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INSIDER No.27-1《FROM THE EDITOR》 »

INSIDER No.26-2《UZBEKISTAN》ウズベキスタンでオペラ「夕鶴」を観る──初めてのシルクロード

《モンゴルからウズベキスタンへ》

 関空から週1便の直行便を使っても8時間、シルクロードの要衝タシケントまでわざわざ100人のツァーを組んで日本のオペラ「夕鶴」を見に行くというのも、ずいぶん奇特な話ではある。が、昨年まで3年間、三枝成彰(作曲家)、矢内廣(ぴあ社長)それに私を世話人として「モンゴル・オペラ鑑賞ツァー」に延べ90人ほどの参加を仰いできた我々にすれば、それはそれなりに必然性のある1つの展開だった。

 そもそもモンゴルに行き始めたきっかけは、同国の音楽事情に詳しい山川泉(創樹社代表)から三枝が「モンゴルの首都ウランバートルに国立オペラ劇場があって、そこそこのオペラをやっている」という話を聞いたことだった。「モンゴルにオペラがあるんだって!」「本当?」「行ってみようか」ということで、半信半疑というか好奇心任せで三枝、矢内、私、それに林真理子(作家)が山川を案内役に頼んで行ったのが98年の5月連休である。

 行って見ると、確かにレベルはかなり高い。それもそのはず、同国はつい先年まで旧ソ連文化圏であり、有能な音楽家はみなモスクワやプラハの音楽院など東側世界の一流教育機関に留学し、卒業後は旧ソ連・東欧だけでなくイタリアなど西側の舞台にも立って修練を積んだ人も少なくないという。しかも演目は、「カルメン」や「蝶々夫人」といった西欧の定番ものばかりでなく、モンゴルの神話や民話に題材をとったオリジナルの民族もののレパートリーを数多く持っていて、その中でも最も古く有名な歌謡劇はこれまで何千回も公演が行われ、モンゴルの人なら誰でも知っていて宴会で歌ったりするのだという。独立と民主化の後は、歌手、合唱団、バレエ団、オーケストラ合わせて200人ほどの団員も市場経済の中に投げ出され、苦しい運営を強いられているが、有力歌手がシーズンオフに外国に出稼ぎに行くなどして頑張って劇場を維持している。その姿を見て、我々は感動し、そして「日本とモンゴルとどちらが本当に豊かなのか」と考え込んでしまったのだった。

 当時、日本では初の国立オペラ劇場として「第2国立劇場」が出来たばかり。宮殿と見まごうばかりの立派な建物だが、しょせんはハコモノで、そこには専属の歌手もオーケストラもいない。欧米の著名なオペラ団を招いて、5万円だ7万円だというチケットを買って有り難がって観ているのが日本である。もちろんそれら欧米の一流どころとモンゴルとは実力も完成度も雲泥の差で比べようもないけれども、少なくとも“自分たちの文化”としてオペラを育てようとしてきた半世紀にも及ぶモンゴルの人々の努力に、我々は学ぶべきではないのだろうか。ということで、翌年とその翌年、40〜50人の規模で「モンゴル・オペラ鑑賞ツァー」を組織したのだった。

 とはいえ、さすがに3年連続ではモンゴルもやや飽きて、もちろん今後とも同国との芸術文化交流の活動は続けるのであるけれども、今年はちょっと目先を変えようかと相談していたところ、たまたまモンゴル組の一員である羽田綏子=元首相夫人が昨秋タシケントを訪れた際、中山恭子=ウズベキスタン駐在大使との間で「国立ナヴォイ劇場に日本から歌手、指揮者、スタッフを連れてきて『夕鶴』の上演が出来たらいいね」という話が持ち上がり、それに我々モンゴル組と、日本ウズベキスタン友好協会(嶌信彦会長)とが大いに賛同して一大サポーター団を組むことになった。

