Calendar

2004年5月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

Recent Trackbacks

« 2004年3月 | メイン | 2004年6月 »

2004年5月30日

INSIDER No.200《DOUBLE-CROPPING》人生二毛作開墾記・その10──柳田国男が語る「榎」の民俗学

 前回、どうにも手に負えぬ茅や葛やその他の根っこを掘り起こすのに、ユンボを入れて“天地返し”をするつもりであることを書いたが、4月に入って雨が多く、地面がぬかるんで作業に適さないので、様子を見ているうちに5月になってしまった。

 5月連休中の2〜3両日に鴨川自然王国で田植えの一大イベントがあり、その機会に翌日まで居残って、王国スタッフのO君の助けを借りて、敷地の下半分に腰の高さまで青々と茂った茅を草刈り機で刈った。昨年秋から冬にかけての第1次草刈りでは、10年以上も放置されて3メートルの高さで生い茂って分け入ることも出来なかった茅を2度、3度と刈らなければならず難渋したが、今回はさすがにスイスイと切れる。ところが2週間経って5月15日に行ってみると、徹底的に刈ったつもりだったのに、またあたり一面、膝下くらいまで生えてきている。やっぱりユンボの力を借りなければどうにもならない。

 しかし仮にこれを鋤鍬を使って人力で掘り起こしたらどうなのだろう。昔の人はどんな思いをして荒地を開墾して家の敷地や田畑を作ったのか、少しでも味わってみようと思い立って、地元の農具店で本格鍛造の頑丈な鋤と鍬を買い揃えて挑戦した。びっしりと絡み合った茅の根を鍬でブチ切るようにしながら、深さ20センチほど掘り起こして、次に鋤もしくは小型の片手鋤を使って千切れて浮いてくる根っこを取り除くわけだが、2時間半ほどかかって2坪がやっと。それで脇には70センチほどの高さの根っこの小山が積み上がる。しかも、もっと深いところの根っこはまだ残っている。こりゃあ大変だ。毎日やっても、1人では500日はかかるだろう。2時間半でも腰が痛くて、途中でウンウン言ってストレッチをやっている有様だから、とうてい500日は無理である。

●タケノコ泥棒も出没

 そんなことをやっていると、普段は人っ子一人通らない目の前の林道に2台、3台と車が入ってくる。何かと思えば、林道の向かい側にある巨大なハチクの林でタケノコや山菜を採る人たちで、中には小型トラックの荷台に保冷車のような設備をしている一党もいるから、これはプロのタケノコ泥棒、山菜泥棒であるらしい。人気のない他人の土地に勝手に入ってトラック一杯採って、たぶん店で売るのだろう。

 14日にはこの金束で盗掘者が逮捕される事件まで起きて、NHKのニュースにも出たそうだ。そう聞いたので地元紙『房日新聞』のウェブをチェックすると、あった、あった。

「タケノコ130本盗掘/制止した男性を車ではね逃走/鴨川署が2人逮捕

 鴨川署は14日、山林からタケノコを盗掘、車で逃げる際に制止しようとした男性にけがを負わせたとして、富津市の運転手、石井正容疑者(60)と、同市、無職、石井孝夫容疑者(71)を、強盗致傷の容疑で逮捕した。同署によると2人は、同日午前9時ごろ、鴨川市金束の山林からタケノコ約130本(約1万8000円相当)を盗掘。車に載せ逃走する際に、山の管理を依頼されていた同所居住の男性(30)に発見され進路を立ち塞がれたが、『どけ』などと怒鳴り強引に車を発進、男性に両膝打撲の軽傷を負わせ逃走した疑い。

 男性の通報を受け、車のナンバーなどをもとに捜査していたところ、富津市内で車両を発見、逮捕した。1週間ほど前にも山林からタケノコが取られていたため、男性が見回りをしていたという。2人は『親戚に配ったり、自分たちで食べようとした』などと話しており、詳しく調べている」

