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2001年9月17日

INSIDER No.27-2《TERRORISM》計り知れぬ米同時多発テロの衝撃──“唯一超大国”幻想の崩壊

 『ニューヨーク・タイムズ』13日付社説は「11日の一瞬の出来事は歴史の分岐点となった」と書いた。何と何の分岐点であるかについては、いろいろな物差しの当て方がありうるが、米国人にほぼ共通する捉え方は、この日を境に「戦争の概念」が一変したということだろう。同紙は「従来型の軍事力では阻止できない脅威に対して、開かれた民主社会がいかにして自分を守ることが出来るか」がこれからの課題だと指摘した。

 ウェストファーレン条約以来、戦争はまずもって「主権国家間の国際法に則った武力行使による闘争」であり、それ以外には、1つの主権国家の内部で2つ以上の集団が覇を求めて殺し合う内戦しかなかった。しかし、そのような国家間戦争の3世紀半は今回の事件で明示的に終わって、これからは、核兵器もミサイルも持つわけではない、ただ剃刀の刃をポケットに忍ばせただけの数人のNGO(!?)メンバーでも、世界中の任意の場所をいつでも大量殺戮のための地獄の戦場と化すことが出来るような、見えない敵との際限のない戦争の時代が始まる。ラムズフェルド米国務長官は12日の会見で「これが21世紀の戦争の姿だ」と言い、『NYタイムズ』翌13日付はこの事件を 「第3次世界大戦の最初の一撃」と規定し、しかし通常兵器による攻撃は今回限りで、第2撃以降は生物・化学兵器かスーツケース核爆弾のようなものが使われて、遙かに悲惨な事態が引き起こされるかもしれないという深刻な不安を示唆した。

●反グローバリズム

 こういう米国人の事態認識は、間違っているとは言わないが、不正確である。

 第1に、この事件の残虐さと重大さを強調するための一種のアジテーションとして 「戦争だ」という言い方をするのは分かるが、しかしこれは、毎年全世界で数千件も起きて万を超える人々の命を奪っているテロの1つであって、いくら手口が残忍で犠牲者の数が多く、また米本土を舞台とした初めてのケースであったからと言って、安易に「戦争」と規定すべきではない。テロは基本的に警察的手段で予防し解決すべきものであって、軍隊が出動して軍事的手段のみを用いてよりよい結果が得られる保証は何もない。少なくとも、長期的な国際警察協力と緊急かつ(対テロ作戦としては)異例の軍事作戦とを区別と統一において捉える視点が必要だろう。

 第2に、米国は“唯一超大国”幻想から脱却しなければならない。

 本誌がつとに述べてきたように、冷戦の終わりとは、単にそれだけではなくて、冷戦にせよ熱戦にせよ、国家と国家が重武装して武力で利害と領土を争い合うという、それこそウェストファーレン条約以来の国際関係を支配してきた野蛮な「国民国家」原理の終わりを意味していた。国境に仕切られた「国民経済」を基礎として全国民を統合して国益を追求する近代主権国家=「国民国家」は、19世紀後半までに全欧州を覆い尽くしてきしみを立て始め、それが20世紀に入って2度にわたる世界規模の大量殺戮戦争となって爆発した。最後はヒロシマ・ナガサキの悲劇にまで行き着いて、その熱戦の余りに悲惨な結末に「もう熱戦は止めよう」ということにはなったものの、荒廃した欧州の西と東の辺境に出現した米国と旧ソ連という「国民国家」のお化けは、地球を何十回でも破壊してあり余るほどの核兵器を抱え込みながら、なお武力による国益追求という野蛮原理を捨てることが出来ずに冷戦を演じ続け、ついにその重みに耐えかねて「もう冷戦も止めよう」という合意に至ったのであった。だから冷戦に勝ち負けなどあるはずもなく、米ソは共に、国家間戦争の時代は終わったのだという認識に立って、新しい協調的な国際秩序の原理を模索するのでなければならなかった。

 ところが、当時ブッシュ父が率いる米国は、冷戦終結を「米国の勝利」と錯覚し、旧ソ連が崩壊したことによって米国は“唯一超大国”になったという幻想に取り憑かれた。永年尻に敷かれて頭が上がらなかった妻に先立たれた老人が、「よーし、これで俺の天下だ」と張り切ってみたところで、相手がいなくなって家庭も失った寂しい一人暮らしでは天下も何もあったものではない。その独りよがりの幻想を助長したのが湾岸戦争で、確かにサダム・フセインの行いは非道であったけれども、しょせんは石油利権に絡んだ局地的な国境紛争であって、まずはアラブ世界の地域内協議に解決を委ねるべき筋合いの事柄であったにもかかわらず、「ヒトラー以来最悪の独裁者」に対して「正義の味方」米国が全世界を率いて力で叩き潰すという誇大な図式に填め込んで、軍事力・経済力の圧倒的格差からして勝つに決まっている戦争に勝って自己陶酔することになってしまった。

 その父親譲りの“唯一超大国”幻想を外交政策全般の基調にまで拡張したのが、ブッシュ現大統領の「ユニラテラリズム(単独行動主義)」である。京都議定書による温暖化ガス規制からの突然の脱退や「ミサイル防衛構想」の一方的な押しつけをはじめとして、米国が日欧の同盟国との協調を軽視し、第3世界の主張を無視して、自国の利益がすなわちグローバル・スタンダードであるかに振る舞う傾向はますます露骨になっていて、そのことへの反感が7月ジェノヴァ・サミットでは「反グローバリズム」のデモで死者が出る騒動まで呼び起こした。中東でも、イスラエルのシャロン政権による戦闘機や戦車まで持ち出したパレスチナ人への攻撃を黙認し、イラクでは相変わらず米英の戦闘機が「制限空域監視」を名目に毎日のように出撃して気紛れな爆撃で民間人を殺傷することを繰り返し、昨年末に始まったアフガニスタンのタリバン政権に対する経済制裁も一段と強化するなど、アラブ社会全体を敵にするかのような行動をとって反米感情に油を注いでいる。トビー・ドッジ英王立国際問題研究所中東問題担当が言うように「犯行グループは、グローバリゼーションから取り残され、グローバリゼーションそのものによって脅威と危害を受けていると感じている社会の出身者」(13日付読売)なのである。

 つまり、世界が抱える問題の所在や性格も、従ってまた起こりうる戦争の様態も、 2001年9月11日に初めて分岐点を迎えたのではなく、すでに10年前に分岐点に達していたにもかかわらず、米国はそのことを正しく認識して適応することが出来ず、それ以前の「力を持つ者が世界を支配する」という原理を捨てきれずに唯我独尊的なグローバリズムに向かって暴走した。その10年分のツケが今になって最も悲劇的な形で回ってきて、米国人も否応なく冷戦終結の意味を思い知ることになった。その意味で、軍事中枢=ペンタゴンと経済シンボル=世界貿易センターの崩壊と共に、本当は何が崩壊したのかと言えば、それは米国の“唯一超大国”幻想にほかならない。

 ところがワシントンは、そのことを認めて胸に手を当ててこの10年間を省みるのでなく、逆に“唯一超大国”幻想にますますしがみついて、圧倒的な軍事力さえあれば世界のどんな問題でも解決できるかのような態度に走っている。これでは泥沼化しかありえない。

●巡る因果

 第3に、これが「戦争」だとして、その戦争は今始まったのでなく、とっくの昔に始まっていていて、米国は一貫してその当事者だったことを認識する必要がある。

 ウサマ・ビンラーディンが本当に首謀者であったとして、彼とその庇護者であるアフガニスタンのタリバンを育てたのは米国自身であって、その意味では「飼い犬に手を噛まれた」にすぎない──というのが事態の一面である。79年に旧ソ連がアフガニスタンに侵攻した際、米CIAはパキスタン経由でアフガン・ゲリラに豊富な武器と資金を提供してソ連軍に立ち向かわせた。84年にサウジアラビアからパキスタンに入って、たちまち「アラブ義勇軍」の有力リーダーの1人にのし上がったビンラーディンは、当然にもCIAの協力者となって、その後押しで88年には「アル・カイーダ」という軍事組織を結成した。ところが、91年に湾岸戦争が起きて米軍がサウジに進駐したことで、両者の関係は一変した。イスラム原理主義者にとっては米軍のサウジ駐留は「聖地を異教徒に踏みにじられた」ことを意味しており、この時からビンラーディンは反米路線に転じ、NYの世界貿易センター(93年)、サウジ内の米軍施設(95年と96年)、ケニアとタンザニアの米大使館(98年)などの爆弾テロに関わったとされて、米国にとっての最大の“お尋ね者”となった。