 日本の代表的なオペラの1つである木下順二原作、團伊玖磨作曲の「夕鶴」は、アジアはじめ世界各地で600回以上も上演されていて、ウズベキスタンでもその国立ナヴォイ劇場で、現地のキャスト&スタッフで舞台に乗せたことがあるとのこと。それならば、日本の歌手や指揮者を連れてきて演じれば恰好の文化交流になるだろうということで、国際交流基金が全面的にバックアップし、同国独立10周年の記念イベントの一環としてこの時期に行うことになった。それを聞いた團も「それなら私も行って自分で指揮棒を振りたい」と大いに張り切ってくれていたのだが、今年7月、奇しくもこの旅行の第1回説明会のその日に、中国で客死された。そのため指揮は現田茂夫が担当することになった。

 もう1つ、モンゴルからウズベキスタンに通じる回路は、劇場の建物そのものである。ウランバートルの国立オペラ&バレエ劇場の建物は、かつてこの近郊の収容所に抑留されていた日本人捕虜が使役に駆り出されて作ったものだった。旧ソ連様式の、こぢんまりとした木造ドームのその建物は、50年余りの歳月を経てかなり痛みも目立つけれども、とても丁寧に作られていて、モンゴルの人に言わせると「ウランバートルで唯一、階段のステップの高さがきちんと揃っている建物」だという。我々はウランバートル郊外の日本人墓地に花束を持ってお参りして、いつ帰国出来るかも分からない俘虜の身ながら、目の前の仕事にはつい職人根性を出して真面目に取り組んでしまう日本人らしさなのか、あるいはそうでもする以外に苦難を紛らわす術がなかったのか、彼らの心情に思いを致したのだった。

 ところが、モンゴルの人に聞くと、タシケントにはもっと立派な国立オペラ劇場があって、これも同じく日本人抑留者が建設に従事したもので、1966年に同市をほとんど壊滅させた大地震の時にもその劇場だけは壊れなかったことから、ウズベキスタンの人々の間で「日本人が作ったものは凄い」という神話にも似た評判の源になっているという。だから、この劇場で日本人が日本のオペラを演じることには格別の意味があったのである。しかも驚いたことに、当時この近辺に抑留されていて実際にこの建設作業に従事した元捕虜たちの何人かは今も健在で、その方々もツァーに加わって55年ぶりに自分たちの創造物である劇場で日本のオペラが演じられるのを一緒に観ることになった。

 事前に現地入りして準備に当たった日本の舞台関係者は、演出家の鈴木啓介はじめ、指揮者の現田、テノールの小林一男ら歌手6人など総勢約30人。後で聞けば、現地の子供たちの合唱団やオーケストラ、照明スタッフなどとの合同作業には大変な苦労がつきまとったようだが、当日の舞台は、演奏はもちろん演出も美術も照明もすばらしい出来映えで、「夕鶴」を日本で何度も観ているオペラ通の人たちも「今まででベストだ」と絶賛するほど。何よりも、我々に付いていた日本語通訳の女子学生が「何で100人もの日本人がわざわざこんなところまでオペラを観に来るのか、正直言って分からなかったが、実際に観て初めて分かった。こんなに美しい舞台は、生まれて初めて観ました」と言ってくれたのが心に残った。

 我々サポーター団のほとんどはウズベキスタンだけで帰国の途についたが、その後、舞台関係者とサポーター数名はカザフスタンに移動し、そこでも同様の公演を行うことを予定している。

《タシケント第4収容所》

 我々のツァーに加わったのは、かつてタシケント第4収容所に抑留されて国立ナヴォイ・オペラ&バレエ劇場の建設に携わった「永田隊」の永田行夫隊長ほか5人の現存者とその家族や関係者たちだった。学徒出陣で大陸に渡って奉天(現在の瀋陽)で現地編成された第28大隊(1000人)に属していたがソ連の捕虜となり、「ウラジオストック経由で帰国させる」と言われて1両の貨車に60人詰め込まれるという家畜状態で1945年9月17日に汽車に乗せられたものの、どうも向かっているのは西の方向で、40日かかって着いたところはタシケントだった。