 親戚に配ったとしても130本も食えないから、これは業者に決まっている。しかし1万8000円分のタケノコを盗って強盗致傷罪とはねえ。そういうこともあって、タケノコ泥棒さんたちは通りがかりに私の姿を見るとちょっと不安そうで、「あれ?ここは無人だったはずなのに」といぶかしげな顔をして通り過ぎる。中には人懐っこい泥棒さんもいて、「どうもー、こんにちは」と声を掛けてくる。「ここは、東京の人が持っている土地で、全く使っていないと聞いていましたが」となかなか事情に詳しい。「いや、去年の秋に私が地主になったんですよ」。「いやあ、この間通ったらキレイになっていたんでビックリしましたよ。どのへんまでがお宅なんですか?」。「あの辺まで」。「あ、どうもすいません、さっき断りもせずに採っちゃって」。「いいですよ、私も今はそれどころじゃないから」。「そうですか、じゃあ、このへんの蕗は採らして貰っていいですか」。「……。いいですよ、どうせ勝手に生えてるもんだから……」。「どーもすいません。ありがとうございまーす」。ちゃっかりしている。

 近所の人が自分が食べる分をチョッチョッと採るのはいいけれど、業者じゃあ根こそぎだからね。来年からは何らかの防衛策を考えなくてはいけない。

●榎の緑の鮮やかさ

 閑話休題。地面の根っこは悩みの種だが、敷地全体に散在する20本以上の榎の大樹は、鮮やかな緑の葉が芽吹いて美しい。12月に一度来たことがある友人がまたやってきて、「これは素晴らしい。前に来たときは冬でよく分からなかったが、これは凄いよ」と感動しまくってくれたが、その大きな要因は50年以上を経た榎の大樹の緑であるに違いない。

 さて、この連載の第3回で、榎にまつわる伝承や神話がいろいろあることに触れたが、そのほとんどは柳田国男の「争ひの樹と榎樹」という論文(全集19巻所収、筑摩書房)にあることが判明した。以下だいぶ長くなるが榎の神性と魔性のいわれを要約する。「争いの樹」とは、古来、エノキにどの漢字を当てるかでいろいろな例とそれにまつわる諸説と誤解があることを指しているが、その部分は省略する。小見出し、項目番号、[ ]内は引用者による補足。

《最古の植栽として人里に》

(1)エノキは通例又ヨノキとも呼ばれる。恐くは嘉樹即ちめでたき木を意味したものと思ふ。榎が万木の中に於て、人間栽植の最も古い歴史を持って居る故に、さう考へられるのである。枝多くして之を伐れば愈々繁茂する故に、枝の木であらうとの説もあるが、自分は之を信じ得ない。

(2)古い塚の大榎は、ずっと前から幾らでも例があり、又塚は無くても路傍には此木が多かった。しかも二本榎であり榎並である故に、輒[すなわ]ち天然の成長で無いことを知るのである。国境の榎峠を始として、邑里の境や橋の袂にも特に榎があって、所謂榎戸(えのきど)は多くは路神の祭場であった。道祖神の神木サヘノキを、左榎などと書いた地名も多い。

(3)人家の邸内に此木を植ゑた例は、古くは姓氏録の榎室連の条にある。中部日本ではよほど広い区域に亘って、今でも此風習が行はれて居る。名古屋近傍では其場処は必ず屋敷の戌亥[いぬい=北東]の隅であり、之を福榎と呼んで居たさうである(名古屋市史地理篇、榎御多門の条)。四隅の神の中でも特に乾[いぬい]の大切であったことは、古代の記録にも見えて居る(例へば三代実録貞観)。

(4)或は古城旧館の入口に近く、此木の林を為した例も多かった。……何故に斯くの如く、人里通路には遍く分布して、山野には却って巨木を見ないかは、既に久しい間の不思議であって、或は其若葉が食糧の助けになるので、籠城の用意の為だらうと謂ひ、又は薪として火気強く、軍隊の篝火に適する故などと、兵学者流の説明も世に行はれて居るが、固より奈良朝以前からの経験とは思はれず、且つ永く之を伐残して沢山の老樹を現存せしめた理由には十分で無い。

