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2004年6月24日

INSIDER No.209《DOUBLE-CROPPING》人生二毛作開墾記・その12──「日本の家」から失われた“懐かしいもの”たち

 この連載の(4)から(9)にかけて、主に山口昌伴に学びつつ台所、土間、玄関、三和土(たたき)、火、風、水といった“住”の基本要素について思いを巡らせてきたが、建築史家の中川武=早稲田大学教授の『日本の家/空間・記憶・言葉』(TOTO出版、2002年)は、文章も写真も装丁・レイアウトも洗練された美しい本で、近頃手にして痛く感銘を受けたので、それに従ってさらに探求を続けたい。中川も山口と同じく早稲田の建築科出身で、こうしてみると、東京大学の建築科が丹下健三に象徴されるように巨大で醜悪な“近代建築”に向かいがちであるのに対して、早稲田はやはり泥臭くて、日本的な住まい方への愛着を大事にする気風があるのかもしれない。

●喪失感に潜む契機

 中川は「はじめに」でこの本の狙いをこう述べている。「日本の伝統建築には、場、部位、しつらい、境界、素材などにまつわる、多様な用語や言葉があった。そのうちどんな言葉が忘れられ、どんな用語が現在も生き残っているのか。そして、記憶と忘却の分かれ道に、どんな現実的な契機や意味が隠されているのか。このような疑問について考えてみたかった」と。

 利便性や機能性や新奇性を競い合う住宅の近代化の過程で、多くの“懐かしいもの”が失われて“新しいもの”に置き換えられていくのは、ある意味で必然であるとしても、そうした新しいものは懐かしいものほどには我々の心を動かすことはない。「こうした喪失感の中に……住宅にとって大切なものを考えるヒントがあるのではないか。……つまり、後向きであることがより可能性に近い場所がある」と彼は言う。そう、私は常々言ってきた。我々が直面しているのは、バブル崩壊以後の「失われた10年」などという小賢しいことではなくて、ひたすら経済の膨張と収入の増大に明け暮れた明治以降の荒々しいまでの発展途上国としての営みの全体を、もちろん全否定することなど出来ないとしても、何千年にも及ぶこの風土の中での日本人の暮らしぶりという観点からすると、血迷ったような一時期として、すなわち「失われた100年」として、捉え返すことによって初めて、新たな出発点が見えてくるのではないか、と。失われたもの、失われつつあるものにこだわるのは、懐古趣味のためではなくて、そうしなければ今の政治・経済から文化・生活様式までが行き詰まっているこの「100年目の転換」の壁を乗り越えて前へと進む術がないからなのだ。

 その転換の全体プログラムについて口角泡を飛ばして議論するのは、“大政治”レベルの私の仕事の一部であるけれども、論じているだけでは余りに空しくももどかしく、ならば先ずもって自分自身の生き方の問題としてささやかな実験に踏み出すことのほうが早道かもしれないという、“小政治”からのアプローチが、この連載に綴っている模索なのである。

 中川の書は、一種の事典風に編集されていて、大きくは、境界空間・仕切り・場・部位・しつらい・素材・象徴と章立てされていて、そのうち例えば「境界空間」では、三和土・上がり框(かまち)・沓脱石・縁側・土庇(どびさし)が採り上げられている。外と内との境を演出するのに、これほど多様でそれぞれに蘊蓄のある仕掛けが用いられてきたというのは、私には新鮮な驚きだった。その一々をここで紹介することはとうてい無理なので、いくつかの点に絞って考えてみたい。

 また、季刊『チルチンびと』04年夏号に載った、民家再生の第一人者・安藤邦廣=筑波大学教授の「民家の本質に学ぶ」も、ほぼ同じような領域を似たような視点から採り上げているので、これも参考にさせて貰うことにしよう。

※中川武・研究紹介
http://www.sci.waseda.ac.jp/RESEARCH/0ar1.html
http://www.hist.arch.waseda.ac.jp/Nakagawa-J.html

