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2010年7月29日

「日本一新運動」の原点(6)── 参院選敗北の理由は「唐突な消費税発言」ではない

 参議院選挙における民主党惨敗の原因が「菅首相の唐突な消費税発言にある」とは、本人も含め日本の有識者多数の見方である。しかし、ちょっとどころか大いに違うというのが私の意見である。正確にいえば、菅首相は税制度すなはち、国政の根幹ともいうべき税金の本質について、まったく無知であることが、あのような無様な発言を繰り返したのだと私は思う。

■税金 ── 税制度の本質

 英国の政治・経済・社会学者で、ウォルター・バジョット(1827〜1877)は、名著『イギリスの国家構造』で、「その国の政治構造・政治思想・政治運営を規制し、特徴付けるのは税制度である」という趣旨のことを述べている。そもそも議会の成立史は税金の取られ方(歳入)と、使われ方(歳出)について、市民の意見を生かすことから始まった。

 戦後の日本では2回にわたり大きな税制改革が行われている。初めは占領中の「シャウプ勧告」にもとづくもので、昭和25年の税制改革であり、国税・地方税を通じ、税制全体を直接税を中心とする税体系をつくったが、通称「シャウプ税制」とも呼ばれ、この税体系が戦後の経済復興の源となった。

 次は昭和六十三年の消費税制度の導入である。直接税と間接税の適切なバランスをとるとともに、社会構造の変化に対応させるものであったが、消費税の導入は、わが国の財政史だけでなく、国会史に残る紛糾と混乱をともなって成立したことは記憶に新しい。 

■消費税制度導入の苦悩を知るべし

 昭和45年3月、福田赳夫大蔵大臣が「直接税負担を軽減し、財政需要に応ずるという二つの面から間接税を増税したい」と発言、これから戦後の消費税論争は始まった。次に昭和54年10月の衆議院選挙で大平首相が公約として提起したが失敗し、翌年には、現職総理という身分のまま死亡するという悲劇まで起こっている。

 しばしの時を経た昭和61年、中曽根首相が「大型間接税は導入しない」と衆参同日選挙で約束したにも拘わらず、両院で勝利するや否や、「売上税制度を導入する」と発言し国を挙げての大騒ぎとなる。狙いは自民党総裁任期を一年延期した後、さらに政権を続けるとする個人的思惑にあった。

 強引に売上税関係法案を成立させようとする中曾根内閣に対して、自民党竹下幹事長は野党の対応を利用し、原衆議院議長の斡旋で与野党間の「税制改革協議会」を設けた。ポスト中曾根を引き継いだ竹下首相が、翌63年12月に「消費税関連法」を苦難の上成立させた。

 売上税廃棄、消費税制度成立にいたる二年間のドラマを、私は衆議院事務局の現場責任者としての克明な記録を、「日記」として残しているが、今年10月千倉書房から出版の予定である。

 政治家、官僚、マスコミなどがどんな動きをしたのか。当時関わった政治家で現在も活躍しているのは、小沢一郎・野田毅・与謝野馨の3人のみである。いうなれば、税制改革の難しさを人肌で認識しているのは数百人もいる国会議員のなかで3人だけということだ。

 税制の抜本改革で絶対に留意しておかなければならないことが二つある。一つは、絶対に政権の恣意的な意志、例えば政敵の排除とか、長期政権のため利用してはならないことだ。今回の菅首相には「小沢の政策的排除」が明確であったことに説明はいるまい。

 もう一つは、抜本改革の歴史的必然性を具体的に説明することだ。消費税のときは「占領税制からの改革」と「消費社会への対応」であった。菅首相が提起した「財政赤字対策」というのなら、赤字となった原因の情報開示と、責任の明確化が絶対に必要であることはいうまでもなく、理念のみならず、手続き論としてもその体をなしていない。

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2010年7月23日

わかりやすい国会の話[第20回]昭和時代の議会政治(7)

 新憲法の施行を昭和22年5月3日にひかえ、4月20日に参院選挙が、同月25日に衆院選挙が行われた。参院選挙は定員250名で全国区と都道府県区に分けて、直接投票で選ばれ被選挙権を35才からとした。衆院選挙は先の大選挙区制に問題があり、定員466名の中選挙区制を改めた。被選挙権は25才で、選挙権は両院とも男女20才からとした。

