民党主席を辞任した李は、翌01年に国民党の中の台湾派、すなわち台湾アイデンティティを重視し、連戦国民党主席(当時)の対中融和策をやり過ぎだと考える人々や、独立派の文化人団体、民進党の対中妥協的な姿勢に失望した急進独立派などを糾合して「台湾団結連盟」を結成、その年暮れの立法議員選挙では13の議席を得る。

 その黒幕的存在となった李は、あくまで「戒急用忍」論に立って国民党主流派のイデオロギー的な大陸融和論を批判し、当初はむしろ陳政権と手を組もうとした。ところが陳が右旋回(?)してご都合主義的な大陸投資促進論に傾いたので、それに対しても厳しい批判を浴びせるようになった。そうであるがゆえに日本のマスコミでは彼を「急進的独立派」と形容することが当たり前となってきた。が、よく考えてみると、李と陳の対中政策は五十歩百歩であって、大陸との経済交流は進めるけれども、それをどの程度に止めるかをめぐっての意見の相違に過ぎない。

 李は今こう語る。「私の時は5000万ドル以上の大陸投資は審査対象とし、行くものと行かないものを区別した。全部が行ったら台湾の失業が増え、伝統産業がピンチになる。2000年(に陳水篇になって)からは行け行けドンドンのオープン政策になって、失業率も2.2%から5.5%に上がった。(陳は)経済を知らない。1人当たりGDPは1万3000ドルで今は韓国に抜かれた」と。

 では国民党の対中政策はどうなのかと言えば、江副主席によると、「平和と繁栄、人民優先」を基本的なスタンスとして、通信・通商・通行の「三通」を推進しつつ、将来のあり方としては(1)中国共産党の一国二制に絶対反対、(2)民進党の台湾独立に反対、(3)台湾における中華民国政府の堅持の3点を主張している。

 民進党的な「独立」論は、もしそれを中国、日本、米国が揃って了承すれば可能であり、そうなればそれに越したことはないけれども、今はそういう状態になく、そのようななかで徒に「独立」を叫ぶことは、台湾を戦争の危機に晒すだけである。
「国民党は中国とは経済の道を発展させていく『三通』の先に本当の台湾の将来があるとの考えだ。経済を良くすれば政治も良くなる。そうなれば永久的な独立も可能だ。そして中国も徐々に変化して行くだろう。いずれ中国が民主的になる日を待ちながら、向こうの民主化を助けていくことが台湾の当たり前の役割だと思う」と、江は語った。

 両岸はまず平和であるべきで、その下で台湾自身の経済力を向上させ民主政治を深化させて国際的地位を強化していきながら、大陸との三通の経済交流を進めていけば、中国の民主化を促すことになり、その先に自ずと台湾の将来は見えてくるというのである。

 江の談話で面白かったのは、05年4月の連戦=国民党主席と胡錦涛=中国国家主席との北京会談における「一個中国、各自表示」の合意である。台湾がAPECに参加するに当たって、中国はそれを了承しつつも(2300万人の生活・経済実体が存在するのだから当たり前だ)、台湾が「中華民国」の呼称を使うこと、外務大臣を出席させることに反対した。連は、それでも台湾がAPECに参加することが大事だという観点から妥協し、「Chinese Taipei」の呼称を使うことで同意した(一個中国)。しかし、その英語からの訳し方は、北京は「中国台北」とし、台湾は「中華台北」とした(各自表示)。こんな微妙と言うべきか小賢しいと言うべきか、細かいところでお互いが面子を立て合うことで台中関係は成り立っているのである。そしてその微妙さからは、陳政権といえども逃れることは出来ないのが現実である。

 経済交流が大陸の民主化を促すという点では、李も同意見である。彼はこう語った。

「大陸は、経済的発展に伴って徐々に民主化されたらいいと考えている。しかし民主化はそう簡単ではない。中国人の固まった考え方、中国人の歴史的な思想というのは恐らくそう簡単には変えられないだろう。これは、米国に行った中国人でさえそう簡単には米国人になれないし、日本に行っている中国人が簡単に日本人になれないのと同じだ。また、大陸が台湾の経済レベルになるのはまだまだ時間がかかるだろう。全体的なGDPが上がってきたのは人口が多いからで、地域経済格差がまだとても大きい。体制への不満に関する毎年何万件という問題も起きている。だから、むしろ台湾から民主主義とは何かを中国大陸人に伝えていく。中国に対して民主主義をどんどん教え込んでいったらいいのではないか」