 元は手先として使っていた人間がひとかどのテロリストとして歯向かってきたことに、余計に頭に来たのだろう、米国は98年の大使館爆破事件のあとすぐに、スーダンの化学兵器工場(後に単なる薬品工場を誤爆したことが判明)と共にアフガニスタンのビンラーディンの拠点とを空爆した。しかし80発の巡航ミサイルも彼を爆殺することは出来なかった。米国はその後もタリバンにビンラーディンの身柄引き渡しを要求し続け、タリバンが拒否すると、昨年末には国連安保理で強引に決議させてアフガニスタンへの経済制裁措置をとった。このように、米国は80年代早々からすでにしてアフガン紛争の“当事者”であって、その意味ではこの「戦争」は今始まったのでなく、すでに20年も続いてきて今新しい局面に入ったと捉えるべきなのである。

 イラクについても同じことが言える。79年のホメイニ革命で中東最大の親米国イランを失って、しかも米大使館人質事件で面子を失った米国は、イランを押さえるために隣国のイラク=サダム・フセイン政権に多大の軍事・経済援助を注ぎ込み、イランと戦わせるよう仕向けた。そのフセインが歯向かってきたことに激高して湾岸戦争を発動し、彼を抹殺しようとありとあらゆる手段を用いたが失敗し、その腹いせに、同戦争から10年経った今も米軍と英軍はイラク上空に一方的に設定した「制限空域」監視を名目に毎日のように戦闘機を飛ばして、気紛れな爆撃で多数の民間人を殺傷し続 けている。またイラク国内から反フセインの暴動や反乱が起きることを期待して、反 政府勢力やクルド族ゲリラに支援の武器や物資を送り込んでいる。イラクとの「戦争」もまた20年間続いていて、米国はその当事者である。

 パレスチナに関しても、米国は国内の強力なユダヤ・ロビーの圧力を受けてイスラエルに莫大な軍事・経済援助を続けており、その規模は従来、米国の対外援助全体の3割にも上ってきた。イスラエルはその米国製の戦闘機やミサイルを用いてパレスチナ人地区への無差別爆撃や要人暗殺を行っていて、昨年9月からの1年間だけでも、パレスチナ側に600人の死者と1万人を超える負傷者が出ている。武器も資金もないパレスチナ側は、自爆テロで反撃し、客観的にはどちらもどちらと言えるような泥沼状態になっているのだが、パレスチナ側から見れば敵はイスラエルとそれを支える米国であり、その自爆テロがやがて米国に向かうことは必然的とも言えた。ユダヤ系巨大金融機関が多く入居する世界貿易センターが標的とされたのは、「米国はイスラエル支援を止めろ」というメッセージであることに疑いの余地はない。

 このように、米国は冷戦時代から今日まで、中東各地で不正規な「戦争」を戦い続け、都合がよければテロリストでも独裁者でも支援して利用し、都合が悪くなれば抹殺しようとするといった汚い作戦に手を染めてきたのであり、それが“唯一超大国”時代になってますます身勝手さを増して、「嫌いな相手とは対話しない」という態度をあからさまにして、アラブ世界全体から反感と憎悪を招くようになった。上記『NYタイムズ』社説は「人の憎しみはここまで進むのか」と詠嘆したが、なぜそれほどの憎悪が米国に向けられることになったのかをイスラエル建国以来の中東関与の歴史から学ばなければならない。英紙『フィナンシャル・タイムズ』米国版社説は「ブッシュは中東政策を再考慮すべきだ。アメリカ政府がイスラエルのシャロン首相の強引な政策を許容することが、対アメリカ・テロを促進したことは間違いない」と忠告している。

●報復──しかし誰にどうやって?

 ブッシュ大統領がほとんど反射的に報復への決意を表明したのは、それはそれとして無理からぬことである。米国民はもちろん世界中が驚愕と悲しみを憤激と憎しみに転化させつつある時に、米大統領が動揺したり逡巡したりする姿を見せるわけにはいかない。

 しかし、問題はそこから先で、まず第1に、直接実行犯の逮捕・取り調べが始まったか始まらない内に、イスラム過激派の指導者=ウサマ・ビンラーディンが首謀者であることがほとんど断定的に報じられ、そのビンラーディンがアフガニスタンのタリバン政権の保護・管理下にあることを理由に同国への大規模空爆か特殊部隊投入かなどと軍事的報復の戦術が論じられ、その戦術の是非の検討も煮詰まらない内に早くも米空母がインド洋に展開しNATO諸国やロシア、中国、そしてトルコやパキスタンにも軍事作戦への協力要請が飛ぶといった状況は、明らかに拙速である。もちろん、米国の断固たる決意を示してタリバンを震え上がらせ、何もしない内に屈服してビンラーディンを差し出してくるよう仕向けるための“言葉の戦争”が第1の狙いではあるのだが、反面、激高する米国民の愛国心の高まりに突き上げられて、振り上げた拳を落とさざるを得なくなり、やらなくてもいい戦争をやってしまうということもあり得る。前出のドッジはこう語っている。

「今、何よりも懸念されることは、テロ攻撃に対する“過剰反応”だ。……仮にテロ攻撃に参加した個人が特定されたにしても、彼らが所属する国家全体が犯行に加担したと決めつけるのは早計だ。米国の保守派の政治家たちは、早くも特定の国家に対する非難を始めているが、これは事実に基づいた主張ではなく、テロを奇貨として自らの意見を開陳したに過ぎず、“ご都合主義”以外の何ものでもない。……世界中に、怒りと復讐の念が渦巻いていることは理解できる。しかし、冷静に状況を見極め、客観的な捜査の進展を待つことが必要だ」

 また退役空軍大将で「米国21世紀国家安保委員会」の議長を務めたチャールズ・ボイドは『ワシントン・ポスト』への寄稿でこう述べる。

「何も対応しないということは考えられない。それでは米国のリーダーシップは地に落ちて、さらなる攻撃を招くのは確実だ。しかし過剰もしくは不正確な対応は、我々をこの事件を起こした臆病者たちと同じ道徳的次元に立たせることになる」

 その通りで、まず実行犯を米国内法によって裁判にかけて事実を究明し、すでに米紙が捜査当局のリークを元に報じているように「彼ら18人のうち少なくとも16人は何らかの形でビンラーディンの組織に関係していた」のは事実としても、それだけではビンラーディンが“首謀者”であるという根拠にはならないわけだから、慎重な審理の末に実際に彼がこの計画を立案し指示したのかどうか、実行犯に資金を手渡したのかどうかなどの事実を証拠に基づいて確定し、そこで初めて庇護者であるタリバンに対して彼の身柄を米捜査当局なり国際法廷なりに引き渡すよう要請をし、タリバンが不当な理由でそれに応じない場合に、国連やイスラム首脳会議などの場を通じた説得と圧力工作、国際的制裁、そしてそれらがすべて奏功しなかった時に軍事作戦が発動される──というのが物事の順番というものである。しかし、米国内では上述ボイドのような意見は少数派で、「そんなまだるっこしいことをやっていられるか!」という論調が支配的である。

 第2に、それで軍事作戦しかないという場合に、作戦目標は(1)報復なのか、(2)ビンラーディンの抹殺もしくは身柄拘束なのか、(3)タリバンそのものの抹消なのか、(4)ビンラーディンが関係する各集団をはじめすべてのテロ組織の壊滅なのか──を明確にしなければならない。湾岸戦争の際は、目標をサウジ防衛→クウェート奪還→イラク報復→フセイン抹殺というように次々にエスカレートさせようとするブッシュ父大統領とそれに慎重なパウエル参謀総長とがしばしば対立し、結果的には最終目標を達成することが出来なかった。

