毎日新聞4日付は「景気主義の呪縛から脱出/GDP型発想はもう危険だ」と題した社説を掲げた。21世紀の始まりということで、各紙とも肩に力を入れて正月の社説を打ち出している割には中身は平凡であるという中で、この毎日社説は、いま日本が陥っている最大の心理的トラウマに真っ直ぐに目を向けようとしたという意味で秀逸であり、ほとんど唯一の収穫とさえ言えるものである。
GDPが1%か2%上がった下がったでオロオロするなという極少数意見を、93年以来ひたすら主張し続けてきた本誌の立場からすれば、ようやくマスコミの論調の内から同じ角度で砲列を揃える援軍が現れた訳で、大いに意を強くしているところである。同社説は要旨、次のように言っている。
▼景気が、日本にとって最大のキーワードになって、何年たつだろう。半世紀以上、日本はこれに振り回されてきた。……今世紀こそ景気をキーワードのトップからはずしたい。
▼あたかも個人消費というなにかの実体があり、それを活性化させないと、日本はだめになるかのようだ。政府は国民にその個人消費という怪物を活性化させるように、協力とむだ遣いを呼びかけている。……消費が増えれば、それを提供する製造業やサービス業の売上げが増え、その結果景気がよくなるという理屈だ。……だから減税する。その分貯金しないで使えという。地域振興券でばらまく。公共事業として湯水のように全国の工事にお金を使い、その資金を手にした人々が全額使ってしまうことを期待する。単純だ。
▼それでも増えない個人消費の金額は、どうやって調べているのか。国は、デパートやスーパーの売り上げや、家計調査という世界最高の緻密な家庭の消費動向調査などから類推して割り出す。デパート売り上げの半分近くが実は、個人でなく直接間接に企業の注文であることなど気にしない。個人個人はデパートに値段を見に行って、安い別の店でほぼ同じものを買っていることなど調査には出てこない。
▼国内総生産(GDP)の増減が最終的には景気のよしあしだ。そのGDPの6〜7割が個人消費だ。生産を計るGDP統計の大半を正反対の消費で調べている。初めから理論と実際はずれている。すれを修正し続けて60年。その測りがたい実は幻のようなGDPの増大を政策の筆頭に置くGDP至上主義とは、言い換えれば、幻想の政治ともいえる。その幻想から覚めること、つまり「景気」に日本のキーワードの筆頭から降りてもらうしか、この虚構の積み上げから抜け出す道はない。
▼弊害は日本中に満ちている。公金依存で倫理観を失った経済だけではない。自民党に人気が出ないのも、会社がもうからないのも、給料が上がらないのも、財政赤字が増えるもの、犯罪が目立つのも、ホームレスが増えるのも、地方都市の中心部が廃れるのも、何でもかんでも、景気が悪いせい、個人消費が伸びないせいにしてしまう。それが「責任は自分にない」の言い逃れが。政治、企業、学校、さらには犯罪の世界でまで日常化する源になってはいないだろうか……。
●歴史的尺度の問題
日本人が戦後ずっと(50年も60年も)景気を筆頭キーワードにして生きてきたのはその通りだが、私の意見では、この言い方では歴史的パースペクティブが曖昧になる。明治から始まった日本的「発展途上国」のおよそ100年間は、GDPの量的拡大すなわち経済成長が最大の課題となり関心事となるのは当然であるけれども、すでに世界有数のGDPを持ちそれ
を基本的に維持している“超”を付けてもいいほどの「成熟先進国」に達したというのに、まだ経済の量的拡大しか頭にないという、「身体は先進国、頭脳は途上国」という分裂症状が問題なのである。
では日本はいつから文字通りの「先進国」になったのかと言えば、経済学者はいろいろ厳密に分析するのだろうが、私はまこと大雑把に、GDPがおよそ1兆ドルに達し、その少し前に産業構造的に第3次産業=情報・サービス産業が5割を突破した1980年前後にその入口に達したと考えている。それだけの水準に達した富の力を、それ以上量的に拡大することよりも、国の内外でどう活用するかに知恵を注いで暮らしの質的な充実を図らなければならない時に、日本人はその切り替えが出来ないまま、株と土地のスパイラル的投機という筋違いの方向にその力を暴走させ、今もってその後遺症から逃れられないでいる。よく「失われた10年」と言われるが、正しくは中曽根内閣がバブルの導火線に火を着けてから15年であり、その間我々は、先進国に相応しいゆったりと落ち着いた経済観と生活=消費感覚を身につけることも、途上国型官僚主導の政策運営を卒業して新しい自由闊達な経済運営のシステムを構築することも出来ずに、ほとんど無為に過ごしてきたのである。
