INSIDER No.379《NEW YEAR 1》2007年の世界と日本・その1──イラク“決着”の年
AP通信の独自集計によると、イラク駐留米軍兵士の死者は、12月26日までに2974人に達し、9・11テロの犠牲者2973人を1人上回った。だからどう、ということでもないのだが、少なくとも米国人にとっては、これは一体何のための戦争だったのかを改めて痛切に考え直すきっかけとなる1つの臨界点ではある。
これが「テロ撲滅」のための戦争であったとすれば、3000人近い死者と2万2000人を超える負傷者を合わせた米軍の犠牲者の数など問題ではない。彼らにはこの上ない名誉の冠が捧げられ、そして米国はそれだけの犠牲を厭わずテロとの戦いの最前線に立ち向かい続ける指導国として全世界から崇拝されることにもなっただろう。しかし、イラクが9・11やアル・カイーダとは何の関係もなく、ただ単にイスラエル右派の情報操作とその“トロイの馬”としてホワイトハウスに浸透したネオコンの誇大妄想とに暗愚の大統領が踊らされて間違って発動してしまった戦争であることが明らかになった後では、その犠牲は全くの無駄でしかなかった。
またこれが「報復」のための戦争であったとすれば、米軍の犠牲者もさることながら、9・11に何の責任もないイラク市民65万人以上の死者と80万人以上の負傷者はどのようにして償われるのだろうか。
米国人は07年、自国の大統領が生み出したこの世界史上希な馬鹿馬鹿しくも痛ましい現実に、何らかの決着、とは言わないまでも、最低限、これ以上無駄死にが累積することに歯止めをかける道筋をつけなければならない。
●1月中旬に新政策発表
超党派「イラク研究グループ(ISG)」の提言を受け取ったブッシュ大統領は、昨週末以来、国務長官や国防長官と協議を重ねた上、28日にはテキサス州の私邸で国家安全保障会議の会合を開いて集中議論し、07年1月中旬にはイラク新政策を発表し、さらに1月23日の一般教書演説で中東和平を含む包括的な中東政策を打ち出し、その上で、2月5日の予算教書でイラク駐留米軍の一時増強(?)、再配置(?)、段階的撤退(?)の計画に沿った予算措置を提案することになろう。
ブッシュが最優先しようとしているのは、取り敢えず現在の下血状態を止めるための米軍の一時増強である。しかしこれはどう考えても上手く行かない。
第1に、これは、ISGの「08年3月末まで」と期限を切った段階的撤退論に激しく反発するネオコン系のアメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)が巻き返しを狙って打ち出した提案に沿ってチェイニー副大統領が主張しているもので、政治的には、超党派の合意を目指したせっかくのISG提言を頭から無視する形となり、議会で承認を得ることは難しい。
第2に、対イラク関係では、「イラク政府が治安維持能力をつけるまで待っていられない」という不信のメッセージであって、これにはマリキ政府は反発し、米国が同政府の尻を叩いて治安を任せられるようにしていくための最低限の信頼関係が壊れる危険がある。「マリキは役立たず」という趣旨のハドレー安保担当補佐官のメモがメディアに漏れたことで、すでにマリキは切れる寸前の心理状態にある。またイラクの武装勢力のスンニ派はもちろんシーア派の中の反米派も「占領強化」に怒りを高め、これまで以上に米軍及びその“傀儡”に対する攻撃を激化させるだろう。
第3に、それをも抑えてイラク全土を軍事的に制圧しようとすれば、現在の戦闘部隊5万2500人の数倍規模の新戦力を投入しなければならない。AEIの提案は、3万1500人を増員し、そのうち特にバグダッドでは現在の5個旅団1万7500人を07年9月までに12個旅団4万2000人へと上積みするというもので、米メディアはこれをやや皮肉を込めて「野心的」と評したが、軍事常識からすればそれでもまだ控え目に過ぎて、せめてバグダッドだけは完全に抑えようという程度の目論見でしかない。ところが、ホワイトハウスが検討しているのは、1万5000人〜3万人規模の中途半端な増派で、これではほとんど意味がない。軍の制服組は、統合参謀本部から現地司令官までこぞって、「明確な任務の定義付けがないまま増派しても、米軍の犠牲を増やすだけだ」と、いかなる増派にも反対している。
第4に、どの程度の増派にせよ、米軍にはすでに物理的に人員のゆとりがない。現在のイラクとアフガニスタンの戦線を維持するにも、陸軍50万7000人、海兵隊18万人の現役部隊ではやり繰りがつかず、予備役や州兵など“パートタイム軍人”の動員が常態化しており、それが国内の反戦機運をなおさら高めている。そのためブッシュは、12月19日付ワシントン・ポストに載ったインタビューで、「この長期にわたる思想戦を戦い抜くには軍の増強が必要だ」と述べた。朝鮮戦争時には160万あった米陸軍は、ベトナム戦争後には80万に半減し、冷戦終結後は50万を切るところまで縮小していた。9・11後に議会が3万人の増員を認め、07年までに51万2000人とすることが既に予算化されているが、ペンタゴンとしてはさらにその先、2万3000人ないし2万8000人増強して53万5000人ないし54万人体制にするプランを準備している。が、いずれにせよ新設部隊の兵員をリクルートし訓練し部隊に配置するにはかなりの時間と1000人当たり1億2000万ドルのコストが必要で、最大限頑張っても年に6000〜7000人増やすのが精一杯である。上記ホワイトハウスの一時増強案が1万5000人〜3万人と控え目なのは、すでに予算化されている07年までの増強分の範囲内で実行するしかないという現実的な対処であって、逆に言えば、AEIの増強案は非現実的である。