 報復は「目には目を」「テロにはテロを」の単なる気晴らしのようなもので、作戦目標として適切でない。

 (4)のすべてのテロ組織の撲滅は、もちろん国際社会の共同の目的だが、これは、主要国首脳会議を緊急に開催して国際テロとの対決を宣言し(すでにロシアやイタリアから提案が出ている)、誰よりも先ずイスラム社会が自力で解決するようイスラム首脳会議の開催を促し、各国の警察・情報機関の捜査協力と情報交流の枠組みを作り上げ、テロ組織に避難所を提供する国に対し警告と制裁を与え、必要にして十分な条件が揃った場合にテロ基地に対し共同の軍事攻撃を仕掛ける──といった長期的な、主として外交的な取り組みが必要で、ヘンリー・キッシンジャー博士のように「テロ組織に協力して避難場所を提供する国々には、その施設を容赦なく軍事攻撃する」(17日付読売)と言うのは、脅しとしてはそれでいいとして、政治的・外交的枠組みを積み上げることなしにいきなり軍事手段でという訳にはいかないだろう。同博士が言うように「彼らをかくまっている国の数は、たかが知れている」のは事実だが、ビンラーディン関連組織の工作員は中東各国はもちろん米国、欧州各国など世界40〜50カ国に散らばって長年に渡ってスリープしていると言われており、それまで炙り出して根絶するには軍事手段では足りない。

 アフガニスタンを焦土と化してタリバンそのものを地上から抹消するというのは、イラクに対するのと同じ問題を孕む。タリバン政権の正統性には大いに疑問があるものの、一応、アフガニスタンは1個の主権国家であり、その指導部の行いがよろしくないからといって、罪のない市民まで巻き込んで焦土化するのは国際法的および人道的に大問題である。

 結局、軍事作戦の目標は(2)のビンラーディンの捕捉ないし殺害に絞り込まざるを得ないのだろうが、それをどのように達成するかはなかなか難しい。

 軍事的な手段としては、(a)空爆、(b)特殊部隊の突入、(c)数十万の地上軍投入がありえよう。特殊部隊の投入は、ターゲットが絞られていれば有効な場合もあるが、ヘリで突入・降下した部隊がタリバンに包囲されて、それと戦いつつビンラーディンの隠れ家に迫ることが出来るかどうかはだいぶ疑わしく、その前に全滅するかもしれない。そうなると、数十万の地上軍を投入してタリバンを撃破しつつ、特殊部隊が彼を襲撃する状況を確保するのが現実的ということになるが、仮にパキスタン政府が全面協力したとしても、カラチからイスラマバード経由、カイバル峠を超えて約2000キロに及ぶ輸送・補給ルートをパキスタン国内の過激派の側面攻撃から安全に確保するのは事実上不可能だし、その問題をクリアしたとしても、旧ソ連のアフガン派遣軍が地獄の戦場で10年間のたうち回って空しく撤退したのと同じ轍を踏んで、多数の戦死者を出すことになる危険が大きい。とはいえ、今回は米国は「米兵の命が失われることは何としても避けたい」とは考えないかもしれない。また旧ソ連軍の失敗についてロシアから情報提供を受けて十分に研究した上で臨むだろうから、地上軍投入はないとは断定できない。

 空爆は、実際に複雑な地形の山地を転々として洞穴に隠れているであろうビンラーディンを爆殺することは至難の業だろう。国連難民高等弁務官事務所カブール事務所の山本芳幸所長は「アフガンには隠れ家に適した洞窟が多い。日々移動しているのは間違いなく、追跡は不可能だ」と語っている(16日付毎日)。
 
●日本は何を?

 日本政府が、犠牲者に対する心からの哀悼の意と同時に国際テロを根絶しようという米国の決意への支持を表明したのは当然として、そこからいきなり話が飛んで、米国が軍事作戦に出た場合に湾岸戦争の時のようにお金だけ出すということで済まされるのかどうか、NATO並みに集団的自衛権の行使に踏み込むべきか、はたまた日米安保協力を「周辺事態」の外にまで拡張するために法改正をすべきかどうかという議論に行っ
てしまっているのは、いささか奇妙である。

 同盟国だから米国のすることには何でも従わなければならないということはないのであって、仮に米国が採用する軍事作戦が“過剰”なものであった場合にはそれを諫めるのも同盟国の役割である。それが“妥当”と判断されるものであった場合には、もちろん国是との関わりで出来るだけの協力をすればいいことで、何もあわてふためくことはない。

 それよりも、日本政府としてまず考えるべきは、まず第1に、こんなことが米本土で起きた以上、日本をはじめ世界のどこでも同じことが起こりうるという前提に立って、日本国内でのテロ防止策を万全にし、また世界に散らばる在留邦人や旅行者の安全を図るために特に在外公館が情報拠点として、また救護センターとしていかに効率的に機能できるかの態勢整備を図って、国民に安心を与えることである。

 実際、例えば北朝鮮が日本を核攻撃しようという場合、同国が莫大な費用と時間をかけて核兵器とミサイルを開発する必要など毛頭ないのであって、ダイナマイトを抱えたたった1人の工作員が敦賀の原子力発電所に特効攻撃を仕掛ければそれで済む。本誌が北朝鮮の“核疑惑”や“テポドン発射”の騒動を基本的に「くだらないことだ」という姿勢を採ってきたのはそのためで、仮に北にそうする気があればとっくに対日核攻撃は起きているのであって、それが本物の核爆弾や精度の高いミサイルが完成しない限り起こりえないことだと想定するのは、国家間戦争の時代の常識に毒されて現実が見えなくなっている証拠である。ところで、そのような千差万別の形を取るであろうテロ攻撃をすべて予測して事前に軍事的対策を準備することは現実には不可能で、何よりもまず相手の国なり集団なりが「そうする気」が起きないように日頃から付き合いを深めるという政治的・外交的努力が大事になる。その上で、しかし、それにもかかわらず日本で大規模テロが起きるとすればどのような様態がありうるかについて徹底的に研究し、防護策を立てなければならない。「米国から何を言ってくるか」で色めき立って、日本として国際テロにどう対処するかが後回しになっているところが、いかにも日本的と言える。

 第2に、軍事作戦以前の国際的な政治的・警察的なテロ根絶のフレームワーク作りに積極的な役割を買って出るべきだろう。その場合に、この問題が欧米vsイスラムの“文明の衝突”図式に落とし込もうとする策謀がイスラエルや米ユダヤ・ロビーによって仕組まれる公算が大きいので、中東諸国と同じアジアの一員であり、また米国のように中東で汚い作戦に手を汚していない日本は、イスラム世界との対話を重視し、テロ撲滅についても、まずイスラム諸国が自ら結束して問題の解決に当たるべきことを説得して歩くといった努力が重要になるだろう。湾岸戦争の時の日本の協力について「金を出しただけ」と言われたことを、「じゃあ今度は兵隊を出して一緒に血を流さなければ」と考えるのは短絡で、軍事以前の積極的な外交的イニシアティブを発揮出来ればそんな言われ方をすることはないのではないか。▲

INSIDER No.27-1《FROM THE EDITOR》

●驚天動地の米同時多発テロ

 深夜に帰宅して、世界貿易センターが崩落する映像を見たときには、それがすぐに現実のこととは思えず、トム・クランシーの小説を元にしたハリウッド映画かと錯覚したほどでした。米国ばかりでなく日本も含めた世界中のどこでも、いつでもこのようなことが起こり得るということもさることながら、“文明国”と言われる場所で豊かで安穏な暮らしを営む我々が世界にはまだこれほどの絶望、これほどの憎悪に生きそして死ななければならない人々がいることをろくに知ろうともしなかったことが、私には衝撃でした。本文では、取り敢えずの分析を試みました(やや時間がかかって発行が遅れました)が、これは当分の間ニュースを覆い続けるテーマとなるに違いなく、本誌としてもじっくり腰を据えて取り組んでいくつもりです。