 参院選挙の結果は、緑風会92・社会党47・自由党44・民主党42・無所属懇談会20・共産党4・各派に属さない議員1であった(第1回国会召集日を原則)。緑風会という政党の立場を離れた有識者の会派が第一会派となった。

>>続きは「Infoseek 内憂外患」で

2010年7月22日

「日本一新運動」の原点(5)

 昨夏の政権交代後の政治状況をふりかえり、もう一度「日本一新運動」を始めた理由を整理しておきたい。

 併せて、参議院選挙後「小沢氏の雲隠れ」と悪意の報道が溢れているが、今この時期に小沢一郎が何を考えているのか、私たちは小沢一郎に何を期待すべきなのか、とくと考えてみたい。

■小沢一郎の「政治と金」

 昨年早春の西松事件、そして今年の陸山会問題は、旧自民党政権の政治的謀略である。その仔細は、拙著『小沢一郎──完全無罪』(講談社刊)と、5月22日付 THE JOURNALの「西松事件・大久保秘書逮捕の真相を究明すべし!」で論じているので参照願いたい。

 もし万が一、小沢氏が起訴になるなら、政治資金規正法の不法不当な拡大運用であり、百歩譲って「公平・公正」をいうなら、自民党を中心として、ほとんどの国会議員が捜査の対象となるべきである

 旧体制のメディアと政治がらみで、検察審査会まで動員した「ネオ・ファシズム」は、21世紀の国家体制を創ろうとする、小沢一郎を政界から排除しようとするものであり、菅首相の「小沢排除」もその流れに乗せられたといわざるを得ない。

■民主党政権混迷の原因

 昨年の政権交代の時期、「旧さきがけ」グループによるマスコミを取り込んだ「小沢排除」は異常としか形容の術がない。旧さきがけ代表であった武村正義氏らの発言に、細川護煕元首相は、「真実と違う」と私に指摘していたが、それでもなお鳩山--菅両氏は「小沢排除」の政権をつくりだした。

 歴史的政権交代を果たした先の衆議院選挙に当たり、掲げられたマニフェストの基本は「政策の協議と決定は内閣に一元化する。そのため党の主要な役員は入閣させる」だったはずである。当初、幹事長を岡田克也氏の続投で固めていたが、菅氏の思惑でこの基本を無視して入閣させないことにした、ことが事実のようである。党の大勢が小沢幹事長となり、鳩山代表(当時)も、この変則的な事態を了承することになる。

 9月3日に小沢氏は、「政策の協議と決定に関わらないこと」を条件に幹事長に就任する。小沢幹事長(当時)から電話のあった2日後、私は「それでは議院内閣制は運営できない」と強く指摘していたが、小沢氏は「いま理屈をいえば政権はできない。特別国会の組閣では基本に戻るだろう」という感じであった。しかし、鳩山政権の組閣で変化はなく、この時点で「小沢排除」は事実上確定した。

■小沢一郎は何をなすべきか

 政権の中核から排除された小沢幹事長は、政治改革に政治生命を懸けるべく英国に調査に出かけた。小沢氏の帰国後、私は長時間を掛けて議論をしたが、当面は、政権交代の定着に必要な国会法などの改革を行うことが主とした話題となった。

 これからの日本を考えたとき、抜本的な政治改革が必要だという話や、来年(2010年)は、日本で国会が発足して120年になる。これまでの議会制度は19世紀の思想を原理としているから、それらは情報社会となった現代には通用しない。日本にふさわしい「新しい議会政治」を創るべきだ。そのために小沢幹事長自身が、党の政治改革本部長になると決断したのだ。

 選挙制度の抜本改革、政治資金制度の民主的第三者機関による管理と指導、国会の調査機能強化による政治指導の確立、重要国政に関する国民投票制など、国会の再生構想を5月3日の憲法記念日に発表しよう、こういうことも話題となった。

 しかし、1月の陸山会問題や、その後の民主党政権の劣化により、無念ながらも頓挫したのである。

 この艱難とも評すべき未曽有の政治危機に、小沢一郎がなすべきことは、まず民主党を国民から信頼される政党に叩き直すことである。

 そのためには、政権与党として国のあるべき姿を示す「綱領」の制定を実現するべきであり、加えて、党派を超えて、著しく劣化した政治家を向上させる「新しい国会の創設」に着手するべきだ。僭越ながら、日本一新運動はその前衛たる位置を占めたいと思う。