 永田隊240人(後に転入してきた者があって最終的に457人になった)が入れられたのはタシケント第4収容所。この人々がナヴォイ劇場の建設作業を担当させられた。毎日6時起床、7時朝食、8時〜12時と13時〜17時作業、18時夕食、自由時間の後21時消灯・就寝という日課の繰り返しで、休日は日曜日のほか正月元日、メーデーと11月7日革命記念日の連休だった。食糧は1人1日の配給量が規則で決められていて、米または雑穀(粟、燕麦、小豆など)350グラム、黒パン350グラム、野菜(キャベツの漬物、砂糖大根、じゃがいも)800グラム、肉(骨付き羊、たまに駱駝や亀)50グラム、魚(塩漬け鰊)100グラム、油10グラム、砂糖15グラム、塩10グラム、茶1グラム、煙草(マホルカという植物の茎)10グラムで、一見結構な量がありそうだが、穀物は籾付きだし、羊肉は骨ばかりだし駱駝肉は硬くて噛みきれない、じゃがいもは半分腐っていたりで、実際のカロリーは2000前後だと推定される。

 日用品は、作れる物は何でも、建設現場から材料を持ち出して自分たちで作った。鋸刃からナイフ、剃刀、鋏などなかなか切れ味のいい刃物を作った。将棋、囲碁、麻雀、花札、さいころなどゲーム用品もすべて手作り。麻雀牌は木製で軽いので鉛を埋め込んで、模様は彫刻した。楽器も、太鼓、マンドリン、バラライカ、バイオリンなどを自作した。演芸大会のための男女和服、かつら、刀も作った。「すいぶんみなさん器用ですね」と言うと、永田は「他にすることがないので、エネルギーを注いだからだろう。建設現場で材料が何でも手に入ったという幸運もある。それに永田隊は航空関係が多く、機械や修理のエンジニアもたくさんいたし、元は大工だったという人もいた」と言った。

 そういう器用さと自棄のやんぱち的な情熱がナヴォイ劇場建設でも発揮されたのだろう。約2年間で屋外の造園工事を残して劇場は完成し、47年10月、第4収容所は閉鎖されて人員は他に移された。

 「夕鶴」公演の日、永田らは劇場の入り口に立って「いやあ、55年も経ってここへ来て、しかも日本のオペラを観ることになるなんて……想像もしなかったよ」「自分らの仕事がたまたま後生に残るこういうものだったというのは幸運だった。もっともっと酷い仕事で苦しんだ人たちがたくさんいるのに」と言い合った。劇場の裏手の壁にはめ込まれた記念碑には、ウズベク語と日本語とロシア語で「日本国民」がこの建設に協力したことが明記されている。

《ウズベク族の国》

 ウズベキスタンは、中央アジア5カ国約5000万人の人口の半分に当たる2400万人を持つ地域大国であるばかりでなく、その中心的なオアシス都市であるタシケント、サマルカンド、ブハラなどには、2500年も前からペルシャ、アレクサンドロス大王、漢、匈奴、突厥、唐、モンゴル、帝政ロシア、旧ソ連など、東から西までのありとあらゆる征服者が侵入し破壊しそこを抑えようとしたユーラシア大陸の戦略的要衝であり、従ってまた文化と民族の集積地である。

