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INSIDER No.160-2《DOUBLE-CROPPING》人生二毛作開墾記・その5──内と外の見境がつかない「土間」の暮らし

 山口昌伴が、「かつて台所は井戸ばたに川ばたに、そして畑に、山につながっていた」と言うのを聞いて、水上勉の『土を喰う日々』を思い出した。これは、軽井沢に仕事場を持つ水上が、敷地に野菜畑を作り、周りの山谷を歩いて山菜や木の実を採って、9歳で京都の禅寺の小僧になって厳しく叩き込まれた精進料理の素養を縦横に活かして自然の恵みを味わい尽くす1年12カ月の食の暦で、20年くらい前に古本屋で「土を喰(くら)う」という言葉の強さに惹かれて買って読んだのだが、書棚を探しても出てこない。それで新潮文庫版を求めて再読した。

●コンビニじゃなくて裏の畑

 由緒はあるが貧乏な寺の老師が小僧に教えたのは、台所の脇にある3畝ほどの畑に相談して、材料が乏しい冬であっても知恵を絞って、毎日のように訪れるお客のために2、3の酒肴や惣菜を調えることだった。何もない台所から絞り出すのが精進で、「これは、つまり、いまのように、店頭へゆけば、何もかもが揃う時代とちがって、畑と相談してからきめられるものだった。ぼくが、精進料理とは、土を喰うものだと思ったのは、そのせいである。旬を喰うこととはつまり土を喰うことだろう。土にいま出ている菜だということで精進は生々してくる。台所が、典座職(禅寺での賄役の呼称)なる人によって土と結びついていなければならぬ、とするのが、老師の教えた料理の根本理念である」

 くわいを皮のついたまま七輪で気長に転がしながら焼いて塩を添えた一皿は、酒呑みの老師の大好物だった。いまのテレビ番組の料理では、くわいなども皮を包丁でむき、見た目は芋だか何だか分からないくらい小さくする。これが上品らしいのだが、「甘味のある皮に近いあたりが捨てられるとあっては、もったいないのだ。また、くわいの皮ほどうすいものはないのである。小芋の皮むきなどもこれに似ている。小芋は、茶褐色のタテジワのよった皮をもっている。ぼくらはよくたわしで土をそぎおとしただけで、この皮が多少はのこるぐらいのところでやめる」。三斗樽に水を張って土のついた芋を入れ、横板のついた棒で20分も回すと芋が肌すりあわせて皮が水面に浮く。その芋を保存しておいて、それ以上は包丁で皮などむかずに使う。「ところが、テレビ番組の板前さんは、包丁を器用に使い、小梅ぐらいの大きさにまでむき、厚い身を捨てて平然としている。これでは芋が泣く。というよりは、つい先ほどまで、雪の下の畝の穴にいたのだ。冬じゅう芋をあたためて、香りを育てていた土が泣くだろう」。

 台所が土に繋がっているというのは、単に家をそれらしく設計するという外面の話ではなくて、道元禅師が『典座教訓』で言う「善根山上一塵も亦積むべきか」(高い山も一つ一つの塵が積み重なったものであるから、一塵ほどのささいなことでも大切にして、心をこめてこつこつと積み上げていなかくてはならない)という、芋やそれを育てた土が泣くのを感じられる感受性を自分の暮らしの基礎として取り戻すかどうかの内面の問題である。さあ何を食べようかという時に、まずコンビニに走るのではなくて、裏の畑に相談するという暮らしぶりが、家の形を決めるのである。

●玄関じゃなくて勝手口

 さて、山口昌伴に戻って、玄関とは何か。『大言海』ではまず「玄妙なる法門」で、禅の道に入る手始め、転じて禅寺の門、さらに転じて殿上人や高位の武家の屋敷の正面入口の式台のある門のことで、庶民がおいそれと設けていいものではなかった、と言うより設けたいとも思わなかったものだった。明治になって、官吏の住宅に上役上司接客のための格式ある空間として、小さな平土間と靴脱石と式台、それに下駄箱、あとはせいぜいスリッパ立てという現代の玄関の原型が出来た。これが一体何なのかは、一度考え直してしかるべきである。