●三和土を苦塩で固める訳

 暮らすことの根幹は、手の届く自然を食らうことであり、だから台所はむしろ外の一部であって、キッチンとなって内に閉じこめられるのでなく、外に向かって開かれていなければならない、と山口は言った。となると、その台所は三和土の土間であることがふさわしい。

 たたきは「叩き」「敲き」とも書き、小学館『国語大辞典』では「たたきつち(叩土)の略」、『広辞苑』では「敲き土の略(多く「三和土」と書く)」となっている。今は土だけでなく石、煉瓦、タイル、セメントなどで床を仕上げて土足で入れるようにした土間のことを広く「たたき」と呼ぶが、それに三和土という宛字が使われるのは、やはり『国語大辞典』によれば「三種の材料をまぜるところから三和土とも書く。赤土、石灰、砂利などににがりをまぜ、水でねってたたき固めた土間」だからである。

 この3種の土について中川は「三和土の上等なものには、三州土(さんしゅうつち)といって、愛知県三河地方に産する風化花崗岩の土を用いたものがあり、時には粗砂や玉砂利を含む独特の風合いを持ち、その成分である可溶性珪酸が石灰と混和して硬化するため、古来より泉水(庭園中の泉)、土間などに用いられてきた」と述べている。そこに掲げられている、静岡県韮山市の江戸時代前期に建てられた「江川家住宅」の凹凸のある三和土の写真はことのほか美しく、これは是非とも見に行って、跪いて手で触れてみたいと思わないではいられない。これを「大きな洞窟にも似た土間から板間へと続く大空間に、陣馬の蹄の響きがこもっている」と表現した建築家がいたそうだが、まさにそれは、逞しさの中にも優しさが溢れて、外をそのまま内へと引き込んでくるような魔力に満ちた光景をなす。

 それにしても、前から不思議だったのは、3種の土を混ぜ固めるのに、なぜ苦塩(にがり)なのかということである。中川が答える。「凝固剤として古くから使われてきたから、三州土のように石灰と混和しやすいものであっても、凝固を促進するために用いたのであろう。しかし私は、美しい三和土の土間を見るたびに大相撲の土俵を思い出す。いうまでもなく、土俵には大量の塩が撒かれる。清めのためである。苦塩の使用は、土を叩き締めるとともに、清めるという願いを込めていたため、と思われて仕方がない」「掃き清められた美しい三和土の床には……土の中に飲み込み、胎内化し、新たに清浄なるものとして蘇らせたような永遠の生命感がある……」

 うーん、そうか、外の大地を住まいの内に引き込んでくるのだが、そこで一旦清めを行うことで、単に泥のついた長靴で入ってこれる利便性などという実用の意を超えた、人と土との神聖なまでの精神的な繋がりを、三和土は表現しているのだろう。

 苦塩は苦汁とも書いて、「海水を煮つめて製塩した後に残る母液。また、粗塩の貯蔵中に空気中の湿気を吸い、とけて分離する液状苦味質をもいう。主成分は塩化マグネシウム。豆腐の製造に用いる」(広辞苑)。吸湿性、凝固促進性から、雪国の道路凍結防止剤や自動車の乾燥剤、デフロスターなどにも使われる。また殺菌性、腐敗防止性もあるので、それが「清め」ということに関係するのかもしれない。

●お手軽な「三和土セット」もあるが……

 三和土についてYahooで検索すると3000ページ以上も出てきて、これがなかなか関心の的であることが分かる。(社)日本左官業組合連合会のホームページでは次のように解説している。「古くは飛鳥・天平のころ大陸からの伝来とされたされています。しかし、それ以前から存在していたかもしれません。三和土は各地の地場の土(たたき土、サバ土、マサ土、深草砂利等)を用いて土間や床や犬走り、柱の布基礎、土蔵の腰壁等に用いたもので、石灰と苦汁を加えてたたきしめたものです。茶室などでは深草のたたきや土間の三州たたきが有名です。従来、たたきはセメントのない時代の工法ですが、長く忘れられた土間の優しい風合い、既存の床材では得られないソフトな歩行感覚が得られます。現在、材料・工法の改良によって、土持つ素材感を失わず現代建築にマッチする三和土仕上げが開発されています。自然素材、リサイクル仕上げとしても注目をあびることでしょう」

