INSIDER No.362《LEBANON》PLOハマス〜ヒズボラ〜シリア〜イラン〜ロシアの反米連環──イラクの泥沼化を全中東に拡散させてしまった米国の悲劇
●ヒズボラとは何か?
ヒズボラ(神の党)を、単なるテロ集団と見るのも、レバノンにいくつもある宗派別の民兵組織の1つと見るのも、間違いである。
第1に、それは、合法政党であり、05年7月の選挙では定数128のレバノン国会に14人の議員を当選させ、他党と会派を組んで35議席の勢力を形成して直系2人をエネルギー水資源大臣と労働大臣に、無所属1人を外務大臣に送り込んでいる(議席数と閣僚数に諸説あるが、ここでは米外交関係評議会の解説に従う)。
・米外交関係評議会解説
http://www.cfr.org/publication/9155/
第2に、ヒズボラは、レバノン最南部を支配する事実上の地方自治政府であり、14の小中一貫教育の学校、4つの総合病院と12の診療所のほか孤児院、慈善事務所、無利子ローンの銀行、ディスカウントの薬局や食料品店、水道やゴミ収集の事業、衛星テレビ局「マナールTV」やラジオ局、多数の出版社まで運営して住民の支持を得ている。
第3に、ヒズボラの武装組織は、反米反イスラエル闘争の手段としてテロを用いることがあるのはもちろんで、「テロリスト知識ベース」によると68年から現在までに180件のテロを行い838人を犠牲にしているとはいえ、単なるテロ集団ではなく、普通にイメージされる民兵組織でさえもなく、かつての南ベトナム解放戦線のような練度の高いゲリラ部隊であり、装備もイランから支給されたカチューシャ・ロケット(射程25キロ)を中心に、エルサレムを超えてガサ地区まで届くゼルゼル2ミサイル(同200キロ)、中国製のレーダー誘導式対地対艦ミサイルC-802(同120キロ)など計1万2000発など高度の新鋭兵器も保有していて、7月14日にはそのC-802を用いてイスラエルの哨戒艇を攻撃、兵士3人を死亡させている。この保有と命中させた練度にはペンタゴンも相当驚いたと言われる。
・テロリスト知識ベース
http://www.tkb.org/Group.jsp?groupID=3101
平時の専従兵士は500〜600人にすぎないが、他に訓練を受けた予備役が5000〜6000人いて、普段は村ごとに小グループをなして情報・監視活動や軍事基地の維持に当たり、携帯電話や無線、さらには盗聴されやすい場所では伝令システムまで整えて、臨機応変・神出鬼没の作戦を行える。米軍事筋に言わせれば、これは「ピラミッド型の20世紀的な軍隊でなくネットワーク型の21世紀的な軍隊」であり、ヘナチョコで有名な寄せ集めのレバノン国軍より余程頼りになる強力な戦闘集団である。そのヒズボラ軍がイスラエルとの国境地帯に“人民の海”に守られて展開していることが、レバノン全体の安全確保の柱になっていることは、政府も他宗派も認めざるをえないほどである。
第4に、そのヒズボラ軍の意識は、単に国軍に成り代わってレバノンの防衛を分け持っているというだけではなく、実はシーア派の本家=イランの革命輸出路線の最前線で対米・対イスラエル攻撃の任務を担っているというところにある。82年にイスラエル軍がレバノンに再侵略・占領した際に、イランのホメイニ革命の原動力となった革命防衛隊の直接の支援と指導の下に結成されたヒズボラは、翌83年にはベイルートの米大使館を爆破して63人を死亡させ、続いてレバノンに多国籍軍の一翼として進駐していた米海兵隊基地に自爆攻撃をかけて241人を殺害した。その恨みから、米国はヒズボラを「テロ集団」と規定するが、欧州諸国もロシアもヒズボラ全体をテロ集団と見なす見解を採っていない。
