米ブッシュ政権はクリスマスを前に、12月総選挙の結果に基づいてイラクに“本格政権”が出来るかどうかまだ何の目途も立っていないというのに、それが出来るはずだという架空の想定を前提に、現在16万人弱の派遣米軍の一部撤退を来年から実行する方針を打ち出した。第1弾として、来年早々に、選挙警備のために増派した2万人を撤退させてそれ以前の13万8000人に戻し、さらに第2弾として、来春に7000人を撤退させる。
ある意味でこれは論理的で、イラクにイラク人自身の政府が出来るということは、米軍による事実上の占領状態を解消してイラク人部隊に国内治安維持の全責任を委譲するということであるから、政府が出来る以前に米軍撤退は始まっていて当然だし、政府が出来た後は急速に撤退を完了しなければならない。
しかし問題は、本当に新しいイラク政府が出来るかどうかだが、その見通しは極めて暗く、結局、政府づくりは破綻して、スンニ派、シーア派、クルド族が三つ巴となった内戦に突入していく公算の方が大きい。その場合、米国は、イラクに侵攻し占領した責任上、占領状態を継続して、国内治安の確保と内戦の周辺国への波及防止に努めなければならない。ところが、内戦になればなおさら、米軍が今以上に特にスンニ派武装部隊の攻撃対象となるのは必至で、大規模な戦闘に巻き込まれて犠牲を増やさざるを得ない。米軍が侵攻・占領したから治安が悪化し内戦状態に近づいているのだが、そうかと言ってここで中途半端に責任を放棄して撤退すれば、本格的な内戦になって中東全体を動乱に陥れ、世界中から一層の非難を浴びるに決まっているというこの泥沼のようなディレンマの中で、米国はまなお長期にわたって苦しみ続けることになるだろう。
●どうしてこんなことに?
どうしてこんなことになってしまったのか。
第1に、軍事力を用いてイラク国家を破壊しサダム・フセインを除去するという当初の目標設定そのものが、形式上、完全に国際法に違反する暴挙であっただけでなく、内容上、イラクという国の成り立ちやその複雑な国内構造に対する驚くべき無知に基づいていた。
バグダッドが歴史上、世界貿易の中心地として最も栄えイスラム文明の黄金時代を謳歌したのは、8世紀から13世紀にかけてのアッバース朝で、それはスンニ派がシーア派の助けを借りてシリアのウマイヤ朝の支配を倒して樹立したものだった。アッバース朝がモンゴル軍によって滅ぼされた後、長い間、異民族王朝によって入れ替わり支配を受けるが、20世紀に入ると、オスマン・トルコ帝国に対する自治要求、イギリスに対する独立闘争、王制打倒の民族主義運動を通じてイスラムを国教とする社会主義国家が形成される。その間、変革の中心にいてそれを導いたのは、政治家、官僚、軍人の圧倒的大部分を常に占めてきたスンニ派であり、その長い歴史が、人口的には少数派であるスンニ派が政権中枢を握り、シーア派やクルド族も時には対立もし不満を爆発させることもあるけれども基本的にスンニ派支配を容認するという独特の“国体”(国のかたち)を作り上げていたのである。
本誌は前にも指摘したことがあるが、サダム・フセインは趣味や個人的嗜好で“独裁”をやっていたわけではない。このような宗教的・民族的に複雑骨折的な構造を持つ国を1つにまとめて行こうとすれば、何らかの独裁的政治手法を採らざるを得ないというのが事態の一面であり、それは往々にして行き過ぎの暴虐に陥ることがあったとしても、単に「独裁はけしからん」というだけでそれを物理的に除去してしまえば、後には混乱しか生まれないのは自明であり、もし占領者=米国が再び秩序構造を再建しようとすれば、多少なりとも暴力的な方法を用いるしかない。そんなことも分からないで戦争を仕掛けたのか、ということである。
第2に、従って、米国がイラク人に新しい政府を作らせようとすれば、今までどおりスンニ派支配を認めるのか、そうでなければどうするのか、まず国体について3派の合意を形成することが不可欠で、新憲法制定のプロセスはまさにそのためのものでなければならなかった。しかし米国のやったことはと言えば、1年前の議会選挙で安易にシーア派に支配権を与え(単純多数決の“民主主義”ならそうなるに決まっている)、当然スンニ派は不満で選挙をボイコットし、憲法制定にも半身の構えのままで終始し、他方クルド族は限りなく独立に近い自治権の確保以外に興味がなく、そのような状況の下で出来上がった憲法草案は、シーア派は南部を支配してイランとの連携で生きていくことを願い、クルド族は独立に近づき、スンニ派は石油も出ない中部に閉じこめられることになりかねないという、明確な連邦制ならともかく、バラバラの思惑を曖昧に寄せ集めたもので、これでは内戦の火種を憲法に書き込んだに等しかった。