何度も言ってきたことだが、5兆ドルというのはとにかく凄くて、米国に次ぐ世界で2番目の大きさであり、1人当たりでは米国と肩を並べるか若干上回るほどのものである。欧州には日本に匹敵する一国経済は存在せず、英仏独3カ国の合計と日本とがほぼ々規模である。OECD統計の2000年版は95年から99年まで5年間の各国GDPの変化を、95年の為替レートおよび物価水準を固定した数値と、各年の為替レートおよび物価の実勢のままの数値とを並べて出しているが、おおまかな傾向を見るには前者の数値のほうが分かりやすい。そこから、米国、日本、英仏独合計の数字を取り出して、5年間平均のGDPを計算し、さらに人口割りして5年間平均の1人当たりGDPを計算すると、次のようになる。
なお、この表は前にも載せたと思うが、OECDの元データが修正されているので、最新のものから作り直した(元データ=http://www.oecd.org/std/nadata.htm)。単位は億ドル、人口は万人。1人当たりGDPはドル。
1995 1996 1997 1998 1999 5年平均 人口 1人当たり
米国 73384 76030 79436 82928 85877 79531 26545 29961
日本 51374 53968 54829 53453 53561 53437 12586 42458
英仏独 51381 52029 53080 54402 55550 53288 19905 26771
(等幅フォントでない場合、表の数字がずれることがあります)
99年の実勢レートおよび物価水準による1人当たりGDPは、米国33836ドル、日本34313ドル、英独仏24579ドルで、上の表ほどの差はないが、それでも日本の1人当たりは米国をやや上回る。ちなみにアジアの中で比べると、アジア25カ国のGDP総計が約8兆ドルで、日本は一国でその6割強を占める化け物的存在である。
そのGDPが年々目に見えて縮小しているというのなら多少心配しなければならないが(それでも半分になったとして10年前、5分の1になったとして20年前の生活水準だから余り驚くことはない……と私は思うのだが)、1〜2%程度の幅で上下に微変動しながら基本的に維持されているのである以上、何もあわてふためくことはない。前号で書いたように、1%=500億ドルはソニーか日産1社の売上げ程度であり、そのどちらかもしくは両方が消滅したくらいで日本は崩壊することはない。
しかも、20年前の1兆ドル経済の時に、国民がこぞって努力して500億ドル増産したら5%の高度成長になるが、今の5兆ドル経済の下では、同じだけの努力をしても1%の成長にしかならない。堺屋あたりが「何とか2%の成長率を」などと言っているのは、「各人がもう1000億ドル分余計に働いて、余計に消費しろ」と国民を脅迫しているに等しいのであって、不況イデオロギーに脳を浸食されていない人たちは「何を言ってるんだ。俺たちはこれ以上働いてこれ以上消費しようなんて考えちゃいないよ」と政府に背を向けて自分流の生き方を追求するだけだが、日本は不況だと信じ込まされいる大多数の人たちは、そう言われるたびに不安に陥りながら「そうか。俺たちの働きが足りないのか。もっと頑張って働いて、もっと無理して消費しないといけないんかなあ」と自分を鞭打つことになるだろう。政府の誤ったメッセージと(毎日を除いて)翼賛的なマスコミが国民を萎えさせているのである。
●消費は伸びなくて当たり前
GDP全体がさほど伸びなくて当たり前なら、その6割を占める個人消費もそうであ る。「消費が低迷している」とか「回復が遅れている」とかいうせりふは決まり文句 になっていて、日経新聞を読めば日々の紙面のあちこちにそれが散りばめられている。しかし、何に対して低迷していて、どこへ向かって回復しなければならないと言うのだろうか。3兆ド
ルの消費は、1人当たりにすれば米国に匹敵するかそれを上回るほどの世界最高水準であり、全世界の人々が羨んで不思議はないぜいたくさである。ここでも 問題は同じで、全国民が300億ドル余計に消費すると、1兆ドル経済の下での6000億ドル消費は5%伸びるが、5兆ドル経済=3兆ドル消費は1%伸びるだけだから、そんなに何%も伸びることを期待するのが無理である。