 原則はやはり「各地の地場の土」を使うのだろう。「たたき土」は三和土に使う土の総称。「サバ土」は砂婆土、「マサ土」は真砂土で、いずれも花崗岩=みかげ石が複雑な風化過程を辿る中で、前者は粗い砂で陶磁器材料としても重用される。後者はもっと細かく分解して白っぽくなったもので、園芸でよく使われる。「深草土(深草砂利)」や「三州土」は有名産地ブランドで、前者は京都・伏見の深草で採れ、茶室用の高級品として知られる。後者は中川が言うように三河産で、それを使った瓦が三州土瓦と呼ばれる。「犬走り」は瓦を乗せた土塀の外側の、溝との間の狭く長い露地のことで、そんなところも三和土で固めたとは知らなかった。

 材料・工法の工夫で安価かつ手軽に三和土を作ることも行われていて、例えば、深草土や苦塩は高価なので、白セメントに深草土少々と砂利を混ぜて塩化カルシウムで固める、といった方法がそうである。値段の問題だけでなく、店舗などの場合は床の強度を高めるためにセメントなどを混ぜる場合もあるようだ。また化学会社などから「三和土セット」と称して材料一式が売り出されていて、便利そうだが、説明を読むと、土や砂礫の上に直接施工するのでなく、セメントで基礎を作ってその上に接着剤を塗った上から土を入れて固めることになっていて、こんなところに接着剤を使ってしまったのでは何にもならないのではないかと感じた。伝統的なやり方で三和土が作れれば一番面白いが、もはやそれが出来る左官職人は少ないらしく、上述の「セット」を使っても失敗して、工事のやり直しになった例もWeb上で散見される。しかも、こういう場合の塩化マグネシウムは工業的に作った化成品であることが多く、苦塩の主成分が塩化マグネシウムであるのは確かだが、海水から作った天然苦塩にはそれ以外に様々なミネラル類が含まれているところが味わい深いのであって、化成品では三和土の意味が恐らく半減する。

 佐賀県唐津市で「民家塾」の体験イベントとして行われたケースでは、赤土と真砂と石灰をスコップで混ぜ合わせて流し込み(苦塩は使わないようだ)、コテで伸ばしてから「たこ」と呼ばれる道具や樫の棒を使って突き固め、それを3回繰り返した。金沢の「夢工場」が昔ながらの調合法を発見して施工した例では、25平米を15センチ厚で塗るのに、赤土と微砕石をそれぞれ2トン車2台分、消石灰20キロ袋を8袋、苦塩18リットル缶を2缶用意して、実際の割合は赤土2、微砕石1、消石灰2/3、苦塩5倍液1/3で混ぜたという。

 石灰を土質を安定させ固化させる建築材料として用いた歴史は古く、ローマのアッピア街道、中国の万里の長城や黄河の堤防などの工事でも使われた。石灰を混ぜる方法が中国から伝わったことは間違いないが、それに加えて苦塩も凝固剤として混ぜ合わせるのが中国伝来なのかどうかは、今までの文献の限りでは確認できなかった。それはもしかすると、塩を特別に神聖視する日本独特の感覚なのかもしれない。ただし、中華料理の歴史を辿ると、すでに古代の周の時代から海塩や苦塩を祭事に用い、紀元前の漢の時代にすでに塩を皇帝権力の象徴と考えてその専売制が出来ていたというから、塩の神聖視も中国伝来なのだろうか。いや『聖書』でも塩は聖なるものとされているから、どこの伝来というのではない人類普遍のことなのかもしれない。