 その変転の一々を追うことは歴史書に任せるとして、そういう中からようやく“地元政権”らしきものが出来たのが9世紀で、ブハラにイラン系部族のサマン朝が興ってそこがスンニ派イスラム文化の中心地になった。その後、ウィグル系のカラハーン朝、トルコ系のセルジュク朝、契丹系のカラキタイ朝と変転して13世紀初めには今のウズベキスタン西部を中心にホレズム朝が一大王国を築いて中央アジアを支配するが、折から西進を開始したチンギス・ハーンと戦って破れ、徹底的な破壊を受ける。ユーラシア大陸のほぼ全部を包含したモンゴル帝国は、チンギス・ハーンの死後はその一族に分封されて4つのハーン国となるが、そのうち次男のチャガタイに与えられたのが中央アジアである。チャガタイ・ハーン国は約100年続くが、その内部から立ち現れた英雄ティムールがチャガタイ・ハーン国を引き継ぎつつ、さらに周囲を次々に征服して小アジアからコーカサス、インドの一部までを支配する中央アジアの帝国を築き、その首都をサマルカンドに定める。ティムール帝国の時代にイスラムの文化や天文学などの学術が大いに発展し、そのためティムールは“建国の父”と慕われているが、しかし彼はモンゴル系バルラス族の出身で、ウズベク族ではない。

 ウズベク族は、やはりモンゴル系ではあるが成り立ちが違う。チンギス・ハーンの長男のジョチはキプチャク・ハーン国を与えられてロシアを長く支配するが、そのジョチの5男シャイバニの子孫が一部族を形成してやがてカザフ・ステップに住んだ。これがウズベク族の元である。彼らは14世紀にカザフを離れて南下し、15世紀末に至って内紛で混乱していたティムール帝国を滅ぼしてサマルカンドにシャイバニ朝を築く。追われたティムールの子孫のバーブルはインドに逃げ、そこでムガール帝国を建てる。しかしシャイバニ朝は長続きせず、同じくキプチャク系のブハラ・ハーン国、それから独立したヒヴァ・ハーン国、ウズベク族のコーカンド・ハーン国が分立する。500年にも及ぶモンゴルの支配から抜け出した帝政ロシアが、中央アジアに本格的に進出し始めたのは19世紀になってからのことで、1867年にタシケントを制圧して、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドの3ハーン国を保護国にしたものの、イスラム抵抗勢力の反乱に手を焼いた。その状況は、ソ連時代になっても同じで、現在のウズベクはじめ中央アジアの5共和国体制が整ってソ連邦に組み込まれ終わったのは、ロシア革命から20年近く経った1936年のことだった。ソ連の中央アジア支配はそれから55年間続き、91年のソ連邦崩壊で終わった。

 独立から10年、国は相変わらず貧しいけれども人々の表情は明るい。ここは綿花のモノカルチャーのほかは金や天然ガスなどの鉱物資源を産出する第1次産品国で、旧ソ連時代には、モスクワがその成果をことごとく吸い上げていく代わりに、工業技術や消費物資を供給するというコメコン式のバーター関係がそれなりに成り立って、連邦内の最貧国ではあったけれども雇用も賃金も安定していた。しかし独立の過程でロシア人は機材やノウハウもろとも引き揚げてしまい、ほとんどの工場が閉鎖となった。旧共産党の生き残りが支配する政府は、当初、生産と価格を徹底的に統制する戦時経済的な手法で乗り切ろうとしたが、ルーブルの下落による超インフレに加えて外からのドルの流入による二重経済化という、東側諸国がどこでも体験した混乱に直面した。しかしIMFなどの指導を得て94年にはルーブルを廃止して独自通貨ソムを唯一通貨とし、これを厳格に管理する金融政策を採用、さらに民営化や外資の誘致などを進め、ようやく少し落ち着いた経済再建が緒に着いた。とはいえ、例えば特に貧しい西部のウルゲンチ地方では、旧ソ連が作った工場がほとんど閉鎖された後に、新たに入ってきたのは大統領が政治的なつながりで引っ張ってきたコカコーラの清涼飲料水工場だけで、失業率は50%にも
及んでいる。そういう中ではスムの下落も止めようがなく、当初1ドル=1スムだったはずのレートは、今では公式で1ドル=325スム、商業レートで850スムである。観光客はみな、1ドル=1000スムで物の値段を推し量っている。1人当たりのGDPは、97年の推計で2500ドルで、モンゴルの1000ドルに比べれば高い。