 このように、民進党も国民党も李登輝派も、経済交流を通じて中国の民主化を促すことで現在の事実上の独立状態を維持し、将来条件が整えば完全独立を果たすという点では同じであり、ただその程度つまり速度と回路が違っているだけである。ただし、急進独立派というは少数派ながら市民運動としてはあって、これは事実上の独立では我慢できず、憲法を変えて「台湾共和国」を名乗って名実共に独立を図ろうとするものだが、これとても今それをやって中国と戦争することを主張している訳ではない。従って、民進党を「独立派」と呼ぶのも、国民党を「統一派」ないし「経済融合派」と呼ぶのも、李登輝派を「急進独立派」と呼ぶのも、すべて間違いである。

 我々の帰国後、李登輝は有力週刊誌『壱週刊』1月31日発売号で「台湾独立の追求は米国、大陸との多くの問題を引き起こす危険がある」「私は台湾独立を主張したことはない」「大胆に開放を進め中国資本、観光客を誘致すべきだ」などと語り、彼を“急進独立派”と規定してきた日本のマスコミや、彼を独立派=反中国=親日本のシンボル的存在として崇めてきた右翼的メディアなどは大いに驚いて「心変わりか?」などと騒いでいるが、それは無理解のなせるわざで、実は彼の言動にはそれほど大きな変動はない。

 日本の右翼の間には、(1)中国の軍事的対外膨張は必至で、そう遠くない時期に必ず台湾に武力侵攻する、(2)その時、米国は直ちに軍事介入するが、(3)その場合に日本が何もしないで傍観している訳には行かず、周辺事態法を発動して何らかの軍事貢献をしなければならないが、それを全うするには集団的自衛権の解禁を急がなければならない——といった論調が盛んで、そのような観点から、米日台の反中国同盟を形成しようという主張さえあるが、これは、はっきり言って、米国も中国も台湾も、誰も台湾海峡で戦争をしたがってはいないという現実からかけ離れた空想的な戦略構想である。

●軍事的衝突はないのか?

 では台湾海峡を挟んで軍事的衝突が起きることはないのかと言えば、そうとは言い切れない。96年総統選挙の最中に中国からミサイル恫喝を受けた李登輝は、とりわけ対中警戒感が強く、こう語った。

「中国大陸は心理的な脅しのためにミサイルを打ってきた。私は、本当に戦争になれば台湾に勝ち目はないことは知っていた。だから国民の不安を払拭しながら国を正しい方向へと導いていくのが指導者としての役割だった。例えば、国民にまずは米ドルを買うように勧め、2000億ドル規模の株式基金を作った。食料面でも7か月分の米を用意するなど、様々な段取りをしたのを憶えている」

 李によれば、現在の中国の体制は対内的には「新しい奴隷制度」であり、対外的には経済成長を通じて軍事的拡張をめざしていて、隙あらば台湾を呑み込もうとするばかりでなく、元々は中国とは無関係の尖閣列島も、明国時代から深い交流のあった沖縄も、昔中国人の祖先が足を踏み入れたところは全部自分のものだと言い出しかねない。実際、中国が台湾を併合すれば、今は中国大陸の臍に当たる部分に対面している台湾がクルリと後ろを向いて太平洋に面することになるわけで、南シナ海からバシー海峡を経て琉球弧沿いに日本列島周辺に続く広大な海域が、直接に中国の軍事的脅威に晒されるという重大な地政学的変化が起こる。だからこそ米国も、いざとなれば「台湾関係法」に基づいて台湾を死守するというスタンスを崩していない。

 しかし、ここで重要なのは軍事における「潜在的脅威」と「現実的脅威」とを明確に区別することである。台湾がひとたび形式的な独立に踏み出した時には中国は「武力統一」に踏み出さざるを得ず、その万が一の可能性に備えて軍備拡張に励んでいて、そうである以上台湾もまた最新兵器を導入して対抗せざるを得ないが、これはお互いに潜在的脅威のレベルでの軍拡ゲームであり、一触即発の危機が差し迫っているという意味での現実的脅威が高まっているということではない。