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2010年7月16日

わかりやすい国会の話[第19回]昭和時代の議会政治(6)

■新憲法制定と戦後民主政治の始まり

 占領軍の下、各政党がそれぞれに民主政治を大義名分に結成されるなか、昭和20年11月26日に第89回議会が召集された。敗戦後の初めての実質的な国政審議であった。すみやかに衆院を解散するため、GHQの指示で「婦人参政権、選挙権被選挙権の年齢低下等」を中心に、大選挙区制限(3名)連記の選挙法の改正を行った。

 さらに国家総動員法など二十数件の戦時立法が廃止され、農地調整法改正や労働組合法などが成立した。また衆院で「戦争責任に関する決議」を可決した。12月28日、衆院は解散したが、GHQは予定されていた投票日を延期した。理由は超国家主義者などの公職追放のためであった。

>>続きは「Infoseek 内憂外患」で

2010年7月15日

「日本一新運動」の原点(4)── 民主党惨敗の本当の原因

 「政治家である前に人間であれ」── この教えは私の人生の師である、故前尾繁三郎衆議院議長の遺言である。

 7月11日の参議院選挙で民主党惨敗の原因を考えるとき、この「ことば」の意味を深く噛みしめざるを得ない。

 民主党敗北の理由はさまざまな立場から論じられているが、その最大の理由として「消費税増税」を、民主主義の1丁目1番地である党内論議も経ずに唐突に提起し、その説明不足が原因として、菅首相の責任が問われている。

 このことについては、先の論説でも触れたことから、ここではくり返さない。よりも、私はもっと本質・根源的な問題があると考えることから、今回はそれを論じたい。

 それは菅首相と枝野幹事長は、ひとりの人間として、また、社会の指導者たるべき政治家に相応しいかどうか、これは政治以前の問題である。

 民主党敗因の決定的問題に、1人区で「8勝21敗」という事実がある。こうなった原因は、選挙戦後半に徹底して行われた、「自民党と公明党の選挙協力」にあることは明白である。例えば、自民が分裂した高知選挙区では、誰もが民主党圧勝と予想していたが、突然の自公協力で苦戦を強いられた。同じように、自民分裂の徳島選挙区では民主党が敗北した。大分選挙区では前回の圧勝から五万票ほど減らし、僅差まで迫られたが、選挙戦後半の追い込みは凄まじかったともいうし、同じ現象が多くの選挙区で展開されたのである。

 突然に自公協力が始まったのは、テレビなどで各党首脳の討論が報道されるようになった頃からである。菅首相も枝野幹事長も、理屈で相手をやり込めることにこだわり、野党の主張に耳を傾けるとか、相手の意見を受け止めるという度量を見せなかったし、論戦で追い込まれると、相手の古傷に指を入れるような態度が再々見られたのを、苦々しく見ておられた方も多かったと推測する。

 1人区の自・公関係者からは、創価学会との関係とはまったく別で、「菅首相や枝野幹事長の口舌は、議論でなく《他人の心を刺す武器》に感じた」ということを聞かされた。私も、テレビを見ながら両人の言霊に相手の人間性を無視した異質の文化を感じたし、映像を通じて平均的日本人の深層心理に、議会民主政治を共有できないことが伝わり、強烈な拒否反応を生じたのが、民主党惨敗の真の要因だと私は思う。

 6月3日、菅氏の民主党代表戦立候補の記者会見で、小沢幹事長(当時)に対して「党のためにも自分のためにも、日本のためにも静かにするよう」と、人間冒涜・憲法違反の発言も、その根は同じである。

 となると、菅首相や枝野幹事長の人間としての感性とは如何なるものか。これは民主主義の要諦であり、わが国の議会政治を崩壊させかねない深刻な問題でもある。

 前尾先生の遺言を待つまでもなく、半世紀前のわが国の議会政治は、常識として人間のあり方を理解していることが、国会議員となる前提条件であった。21世紀も10年を過ぎた今日、政権のトップや与党幹事長の人格・人間的感性を問題にしなければならないことに、わが国の議会政治の危機を感じるのは私一人ではないだろう。