 それでも、そうした数字が示すほどの貧しさを感じないのは、ロシアでもモンゴルでも同じだが、物々交換ベースの相互融通システムや、大家族制度を背景とした共同体的扶助システムが根を張っていて、その部分は統計では捉えようもないという事情によるのだろう。しかも、ヒヴァの旧市街の丸ごとや他の都市のいくつかもイスラム寺院が世界遺産に指定されたこともあって、外国人観光客が増えていて、ドル経済の恩恵に浴する人たちも増えている。一族郎党の中で1人でも外国人用のホテルとか土産物店で仕事にありつけば、親戚まで含めてみな潤ってしまう。こうした闇市経済的な状況は、新たに市場経済に投げ出された国ではどこでも起きていることで、それを通じてここの人々もまた、自立への道をたくましく模索していくのだろう。

 若い人に聞くと、「年寄りの人たちはほとんどが旧ソ連時代を懐かしんでいる。賃金も福祉も何もかも、レベルは低くても安定していたから、安心して暮らせた。しかし若い世代は、それよりも自由を喜んでいて、頑張れば仕事のチャンスもあるし、外国に留学して才能を活かすチャンスもある」と言った。そう答えた通訳の彼女は、東洋学部日本語科を卒業して今は医学部に入り直し、来年は米国に医学留学することが決まっているという。

 2500年間も動乱と他民族支配の変転に晒されてきたウズベクの人々は、今初めて、自分たちで自分たちの国を作る権利を手に入れた。自由とはそのことであり、だから自由は金より重いと言えるのだろう。

《世界遺産の旅》

 さて、関空から去る4月に就航したウズベキスタン航空の直行便で8時間半、タシケント空港に着いた我々は、VIP扱いで税関検査もバイパスして夕方に市内の最新のホテル「シェラトン」に投宿した。ホテルでの夕食は、メインはやはり羊肉の結構メニュー豊富なビュッフェ方式で、味もまあまあというところである。ビールはハイネッケンで、生がちゃんと温度管理されていて美味しかった(ここだけで他は駄目)が、ワインは25ドルもして最悪だった。我々はSijakというウズベキスタン産のワインを日本で入手して「これならイケる」と思って来たのだが、輸出用と現地用は違うらしく、水で薄めたポートワインのようで話にならない。他に現地産のワインやシャンペンもあったが、みな甘い。

 翌日と翌々日は市内観光で、その中ではティムールの偉業を称えた「ティムール博物館」の文物がなかなかよかった。旧市街にある「チョルスー・バザール」は広大なもので、場外に並ぶ金物、木工、絨毯、楽器などの職人ショップ街を冷やかすのが面白い。場内の中心には巨大なドームがあって、1階のほとんどはありとあらゆる香辛料はじめチーズ、蜂蜜、岩塩などの地元特産品、2階はブドウ、杏などのドライ・フルーツが中心。これだけ香辛料が豊富なのに、なぜ料理が単調でまずいのかは謎である。ドームの外は、スイカやメロンなどの生鮮果物やトマトなどの野菜、肉、缶詰・瓶詰類、衣類、その他日用品などである。干しブドウは種類も多様で美味しくて、輸出もされている。我々の感覚では安くて、つい言い値で買いたくなるが、向こうは外国人と見るや10倍位に吹っかけて、しかも出来ればドルで払わせようとする。地元の人には遙かに安くスムで売る。ここでもドルとスムの二重経済が横行している。


 3日目、8月27日夜に「夕鶴」を鑑賞して、その後、劇場の2階で国際交流基金主催のレセプション。サポーター団の中に六本木男声合唱団メンバーが10人ほどいたので、急遽、得意の1曲を披露してしまった。そこで会った日本商社の駐在員の話。「中央アジアからアゼルバイジャンあたりまで仕事でさんざん行ったが、ウズベキスタンは圧倒的に美人が多い。5人女性がいると3人は美人で、そのうち1人は特別美人。やはり歴史的に民族が繰り返し入り交じったからそうなのでしょう」。なるほど……。