 中国側のいざという時の伝統的なシナリオは、まず現在500発(08年までに700〜800発?)程度と見られる短距離ミサイルを雨あられと降り注いで台湾の空港・港湾を壊滅させて海峡の制空権・制海権を確保し、商船をも動員して一気に陸上機動部隊を上陸させるというものだが、96年ミサイル発射挑発事件の際に、米第7艦隊がただちに日本=横須賀と中東方面から2隻の航空母艦を台湾近海に派遣したことが中国にとっては一大ショックで、以後10年間、米艦隊を阻止するための潜水艦や対艦ミサイル攻撃能力の増強、3軍合同の大規模演習、台湾周辺から太平洋方面の海洋調査=海戦準備作業に必死で取り組んでいて、「中国の軍拡」と言われるものの大半はその目的のために注がれている。が、しょせんハイテク戦力で米国に敵うわけもなく、潜水艦やミサイルの数をやたらに増やして何とか阻止するという“人民戦争”的発想のものに止まっている。

 他方、台湾側も中国の軍拡を座視することは出来ず、陳政権はパトリオット・ミサイルPAC-3はじめ最新型ミサイル導入によるミサイル防衛、早期警戒機と長距離レーダーの充実、通常型潜水艦の増強などを打ち出しているが、議会での野党の反対と米国はじめ兵器供与国の対中関係配慮のため思うように進んでいないのが現状である。野党が軍拡に反対するのは、「陳が“独立”を宣言するような無謀なことさえしなければ戦争は起こらないのだから、無駄なことだ」ということである。

●政治の季節へ

 現在、陳水扁率いる民進党は、国会内では少数与党で、提出法案がほとんど通らずに国政が空転する状況が続いている。立法院の議席数は与党が96議席(民進党84議席、台湾団結連盟12議席)、野党が112議席(国民党90議席、親民党34議席)となっている。

 加えて、国民党政権の腐敗を批判して政権を奪取したにもかかわらず、自らが腐敗堕落し、06年には、総統府副秘書長の汚職・拘束、陳の娘婿によるインサイダー取引や不正な金集めによる逮捕、そして銀行合併・SOGOデパート経営権争奪にからんだ陳夫人=呉淑珍の収賄・公費流用などの疑惑が噴出、野党から陳総統罷免案が6月から11月にかけて3度も提出されるという異常な事態となっている。就任当初の2000年6月には79%もあった陳水扁の支持率は06年11月には16%まで下がった。政党支持率でも、00年12月には26.6%だった民進党は06年6月には17.2%まで落ち、それに対して国民党は14.5%から37.5%に上昇している(中立が40.2%→40.5%と最多)。

 この状況で06年12月9日に行われた台北市と高雄市の市長選では、台北はもとより元々民進党の地盤である高雄も国民党に獲られるのではと予想されていたが、蓋を開ければ、台北は国民党が大差で勝ったものの高雄はわずか0.14%の得票率差で民進党が辛勝して一勝一敗の結果だった。陳水篇も汚職・腐敗でボロボロだが、次期総統選の最有力候補である馬英九=前台北市長(国民党主席)もまた公費流用疑惑が指摘されて、スキャンダルでは両者相討ち状態となったためだろう。李登輝は「私は確かに民主主義の制度は作った。しかし台湾の現状ではまだ中身が伴わない。ここにはまだ“市民社会”が出来ていない」と嘆いていた。

 2007年12月には、立法院議員選挙が行われ、引き続いて08年3月に総統選挙が行われる。立法院選挙は、定数を225席から113議席へと一挙半減して小選挙区制で争う初の選挙で、陳政権としてはこのように制度を変えて2大政党制型に導いて国民党批判票を一手に集めてしたほうが有利と判断してのことだろうが、果たしてこれがどちらにどのように作用するのかは、今のところ誰も分からない。混沌の中、台湾は大きな政治の季節を迎えようとしている。

 ちなみに、上述の李登輝の週刊誌発言は、新選挙制度では彼の13議席しかない台湾団結同盟は生き残ることが出来ないので、一度は決裂した国民党と撚りを戻そうという狙いから、ややニュアンスを変えたボールを投げたものとも推測される。