●縄文文化の伝統を引く土間

 ところで、日本の住まいは、土間と板の間と畳敷という「おのおの系譜の異なる3つの床形式」から成っているという。その3形式があることは知っていて、その3形式を採り入れた家を造りたいものだとは思っていたが、それらが由来を異にするものであるとは知らなかった。

 土間は北方系で、「原始時代以来の竪穴式および平地式住居の伝統が綿々と受け継がれてきたことを示している」。つまり、現代にまで届いた縄文的要素であり、そう言われると、縄文フリークである私がなぜ無性に土間に惹かれるのかが分かる気がする。竪穴式は、地面を1メートルから1メートル半ほど掘り下げて中心に柱を立てて屋根を差し掛け、土中の温度が年間を通して変化しないことを利用して暑さ寒さをしのいだものである。平地式は穴を掘らないで同じように建てた。

 それに対して板の間は、南方系高床式の系統である。弥生時代に稲作文化とともにこの形式が伝わって、しかし背丈以上もある高床は正倉院に代表される校倉式の倉として残っているだけである。住宅としての高床式は高さ数十センチのもので、それは古墳時代中期以降、朝鮮から騎馬民族が渡来して朝鮮の貴族住宅の様式を持ち込んで、奈良から平安にかけて寝殿造りとして隆盛をなしたことを背景とする。民家の板の間はこの寝殿造りがいわば庶民化したものである。

 さらに畳敷は、室町時代以降の近世武家屋敷を中心に発展した書院造り様式の流れを汲む。書院造りは床に畳を敷き詰めるのが特徴で、そのために畳のサイズを基本として1間6尺の間隔で4寸角の柱を配し、襖と障子をはめるという、日本住宅の規格化が進む。その簡素な座敷が茶の湯の舞台となって客をもてなすための上位の間として使われ、板の間はそれより下位の日常生活のための空間となっていく。

 その3つの流れが合流して江戸期にほぼ集大成されたのが、日本の民家である。いかにも多重文化構造の日本らしい話で、つまり民家には日本人数千年の住まいの基本要素が遺伝子として組み込まれているのである。

 土間は外を内へと取り込むもので、農家の場合も町屋の場合も、それは外部の自然や生産の場がそのまま住まいの中にまで繋がっていることを意味するが、それだけではなくて「村落や近隣の共同生活の関係が密接であることなどによって、公共的な外部空間と家族の私的空間の中間に、屋敷地(居住のための敷地全体)と土間という、公私の度合いに濃淡のある独特の空間を生み出した」——つまり、内と繋がる外というのは自然や生産の場だけではなくてコミュニティとの関係性でもあって、誰でも入ってこれる庭先と、誰もがという訳ではないが親しい人なら気軽に入り込む土間と、そしてさらに親しければ上がり込んで囲炉裏を囲んで酒を楽しむ板の間と、その奥の改まった座敷と、そのさらに奥のプライベートな部分と、家はグラデュエーション状にコミュニティに向かって開かれている。なるほど……。私が土間について漠然と「(自分だけでなく)近所の人が長靴で気軽に入ってこれるのがいいなあ」とイメージしていたのは、直感として正しく、それを建築史の先生が論理的に語ればこういうことになるのである。

 土間から板の間への上がり口や、玄関の土間から式台への上がり口では、床側の部材を隠す化粧横木が渡してあって、それが「上がり框」である。また庭から「縁側」への上がり口には「沓脱石」が置かれるが、この石がまた単なる高さ調整のための踏み台と思ったら大間違いで、奥が深い。そのどれもが興味深いが、ここでは省くことにして、土間との関連で「土庇」にだけ触れておく。