 平成15年に、自由党が国会に提出した「日本一新11基本法案」の第1号は「人づくり基本法案」であり、その目的は、万事が地球規模で激変する困難な時代を担いうる人間の育成にあった。いま喫緊に必要なことは、当面の政治指導者の中にいる、日本の議会政治を害する人物を《仕分け》することから始めねばならない。

※註
言霊=古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力(大辞泉)、言葉に宿っている不思議な霊威(広辞苑)、言葉にあると信じられた呪力(大辞林)

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2010年7月 8日

「日本一新運動」の原点(3)── 政権担当能力とは?

 平成5年8月、非自民の八党派による細川連立政権が成立した直後、新生党・小沢代表幹事(当時)から「政権担当能力とは何だろうか」と問われたことがある。右から左まで、八党派の異なる意見をまとめながら政権運営を仕切るという、困難な立場としての悩みがあったと思う。

 私は、人生の師である前尾繁三郞元衆議院議長が、時々語ってくれたことを伝えた。「政権担当能力とは、国民や政党を支配する能力ではない。国家権力の使い方についての自己抑制力のことだよ」。

 そう言えば、ガバナビリティーの「govern」とは、「感情などを抑制する」と新英和辞典(研究社)にあることを思い出したことがある。

 「日本一新構想」を立案中の平成12年春、小沢氏は「政権に就いたらこの考えを生かしたい」と語っていたが、自民党幹事長、新生党代表幹事、自由党党首と、その時々の政権に関わった時の小沢一郎は、私も驚くほど、キーポイントで野党へ大胆に妥協し改革を実現させてきた。いま考えると「権力の自己抑制」であったのだろう。

 3年前、平成19年元旦に小沢邸の新年宴会で、私は当時の菅民主党代表代行に「国会対策のキーポイントは何か」と、突然に質問を受けた。「理屈は後で考えろ。最後にババを持つな。国会対策はトランプのババ抜きだ」と、酒も入っていたのでわかりやすく説明した。

 これを機会に小沢代表(当時)からも頼まれ、菅氏の国会運営の諮問役を相勤めることになった。自公政権の国会運営への対応だけでなく、政権交代した時の心構えなどについて、徹底的に議論した。当然「民主党の政権担当能力」についても話題になり、「自己抑制力」の話もしたが、理解してくれたか否か、いささか不安をおぼえている。

 平成21年3月の西松問題で大久保秘書逮捕事件以来、菅氏からは連絡も相談も一切がなくなった。私はこの事件について「麻生政権の政治捜査で、政権交代を阻止するための謀略」と論じてきたが、菅政権成立と時を同じくして「小沢切り」を本格化させたことを考えてみると、西松問題以後、「小沢切り」を構想していたのかも知れない。

 それにしても、菅首相と枝野幹事長のテレビや集会での発言には呆れ果てている。自分の言論に対しての誠実さが垣間もみられず、問題点を指摘されると詭弁ではぐらかし、不利になると相手の古傷に指を入れて逆襲する。この有様を横目で見ていると昭和40年代の無秩序に陥った大学紛争や、平成7年の過激新興宗教団体の広報担当の「あゝ言えば、こういう。こう言えば、あゝいう」を思い出し、背筋が凍る。

 安倍・福田・麻生と続いた自公政権トップの「政権担当能力」にも確かに問題はあった。それにしても、マニフェストの修正に適切な説明もなく、党内論議を経ていない消費税アップの具体論を政権トップが思いつきで発言する、これらは私の政治体験にない新事態である。

 菅新政権で政治手法が異常に変化し、120年続いた日本の議会政治とはまったく異質の政権運営がなされているのを目の当たりにすると、議会に永年携わってきた我が身には、忸怩たる思いである。

 がしかし、「メルマガ・日本一新」を読んで頂いている多く方々からの叱咤激励も届き、いま筆を起こしながら、その責任の重さを痛感している。

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2010年7月 6日

わかりやすい国会の話[第18回]昭和時代の議会政治(5)

■敗戦・占領・政党の復活

 太平洋戦争は、軍人・軍属の戦死行方不明者230万人、一般国民の死者行方不明者80万人を数えた。また、本土ですらごく一部の都市を除いて、ほとんど焦土化するという惨状で敗戦となった。