12月の総選挙にスンニ派の少なくとも一部が参加したのは、確かに前進と言えるだろう。しかしそれは、完全にボイコットして今後の政治過程から排除されることを恐れての行動であって、選挙結果に粛々と従って本当の少数派に甘んじて生きていくことを納得したからではない。現にバグダッドでは12月23日、スンニ派住民約2万人が「総選挙に不正があった」として大規模な抗議デモを展開し、他の都市でも同時に抗議行動が組織された。スンニ派は、大票田であるバグダッド県の暫定開票結果(開票率89%)でシーア派の「統一イラク同盟」が58%もの得票を得たことに反発し、国連などによる調査が行われない限り審議会のボイコットも辞さないと主張している。注目すべきは、暫定首相だったアラウィが率いる世俗派の党派「イラク国民リスト」もこれに同調していることで、国家像の合意がないままの無理矢理の憲法制定と選挙実施は早くも破綻に瀕していると言える。
23日に起きたのはデモだけではない。イラク北部アダイムではイラク軍の検問所が武装勢力の襲撃を受け、イラク兵10人が死亡、20人が負傷するという、選挙後では最大のゲリラ攻撃が起き、同日バグダッドでは、道路わきの仕掛け爆弾が爆発して米兵2人が死亡する一方、アルジャジーラ・テレビによると、スーダン大使館の2等書記官を含むスーダン人6人が拉致された。さらにイラク中部バアクーバ近郊バラドルズでも、シーア派モスク付近で爆弾を体に巻き付けた男1人が自爆し、警察官1人を含むイラク人10人が死亡、4人が負傷した。状況はますます悪化している。
第3に、こうした中でワシントンはいよいよ冷静な判断力を失っている。ブッシュ大統領は12月14日、ウッドロー・ウィルソン国際センターでの演説で「大量破壊兵器についての情報のほとんどは結果的に間違っていた。大統領として、対イラク開戦の責任は自分にある」と、イラク戦争が間違った根拠に基づいて発動されたことを認めながらも、その一方で「サダム・フセインを取り除くという決断は正しいものだった。サダムは脅威だった。彼が権力の座を追われたことで、米国民と世界が置かれている状況は改善した」と、イラク戦争が結果オーライで正当性があったことを改めて強調した。
これは完全に錯乱的で、「サダムが大量破壊兵器を隠し持っていて、それを今にもテロリストに手渡そうとしている」という情報が嘘だったとしたら、サダムはいかなる意味で米国と世界にとって脅威だったのか。例えばの話、ニューヨーク辺りの荒っぽい警官が、ある殺人事件の黒幕はこのマフィアのボスに違いないと誤認して射殺してしまい、後になって間違いと判明しても、いやあいつは元々悪い奴だったのだから、殺したのはかえってよかったんだと強弁しているようなもので、普通の法治国家ではとうてい通用するはずのない理屈である。サダムがいなくなって米国と世界のテロとの戦いにとって状況はどのように改善したと言うのだろうか。サダム時代のイラクはアルカイーダとさしたる関係があったわけではなかったが、米国の侵略以降、スンニ派武装勢力を支援する外国過激派が続々とイラクに入り込み、それに乗じてアルカイーダ・メソポタミアという組織も出現して、かえってイラクは国際テロの震源地になってしまった。アルカイーダをイラクに呼び込んだのはブッシュである。