 本文では、事件の経済面の影響について触れる余地がありませんでしたが、16日の「サンデー・プロジェクト」でNYから衛星出演した榊原英資さんが、世界同時不況的な状況が深まっていくのは避けられないが、米国民はその痛みを耐える覚悟をすでに固めていて、時間はかかっても必ず乗り切っていくだろうとの見通しを述べると共に、翻って日本がこれであわてふためいて、構造改革を先延ばししてデフレ対策の名の下に大型補正予算を組むようなことになれば、日本の国債市場が崩落する危険があり、それが引き金となって世界金融システムを揺るがすことになりかねないと提言しました。対談相手の竹中大臣も「そんな政策はありえない。総理の構造改革への決意は揺るぎない」と、いつになく強い調子で断言していましたが、まさにここが焦点であって、危機に便乗する形で自民党内の亀井的抵抗勢力が巻き返しに出ることを何よりも警戒しなくてはなりません。

 この問題は近く本誌も詳しく論じるつもりでいますが、要は、3年前の金融国会でのでたらめ極まりない不良債権処理スキームの結果、銀行は土地の不良資産に差し向けられていたマネーを引っこ抜いては国債購入に投じることで政府のバラマキ景気対策を支えてきたという、銀行と抵抗勢力の金融庁を媒介としたおかしな悪循環的共犯関係が築かれてきたわけで、それを断ち切ることが出来るかどうかに小泉政権の存廃がかかっていると言ってさしつかえない。竹中さんは番組後、「敵は内閣の内部にいる。金融庁だ」と言っていました。ところが銀行は目先の存続にばかり目が行って、土地本位から国債本位に乗り換えたことで一層経営の脆弱性が高まっていることに気付いていないかのようで、元日銀マンの木村剛さんが『フォーサイト』で書いているように、新規貸し出しに積極的な支店長から貸し出し権限を取り上げて、余った金を常軌を逸した国債購入に振り向けるという愚行を続けています。貸し出しだと信用リスクが膨らむ可能性があるのに対して、国債なら安心だというのでしょうが、その裏には金利が上がって国債が崩落する金利リスクが貼り付いていて、それについては全くの「不感症」になっているというのです。こういう状況で“金融テロ”でも被ればひとたまりもない。そういう危機管理感覚が求められていると思います。▲

2001年9月 4日

INSIDER No.26-2《UZBEKISTAN》ウズベキスタンでオペラ「夕鶴」を観る──初めてのシルクロード

《モンゴルからウズベキスタンへ》

 関空から週1便の直行便を使っても8時間、シルクロードの要衝タシケントまでわざわざ100人のツァーを組んで日本のオペラ「夕鶴」を見に行くというのも、ずいぶん奇特な話ではある。が、昨年まで3年間、三枝成彰(作曲家)、矢内廣(ぴあ社長)それに私を世話人として「モンゴル・オペラ鑑賞ツァー」に延べ90人ほどの参加を仰いできた我々にすれば、それはそれなりに必然性のある1つの展開だった。

 そもそもモンゴルに行き始めたきっかけは、同国の音楽事情に詳しい山川泉(創樹社代表)から三枝が「モンゴルの首都ウランバートルに国立オペラ劇場があって、そこそこのオペラをやっている」という話を聞いたことだった。「モンゴルにオペラがあるんだって!」「本当?」「行ってみようか」ということで、半信半疑というか好奇心任せで三枝、矢内、私、それに林真理子(作家)が山川を案内役に頼んで行ったのが98年の5月連休である。

 行って見ると、確かにレベルはかなり高い。それもそのはず、同国はつい先年まで旧ソ連文化圏であり、有能な音楽家はみなモスクワやプラハの音楽院など東側世界の一流教育機関に留学し、卒業後は旧ソ連・東欧だけでなくイタリアなど西側の舞台にも立って修練を積んだ人も少なくないという。しかも演目は、「カルメン」や「蝶々夫人」といった西欧の定番ものばかりでなく、モンゴルの神話や民話に題材をとったオリジナルの民族もののレパートリーを数多く持っていて、その中でも最も古く有名な歌謡劇はこれまで何千回も公演が行われ、モンゴルの人なら誰でも知っていて宴会で歌ったりするのだという。独立と民主化の後は、歌手、合唱団、バレエ団、オーケストラ合わせて200人ほどの団員も市場経済の中に投げ出され、苦しい運営を強いられているが、有力歌手がシーズンオフに外国に出稼ぎに行くなどして頑張って劇場を維持している。その姿を見て、我々は感動し、そして「日本とモンゴルとどちらが本当に豊かなのか」と考え込んでしまったのだった。

 当時、日本では初の国立オペラ劇場として「第2国立劇場」が出来たばかり。宮殿と見まごうばかりの立派な建物だが、しょせんはハコモノで、そこには専属の歌手もオーケストラもいない。欧米の著名なオペラ団を招いて、5万円だ7万円だというチケットを買って有り難がって観ているのが日本である。もちろんそれら欧米の一流どころとモンゴルとは実力も完成度も雲泥の差で比べようもないけれども、少なくとも“自分たちの文化”としてオペラを育てようとしてきた半世紀にも及ぶモンゴルの人々の努力に、我々は学ぶべきではないのだろうか。ということで、翌年とその翌年、40〜50人の規模で「モンゴル・オペラ鑑賞ツァー」を組織したのだった。

 とはいえ、さすがに3年連続ではモンゴルもやや飽きて、もちろん今後とも同国との芸術文化交流の活動は続けるのであるけれども、今年はちょっと目先を変えようかと相談していたところ、たまたまモンゴル組の一員である羽田綏子=元首相夫人が昨秋タシケントを訪れた際、中山恭子=ウズベキスタン駐在大使との間で「国立ナヴォイ劇場に日本から歌手、指揮者、スタッフを連れてきて『夕鶴』の上演が出来たらいいね」という話が持ち上がり、それに我々モンゴル組と、日本ウズベキスタン友好協会(嶌信彦会長)とが大いに賛同して一大サポーター団を組むことになった。

 日本の代表的なオペラの1つである木下順二原作、團伊玖磨作曲の「夕鶴」は、アジアはじめ世界各地で600回以上も上演されていて、ウズベキスタンでもその国立ナヴォイ劇場で、現地のキャスト&スタッフで舞台に乗せたことがあるとのこと。それならば、日本の歌手や指揮者を連れてきて演じれば恰好の文化交流になるだろうということで、国際交流基金が全面的にバックアップし、同国独立10周年の記念イベントの一環としてこの時期に行うことになった。それを聞いた團も「それなら私も行って自分で指揮棒を振りたい」と大いに張り切ってくれていたのだが、今年7月、奇しくもこの旅行の第1回説明会のその日に、中国で客死された。そのため指揮は現田茂夫が担当することになった。

 もう1つ、モンゴルからウズベキスタンに通じる回路は、劇場の建物そのものである。ウランバートルの国立オペラ&バレエ劇場の建物は、かつてこの近郊の収容所に抑留されていた日本人捕虜が使役に駆り出されて作ったものだった。旧ソ連様式の、こぢんまりとした木造ドームのその建物は、50年余りの歳月を経てかなり痛みも目立つけれども、とても丁寧に作られていて、モンゴルの人に言わせると「ウランバートルで唯一、階段のステップの高さがきちんと揃っている建物」だという。我々はウランバートル郊外の日本人墓地に花束を持ってお参りして、いつ帰国出来るかも分からない俘虜の身ながら、目の前の仕事にはつい職人根性を出して真面目に取り組んでしまう日本人らしさなのか、あるいはそうでもする以外に苦難を紛らわす術がなかったのか、彼らの心情に思いを致したのだった。

 ところが、モンゴルの人に聞くと、タシケントにはもっと立派な国立オペラ劇場があって、これも同じく日本人抑留者が建設に従事したもので、1966年に同市をほとんど壊滅させた大地震の時にもその劇場だけは壊れなかったことから、ウズベキスタンの人々の間で「日本人が作ったものは凄い」という神話にも似た評判の源になっているという。だから、この劇場で日本人が日本のオペラを演じることには格別の意味があったのである。しかも驚いたことに、当時この近辺に抑留されていて実際にこの建設作業に従事した元捕虜たちの何人かは今も健在で、その方々もツァーに加わって55年ぶりに自分たちの創造物である劇場で日本のオペラが演じられるのを一緒に観ることになった。