「下駄箱は、もともとはなかったのだけれど、あまりに不便なんで明治もお終いの頃に出現する。それが長さ半間から4尺5寸、高さは腰高が限度」であるために、雨靴、スニーカー、登山用、釣り用等々まで含めると一家4人で100足近い靴が土間にはみ出して、まさに足の踏み場もなくなる。傘は一家4人なら4本でいい筈が、折り畳みや急に降られて買ったビニール傘まで入れると15本はある。「レインコート、合羽の類はどこに仕舞ってます? オーバーコートはどこに? 2階の寝室からオーバーまで着込んで『行ってくるヨ』が実態。外出にかかわる一切を、出入口の脇空間に収めたら、家の中がすっきりするだろう。……背広、ネクタイ、カフス、ハンケチ、手袋、靴下なんかも、家の中じゅう探し歩くよりは出入口脇部屋に収容したらドヤ。だいたい、さあ出掛けようと寝室の洋服箪笥へ背広を取りに行くなんてのも、まあ設計になっとらん」。

「男性なら髪をなでつけるのも、女性なら化粧に念を入れるのも、出入口脇部屋でやるのが何かと都合がいい。そう、ここはもう変装室なんです。そして、御帰還あそばされた時には、武装解除室となる」。下駄箱の上が、もとは花瓶1つだったのが2つ、博多に行った時の人形や、北海道旅行の木彫りの熊が加わったりして、思い出博物館のようになっているから、ご主人が帰っても鞄の置き場がないので居間に持ち込んでソファーの上に投げる、宅配便が来ても床に俯せになってハンコを押したりする。『めがねメガネ、暗くて字が読めん』。玄関灯はたしかに暗い。手元灯がひとつほしい。電話も居室にあるよりは本来出入口にあるべきだろう。出がけに連絡を思い出すことが多いし、靴紐完了したときに限って『おトーさん、デンワァ〜』で、片足に靴をはいたままケンケンで居間の電話まで跳ねていって、アキレス腱を切って1週間入院した人がいる」。

 つまり出入口として何をするにも向かないように出来ているのが今の玄関である。「原日本人の住居は農家でも町家でも屋内床面積の3分の1が土間だった。日本人は床使いが厳密で、高床に置いていいものと土間に置くべきものとをほとんど本能的に分別している。……土間が多いほど高床の上が片づくのに、土間が狭小化していくのが近代日本住宅設計の流れだった。……日常の生活出入口、変装けじめ空間、そういう機能をかなえる出入口を昔は勝手口といいましたネ。勝手口を生活機能空間として設計しなおそう」。

 いわゆる玄関は要らなくて、表に向いて勝手口があって、入るとそこは家の3分の1ほどを占める土間で、囲炉裏か薪ストーブでもあって居間にもなれば客間にもなる。その土間は奥に進むとそのまま台所で、裏の方に向いて大きく開口していて、その外の深い軒先は、畑の大根の泥を洗ったり、七輪でサンマを焼いたり、撃ち仕留めたイノシシを解体したり(そんなことはしないか)するスペースである——というイメージになるだろうか。

「昭和30年代、農家の台所の改善が盛んに指導された頃、都市型台所を農山村に押しつけるべきではない、と唱える一派があった。台所はその家の生業に合った改善の仕方があるべきだと唱えたのは、民家研究でも名高い今和次郎だった」。