(5)榎が薪として珍重せられたのは事実であり、其効用は単なる採温に止まらなかったとさへ称せられる。和漢三才図会に、其材、不堪為柱、……最宜薪、其火気益人身とある。

《神社との深い結びつき》

(6)或は又東北の某地方で、神社の建設には必ず一本の榎の材を使用するといふ説もある。……此木の如く本来柱などには向かぬものを、使用したと云ふ話が伝はって居る以上は、別に相当の事由が有る筈である。其一つとして最初に念頭に浮かぶのは、神社の境内に榎のある実例が多いこと、それが植栽に因るか、はた単なる保存であるかは不明としても、兎に角に社頭第一の老樹の榎であったことである。江戸……[の]諸社の木には年経た榎木が多かった。……関東の近県だけでも尚百を以て算する類例があらうと思ふ。

(7)今日人の目して神木とするものは、単に境内で最も古き樹なるが故に、之に由って社殿創立の年代を証明せしむべく、珍重して居るに過ぎぬものもあるが、実際それだけの関係ならば神木の称は当って居らぬと云ふことである。……右の如く神社の榎は多く存し、又特殊なる口碑習俗の之に伴うて伝はった為に、他日此方面の研究に基いて、次第に固有宗教の元の面影を見出し得る望があるのである。

(8)折々の祭の幣供物を濡さぬ為に、かりそめに造った雨覆ひホコラでもあると、早それを主神の座と看做して、老いたる神木を従物の如く考へる風が往々にしてあった。樹は枯れて石の小宮などが残り、尚之を榎本神社と呼んで居る類は、正にこの近世の信仰変遷を語るものである。併し稀には熱田などの如く、直ちに樹を拝して居る例も少なく無い。……昔は此種の榎が独立して、祭られて居たものが多く、今在る社の神は却って後に樹の所在に就て、勧請せられた場合が幾らでも有ったかと思ふ。さうして未だ定まった神を迎へざる神木も亦残って居た。……信仰は時代につれて色々に変化したものらしいが、さふいふ中にも詳しく比較をして見ると、やはり境を守り災禍病疫等の外より入込む者を防ぐという点に、一致した点が残って居るかと思はれる。

《種々様々の怪異談》

(9)榎に関しては又種々様々の怪異談が、現実の記録として伝へられる。……千住の竹ノ塚から少し北、道路の東側に在った古榎は、是も歯痛の祈願に楊枝と絵馬とを捧げる者が多かったが、以前は縊[くび]り榎と名け毎年此木で首を吊る者が何人もあったので、之を神に斎うて白山権現と称へたと謂ふ。……戸塚の三島明神に神木の榎があったのは昔のことである。猿のような頭をした猿蛇という蛇が、暫く此木に住んでいた。……巣鴨の弁財天社の榎は、近世になってから白蛇が登って常に居た。

(10)神木の榎は伐れば祟があると謂って、枯枝まで大切に保存した例が多い。越後では南蒲原郡中条村の大行と云ふ地に、大行榎と称する老木の榎があった。信濃川東岸に在って流を妨げ堤防の害をする故に、古来神木と言ひ伝へはあったけれども、或年数十人の杣を雇ひ入れて之を伐らしめることにした処、僅かに二打三打斧を入れるや否や、其場に居合わせた者悉く心神悩乱し、四辺朦朧となって人の顔が逆様に見えたので、一同舌を巻いてしまひ、翌日往って居ると斧を入れた痕はまるで無くなって居た。明治初年の出来事であったと謂ふ。