 事前に現地入りして準備に当たった日本の舞台関係者は、演出家の鈴木啓介はじめ、指揮者の現田、テノールの小林一男ら歌手6人など総勢約30人。後で聞けば、現地の子供たちの合唱団やオーケストラ、照明スタッフなどとの合同作業には大変な苦労がつきまとったようだが、当日の舞台は、演奏はもちろん演出も美術も照明もすばらしい出来映えで、「夕鶴」を日本で何度も観ているオペラ通の人たちも「今まででベストだ」と絶賛するほど。何よりも、我々に付いていた日本語通訳の女子学生が「何で100人もの日本人がわざわざこんなところまでオペラを観に来るのか、正直言って分からなかったが、実際に観て初めて分かった。こんなに美しい舞台は、生まれて初めて観ました」と言ってくれたのが心に残った。

 我々サポーター団のほとんどはウズベキスタンだけで帰国の途についたが、その後、舞台関係者とサポーター数名はカザフスタンに移動し、そこでも同様の公演を行うことを予定している。

《タシケント第4収容所》

 我々のツァーに加わったのは、かつてタシケント第4収容所に抑留されて国立ナヴォイ・オペラ&バレエ劇場の建設に携わった「永田隊」の永田行夫隊長ほか5人の現存者とその家族や関係者たちだった。学徒出陣で大陸に渡って奉天(現在の瀋陽)で現地編成された第28大隊(1000人)に属していたがソ連の捕虜となり、「ウラジオストック経由で帰国させる」と言われて1両の貨車に60人詰め込まれるという家畜状態で1945年9月17日に汽車に乗せられたものの、どうも向かっているのは西の方向で、40日かかって着いたところはタシケントだった。

 永田隊240人(後に転入してきた者があって最終的に457人になった)が入れられたのはタシケント第4収容所。この人々がナヴォイ劇場の建設作業を担当させられた。毎日6時起床、7時朝食、8時〜12時と13時〜17時作業、18時夕食、自由時間の後21時消灯・就寝という日課の繰り返しで、休日は日曜日のほか正月元日、メーデーと11月7日革命記念日の連休だった。食糧は1人1日の配給量が規則で決められていて、米または雑穀(粟、燕麦、小豆など)350グラム、黒パン350グラム、野菜(キャベツの漬物、砂糖大根、じゃがいも)800グラム、肉(骨付き羊、たまに駱駝や亀)50グラム、魚(塩漬け鰊)100グラム、油10グラム、砂糖15グラム、塩10グラム、茶1グラム、煙草(マホルカという植物の茎)10グラムで、一見結構な量がありそうだが、穀物は籾付きだし、羊肉は骨ばかりだし駱駝肉は硬くて噛みきれない、じゃがいもは半分腐っていたりで、実際のカロリーは2000前後だと推定される。

 日用品は、作れる物は何でも、建設現場から材料を持ち出して自分たちで作った。鋸刃からナイフ、剃刀、鋏などなかなか切れ味のいい刃物を作った。将棋、囲碁、麻雀、花札、さいころなどゲーム用品もすべて手作り。麻雀牌は木製で軽いので鉛を埋め込んで、模様は彫刻した。楽器も、太鼓、マンドリン、バラライカ、バイオリンなどを自作した。演芸大会のための男女和服、かつら、刀も作った。「すいぶんみなさん器用ですね」と言うと、永田は「他にすることがないので、エネルギーを注いだからだろう。建設現場で材料が何でも手に入ったという幸運もある。それに永田隊は航空関係が多く、機械や修理のエンジニアもたくさんいたし、元は大工だったという人もいた」と言った。

 そういう器用さと自棄のやんぱち的な情熱がナヴォイ劇場建設でも発揮されたのだろう。約2年間で屋外の造園工事を残して劇場は完成し、47年10月、第4収容所は閉鎖されて人員は他に移された。

 「夕鶴」公演の日、永田らは劇場の入り口に立って「いやあ、55年も経ってここへ来て、しかも日本のオペラを観ることになるなんて……想像もしなかったよ」「自分らの仕事がたまたま後生に残るこういうものだったというのは幸運だった。もっともっと酷い仕事で苦しんだ人たちがたくさんいるのに」と言い合った。劇場の裏手の壁にはめ込まれた記念碑には、ウズベク語と日本語とロシア語で「日本国民」がこの建設に協力したことが明記されている。

《ウズベク族の国》

 ウズベキスタンは、中央アジア5カ国約5000万人の人口の半分に当たる2400万人を持つ地域大国であるばかりでなく、その中心的なオアシス都市であるタシケント、サマルカンド、ブハラなどには、2500年も前からペルシャ、アレクサンドロス大王、漢、匈奴、突厥、唐、モンゴル、帝政ロシア、旧ソ連など、東から西までのありとあらゆる征服者が侵入し破壊しそこを抑えようとしたユーラシア大陸の戦略的要衝であり、従ってまた文化と民族の集積地である。

 その変転の一々を追うことは歴史書に任せるとして、そういう中からようやく“地元政権”らしきものが出来たのが9世紀で、ブハラにイラン系部族のサマン朝が興ってそこがスンニ派イスラム文化の中心地になった。その後、ウィグル系のカラハーン朝、トルコ系のセルジュク朝、契丹系のカラキタイ朝と変転して13世紀初めには今のウズベキスタン西部を中心にホレズム朝が一大王国を築いて中央アジアを支配するが、折から西進を開始したチンギス・ハーンと戦って破れ、徹底的な破壊を受ける。ユーラシア大陸のほぼ全部を包含したモンゴル帝国は、チンギス・ハーンの死後はその一族に分封されて4つのハーン国となるが、そのうち次男のチャガタイに与えられたのが中央アジアである。チャガタイ・ハーン国は約100年続くが、その内部から立ち現れた英雄ティムールがチャガタイ・ハーン国を引き継ぎつつ、さらに周囲を次々に征服して小アジアからコーカサス、インドの一部までを支配する中央アジアの帝国を築き、その首都をサマルカンドに定める。ティムール帝国の時代にイスラムの文化や天文学などの学術が大いに発展し、そのためティムールは“建国の父”と慕われているが、しかし彼はモンゴル系バルラス族の出身で、ウズベク族ではない。

 ウズベク族は、やはりモンゴル系ではあるが成り立ちが違う。チンギス・ハーンの長男のジョチはキプチャク・ハーン国を与えられてロシアを長く支配するが、そのジョチの5男シャイバニの子孫が一部族を形成してやがてカザフ・ステップに住んだ。これがウズベク族の元である。彼らは14世紀にカザフを離れて南下し、15世紀末に至って内紛で混乱していたティムール帝国を滅ぼしてサマルカンドにシャイバニ朝を築く。追われたティムールの子孫のバーブルはインドに逃げ、そこでムガール帝国を建てる。しかしシャイバニ朝は長続きせず、同じくキプチャク系のブハラ・ハーン国、それから独立したヒヴァ・ハーン国、ウズベク族のコーカンド・ハーン国が分立する。500年にも及ぶモンゴルの支配から抜け出した帝政ロシアが、中央アジアに本格的に進出し始めたのは19世紀になってからのことで、1867年にタシケントを制圧して、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドの3ハーン国を保護国にしたものの、イスラム抵抗勢力の反乱に手を焼いた。その状況は、ソ連時代になっても同じで、現在のウズベクはじめ中央アジアの5共和国体制が整ってソ連邦に組み込まれ終わったのは、ロシア革命から20年近く経った1936年のことだった。ソ連の中央アジア支配はそれから55年間続き、91年のソ連邦崩壊で終わった。