第5に、ヒズボラはまた、単にシーア派の反イスラエル闘争の最前線であるのではなく、アラブ全体の反イスラエル闘争の最前線でもある。シリアが90年にレバノンに再侵攻してイスラエルを追い出した時には、シリア軍の最も頼りになる友軍として果敢に戦ったのはヒズボラであり、この時からシリアはもちろんアラブ世界のスンニ派諸国もその戦いぶりを高く評価している。
こうしてヒズボラは、政党であり社会運動でありながら武装組織であり、テロ集団でありながらゲリラ部隊であり、レバノン政府の一員でありながら半ば独立性を持った自治政府であり、シーア派の出先でありながらスンニ派もその力を認めざるを得ないという、幾重もの矛盾に満ちた存在であって、そのような複雑なものを複雑なままに捉えて、多次元方程式を操って対処しなければならない。ところが米国の単純思考では、それは単なるテロ集団であって、しかもそちらが先に手を出したのだからイスラエルが反撃するのは当然だということになる。これでは中東で外交を展開することは出来ない。
パレスチナのハマスもまたヒズボラとよく似ていて、政治、民生、軍事の機能を兼ね備えているがゆえに民衆の支持を得ているのだが、米国的な思考では「なぜテロリストが選挙で政権を獲るのか」ということになって理解不能に陥ってしまう。イラクのスンニ派に対する態度も同様で、少数派である同派が何百年も前から支配勢力であったという国柄を理解しようとせずに、スンニ派イコール「サダム・フセイン政権の残党」と捉えて丸ごと敵に回したことが内戦の泥沼を招いてしまった。馬鹿は死ななきゃ直らないとしか言いようのない愚行を中東で繰り返しているのがブッシュ政権である。
●宗教見本市のような国
添付の地図(ざ・こもんず参照)を見れば分かるように、レバノンは5色の横縞のソックスのように宗派が入り乱れて割拠している国であり、モザイクと言ってもガラス細工のそれで、ちょっとでも斜めにしたり上から物を落としたりすればたちまちグチャグチャになって収拾がつかない。
この国では“民主主義”の基礎は宗派であって、憲法ではイスラム教シーア派26%、同スンニ派27%、同ドルーズ派7%、キリスト教各派41%(うち約半分がマロン派)という宗派ごとの人口にほぼ見合った議席枠が決められていて、その枠の中で各党が議席を争うことになっている。現在ではその配分は下記の通りで、キリスト教系とイスラム教系が各合計64ずつになっていて、つまりは、選挙結果で宗派バランスが変動して混乱が生じないよう配慮している。また大統領はマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派と主要3ポストの配分も決まっていて、シーア派からは、ヒズボラと並ぶ政治・軍事組織でありながらヒズボラと違って反PLOの立場をとるアマルが長年にわたり国会議長を出している。
——宗派別の議席配分——
《キリスト教系》
マロン派 34
ギリシャ正教 14
ギリシャ・カトリック 8
アルメニア正教 5
アルメニア・カトリック 1
プロテスタント 1
《イスラム教系》
スンニ派 27
シーア派 27
ドルーズ派 8
アラウィ派 2
世の中にはいろいろな“民主主義”があるもので、ここに米国式の単純多数決型の民主主義を持ち込んだら破滅しかありえない。米国は、イラク国家をブチ壊す前に、こういうことをよく勉強すべきだった。
なぜこのようなガラス製のモザイク国家が出来上がったのか。この地は古代は地中海に名を馳せたフェニキア人の地で、多数の都市国家が東西を結ぶ通商で栄えたが、その後アッシリア帝国に飲み込まれた。地理上の特徴から、沿岸部はローマ、ビザンチン、アラブ、十字軍、オスマン・トルコなどその時々の征服者たちの通路のようになって支配を受けたが、ベッカー高原を中心とする東北の山岳地帯はマロン派やドルーズ派をはじめとする西アジアの宗教的マイノリティが立て籠もる場所となり、オスマン・トルコ帝国に組み込まれた時代にもそこでは大幅な自治を認められていた。各派の中でも生糸の生産と輸出で力をつけたマロン派の大地主層が次第に支配的な地位を築くが、19世紀後半には農民と下級聖職者が決起して「農民共和国」の成立を宣言する事態となり、この時フランスが「キリスト教徒を守る」という口実で軍事介入して農民蜂起を潰してマロン派を助け、東方貿易の利権を確保した。