(11)榎の朽株などが暗夜に光ることは、今でも経験した人があって珍らしい話で無い。併しそれだけではまだ説明し得ぬ怪異が幾らもある。……化物は兎角榎の陰を選んで出た形があるのは、果して路傍の老樹が、多く榎なる為だけであらうか。筑後川の下流地方では、所謂砂播き狸は大抵榎の上に登って砂を降らす。……王子稲荷の衣装榎の本に、除夜の晩には関八州の狐が集まってきて狐火を焚くと謂うのは。源氏物語の浮舟の君をかどはかして、明け方に椋[ムク=榎の別名もしくは同種と考えられている]の木下に棄てて去ったと云ふ話と共に、狐が特に此木を選定した例であるが、前者に在っては目的は世の中の為であって、結局二三の例外は寧ろ畏怖に基く誤解であり、大体に於ては人をして神木の霊威を承認せしむる迄の、作用に過ぎなかったことを知るのである。大和市高市郡の忌部の一本木などは、御所街道に接した田中の塚の大榎であった。毎年正月元旦には黄金の鳥が、此木に来て鳴くとさへ伝へて居た。「一本榎のめでたさは/本はくろがね中こがね/枝はしろがね/末には御銭がなりそうろ」斯ういふ踊歌も同じ国の村々にはあったと謂ふ。

《宿木、そして木壺の水》

(12)今に於ては単なる推測に止まるのであるが、自分としては榎を信仰に結び附けた天然の不思議の一つは、やはりホヨ即ち宿木の現象であらうと思って居る。……榎にはトビザサ・トビヅタなどの珍しい植物がよく寄生した。……古人は則ち之を畏敬せずには居られぬやうな心理と傾向を持って居たのである。

(13)次に今一つ、……自分の久しく注意して居る特性がある。榎は其材が柱梁に適せぬ如く、柾が弱く内部が朽ち易いに反して、樹皮の至って丈夫且つ活発なる木であるらしく、従って幹が空洞になって後も、永く生存し又繁栄する。殊に榎の空洞には、木の股から始まるものが多いかと思はれる。外面はさりげ無く穴の口が窄くして内の広々とあいて居るものは、常に尊いものの宿りであった。人も隠れ又虫鳥獣の類も住むからは、神ばかりが宿りたまはぬ道理は無い。斯ういふ考え方が樹精山霊の大昔以来、榎を他の樹木と差別せしめた一つの原因であると思ふ。之に附け加へて日本の如く、地下水露頭の数多き国で無いと、到底遭遇し能はざる奇現象であるが、榎木の根元から噴き上げて、樹高い空洞の穴に水を湛へることは、亦最も普通なる此木の奇瑞であった。……榎木の半天河水は癇癪の薬に用ゐられ、又鷹飼ひの家の秘伝としては……木壺の水と名付けて珍重せられた。

(14)伯耆の山村で除夜の囲炉裏に必ず榎を焚き、武蔵の或郡では正月の餅花の木を榎に限り、肥後の球磨郡などで同じ季節に、此木の人形を製する風習などが、偶然の発生で無かったことは疑が無い。榎が薪として好ましいという話も、事によると禁中式例の御竈木と関係があって、同じく年占の理由が元は有ったのかも知れぬ。……要するに此木は我々の学問に取っても亦神怪の木であり、且つ謎の木であった。……民族固有の宗教の源泉を究めたいと思ふ者は、忍耐して此類些細の材料を集積し整理し、更に保存せられたる古文献に照し合わせて、文字の陰に潜むものを捉えて見るの外は無い。[漢字では槐、朴、椋、そして榎といろいろの字が充てられてきたが]千年を一貫して此木が国語ではエノキであったことは、恐くは大切な痕跡であらう……。

●柳田のこの熱の入れ方

 まず驚くのは、柳田がこれほど熱を入れて、全集の組版で22ページという決して少なくないスペースを割いて、榎を取り上げていること、それ自体である。正直のところ私など、榎という木があることは知っていて、それは小学生から中学生にかけて叔父に連れられてよく山歩きをしていた頃に、「これは榎だ」と教えられたことがあったからだと思うが、そう言われても特に興味を持ってしげしげとながめたわけではなかったし、それ以降、今日に至るまで、どこかでこの木に出会ってことさらの感慨を持ったという記憶はない。恐らく、都会育ちの多くの人にとっても同様なはずで、つまり榎は、欅や楢など他の落葉高木広葉樹と比べて有名でないどころか、ほとんど忘れられたような存在だった。だから、鴨川の山林の土地を見に行って、群生する広葉樹の大樹の姿に心動かされて、これは何の木ですかと尋ねて、村の長老から「榎だよ。エノミとも言うがね」と教えられて、「ああ、そう言えば榎という木があったなあ」と思った程度だったのである。