 翌日は7時15分発の国内便で750キロ西のウルゲンチへ。ジャイフーンというホテルは、ここでは一流だというが、旧ソ連式の粗末なもので、電話の線が切れたままだったり、不釣り合いに大きな冷蔵庫がスイッチが入らなかったり、窓のクーラーを入れるとショートして天井あたりから火花が出たり、私は旧ソ連各地でさんざん体験しているから驚かないが、ご夫人たちは早くもパニック状態である。全体はゆっくり休憩してからヒヴァの世界遺産観光に行く予定だが、私ら数人のグループは、それでは時間がもったいないので別行動をとることにし、すぐにタクシー2台で30分ほどのヒヴァへ。そこは中世そのままの城壁都市で、高さ8メートル、延長2100メートルの城壁に囲まれた「イチャン・カラ」と呼ばれる内城の全体が世界遺産になっている。中は数々のモスク、メドレセ(神学校)、塔、廟が立ち並び、そのあちこちに陶器や工芸品を売る店があり、さらに東門に接してバザールもある。

 西門に近い神学校の建物は、今はホテルとして使われていて、元は礼拝堂だった天井の高いレストランで昼食をとった。兄弟らしい経営者は親切で、料理も美味しい。何よりメインで出た羊肉が、ヒレ肉に香辛料を巧みに使って柔らかく焼いた一品で、滞在中、この時だけ羊をうまいと思った。工夫次第でこういう料理が出来るじゃないですか、ウズベクのみなさん! さんざん歩いて、屋外のカフェテラスでビールを飲んで、また歩いて、夕方は先ほどのホテルの裏にある「アルカンチ」という民家を改造したホテル&レストランでモンゴル組40人ほどの大宴会になった。料理はひどかったが、遠い砂漠に沈む夕陽が寺院の壁や塔を赤く照らして幻想的に美しかった。

 翌日は4時起きで、ブハラまでバスで8時間の旅。予想通りすでに腹を壊している人が数名いて心配だったが、旅行会社の努力でトイレ付きのバスになったのでひとまず安心。クタクタと寝て、何度目が覚めても同じ景色という際限もない砂漠の光景は、前にモンゴルでも経験しているが、こんな灼熱の中を昔の人はよくも駱駝を引いて歩いて渡ったものだと感心する。ところがウズベク人に聞くと、隊商も冬しか通らなかったとのこと。誰かが「こういうところを何日も何日も歩いて、ついに遠くに青色に輝く神々しいモスクが見えたら、感涙にむせんで、身を投げ出して感謝を捧げたいと思うだろうなあ」と言ったが、その通りだろう。我々が慌ただしくバスでモスクを巡っても何の感激もないが、砂漠の旅人の視点でみれば価値が違う。イスラム信仰は案外、実用的なところに根ざしているのかもしれない。

 ブハラも町の中心部が丸ごと世界遺産の古都である。ヒヴァの内城と比べると、ここは寺院、キャラバンサライ、民家、交差点の上にドームを掛けたタキと呼ばれる小バザールなどが巧く溶け合っていて、中世のオアシス都市はこの通りだったのだろうと想像力を掻き立てられる。そのタキで売っている絨毯、織物、刺繍、陶器、刃物など工芸品も、他の都市よりもずっとレベルが高く、全体として文化の香りが漂う。神学校を利用したレストランの中庭で行われた民族舞踊とファッション・ショーのパーフォマンスは優れもので、女性客は民族色を上手に活かした大胆なファッションに、男性客は中身のトビキリのウズベク美人そのものに、それぞれ目を剥いた。寺院の類はいくつ見てもみな似たようで飽きてしまうが、ここの「イスマール・サマニ廟」は9世紀に建てられて土中に埋まっていたのが1925年に発見されたもので、色を一切使わずに日干し煉瓦の組み方だけで模様を浮き立たせた古様式で、一見の価値がある。