つまり、イラク全土を圧倒的に制圧するような大増強はもちろん、AEIが言う程度の増強も実際には難しいという現実の下で、ホワイトハウスが考えている現実的ではあるが象徴的な意味しかない一時増強では、制服組が言うようにかえって犠牲を大きくするだけになる公算が大きい。軍事手段は既に手詰まりである。
●イラク軍・警察の実状
一時増強は実は、イラク政府と治安軍・警察が自力で治安を維持できるようにするまでの時間稼ぎだが、イラク軍・警察の実状は惨憺たるものである。
イラク駐留のイギリス軍800人とイラク軍600人は25日未明、戦車と戦闘用車両の援護を受けて、シーア派の頭目サドル師の拠点であるバスラ市内に進攻、バスラ警察本部の拘置施設を急襲して、そこに収容されていたイラク人127人を救出した。バスラの警察にはシーア派系の過激民兵や犯罪集団が深く浸透していて、「警察」の名の下で主にスンニ派のイラク人を手当たり次第に検束、虐殺したり、拷問を加えたり、家族から法外な身代金を取り立てたりしていて、同施設に収容された人々が生命の危機に晒されているとの判断から独自の作戦を発動した。
英軍スポークスマンによると、その施設の様子はおぞましいもので、100平米ほどの広さに便器2つと流し2つがあるだけの房に100人以上が詰め込まれ、その多くは手足が折れたり、銃傷を負っていたり、電気やタバコによるやけどの痕を残していたりして、明らかに拷問に遭っていた。宗派対立がないといわれたバスラでさえこんな有様なので、対立の激しい地区ではもっと酷いことになっており、事実、10月にはバグダッド警察の1大隊がスンニ派に対する暗殺団と化していた疑いが生じて、政府が同大隊を丸ごと活動停止にする措置を採っている。また北部のクルド族地区では、クルド族の警察・民兵が捕らえたテロリスト容疑者やスンニ派武装集団と目される者たちが大量に拘置され、裁判にもかけられない(というより裁くべき法律も裁判所もない)ままに、劣悪な条件の下で命の危険に直面している。すなわち、本誌が何度も繰り返し指摘してきたように、米国が旧支配勢力であるスンニ派を徹底排除してシーア派とクルド族を主体として慌てて軍・警察を再建しようとしたために、一方では、軍・警察にシーア派とクルド族の民兵や暗殺集団や犯罪グループが好きなように紛れ込み、他方では、だからこそスンニ派が軍・警察を米国の手先と見てますます激しく攻撃するという歯止めの利かない悪循環を生み出して収拾がつかなくなっている。
21〜22日にかけては、もう1つイラク事情の複雑怪奇を暗示する異常な事件が起きている。駐留米軍は21日夜、イラク軍に対する襲撃計画があるとの情報を元に警戒中のところ、イラン外交官2人を乗せたイラク政府公用車を発見し、同乗者全員を拘束、後になってイラン外交官2人は釈放した。続いて22日未明、シーア派の最大政党であるイラク・イスラム革命最高評議会及びその傘下の民兵バドル旅団の指導者であるハキム師の本拠施設内を捜索、ここでもイラン軍高官を含む2人のイラン人を拘束した。イラク政府は、これらのイラン人は「イラクの治安状態の改善について協力態勢を協議するためタラバーニ=イラク大統領の招待で訪れたもので、逮捕は不当」と不満の意を表明したが、米軍側は「イランがイラク国内に介入して内戦を扇動している」との疑いを捨てていない。
この2つの出来事を通じて明らかなのは、誰が誰と戦っているのかについて誰も分からなくなってしまった中で勝手気ままに暴力が飛び交っているというイラクのどうにもならない現実である。バスラの事件では、英軍がイラク軍と連合して地方警察を攻撃したが、その警察の実態はシーア派民兵と犯罪グループが癒着した偽警察だった。後者のケースでは、米軍が味方であるはずのシーア派の拠点を捜索し、イランの扇動者と思って逮捕したイラン人がイラク政府の協力者だった。何が何だか分からない。
このような出鱈目とも言える不信と疑心暗鬼と憎悪の連鎖は、根本的に政治問題であって、それを軍事問題に置き換えて力で制圧しようとしても混乱に輪をかけるだけだろう。一般論として、政治を抜きにした軍事で何事かを解決できると考えること自体が幻想だが、イラクの現実ではますますそうで、政治的定義も定かならぬ米軍増派など愚の骨頂で、それを中心に置いた「政策転換」をブッシュが1月中旬に発表したりすれば、馬鹿にされるだけである。
そうかと言って、ISGの提言もまた、米軍の撤退時期を明示することでイラク政府の自覚を促そうというだけで、それ以上の政治的方策を示している訳ではない。こうして帝国としての米国は自分が何をしているのか分からないまま自滅に向かうのである。▲