 8月15日、鈴木内閣は敗戦の責任をとって総辞職した。翌16日、東久邇宮稔彦王内閣が発足する。8月28日に横浜に連合国総司令部(GHQ)が設置され、30日には連合国最高司令官マッカーサー元帥が厚木に到着した。9月2日、米艦ミズリー号上で重光外相、梅津参謀長の両全権が出席して降伏書の調印が行われた。

>>続きは「Infoseekニュース 内憂外患」で

2010年7月 3日

「日本一新運動」の原点(2)

 平成10年(1998)6月、小沢一郎を党首とする自由党は、『日本再興へのシナリオ』=「国民が主役の社会」を目指して=を発表した。

 ここで私たちは、二つの世界的激変を認識して、政治にあたることを誓った。

 一つは、東西冷戦構造の終焉である。世界規模の戦争は回避されつつあるが、地域紛争やテロの頻発、核兵器や生物・化学兵器が拡散して、局地的な危険は増大している。もはや国際社会の平和と安全を、特定の国に委ねることに限界がきた。国連の機能を重視し、国際的枠組の中で平和を維持する必要がある。「一国平和主義」は破綻した。

 いま一つの激変は、資本主義の変質である。重化学工業から情報社会へ第三次産業革命が行われた。日本では手をこまねいていても成長する右肩上がりの経済成長時代は終わった。さらに世界に例をみない超少子・高齢化社会に突入した。いかに経済の活力を維持していくか。これまでの高度成長時代の官主導の利権政治を改革しなければならない。日本は今、前例のない状況に遭遇している。

 この歴史認識にもとづいて、私たちは「このままでは日本は衰退の道を歩むだけだ。今ほど政治の自己改革と国民の意識改革が求められている時はない」(シナリオ4頁)。と宣言して、真っ先に必要な改革を「政治の自己改革」と「国民の意識改革」とした。

 菅首相は去る6月11日、国会での「所信表明」で「90年代初頭のバブル崩壊から約20年、日本経済が低迷を続けた結果、国民はかつての自信を失い、将来への漠然とした不安に萎縮しています」と発言した。

 これが歴史的政権交代を果たした政権トップの歴史認識かと思うと情けなくなる。日本人が自信を失い、将来への不安も持って萎縮している原因を「経済の低迷」とし、聞きようによっては、「バブル経済」を評価しているような発言である。民主党内から批判が出ないのは政党としての理念に混迷があるからだ。

 20世紀から21世紀への世界史的激変は、先に指摘したように「東西冷戦の終焉による国際社会の構造変化」と「第三次産業革命による資本主義の変質」である。日本の衰退の根本原因はここにあり、そのため「政治の自己改革」と「国民の意識改革」が実現されなければならないのだ。

 菅首相は政権の座につくや「私は現実主義者だ」と自負した。真の現実主義なら「理念」と「理想」の繋がりの中で、問題解決へ具体的な展開を提示していく。「官僚はバカだ」といって、その舌の根の乾かないうちに「官僚の能力を活用する」と言い換え、官僚の手の平に乗ることを「現実主義者」とは言わない。

 それは「オポチュニスト」という。

※編集担当注=オポチュニストとは、日和見主義者。便宜主義者。(広辞苑)日和見主義者。御都合主義者。(大辞泉、大辞林)風見鶏(Freshペディア)


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日本一新の会 担当

Profile

平野貞夫(ひらの・さだお)

-----<経歴>-----

1935年、高知県生まれ。
法政大学大学院政治学修士課程終了。
衆院事務局に入り、副議長(園田直)秘書、議長(前尾繁三郎)秘書などを経て委員部長となる。
1992年、参院高知地方区で当選し、小沢一郎と行動を共にする。
2004年、参院議員を引退。
以降、言論執筆活動に専念する。

BookMarks

-----<著書>-----


『坂本龍馬の10人の女と謎の信仰』
2010年1月、幻冬舎


『平成政治20年史』
2008年11月、幻冬舎


『虚像に囚われた政治家 小沢一郎の真実』
2006年9月、講談社


『ロッキード事件「葬られた真実」』
2006年7月、講談社


『公明党・創価学会と日本』
2005年6月、講談社

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