 その名前は私も知っている。1899年生まれ、東京美術学校を出て、早稲田の建築科の大先生で大隈講堂の設計で知られる佐藤功一の助手に入り、その佐藤が大正6年に柳田国男らと共に作った「白茅会」のメンバーとして民家・民具の調査研究に当たり、古典と言っていい『日本の民家』はじめ数々の業績を残して1973年に85歳で亡くなった。大正11年に出版され後に増補されて岩波文庫に収められた『日本の民家』は、全国の民家を訪ねて丁寧なスケッチと間取り図を交えて大正年間の最初の都市化の波の中ですでに失われ始めていた農産漁村の暮らしぶりを描いたフィールドノートで、松本清張がこの本に「とりつかれて、豊前や肥前地方の田舎を歩いたものである」と書いているのを読んで、「へぇー」と思って買って今も手元にあるが、すでに文庫版も絶版のようだ。ドメス出版から71年に「民家論」「民家採集」の巻を含む『今和次郎集』9巻が出ているが、これも絶版らしく新刊本の検索では出てこない。晩年に籍をおいた工学院大学に「今和次郎コレクション」がある(http://www.lib.kogakuin.ac.jp/k_index.html)。関東大震災をきっかけに、田舎の民家から一転、都市の「バラック」に関心を寄せ、考古学ならぬ現在の街の「考現学」を提唱し実践したことも有名で、今日の「地元学」の元祖は彼と言っていいかもしれない。

「農家の場合、土と縁の深い生活だから、土足のまま動き回れるよう台所は土間に設けるべきで、食事は土間に椅子テーブルを置き、風呂も土間から入れるようにすべきだとした。土間の食卓を上り框(かまち)の方に寄せて、高床の方にいる老人などは上り框に腰掛けて土間のテーブルで食事をすればよい、と[今和次郎は]提案している。さらに来客も農人同士の行き来だから、土足のままの方が楽だろうから、応接間も土間にソファやティーテーブルを置いたらいいと提案している」

 農山村の台所を都市化(というか公団団地風のミニキッチン化)することが進歩であり文明的になることだと安易に信じられた時代があって、竈(かまど)の横に安物のユニットキッチンのセットを置いたりして、そのうちに竈は壊され、囲炉裏に石油ストーブを安置したりするようになって、昔ながらの総合的な機能を持つ土間空間はなくなってしまったが、それでいいのかということである。

●コンクリじゃなくて三和土

「土間は、それ自体をたたきと呼び、三和土と書いてたたきとルビを振る。たたきは叩き土、合わせ土を叩いた床」。合わせ土は、目の細かい砂利、赤土、石灰の3種の材にニガリを加えたもので、それで三和土と書く。堅きこと石のごとしだが、毎日踏みつけられて何代にも及ぶと柔なところが減って凸凹となる。これが偏りなく流麗なパターンをなすようにするのが叩きの技である。「大正時代にはセメントのたたきが加わり、現在ではコンクリートの床をたたきと言っている」が、三和土には石とは違う柔らかみがある。それにしても、なぜこんなところにニガリを使うのか。山口は説明していないので調べて見なければいけない。

「もともと江戸後期に成立していた日本の民家の定形では、建築面積のうち畳を敷きつめた座敷が3分の1、囲炉裏のある板の間が3分の1,そして土間が残りの3分の1を占めていた」

 日本人の空間感覚では、高さ方向に清浄感が働いていて、畳は元は板の間に置き敷きしたのでその厚みに意味があり、その畳よりさらにわずか3寸上がっただけの床の間は元は貴人の寝所で、人の立ち入れない清浄空間だった。「高床台上がハレのかしこまる空間であるのに対して、土間はケの、格式ばらない、普段着の、自由な、猥雑さを許すところがある」ような空間で、その最下段の不浄性ゆえの解放感が近頃土間が人気を取り戻しつつある理由だろうと、山口は言う。

 もちろん昔ながらの赤土中心の三和土でなければならないということはない。粘土を突き固める場合もあるし、最近は珪藻土のような通気性・吸湿性のある素材も人気があるようだ。石でも大谷石のように冷たさを感じさせないものなら悪くない。しかしタイルややコンクリというわけにはいかないだろう。堅いけれども柔らかみと温もりが感じられる材料でなければケの空間にはならない。▲

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