その後、北部のキリスト教徒の人口が急増し、彼らが南下してイスラム教徒の地主の下で小作人になり、抗争の結果としてその逆のケースもあったりしてモザイク化と社会的な不安定化が進み、手を焼いたオスマン・トルコがキリスト教徒=6、イスラム教徒=5の宗派的権力配分による名望家の合議制を定めた。第1次大戦後、フランスはレバノンを委任統治下に置いたが、この制度は維持され、さらに1943年の「国民憲章」で大統領・首相・国会議長を有力3宗派に固定配分することが決まった。
1944年に独立を得て、戦後は“中東のパリ”=ベイルートを中心に金融・通商・観光で経済的に発展した。しかし、親西欧的なキリスト教共和国をめざすマロン派はじめキリスト教徒とアラブ民族主義に基づくイスラム教共和国に向かおうとするイスラム教徒との争いは次第に激しくなり、さらに度々の中東戦争とイスラエルによるパレスチナ人弾圧の結果、75年までに30万人のパレスチナ難民がレバノンに流入し、PLOがそこを拠点に反イスラエル闘争を展開したことから、宗派間のバランスが崩壊し、パレスチナ人を追い出そうとするキリスト教徒や共産党など左翼と、パレスチナ人と連帯するスンニ派やドルーズ派が入り組んで75〜76年の血みどろの「レバノン内戦」に発展した。
●パックス・シリアーナ
見かねたシリアが4万の軍隊を平和維持軍として送り込み、パレスチナ人をベイルートから追い出してレバノン南部に移したが、PLOはまたそこを拠点に対イスラエル攻撃を繰り返したため、78年にイスラエル軍がレバノンに侵攻、国境から16キロまでを“安全保障地帯”と設定して南部を占領した。これを巡ってレバノンの各民兵が入り乱れて戦う無政府状態となった。一旦退いたイスラエル軍は82年、レバノン南部の武装勢力から攻撃を受けたとして再びレバノンに侵攻、マロン派の民兵組織の1つファランヘ党を手先に使って西ベイルートまで占領してPLOを追放した。この混乱を収拾するため米英仏の多国籍軍が進駐したが、この状況に対してレバノンのシーア派が反米・反イスラエル、親パレスチナの立場で結成したのがヒズボラで、翌83年にはベイルートの米大使館爆破と米海兵隊基地への自爆攻撃で名を轟かせ、やがて多国籍軍は為す術もなく撤退した。
90年に再びシリア軍が進駐しておおむね紛争を鎮圧し、以後05年に撤退するまでの15年間は、「パックス・シリアーナ(シリアによる平和)」と呼ばれた相対的安定が続き、ベイルートの美しい町並みも再建され経済も回復した。その間、96年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生、イスラエル軍が激しい報復爆撃を行い、この時、南部のカナで救援活動を行っていた国連施設を空爆してそこに避難していた106人の一般市民を殺し、「カナの虐殺」と世界中から非難を浴びた。このためイスラエルは南部の占領を持ちこたえられなくなり、2000年までに完全撤退した。空白となった南部にヒズボラが素早く展開し、そこに准国家を建設、その後も散発的なイスラエル攻撃を繰り返した。国連安保理は04年、ヒズボラの武装解除と南部へのレバノン国軍の展開を求める決議を採択したが、実効性はなかった。