 翌朝はまた5時起きで5時間かけてサマルカンドへ。ティムール帝国の首都らしく、壮大華麗な建物が目を惹くが、町全体としては前の2つに比べて大味。ティムールの孫で天文学者のウルグベクが天体観測をした天文台跡が珍しいもので、地上地下40メートル、弧の長さ63メートルという巨大な石造りの六分儀の一部が残っている。彼はこれを用いて、今から570年前に1年間が365日6時間10分と計算したが、これは今日の計測と1分以下の誤差である。彼は数学や天文学を貧しい子供らに教え、詩や音楽を愛し、神学と歴史学にも通じた名君だったが、イスラム保守派に唆された自分の息子に殺された。

 折からサマルカンドでは、独立10周年のイベントの1つとして「世界民族音楽祭」が開かれていて、偶然にも、モンゴルでの我々の案内役である山川泉が「江差追分」の日本一の人を連れてそれに参加していた。世界30カ国からアゴアシ付きで招待された代表たちは、我々と同じ「アフラシャブ」という最新のホテルに泊まっていて、イベントが終わって帰ってくると、プールサイドのカフェで思い思いの楽器を持ち出して真夜中までジャム・セッションを楽しんでいた。

 ディスコにも行った。9月1日の独立記念日の式典を前にテロを防止する特別警戒態勢がとられていて、タシケントでもサマルカンドでも、夜の遊び場はすべて閉鎖だったが、どういうわけかここだけは開いていて、通訳・ガイドの若者たちが案内してくれた。入場料1000スムを払って入ると、そこはガーデン方式の野外ディスコで、100人ほどの若い男女が踊り狂っていた。掛かる曲はウズベクの人気バンドのものらしく、へそ出しルックの娘たちはみな歌詞を口ずさみながら踊っていた。

 翌日は午前中は自由行動。ホテルのすぐ近くにティムールとその息子や孫を埋葬した「グリ・アミール廟」があって、昨夜、酔い覚ましにそこまで散歩したときに管理人が「明日の朝7時に来れば、この塔に登らせてやる。サマルカンドが全部見える。日本だって見えるぞ」と言ったので、早起きして10人ほどで出かけた。管理人はもったいつけて「こんな大人数ではまずい」とか言いながら、結局全員を登らせて、後で1人2ドルを要求した。10人分で20ドルで、普通の人の月収に相当する。こういうところにドル経済とスム経済をつなぐ抜け穴があるのである。

 昼にサマルカンドを出て、また5時間のバスの旅でタシケントに戻った。そのまま「上海飯店」へ。モンゴルでも中央アジアでも中国人は徹底的に嫌われていて、世界中どこに行っても食べるのに困ったら中華料理店を探せという法則はここでは通用しない。どういうわけでこれが1軒だけ存在するのか経緯は不明だが、ウズベク料理に辟易した我々には、麻婆豆腐や石焼き野菜炒めが恐ろしく新鮮で、感動しながら食べた。ちなみに、これもモンゴルと同様、韓国人経営のレストランは市内に多く、そこでは天ぷら定食やトンカツなどの疑似日本食がメニューにあるというが、今回は行く機会がなかった。

 こうして私の初めてのシルクロードの旅は慌ただしいままに終わった。次は、東隣の遊牧騎馬民族の正統な末裔の国キルギスに行って、今も盛んに行われている競馬、騎馬相撲、走りながら地表のコインを拾う競技ティーンエングメイなど、伝統的な馬文化をこの目で見てみたい──と思いながらタシケントを後にした。キルギスの馬乳酒はモンゴルのそれほど発酵を進ませないので、ずっと飲みやすいのだそうだ。▲

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