 その見事な枝振りを一目で気に入ってしまったことが、この土地を手に入れることをほとんど即断即決した最大の理由であり、後になって、そう言えば榎とはどんな木なのだろうかと思って、植物図鑑や百科事典などの一般資料を当たって要約したのが、本連載第3回の稿だった。他方、私は柳田は好きで、代表作は大体読んでいるが、全集を買うほどマニアでもなく、榎についての一文があるのを知らなかった。ひょんなことからそれを知って、読んで、心底驚いた。

 第1に、榎は「嘉樹即ちめでたき木」として「万木の中に於て、人間栽植の最も古い歴史」を持っていて、一里塚、国境の峠、関所、村の境、橋の袂、屋敷の角、神社の境内などに、福を招き安寧を願う意味を込めて盛んに植えられた((1)〜(5))。「人間栽植の最古」ですよ。凄い話じゃないですか。その割に巨樹・古木として知られることが少ないが、それは余りに古くから植えられて朽ちてしまったものが多いからだろう。それでも、環境省の「巨樹・巨木調査」に基づく「樹種別全国最大級の巨木」(樹種別の幹周りベストテン)には、第3回でも触れた徳島県一宇村の赤羽根大師の大榎(幹周870センチ)を筆頭に、徳島県池田町、鳥取県会見町、鳥取県泊村、熊本県坂本町、茨城県結城市などの榎が堂々と並んでいる。全国に榎町、榎坂などの地名は多く、都内では新宿区に牛込榎町があり、港区には米国大使館下の榎坂、ロシア大使館先の榎坂があり、いすれも古街道の一里塚に大榎があった名残だという。

 第2に、単に「めでたい」のではなく、神社との結びつきが特別に深く、その裏には古神道の成り立ちに榎が関わっていたのではないかという仮説さえ成り立つ((6)〜(8))。柳田が言っているのは要するに、元々は御神木と言えば榎だったのではないか、ということである。御神木は、境内に立つシンボリックな大樹と思われがちだが、実はそもそもは大樹そのものが、誰と定まらない諸々の神々の宿る木として信仰の対象であって、それに御供えをするための雨除けとして祠が作られて、木が枯れても祠は残ってそこに特定の神を祭るようになり、その後に新たに植えられたのが必ずしも榎でなく銀杏だったり杉だったりしたのであって、アニミズムとしての古神道の始まりは榎信仰だったのではないか、というのが彼の問題意識なのだ。

 第3に、「何故に斯くの如く、人里通路には遍く分布して、山野には却って巨木を見ないかは、既に久しい間の不思議」と柳田は(4)で言っているが、私の土地はまさに山野であって路傍でも塚でもない。そこに20本を超える榎が群をなしているというのは、大いなる不思議である。この土地の主要部分は、確かなことは分からないが、恐らく20年ほど前までは棚田として使われていたところで、榎は、(a)敷地の北西の、そこは田ではなかっただろうと思われる傾斜地に5本が群生し、その一番手前が姿の特別に美しい夫婦榎であり、(b)敷地の最下段(北端)に2本の若い木が並び、(c)ここは明らかに棚田だったという中段には東端に4本、中に3本が聳え、(d)あとは西側から上段(南)にかけての森の中に樫やその他の木と混じって何本もある。(b)の若木を除いて、他はみな樹齢50〜60年と推定される大樹で、樹齢が揃っているということは、実が転がったり鳥に運ばれたりして順次生えたのでなく、一斉に植えたものとも考えられるが、田の縁や中にこのような茂りのよい木をわざわざ植えることはありえない。謎としか言いようがない。柳田は榎を「神怪の樹」と呼んでいるが、それがこれほど集まっているこの土地は「神怪の地」である。