 縁側には屋根の軒先が出ていて、普通は沓脱石に差し掛かる程度の被り方であるが、その庇を深く伸ばして独立した柱を立ててそれに軒桁を回し、下の地面を三和土にしたのが土庇である。そこは外部でもなく内部でもない両義的な空間で、縁側共々、外と内がせめぎ合う。しかしここにもグラデュエーションがあって、庭、土庇、そこから沓脱石、縁側と上がるのだが、縁側にも外縁と内縁があって、縁側の外側に板戸や雨戸がない外縁がより外部的であり、それがあって部屋との間は障子だけがある内縁のほうがより内部的である。

 このような外と内との境界の演出の微妙さが面白い。内部の居住空間は限りなく外部に広がって行こうとし、外部の自然や田畑はどこまでも内部に入り込もうとする。土庇のような「さりげなく見えているものの中にこそ、濃密な空間の襞が込められているのかもしれない」と中川は言うのである。

●大黒柱が持つ象徴性

 さて、土間のある民家には大黒柱がよく似合う。しかし「住宅史の上で大黒柱が生まれたのはそれほど古い時代ではなく」て、室町以降の書院造りでも奈良・平安の寝殿造りでも「柱は全て同じ太さ」である。とすると、それはもっと古い、竪穴式や平地式、あるいは原始的な高床式の住居で掘立柱を中心にして空間の骨格を作ったことの記憶が、潜伏期間を経て蘇ったということなのだろうか。そして、それをさらに遡れば、伊勢神宮本殿の「心御柱(しんのみはしら)」に辿り着くのだろう。

 竪穴式と寝殿造りと書院造りが合流して民家造りが出来て、その最も発展した型として幕末期までに全国に広がったのが「四間(よつま)型」あるいは「田の字型」と呼ばれるもので、長方形の平面の左右どちらか3分の1から2分の1が土間で、残りの揚げ床部分に(典型的には)8畳間が4つ田の字型に並ぶ。初期には0.5間=3尺ごとに柱が並び、その間を土壁と板戸で仕切ったが、やがて柱の間隔が1間になり、1.5間になり、ついに2間になって、しかも襖や障子だけで仕切る開放的な平面が作られるようになった。

 柱の間隔が大きくなると1本の柱にかかる荷重は大きくなり、とりわけ田の字の中心の柱と揚げ床と土間の境の柱が重要度を増す。ところが、田の字の中心の柱はあまり太くすると敷居からはみ出してしまい、畳の角を欠かないと収まらないので見栄えが悪い。それに対して揚げ床と土間の間の柱は、太くなった分を土間側に片寄せることで畳に影響を与えなくて済むので、心置きなく太くすることが出来る。「いったん太い柱を立ててみると、その立派さはなかなかの迫力であった。また、折から幕末期、現金収入につながる作物づくりなどの発展により裕福になった庶民は、ますます太い欅などを用いて力強い表現をこの柱に与え、この柱に大黒天を祀り、さらに内部空間の中心としての象徴性を高めていったのである。かくして、土間と揚げ床境の中心にあり、床部の表と奥を分ける中心点でもある1本の太い柱を“大黒柱”と呼び習わすようになった」。

 中川はそうは言っていないが、私にはそれは、遠くシャーマニズムの昔に起源を持つ大樹信仰、柱信仰が形を変えて蘇ったものと思われてならない。一家の主人を大黒柱と言うのは、そこから生まれた比喩であるけれども、今ではそれも死語になって、主人が家の中で居場所がないような有様では、象徴性を持つような柱は蘇りようもないのである。

●囲炉裏、茶の間、リビング

 囲炉裏についても中川は書いている。囲炉裏の源流は、石器時代の火の焚き場や、石や土器片で囲われた竪穴住宅の炉であろう。人類が火を発見し、採暖、炊事、照明、動物から身を守ることなどに利用することを覚え、かまどや照明器具などの実用の具が工夫されていった。と同時に、火を、穢れ、あるいは聖なるものと見なす精神文化も生まれてきた。