 独立から10年、国は相変わらず貧しいけれども人々の表情は明るい。ここは綿花のモノカルチャーのほかは金や天然ガスなどの鉱物資源を産出する第1次産品国で、旧ソ連時代には、モスクワがその成果をことごとく吸い上げていく代わりに、工業技術や消費物資を供給するというコメコン式のバーター関係がそれなりに成り立って、連邦内の最貧国ではあったけれども雇用も賃金も安定していた。しかし独立の過程でロシア人は機材やノウハウもろとも引き揚げてしまい、ほとんどの工場が閉鎖となった。旧共産党の生き残りが支配する政府は、当初、生産と価格を徹底的に統制する戦時経済的な手法で乗り切ろうとしたが、ルーブルの下落による超インフレに加えて外からのドルの流入による二重経済化という、東側諸国がどこでも体験した混乱に直面した。しかしIMFなどの指導を得て94年にはルーブルを廃止して独自通貨ソムを唯一通貨とし、これを厳格に管理する金融政策を採用、さらに民営化や外資の誘致などを進め、ようやく少し落ち着いた経済再建が緒に着いた。とはいえ、例えば特に貧しい西部のウルゲンチ地方では、旧ソ連が作った工場がほとんど閉鎖された後に、新たに入ってきたのは大統領が政治的なつながりで引っ張ってきたコカコーラの清涼飲料水工場だけで、失業率は50%にも
及んでいる。そういう中ではスムの下落も止めようがなく、当初1ドル=1スムだったはずのレートは、今では公式で1ドル=325スム、商業レートで850スムである。観光客はみな、1ドル=1000スムで物の値段を推し量っている。1人当たりのGDPは、97年の推計で2500ドルで、モンゴルの1000ドルに比べれば高い。

 それでも、そうした数字が示すほどの貧しさを感じないのは、ロシアでもモンゴルでも同じだが、物々交換ベースの相互融通システムや、大家族制度を背景とした共同体的扶助システムが根を張っていて、その部分は統計では捉えようもないという事情によるのだろう。しかも、ヒヴァの旧市街の丸ごとや他の都市のいくつかもイスラム寺院が世界遺産に指定されたこともあって、外国人観光客が増えていて、ドル経済の恩恵に浴する人たちも増えている。一族郎党の中で1人でも外国人用のホテルとか土産物店で仕事にありつけば、親戚まで含めてみな潤ってしまう。こうした闇市経済的な状況は、新たに市場経済に投げ出された国ではどこでも起きていることで、それを通じてここの人々もまた、自立への道をたくましく模索していくのだろう。

 若い人に聞くと、「年寄りの人たちはほとんどが旧ソ連時代を懐かしんでいる。賃金も福祉も何もかも、レベルは低くても安定していたから、安心して暮らせた。しかし若い世代は、それよりも自由を喜んでいて、頑張れば仕事のチャンスもあるし、外国に留学して才能を活かすチャンスもある」と言った。そう答えた通訳の彼女は、東洋学部日本語科を卒業して今は医学部に入り直し、来年は米国に医学留学することが決まっているという。

 2500年間も動乱と他民族支配の変転に晒されてきたウズベクの人々は、今初めて、自分たちで自分たちの国を作る権利を手に入れた。自由とはそのことであり、だから自由は金より重いと言えるのだろう。

《世界遺産の旅》

 さて、関空から去る4月に就航したウズベキスタン航空の直行便で8時間半、タシケント空港に着いた我々は、VIP扱いで税関検査もバイパスして夕方に市内の最新のホテル「シェラトン」に投宿した。ホテルでの夕食は、メインはやはり羊肉の結構メニュー豊富なビュッフェ方式で、味もまあまあというところである。ビールはハイネッケンで、生がちゃんと温度管理されていて美味しかった(ここだけで他は駄目)が、ワインは25ドルもして最悪だった。我々はSijakというウズベキスタン産のワインを日本で入手して「これならイケる」と思って来たのだが、輸出用と現地用は違うらしく、水で薄めたポートワインのようで話にならない。他に現地産のワインやシャンペンもあったが、みな甘い。

 翌日と翌々日は市内観光で、その中ではティムールの偉業を称えた「ティムール博物館」の文物がなかなかよかった。旧市街にある「チョルスー・バザール」は広大なもので、場外に並ぶ金物、木工、絨毯、楽器などの職人ショップ街を冷やかすのが面白い。場内の中心には巨大なドームがあって、1階のほとんどはありとあらゆる香辛料はじめチーズ、蜂蜜、岩塩などの地元特産品、2階はブドウ、杏などのドライ・フルーツが中心。これだけ香辛料が豊富なのに、なぜ料理が単調でまずいのかは謎である。ドームの外は、スイカやメロンなどの生鮮果物やトマトなどの野菜、肉、缶詰・瓶詰類、衣類、その他日用品などである。干しブドウは種類も多様で美味しくて、輸出もされている。我々の感覚では安くて、つい言い値で買いたくなるが、向こうは外国人と見るや10倍位に吹っかけて、しかも出来ればドルで払わせようとする。地元の人には遙かに安くスムで売る。ここでもドルとスムの二重経済が横行している。


 3日目、8月27日夜に「夕鶴」を鑑賞して、その後、劇場の2階で国際交流基金主催のレセプション。サポーター団の中に六本木男声合唱団メンバーが10人ほどいたので、急遽、得意の1曲を披露してしまった。そこで会った日本商社の駐在員の話。「中央アジアからアゼルバイジャンあたりまで仕事でさんざん行ったが、ウズベキスタンは圧倒的に美人が多い。5人女性がいると3人は美人で、そのうち1人は特別美人。やはり歴史的に民族が繰り返し入り交じったからそうなのでしょう」。なるほど……。

 翌日は7時15分発の国内便で750キロ西のウルゲンチへ。ジャイフーンというホテルは、ここでは一流だというが、旧ソ連式の粗末なもので、電話の線が切れたままだったり、不釣り合いに大きな冷蔵庫がスイッチが入らなかったり、窓のクーラーを入れるとショートして天井あたりから火花が出たり、私は旧ソ連各地でさんざん体験しているから驚かないが、ご夫人たちは早くもパニック状態である。全体はゆっくり休憩してからヒヴァの世界遺産観光に行く予定だが、私ら数人のグループは、それでは時間がもったいないので別行動をとることにし、すぐにタクシー2台で30分ほどのヒヴァへ。そこは中世そのままの城壁都市で、高さ8メートル、延長2100メートルの城壁に囲まれた「イチャン・カラ」と呼ばれる内城の全体が世界遺産になっている。中は数々のモスク、メドレセ(神学校)、塔、廟が立ち並び、そのあちこちに陶器や工芸品を売る店があり、さらに東門に接してバザールもある。

 西門に近い神学校の建物は、今はホテルとして使われていて、元は礼拝堂だった天井の高いレストランで昼食をとった。兄弟らしい経営者は親切で、料理も美味しい。何よりメインで出た羊肉が、ヒレ肉に香辛料を巧みに使って柔らかく焼いた一品で、滞在中、この時だけ羊をうまいと思った。工夫次第でこういう料理が出来るじゃないですか、ウズベクのみなさん! さんざん歩いて、屋外のカフェテラスでビールを飲んで、また歩いて、夕方は先ほどのホテルの裏にある「アルカンチ」という民家を改造したホテル&レストランでモンゴル組40人ほどの大宴会になった。料理はひどかったが、遠い砂漠に沈む夕陽が寺院の壁や塔を赤く照らして幻想的に美しかった。

 翌日は4時起きで、ブハラまでバスで8時間の旅。予想通りすでに腹を壊している人が数名いて心配だったが、旅行会社の努力でトイレ付きのバスになったのでひとまず安心。クタクタと寝て、何度目が覚めても同じ景色という際限もない砂漠の光景は、前にモンゴルでも経験しているが、こんな灼熱の中を昔の人はよくも駱駝を引いて歩いて渡ったものだと感心する。ところがウズベク人に聞くと、隊商も冬しか通らなかったとのこと。誰かが「こういうところを何日も何日も歩いて、ついに遠くに青色に輝く神々しいモスクが見えたら、感涙にむせんで、身を投げ出して感謝を捧げたいと思うだろうなあ」と言ったが、その通りだろう。我々が慌ただしくバスでモスクを巡っても何の感激もないが、砂漠の旅人の視点でみれば価値が違う。イスラム信仰は案外、実用的なところに根ざしているのかもしれない。