 第4に、榎が信仰の対象となるについて「ホヨ即ち宿木の現象」があったろうと柳田は(12)で言っている。宿木は寄生植物全体を指す一般名詞にも使われるが、固有名詞としてはトビヅタの和名で、別名ホヤともホヨとも呼ばれる。落葉広葉樹の枝先にこんもりと丸みのある葉をつけ、宿主の葉が枯れる冬でも枝先に引っかかったように乗っているので目立つ。これはわが榎群にはない。源氏物語第49帖「宿木」で、薫が宇治からの帰途、朽ちた古木から手折って中君に贈った宿木は、紅葉した蔦で、根無しのトビヅタと違って根があるけれども他の大木に絡んで生長し、場合によっては宿主を覆い尽くして何の木だか分からなくするほどなので、広い意味での宿木なのだろう。この蔦や藤は我が土地には多くて、ほとんどの榎もそれに絡まれていた。それはそれで風情があるが、長い間に宿主を弱らせるので、榎に関してはすべて根を切り払って枯れさせた。ほかに、榎の枝が股になっているところに、名前が分からないが、濃い緑の草が生えているのが見える。柳田の言う「トビザサ」は植物図鑑の類には出ておらず、どういうものか分からない。

 5月30日早朝、「宿木」現象を観察しようと榎を1本ずつ見上げながら歩いていると、中段の榎の1本の根元に丸い小さな石が頭を出している。この敷地には、粘土が地圧で固まった石があちこちにあって、耕したり草を刈ったりするのに邪魔なのと、石は石であとで庭などの造作に使えると思って、出来るだけ拾い集めるようにしている。それで、靴先で周りを少し掘るように突くと、自然石としては妙にまん丸い。あれ?と訝りながら、その辺の木切れで周りを掻くと、な、なんと!——仏様の顔が出てきた。え、ちょっと待って。あわててスコップを取りに走り、丁寧に掘り起こすと、それは高さ20センチほどの黒い石で彫った結跏趺坐像で、光背と台座の一部にうっすらと朱の色が差してある。後ろを見ると「天保十一 子」と掘って、そこにも朱色が入れてある。うーん、何なんだ、これは。田んぼの縁に小さな祠を作って田植えの神を祭るということはあるが、仏とは聞いたことがない。神の木の根本に仏……。うーん、謎だ。神怪だ。▲

Profile

現在、INSIDERニュースレターの内容は、ご覧の《THE JOURNAL》内でブログの形で公開されております。
誰でも無料で閲覧し、またそれについて感想や意見を書き込むことが出来るようになっておりますが、従来通り、お手元に電子(Eメール)版配信もしくは印刷版郵送の形で講読を希望される方は、引き続きEメール版:年間6,300円(税込)、ペーパー(紙)版:年間12,600円(税込)をお支払いください。[法人購読の場合は年間105,000円(税込)になります]
ウェブ上で無料で閲覧できるものが、Eメール版・ペーパー(紙)版が有料なのはどういうわけだと思われるかもしれませんが、後者の場合、読者名簿管理と請求の事務、配信と郵送の手間が必要であり、とりわけ印刷版の場合は紙代、封筒代、印刷代、郵便代のほか宛名を印刷して封筒に貼り、印刷されたものを三つ折りして封入し、糊付けし、紐で束ねて郵便局に運び込むのに膨大な手間とコストがかかっていることをご理解下さい。
また、無料で閲覧できるならそちらに切り替えたいという方もおられると思いますが、残余の購読期間は引き続きEメール版もしくはペーパー(紙)版を配信させて頂き、購読料を途中返還することは致しませんのでご了解下さい。

BookMarks

TOKYO KALEIDO SCOOP
http://www.smn.co.jp/

INSIDER(インサイダー)
http://www.smn.co.jp/insider/

→ブック・こもんず←



当サイトに掲載されている写真・文章・画像の無断使用及び転載を禁じます。
Copyright (C) 2008 THE JOURNAL All Rights Reserved.