 古い様式では、囲炉裏は土間にあったが、江戸時代の民家に盛んに用いられるようになってからは、土間に面した板敷きの「カッテ」(台所)に切られることが多くなった。その機能は、採暖のほかに、日常の煮炊き、夜なべ仕事の場、内向きの団欒、そして祝祭儀の人寄せ、村の寄り合いなど、日常・非日常にわたって多彩で、その複合的機能が分化して、かまど、七輪、火鉢、炬燵などになった。

 囲炉裏のある農家の板の間が、明治以降の都市の庶民住宅になると、火鉢のある茶の間に変貌したのだろうか。火鉢には茶箪笥と卓袱台(ちゃぶだい)が相応しく、これもまた家族の食事、一家団欒、母親の夜なべ仕事や子供の宿題、近所の人たちとの茶話など、これもまた多彩な機能を持つ暮らしの中心空間である。応接間や座敷は表向きの接客や公式行事など一家の主人が厳然と取り仕切る公的な場であり、それと対照的に茶の間は気軽に雑多な使われ方をする私的な場であったのだが、戦後になると、主人の役割は薄れて家族が平等になり、元は応接間や座敷だったスペースはドアに鍵の掛かる個室になり、家の中心は椅子式のリビング&ダイニングに取って代わられて、そして火はどこにもなくなって、「社会ー家族ー個人の本質的な関係」が混乱に陥った。「それが現代住居の危機の主因になっているようにも思われる」と中川は書いている。

 火の原点は焚き火で、それが室内に入って土間の囲炉裏となり、やがて板の間に上がり、そこから炊事機能が分化して固定式のかまどや移動式の七輪となり、また採暖機能が分化して畳座敷用の火鉢や炬燵になり、また照明機能が分化して行灯や提灯になったのだとすると、そのような生活の様式の問題としても、前回で柳田國男が書いているのを引用したような祭や信仰の問題としても、まさに生きた火を通じて我々は原始に繋がっていて、にもかかわらず今やその何千年もの繋がりが断ち切られる瀬戸際に達しているということになるのだろう。

 他にも中川から学ぶことはいろいろあるが、いずれ機会を見てもう一、二度、立ち戻ることになるだろう。中川の本に出てくる美しい写真の幾枚かは、川崎市にある「日本民家園」に移築されている建物を写したものである。亡くなった母方の叔父が川崎市の教育委員としてこの民家園の設立に尽力したということがあり、幼い頃から何度かその話は聞いていたが、もちろん子供が当時そんなことに興味を持つわけもない。この本を読んで俄然、行って見たくなった。▲

2004年6月 8日

INSIDER No.202《DOUBLE-CROPPING》人生二毛作開墾記・その11──韓国でも榎は神木だった!

 榎についてさらに続ける。柳田國男が「争ひの樹と榎樹」で言っていることの要点は、(1)御神木は神社の境内にあってシンボル的な大樹だからそう呼ばれるのではなくて、そもそも大樹そのものが、神々がそこに降りたって宿る天との媒介として信仰の対象だったのであり、(2)そのような樹木信仰の対象となった樹の種類は様々であるけれども、榎はその中でも最も古くから最も多く崇敬されたものの1つで、(3)そうなるについては、榎が宿り木を宿したり、大きな空洞が出来てそこに地下水を吸い上げて水壺をなしたり、天然不思議の性質を持っていることが大いに与っているだろう——というにある。

 さて「争ひの樹と榎樹」は『神樹篇』18章の中の1章にすぎない。神樹すなわち御神木について柳田が説いていることの全体を要約して、一渡り眺めておくことにしよう。

●神樹、柱、杖、箸、楊枝

 日本の祭事・神事には「柱」が付き物で、「柱松」は丸太や竹を高く組んでその頂の籠に藁などを置き、下から競って松明や火縄を投げ上げて誰が真っ先に火を着けるかを争い、またその燃え具合でその年の田の実りを占う火祭りで、盆の中元の頃に諸国で行われた。これに対して、禁中の「左義長(さぎちょう)」や各地の「トンド焼き」は、上元の正月15日に行われるもので、青竹や丸太の先に御幣(おんべ)を飾って焼くので「オンベ焼き」とも言われる。どちらも燃え方を競い合い、それに子供らが参加することで共通している。(柳田はそんなことは言っていないが、運動会の紅白玉入れの競技の原型はこれではないのだろうか。また村人が二手に別れて綱引きをしてその勝敗で作柄を占うということもあったようで、運動会の綱引きも昔の祭の名残かもしれない!)