●台湾経済の先行き

 台湾経済はどうなのか。経済専門家で経済閣僚も経験している江丙坤=国民党副主席のレクチャーによると、国民党政権だった1953年から陳水扁に政権を譲った2000年までの48年間を通じて、年平均の経済成長率は8.1%、“台湾の奇跡”と呼ばれた世界一の記録を達成した。95年から00年の5年間でも、平均成長率はアジアでNo.2の5.9%、失業率は2.6%の低さだった。国民平均所得も、70年代9.8%、80年代8%、90年代6.5%と成長し、戦後直後の50ドルから1万3000ドルにまで達した。

 ところが民進党政権になって、01年から06年の平均成長率は3.3%でアジアNicsで最下位、失業率は4.6%と倍近くなった。07年の成長予測でも、シンガポール5.5%、韓国5%、香港4.7%、タイ5.3%、マレーシア5.4%、台湾4.1%で、今年もアジアNics最下位が続くという憂うべき状態にある。

 その不振の理由は消費も投資も低迷していることで、95〜00年と01〜06年の各5年間の項目別年平均成長率を比較すると、民間消費は5.94%から2.02%へ、政府消費は2.85%から0.54%へ、民間投資は10.65%から1.51%、政府投資は0.45%から−4.81%へとなっている。民進党政権は「独立」志向が強いため戦争への危機感が生じ、そのことが投資不安へと繋がった。また中国の世界市場での競争力が強まったことで台湾への日米投資が中国へと流れただけなく、国内台湾企業の輸出と投資も中国・香港へと流れてしまった。

 台湾の海外投資は許可ベース累積では中国へは536.6億ドル、それ以外へは476.2億ドルとなっているが、中国側の発表では06年10月までの台湾による対中投資の合計額は958億米ドルである。これは、日本・米国・欧州が台湾を経由している分が含まれるためである。

 現在、台湾の輸入は日本が中心で、輸出は中国・香港が39.8%、米国が14.4%、ASEANが13.7%、欧州が11.7%、日本が7.3%で、旧来の対米輸出依存型から大きく中国型へとシフトしている。この結果、06年には625億ドルの対中貿易黒字と、約300億ドルの対日赤字となっている。台湾に対する海外直接投資は1952年〜2006年11月の期間に766.2億米ドルで、そのうち日本からの投資は件数で第1位(5156件=26%)、金額で第2位(136.2米億ドル)。また1952年〜1995年の技術提携許可件数は4196件で、そのうちの日本からの導入は59.2%を占めている。台湾の経済は、日本の資本・技術を頼りにして中国市場に向かう以外に発展しない。▲

Profile

現在、INSIDERニュースレターの内容は、ご覧の《THE JOURNAL》内でブログの形で公開されております。
誰でも無料で閲覧し、またそれについて感想や意見を書き込むことが出来るようになっておりますが、従来通り、お手元に電子(Eメール)版配信もしくは印刷版郵送の形で講読を希望される方は、引き続きEメール版:年間6,300円(税込)、ペーパー(紙)版:年間12,600円(税込)をお支払いください。[法人購読の場合は年間105,000円(税込)になります]
ウェブ上で無料で閲覧できるものが、Eメール版・ペーパー(紙)版が有料なのはどういうわけだと思われるかもしれませんが、後者の場合、読者名簿管理と請求の事務、配信と郵送の手間が必要であり、とりわけ印刷版の場合は紙代、封筒代、印刷代、郵便代のほか宛名を印刷して封筒に貼り、印刷されたものを三つ折りして封入し、糊付けし、紐で束ねて郵便局に運び込むのに膨大な手間とコストがかかっていることをご理解下さい。
また、無料で閲覧できるならそちらに切り替えたいという方もおられると思いますが、残余の購読期間は引き続きEメール版もしくはペーパー(紙)版を配信させて頂き、購読料を途中返還することは致しませんのでご了解下さい。

BookMarks

TOKYO KALEIDO SCOOP
http://www.smn.co.jp/

INSIDER(インサイダー)
http://www.smn.co.jp/insider/

→ブック・こもんず←



当サイトに掲載されている写真・文章・画像の無断使用及び転載を禁じます。
Copyright (C) 2008 THE JOURNAL All Rights Reserved.