05年2月に、レバノン経済の再建に手腕を発揮したラフィーク・ハリリ首相が爆弾テロで暗殺され、その背後でシリアの情報機関が糸を引いていたことが露見し、シリア軍は撤退。5月に行われた選挙で、ラフィークの次男で実業家のサード・ハリリの「未来運動」を中心とする反シリア連合が勝利し、ハリリの指名で元財務大臣のフォウアド・シニオラが首相となった。本来は親シリアであるシーア派の2大勢力ヒズボラとアマルも部分的な選挙協力でハリリと提携し、それぞれ閣僚を送り込んだが、政権内にあって野党的立場を採っている。シニオラ政権は経済回復に無能で、最近は生活向上を訴えるデモやストライキが頻発、その分、野党的なアマルやヒズボラ、さらには政権入りしなかった北部キリスト教勢力の大物ミケル・アウオン将軍への待望論が宗派を超えて広がりつつあった。
●ヒズボラ・イスラエル戦争
イスラエルのパレスチナに対する無差別砲撃・空爆による犠牲が拡大する中で、7月12日ヒズボラ武装部隊が国境を超えてイスラエル軍を襲撃、兵士8人を殺し2人を捕虜として拉致した。イスラエルはこれを「戦争行為」と非難し、すぐさま戦闘機、ミサイル、戦車、艦艇まで繰り出した激しい報復作戦に打って出た。が、それは明らかにヒズボラに対する報復の域を超えていて、国際空港やいくつかの港湾、高速道路などの交通インフラ(シリア経由でのヒズボラへの軍事物資輸送を断つ?)、市街地(ヒズボラが隠れている?)、国連施設(ヒズボラのロケット発射基地に使われている?)などレバノン全土に及び、ほとんどが子供を含む一般市民である犠牲者は10日間で300人を超え、7月末現在500人に迫っている。同時にイスラエル軍は地上部隊で南部に侵攻、20日には「ヒズボラの戦力の50%を破壊した」と発表した。
しかしヒズボラの抵抗と反撃は衰えず、1日平均100発と言われるイスラエルに対するロケット砲撃は依然として続き、またヒズボラの拠点とされるビントジュベイルの攻防ではイスラエル軍兵士8人が死亡、22人が負傷して苦戦に陥っている。さらに、すでにイスラエルが制圧したとしていたマルンアラスでも同日、将校1人が死亡、兵士3人が負傷するなど、短期限定作戦でヒズボラを壊滅させることを狙った作戦は行き詰まりを見せ始めた。
イスラエルは外交戦でも孤立しつつある。特に国連施設への爆撃は、再三の中止要求にもかかわらず6時間に渡り計16回も行われ、うち4発が施設を直撃、中国人を含む国連職員4人が死亡したことは、一気にイスラエル非難の包囲網を生み、それでもイスラエル擁護を止めない米国をも孤立に追い込んだ。加えて30日には、またもやカナで、住民多数が避難用シェルターに使っていた建設中のビルやモスクが爆撃され、子供30人を含む少なくとも57人が死亡した。「カナの虐殺」の再現にレバノン政府は態度を硬化させ、ライス米国務長官の仲介によるイスラエルとの交渉を拒否、「即時無条件停戦」以外にいかなる方策も受け入れないと宣言したため、ライスは何の解決の手がかりも得られないまま帰国した。ベイルートでは2000人のデモ隊が国連事務所を襲い、またヒズボラは軍事報復を声明した。
NYタイムズでネイル・マクファーカーが書き『ヘラルド・トリビューン』が29日付トップでキャリーした「アラブ世論の流れはヒズボラ支持に変わりつつある」と題した記事によると、当初はイランの影響力増大に警戒してヒズボラの「無謀な挑発行為」を非難していたアラブ穏健派諸国も、イスラエルの攻撃の余りの凄まじさにこぞって態度を転換し、イスラエルとそれを支持する米国への批判を強めつつある。とりわけライスが24日からの中東歴訪中に「これは新しい中東の産みの苦しみだ」と発言したことにアラブ各国のメディアは反発している。反面、これだけのイスラエルの攻撃にもかかわらず持ち堪えてロケット攻撃を続け、地上戦でも善戦しているヒズボラに対する賞賛の声が、スンニ派まで含めて広がりつつある。