 ブハラも町の中心部が丸ごと世界遺産の古都である。ヒヴァの内城と比べると、ここは寺院、キャラバンサライ、民家、交差点の上にドームを掛けたタキと呼ばれる小バザールなどが巧く溶け合っていて、中世のオアシス都市はこの通りだったのだろうと想像力を掻き立てられる。そのタキで売っている絨毯、織物、刺繍、陶器、刃物など工芸品も、他の都市よりもずっとレベルが高く、全体として文化の香りが漂う。神学校を利用したレストランの中庭で行われた民族舞踊とファッション・ショーのパーフォマンスは優れもので、女性客は民族色を上手に活かした大胆なファッションに、男性客は中身のトビキリのウズベク美人そのものに、それぞれ目を剥いた。寺院の類はいくつ見てもみな似たようで飽きてしまうが、ここの「イスマール・サマニ廟」は9世紀に建てられて土中に埋まっていたのが1925年に発見されたもので、色を一切使わずに日干し煉瓦の組み方だけで模様を浮き立たせた古様式で、一見の価値がある。

 翌朝はまた5時起きで5時間かけてサマルカンドへ。ティムール帝国の首都らしく、壮大華麗な建物が目を惹くが、町全体としては前の2つに比べて大味。ティムールの孫で天文学者のウルグベクが天体観測をした天文台跡が珍しいもので、地上地下40メートル、弧の長さ63メートルという巨大な石造りの六分儀の一部が残っている。彼はこれを用いて、今から570年前に1年間が365日6時間10分と計算したが、これは今日の計測と1分以下の誤差である。彼は数学や天文学を貧しい子供らに教え、詩や音楽を愛し、神学と歴史学にも通じた名君だったが、イスラム保守派に唆された自分の息子に殺された。

 折からサマルカンドでは、独立10周年のイベントの1つとして「世界民族音楽祭」が開かれていて、偶然にも、モンゴルでの我々の案内役である山川泉が「江差追分」の日本一の人を連れてそれに参加していた。世界30カ国からアゴアシ付きで招待された代表たちは、我々と同じ「アフラシャブ」という最新のホテルに泊まっていて、イベントが終わって帰ってくると、プールサイドのカフェで思い思いの楽器を持ち出して真夜中までジャム・セッションを楽しんでいた。

 ディスコにも行った。9月1日の独立記念日の式典を前にテロを防止する特別警戒態勢がとられていて、タシケントでもサマルカンドでも、夜の遊び場はすべて閉鎖だったが、どういうわけかここだけは開いていて、通訳・ガイドの若者たちが案内してくれた。入場料1000スムを払って入ると、そこはガーデン方式の野外ディスコで、100人ほどの若い男女が踊り狂っていた。掛かる曲はウズベクの人気バンドのものらしく、へそ出しルックの娘たちはみな歌詞を口ずさみながら踊っていた。

 翌日は午前中は自由行動。ホテルのすぐ近くにティムールとその息子や孫を埋葬した「グリ・アミール廟」があって、昨夜、酔い覚ましにそこまで散歩したときに管理人が「明日の朝7時に来れば、この塔に登らせてやる。サマルカンドが全部見える。日本だって見えるぞ」と言ったので、早起きして10人ほどで出かけた。管理人はもったいつけて「こんな大人数ではまずい」とか言いながら、結局全員を登らせて、後で1人2ドルを要求した。10人分で20ドルで、普通の人の月収に相当する。こういうところにドル経済とスム経済をつなぐ抜け穴があるのである。

 昼にサマルカンドを出て、また5時間のバスの旅でタシケントに戻った。そのまま「上海飯店」へ。モンゴルでも中央アジアでも中国人は徹底的に嫌われていて、世界中どこに行っても食べるのに困ったら中華料理店を探せという法則はここでは通用しない。どういうわけでこれが1軒だけ存在するのか経緯は不明だが、ウズベク料理に辟易した我々には、麻婆豆腐や石焼き野菜炒めが恐ろしく新鮮で、感動しながら食べた。ちなみに、これもモンゴルと同様、韓国人経営のレストランは市内に多く、そこでは天ぷら定食やトンカツなどの疑似日本食がメニューにあるというが、今回は行く機会がなかった。

 こうして私の初めてのシルクロードの旅は慌ただしいままに終わった。次は、東隣の遊牧騎馬民族の正統な末裔の国キルギスに行って、今も盛んに行われている競馬、騎馬相撲、走りながら地表のコインを拾う競技ティーンエングメイなど、伝統的な馬文化をこの目で見てみたい──と思いながらタシケントを後にした。キルギスの馬乳酒はモンゴルのそれほど発酵を進ませないので、ずっと飲みやすいのだそうだ。▲

INSIDER No.26-1《FROM THE EDITOR》01/09/03岡山発

●ウズベキスタンに行ってきた!

 『オペラ「夕鶴」中央アジア公演支援ツァー』100人余りのグループの一員として、8月25日から9月1日までウズベキスタン共和国を訪れ、首都タシケントの国立ナヴォイ・オペラ&バレエ劇場での「夕鶴」観劇のあと、街ごと全部がイスラム文化の博物館として世界遺産に登録されているヒヴァ、日本で言えば奈良に当たる古都ブハラ、そして同じく京都と言っていいサマルカンドを駆け足で回ってきました。人生の終わりはモンゴルから馬で中央アジアに旅立って途中で野垂れ死にしたいなどと戯言を言っている私ですが(文芸春秋社刊『私の死亡記事』の拙稿参照)、モンゴルや中国から西のシルクロード諸国にはこれまで足を踏み入れたことがなく、今回がその予備調査のための記念すべき第一歩となりました。

 詳しい報告は本文に譲りますが、タシケントから西部のウルゲンチに飛行機で飛んでヒヴァの遺跡で半日を過ごした後、翌日は朝4時起きでウルゲンチからブハラまで、ただただキジルクム砂漠を眺めるだけの8時間のバスの旅。ブハラを夕方2〜3時間で走り回って、翌朝はまた5時起きでサマルカンドまでバスで5時間かけて移動し、さらに翌日はまたタシケントまで5時間。「上海飯店」という多分同国で唯一の中華レストランで慌ただしくお別れパーティをして、そのまま空港へ行って8時間飛んで関空へ……というなかなか過酷な日程で、現地では元気だったのですが、さすがに帰ってからグッタリ。しかも日曜日はサンデー・プロジェクト、月曜日から3日間仕事で岡山、広島、丸亀と巡業。その合間にこれを書いているような有様で、本誌及び紙版本誌の発行が遅れたことをお詫びします。

 8月は鴨川の農作業やお祭りで5日間滞在し、その後は帯広の牧場で乗馬やオショロコマ釣りで4日間を過ごし、月末からはウズベキスタンと、断続的ながら17日間のバカンス。仕事は、テレビがサンデー・プロジェクトに2回とテレビ・タックルに1回、講演が豊橋市で1回、あとは『創』の「小泉人気」をテーマとした筑紫哲也さんらとの座談収録だけという、まあ遊び呆けの1カ月でした。こんなことをしていると、小泉政権がどうしたなど、どうでもよくなってきてしまって、これではいけない、シャキッとして秋を迎えようと頭のリハビリをしているところです。

●諫早湾干拓事業の中止を求める緊急アピール!