仮に、イラクの大量破壊兵器が世界にとって差し迫った脅威であるという情報が間違っていなかったとしても、それをイラクに対する国家間戦争という方法で解決を図ることが可能であり妥当であったかどうかは大いに疑問である。ましてその情報が間違っていたのであれば、その戦争に正当性がある訳がない。他方、サダムの独裁がイラク国民の人権にとって差し迫った危険であったとしても、それを軍事力によってイラク国家を破壊し指導者を捕まえて裁判にかけるというやり方で解決しようとすることが、国際法上合法で、なおかつ政治的に有効であるかどうかは全くの疑問である。いまやブッシュ批判の大合唱を演じつつある米メディアが、ブッシュの姑息な弁解に満足するはずもない。この偽情報の採用による戦争発動が決して偶然の産物でなく、ホワイトハウスによって意図的に仕組まれ世論を欺く作戦が実行に移されたものであることを検証する調査報道が相次いでいる。それらを踏まえて、ヘラルド・トリビューンのコラムニスト=フランク・リッチは同紙11月28日付でブッシュとチェニー副大統領を「不正直、不埒、腐敗、恥知らず」とまで非難している。
●フセイン裁判の茶番
さて、囚われの身となったサダム・フセインの裁判は、10月19日の第1回と11月28日の第2回は、ほとんど形式的な駆け引きだけですぐに散会となり、12月5日から3日間の第3回が初めての実質的審議となった。このイラク刑事裁判最高法廷は、「バース党が権力を握った1968年7月からサッダム政権が崩壊した2003年5月1日までの期間中、イランとクウェートを含むイラク国内外でイラク人が実行した犯罪行為の裁判」を目的とするものだが、最初に採り上げられたのは、82年7月にバグダッドの北方60キロのチグリス河岸の町デュジャイルでサダム一行の車列が狙撃され、彼自身はかすり傷も負わなかったものの、激怒したサダムが治安部隊に命じてシーア派住民数百名を逮捕、家屋と農場と果樹園を根こそぎブルドーザーで破壊し、残る住民すべてを他の地域へ追放した事件である。逮捕された者のうち143名は84年6月に死刑判決が下され即刻執行され、また追放された住民は86年になってようやく帰郷を許された。
フセイン政権時代の暴虐を裁くというなら、まずクルド族の反乱鎮圧のためためらうことなく化学兵器を使用して数度にわたって計10万人以上を殺戮したと言われる事件や、クエート侵攻による無差別殺戮や油田の破壊など、真っ先に採り上げるべき重大事件がいくつもあるはずだが、敢えてデュジャイルの事件を採り上げたのは、関係者が比較的少なくて審理が進めやすいという理由からだろう。どの事件を採り上げても、彼に死刑判決が下されることは決まっていて、イラク国民の大多数もおそらくそれを望んでいるのだから、やりやすい事件の方がいいという訳である。
この事件については彼はこう反論した。「国家元首が撃たれたから、治安部隊が犯罪人どもを追及するのだ。国家元首たるサダム・フセインにその権利がないのか」「(果樹園破壊について)何処に何を植えるか、土地をどうするか、果樹園を所有するかどうかということは国家の権利だ。国家元首が5カ所の果樹園から射撃を受けたから、その5カ所に対して法的命令に基づいて清掃を実施した」「我々は(当初)所有者に補償を与えなかったが、(後に)デュジャイルの村民たちの訪問をうけた時、補償を与え、土地も返した」
サダムは最後に「こんなお遊びをいつまで続けるついもりか」と裁判官を怒鳴りつけた。確かに一理あって、独裁国家で元首の暗殺を企てたら、集落丸ごとにこのくらいの報復が行われるのは当たり前だろう。しかし、どうであれ彼に死刑判決が下されるのは必定で、本人もそれを覚悟している。公判中、サダムは「この裁判は米国の仕組んだ茶番だ」「米国とイスラエル野郎は俺を吊るしたいのだ。サダムとその同胞は処刑など恐れない」と大声でわめいた。終始、傲岸な態度で“イラク大統領”を演じたサダムも、匿名で証言台に立った少女が16歳の時治安部隊に逮捕され、5人の男性隊員の前で素裸にされた屈辱を泣きながら語った時だけは、1つも野次を飛ばさずに黙って聞いていたと言う。
いずれにせよ、この裁判が本質的に茶番であるのは、これをやらせている米国やイラク人政府自身が捕虜や容疑者の虐待や拷問で国際的な非難を浴びていることである。かつて湾岸戦争の時、本誌は、これはマスコミが囃し立てるような「冷戦後の新しいタイプの戦争」などではなくて、未だに軍事力で何事かが解決できるかの20世紀的価値観に囚われた2つの野蛮国家の抗争にすぎないという趣旨のことを書いたが、ブッシュとサダムの戦いもその延長上で起こっていることにすぎない。▲