国連安保理では、フランスが主導して即時停戦要求の決議案をまとめようとしているが、米国は即時停戦に反対で、調整は難航するだろう。米国がヒズボラを単なるテロ集団とする認識を改め、歴代政権のような親イスラエルではあるけれどもあくまでパレスチナはじめアラブとの誠実な仲介者というポジションは外さないという路線に復帰しない限り、この戦争の早期解決はなく、米国はますます中東での影響力を失っていくことになる。フランスの政治学者ジル・ケベルは『ニューズウィーク』8月2日号のコラムで書いている。「アメリカは、途方もなく能天気な楽観論の破綻という現実を突きつけられた。これまでアメリカが描いてきた青写真とは、親米派のイラク新政権を先頭に民主国家が次々と登場し、中東地域にパックス・アメリカーナが生まれるというものだった。とんだお笑い種だ。今やアメリカは泥沼にはまり、イスラエルは脅威にさらされている。レバノンは崩壊しかけているし、イラクは内戦突入の一歩手前だ」と。
●強まるイランの立場
問題の発端は、ブッシュ政権がイスラエルのシャロン前首相の対パレスチナ強硬策を支持し、パレスチナ自治政府を事実上の崩壊に追い込んだことである。そのため行われた今年1月の総選挙では、米・イスラエルにとって意外なことに、「イスラエルのガザ撤退は自爆テロ闘争の結果勝ち取ったものだ」と主張するハマスが圧勝し、それに慌てた米・イスラエルはパレスチナ政府をまともな交渉相手として認めない態度をとり、軍事的強圧策をエスカレートさせた。それで追い詰められたハマスは、7月2日、イスラエル兵士2人を殺し1人を拉致した。それに対してまたイスラエルが報復し、そしてその10日後にヒズボラが同様の殺害・拉致で呼応して、対イスラエル闘争の戦線を拡大した。イスラエルにしてみれば、ハマスとヒズボラに二正面作戦を採らなければならなくなったのである。
ヒズボラはイランの分身であり、またハマスもイランの物心両面の支援を受けている。さらに(米国のおかげで)イラクで優勢を確保しイラク国家を乗っ取る展望さえ出てきた同国内のシーア派もまたイランの全面支援を受けている。こうしてイランから見れば、イラク国内、レバノン南部、パレスチナで同時に米・イスラエルに対して軍事的・準軍事的・政治的圧力を強めると共に、自らは核開発を巡って米欧と直接渡り合い、最終的にはイスラエルの核に対抗できるだけの核戦力を持って中東に覇権を確立する好機が訪れてきたと、事態は映っているだろう。
米欧がイランの核をめぐるのらりくらりに痺れを切らして最後通牒を突きつけたのが6月6日。それへの回答をまたもぐずぐずと引き延ばしつつ、その間にイランは16日、シリアとの間に新しい軍事協定を調印した。(1)イランはシリアがイスラエルの攻撃を受けた場合にはシリアを防衛する、(2)シリアがロシアはじめ中国、ウクライナなどから予定している武器調達に資金を援助する、(3)イランがシリアにミサイル、大砲、弾薬などを供与する、(4)シリアはイランのレバノン向け軍事物資輸送に便宜を与える——といった内容で、明らかにその1カ月後に勃発するヒズボラの攻勢に備えるものだった。
7月12日、イランはいよいよそれ以上引き延ばせなくなって、EUに対し最後通牒への回答は「8月22日までに行う」と返答をしたが、その返答の日、ヒズボラが攻撃の火ぶたを切った。これはもちろん偶然の一致ではない。15日からサンクトペテルスブルクで開かれた主要国サミットでは、イラン非難決議が焦点になるはずだったが、それは半ば宙に浮いて、新たな中東危機への対応に追われることになったが、それはイランと気脈を通じるロシアにとっても思う壺だったのである。
溢れかえるような経済繁栄を背にサミットを機に世界政治に復帰しようとするロシアにとって、“強いロシア”を演出する最初の舞台は中東であり、そこではイランとの戦略的パートナー関係を軸として米国を動きの取れないところまで追い込むことが目標となる。こうして、米国のイラクとパレスチナでの失敗は、ロシアとイランの策謀も加わって、中東全体での米国の失敗へと拡大し始めたと言える。▲