 電子版読者にはすでに『農と言える日本・通信』でお知らせしましたが、WWFジャパンの菅波さんから次の至急報が届き、私も「緊急アピール」に賛同しました。その後の連絡によると、短時間ながらアピールには94団体と777人の賛同が得られ、8月23日に農水省に提出したとのことです。

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   諫早湾干拓事業について、九州農政局のもとに設置された国営事業再評価第三者委員会が、「事業中止」の結論を出す可能性が出てきました。これはいわゆる「時のアセス」と呼ばれるものですが、農水省が設置した第三者委員会が、農水省の事業継続方針に反して事業中止を宣告することになれば、98年度から実施されている「時のアセス」においても初めてのケースです。

 農政局側からの巻き返しも予想される段階ですが、この機会に諫早湾干拓事業の中止を方向付けることができるよう、緊急に以下のアピールに賛同を募り、8月24日に開催される第三者委員会の最終会合の前に農水省側に提出することとしました。

 賛同いただける団体・個人の方は、8月22日(水)までに、下記の諫早干潟緊急救済東京事務所までメールまたはFAXで回答をお願いします。


<とりまとめ団体>
諫早干潟緊急救済東京事務所
〒171-0032 東京都豊島区雑司が谷3-7-3 ベルビュー目白701
TEL/FAX 03-3986-6490
E-mail isahaya@msj.biglobe.ne.jp

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諫早湾干拓事業の中止を求める緊急アピール

呼びかけ団体:諫早干潟緊急救済本部
諫早干潟緊急救済東京事務所
WWFジャパン
日本湿地ネットワーク
有明海漁民・市民ネットワーク

 諫早湾干拓事業について、私たちは、事業の第一の目的である営農計画が非現実的で、必要性にも乏しいこと、第二の目的である防災については、効果が不完全で、別途総合的な防災対策が不可欠であること、さらに事業の環境への影響として、諫早湾の貴重な干潟生態系を消滅させ、有明海全体の海洋環境にも大きくダメージを与えることを理由として、事業の中止を訴えてきました。

 8月18日に開かれた、九州農政局の国営事業再評価第三者委員会では、諫早湾干拓事業について、農政局側が計画通り事業推進の諮問案を提示しましたが、第三者委員から、事業の問題点を指摘する声が相次ぎました。その問題提起の内容は、
「営農計画の収穫見込みが高すぎて、実現の見込みが低い」
「周辺環境への影響が大きく、別途、国が調査を進めている段階では結論が出せない」
「事業に伴う、干潟の水質浄化機能の喪失など、外部不経済を考慮すれば、事業の効果は、費用を下回る可能性がある」
と言った主旨のものであったと報じられており、これは私たちや、多くの研究者などからも指摘されてきたことです。

 今や、諫早湾干拓事業を推進する根拠は根底から揺らいでいます。この様な状況で、事業を継続することは到底許されません。私たちは、別記の賛同団体・個人とともに下記の3点を緊急に要請します。

1. 国営事業第三者委員会委員長(九州共立大学工学部 黒田正治教授)に対し、第三者委員会委員長は、第三者委員会の意見として、諫早湾干拓事業の中止を提言すること

2. 農林水産省九州農政局長に対し、九州農政局長は、国営事業再評価による今後の事業実施方針案において、諫早湾干拓事業を中止とすること

3. 農林水産大臣に対し、農林水産大臣は、諫早湾干拓事業を中止し、地域の防災対策と諫早湾干潟の再生を両立させる方策について関係省庁、自治体との協議を開始すること

賛同団体・個人名を列記

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●沖縄の反基地運動『レッドカード・ムーブメント』が新展開!

 沖縄で地道な反基地運動を進める島袋博恵さんから次のお便りがありました。みなさんもホームページをご覧の上、よろしくご支援下さい。

http://www.cosmos.ne.jp/~redcardm/

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高野孟様 突然のメールですが、どうぞお許し下さい。いつも貴兄のご活躍、尊敬しております。また貴兄のホームページは大変勉強になるので度々訪問しています。

 早速ですが、沖縄で始めた米軍基地に反対する市民活動『レッドカード・ムーブメント』のホームページを貴サイトにリンクして頂けないかと思いお便りしました。

 この運動は沖縄サミットの機に行われた二万五千人規模の嘉手納基地包囲行動「人間の鎖」の際、赤いシンボルカラーで嘉手納基地を取り囲み世界中に訴えた運動です。組織も名も資金もなくたった一人で始めたのですが、メディア各社が取り上げて下さったお蔭で、瞬く間に多くの人々へ知れ渡り、サミットが終わってもこの運動は沖縄県内だけでなく国内外で続けられています。自主運動なので各自が自分流のスタイルで米軍基地の撤退を訴えるので、カンパさえ募る必要がありません。過去に取材していただいた新聞記事やテレビ放映の模様を下記のサイトでご覧下さい。
http://www.cosmos.ne.jp/~redcardm/keisai.htm

 さて今まで沖縄では米軍による事故や事件が起こった時にだけ抗議活動が勃発しましたが、それらは皆、花火の様に一過性のものでした。そこで今月、沖縄の女性団体が在沖米国総領事館前で「金曜集会」を発足させ、毎週金曜日に継続して米軍基地に抗議する事になりました。この集会ではレッドカード運動を適用し、金曜日には米国領事館前で真っ赤な色の集会をしています。これは韓国の反米軍運動とも連帯していますが、忍耐強く広がる抗議行動となるでしょう。本土での平和集会でもレッドカード運動をもっと広く適用して頂き、米軍基地に対する理解を高め、日本国民が自由な意思で明確に意思表示をする機運が高まる事を望んでいます。

 尚、当ホームページは、世界各地の米軍基地からのアクセスがありますが、在沖米軍のキャンプ・バトラーからは、日課の様に、毎朝欠かさず定刻にアクセスがあります。これはG5という情報収集を任務とする部隊からのアクセスだと思われます。

 何卒、貴兄のホームページにリンクしていただき、この運動を広め、日米両政府に沖縄の基地負担を軽減するよう訴えの輪を広げていきたいのです。レッドカード運動は、「一日も早く終わる事」を目的とした運動なのです。どうぞご協力下さるようお願い致します。島袋博江
 
●『市民運動・社会運動のためのインターネット活用術』が発売された!

 社会批評社の小西さんからの連絡によると、7月に同社から井口秀介・井上はるお・小西誠・津村洋の共著になる『サイバーアクション/市民運動・社会運動のためのインターネット活用術』(1800円)が刊行され、その第1章に本誌も紹介されているとのことです。私もまだ手にしていないのですが、同書は、市民・住民・社会運動関係の先行的なホームページを多数紹介、その長所・短所を指摘し、今後の運動のためのネット活用の方向を探ることが趣旨で、検索エンジン・リンク・リソース・メーリングリストの活用や、電子出版・データベース構築などのあり方、そして落選運動・告発サイトをはじめ今後のネットを駆使したサイバーアクションのための手引きとなっています。

 下記のサイトで本書の目次を読んでメールで注文することも出来ます。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/shakai.htm

shakai@mail3.alpha-net.ne.jp

●『InterCommunication』誌で月尾教授と対談した!

 NTTコミュニケーションが発行するサイバー文化誌『InterCommunication』第38号の「ブロードバンド社会への提言」と題した長い巻頭対談で、東大工学部の月尾嘉男教授と「日本のIT革命が韓国はじめアジアに比べてなぜこれほど遅れているか」について語り合いました。すでに発売されています。

 また上述のように、まもなく発売の『創』で筑紫哲也さんらと「小泉人気とテレビ」について座談会をしています。どうもメディア論専門の学者は「政府・権力がやりたい放題にテレビを操作して小泉現象を作り出していて、日本はファシズム前夜である」という状況認識に傾きがちですが、筑紫さんや私は「それはちょっと違うんじゃないの」というスタンスでした。

●高野の9月の予定から

 夏の遊びすぎの反動で、9月は仕事が立て込んでいますが、一般向けの講演は、5日香川県丸亀市の市民会館で開かれる「まなびらんど丸亀2001」でのIT革命の講演、15日群馬県前橋市「県生涯学習センター」での「農的生活」の講演くらいです。池袋サンシャイン文化センターでの「新世界地図」講義は22日が最終回で、10月から半年間は同じ中日新聞主催の名古屋の文化センターで同テーマを月1回講じる予定です。テレビは、サンプロが2日、16日、23日、30日の4回と、国会テレビが14日22時からの討論番組1回です。

 8〜9日は鴨川自然王国で待望の稲刈り。5月に田植えをして、7〜8月の日照りで田がカラカラに乾いてクレバス状のヒビ割れが出来たかと思えば、月末の台風で一部が倒れて冷や冷やし通しでしたが、現地からの報告では今は黄金色の穂が重く垂れて、異常気象の割にはそこそこの収穫が得られるだろうとのこと。一度やってみたいという方も歓迎ですので、王国のホームページで詳細をご覧になって直接現地に参加をお申し込み下さい。
http://shizen-ohkoku.smn.co.jp/ ▲

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