 盆の「灯籠」も起源は同じで、昔は軒先でなく高い柱や竿の上に吊したが、そのもっと古い形は「竜灯松」などと言って天然の喬木に灯火を掲げた。あるいはまた、祭には旗や幟(のぼり)を立てるが、これら柱の先の火や御幣や旗はみな、天から神が柱を伝って降り立つための目印であり、肝心なのは柱を立てることそのものである。柱が神秘でさえあるのは、7年に1度の「諏訪の御柱(おんばしら)」の祭、さらには伊勢神宮の秘蹟である「心御柱(しんのみはしら)」に明らかである。

 「柱が人作の神木か、神木が天然の柱か」は定かでないが、いずれにせ両者の本意は一つであると柳田は言う。全国に「勘定の木」「勧請の木」の地名があり、これは神を招き降ろして祀るのに天然の樹を用いたことを示す。杉本、柳本、松本、梅本、榎本など、木の名に本を付けた地名や氏名が多いのもこのことに関連していて、南方熊楠によれば、紀州熊野の神人に古くから榎本氏があって、その起源は榎の祟祀に関係があると言う。

 この神木の枝を取って杖にしたり持ち帰って飾ったりするのは「神木の出張」であり、また祭祀者が手に持つ杖は神木のいわばミニチュアである。神宮の巫女最高位は「御杖代(みつえしろ)」であり、諏訪の県(あがた)は祭の日に杖を執るが、その杖はもちろん歩行を助ける用具ではなく、御柱に対応した神人の権力のシンボルである。杖はそのように尊いものであるから、高僧や武将が旅の途上で、あるいは山姥が山から下りて、杖を地面に突き立て、それが大樹に育ったという伝説が全国至る所に生まれる。その樹種には銀杏に次いで榎と柳が多く、柳の場合はその根元から清水が湧いたとされる場合が目立つ。その変形として、箸や楊枝を立てた説話もある。飯を高く盛って箸を立てるのは、路傍に土を盛って塚を作り、樹を植え、道祖神や石地蔵を祀るのと同じ意味で、その樹は榎とは限らぬが多くは榎だった。

 朝鮮にも「刹柱」と言って寺院に柱が立てられ、それが日本に輸入されたという説もあるが、神や精霊が天にあって木に降りるという信仰は、朝鮮のみならず満州や中国本土にも広くあって、どこがどこの模倣というものではない。日本の場合も、天然の樹に神を祭り、柱を立て、その先端に飾りを施すという習わしが余程古くからあったと考えるべきだろう……。

 以上が『神樹篇』の論旨の恐ろしく乱暴な要約である。樹、柱、杖、箸、楊枝というのが実は全部繋がっているというのが面白い。

●朝鮮の榎信仰

 柳田は、朝鮮の忠清北道にも榎信仰があり、樹下には大きな石を置いて、巫女が噛んで作った米酒を振り掛けるので石が白く見える、という話にも触れている。Webで榎を調べていた中に、高崎経済大学の論集第44巻で同大経済学部講師の朴福美という方が「植物名に探す朝鮮語の影響/榎」という論文を書いていて、柳田国男の榎論を韓国の民俗や朝鮮語の音韻の側から検証しているのが目に止まった。

 柳田は、榎が椋と区別が付きにくく混同されている場合が多いことを述べているが、朴によるとそれは韓国でも同様——というよりも、榎と椋は同じ樹の別名であると言う。韓国でも漢字の榎と椋を使っていて、それに「木」を意味するna-muを付けて、榎はpaeng-na-mu(ペンの木)、椋は

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