しかも、肝心の消費者自身が、消費の量を増やすことよりも、消費の質を高めることにますます関心を移しつつあって、詰まらないことにチャラチャラお金を使うことが減った代わりに、ここぞという時にはドーンと使うという、極めて賢い、選択的な消費の仕方をするようになってきたので、消費の総量はそうは増えない。これは、日本人もようやく成金的な消費バブルを卒業して、欧州型のと言っていいかもしれないが、成熟国らしい落ち着いた消費パターンに近づきつつあることを意味しているのであって、政府やその御用学者がおまじないのように口を揃えて唱えているように「将来が不安だから消費を抑えて貯蓄に回しているのであり、その不安さえ除けば財布の紐は緩む」と捉えるのは、間違いとは言わないまでも本質から外れている。
さて、その個人消費をどのようにして調べた結果、「増えない、増えない」と嘆いているのかという統計手法の問題があることは、本誌もこれまで指摘してきた通りである。日本では、総務庁(1月から総務省)が行う「家計調査」が消費推計の基礎となってきた。これは全国8000世帯を無作為抽出して、細かい家計簿をつけさせて毎月集計するもので、同庁に言わせれば「世界に類例をみない緻密な調査」ということになっているが、まず第1に、欧米各国は小売り統計をベースに供給側から個人消費動向を推計するのに対して、日本では家計の支出側から推計する。欧米と同じでなければいけないということはないにしても、この独自のやり方が妥当なのかどうかは議論の余地がある。毎日社説が「生産を計るGDP統計の大半を正反対の消費で調べている」と言っているのはこのことを指しているようだ。
第2に、サンプル数が少なく、自動車購入など大きな買物があると数値の変動が大きいので、経企庁(1月から内閣府に吸収)では「10万くらいのサンプルがないと」という意見が強い。第3に、農林漁業の世帯、単身世帯(未婚独身貴族や独居老人など)は対象外だし、共稼ぎ夫婦世帯はじめ詳しい家計簿をつける暇がない家庭や、知られたくない収入がある自営業者や資産家の金持ちはほとんど断るので、結果的に専業主婦がいる子供1〜2人の“標準的サラリーマン家庭”が中心になる。どうしても相対的に所得の高くない世帯に偏っているのではないかとの疑念がつきまとう。こうした批判に応えて総務庁は昨年から、農林漁業世帯を対象に含めることにし、また95年から始めている単身世帯収支調査のサンプルを若干増やし四半期ごとの数字を公表すると共に、家計調査、農林漁業調査、単身世帯調査を合算した「家計総世帯集計結果」を四半期ごとに発表するようになったが、いずれにせよ後2者は前者の補完・参考にすぎない。
では消費を供給サイドの小売販売額で捉えれば正確かと言えば、そうでもない。2000年の小売統計は97年商業センサス(3年ごとに実施)をベースにしているので、ユニクロや100円ショップなどの新しい業態の急成長はほとんど反映されていない。それどころか、すでに実質的に衰退産業リストに入っていると言っていい百貨店売上げが、依然として「小売業の頂点」と位置づけられていて、すでにそれを追い抜いたスーパーや、追い抜こうとしているコンビニの売上げは副次的な扱いしかされていない(例えばDI=景気動向指数の一致系列を見るのに、小売業では百貨店の数字しか採用していない)。
統計というのはしょせん群盲象を撫でるが如き話で、地図が生きた世界のほとんどの要素を捨象し、しかも3次元を2次元に移し替えて、或る便宜のために虚像を提供しているのと同じか、もっと現実から遠い形で、日々変動する経済活動の一面を捉えるだけのものにすぎない。ところがいったん作られた数字はそれ自体で一人歩きして、信仰の対象にさえなって、その上がり下がりに人々が一喜一憂し、振り回されるという倒錯現象が起こる。その意味で確かにGDP至上主義は幻想と虚構の上に成り立っているのである。
ところで、経済にはGDPすなわち「お金で計算出来る経済」とそうでない経済がある。そのことを調べていくと、余計にGDP至上主義がくだらないものであることが明らかになるし、さらに言えば、むしろ我々がこれから目指すべきなのは「お金で計算できない経済」であることが分かってくる。が、そのことはいずれまた述べることにしよう。▲