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2009年8月25日

「友愛と共生社会」の実現へ(8)── 友愛と共生の社会づくりの理念

【編集部より新刊のご案内】

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平野貞夫著:わが友・小沢一郎(幻冬舎)

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 20世紀に出現した異様な人間文明、21世紀の地球人類を恐怖に陥れている諸々の問題。これらを解決する根本は人間の価値観に問題がある。「友愛と共生社会」実現のためには、人間の価値観の見直しから始めねばならない。

 人間は、古来から文明の発展を幸福の基礎としていた。そのため「所有欲求」と「存在欲求」という価値観を拡大させる競争をつづけてきた。それが現代の混迷の原因である。人間は、古来から社会的動物であり、「共に生き共に幸せになる」という、「共生欲求」=「友愛欲求」という価値観を本能として持っていた。これを退化させたのが現代である。

 「所有欲求」と「存在欲求」を否定するものではないが、「共生欲求」を再生させなければならない。この三つの価値観を調整した「共生社会」を実現しなければ、人類は滅びる。このような発想は政治の分野で議論されている。平成18年(2006)4月、民主党代表選挙での小沢一郎氏の政見演説に

「小泉政治は自由と身勝手を混同した結果、弱肉強食の格差社会という妖怪を生み出してしまいました。本当の自由とは誰もが共に生きていける『共生』の理念が前提であり、それを保証する規律と責任を伴うものであります。その『共生』のル-ルが公正なのです」という文言がある。さらに同年9月、小沢氏が民主党代表選挙に再挑戦したとき、私の意見で、「私たちは『共生』を新しい国づくりの理念として、あらゆる面で筋の通った『公正な国・日本』をつくる。そのために、国民ひとりひとりが自立し、国家としても自立することを目指す。・・・・人間と人間、国家と国家、人間と自然の『共生』を国是とする」

 と述べている。「友愛・共生社会」をつくる作業は始まっているのだ。

 高度情報化社会へと文明が移行した現代、それは脳神経細胞を皮膚の外に出したような社会である。こんな人間社会で排他的競争を続けるなら、人間社会は崩壊し、地球全体が破滅の危機に直面することは、誰の目にも明らかである。残された時間は少ない。この混迷を解決するため、東洋思想(共生の語源は仏教のお経)を活用して、日本から「友愛・共生社会」の基本理念を発信すべきだ。


《「友愛・共生社会」の基本理念》

■新しい価値観による人づくり
人類愛、人間の絆、相互信頼、自然・国家・人との「共生」を価値観とし、自立心を高める人づくりを最優先課題とする。異なる文明、宗教、思想の融和を日本人の手で実現し、地球、人類に貢献する。

■地球環境の保全
地球環境保全の義務を市場経済原理より上位とする。自然との共生の思想と施策を日本から発信する。

■健全な市場経済社会の確立
ヘッジファンドなど排他的投機資本主義を規制して、公正な市場経済社会を確立する。モノづくりの創造的活動や自然と共生する産業を育成する。

■安全保障・危機管理の確立
核兵器を廃絶し、文明・国家・民族などの共生による平和を確立する。そのため、国連の抜本的改革により、国際社会および人間の安全保障を確立する。テロや災害を防御し、その原因を排除する。

■国民主役の政治・社会の確立
情報化社会に適応するデモクラシーを確立する。重要問題に国民投票制を導入するなど、代表制民主主義を補完する制度を整備する。国と地方との役割を定め、国民生活の基本である地域主権を確立する。
異なる運命を社会的に共有するため、基礎的社会保障を国の責任で整備し、公正で自由な社会を確立する。
共生社会とは、人々の自立心を前提とするもので、怠け者が得をする社会ではない。

(終わり)

2009年8月23日

「友愛と共生社会」の実現へ(7)── 労働運動から政治運動へ

【編集部より新刊のご案内】

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平野貞夫著:わが友・小沢一郎(幻冬舎)

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 鈴木文治の努力で創設された「友愛会」の綱領は、次のようなものであった。

(1)我らは互いに親睦し、一致協力して相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
(2)我らは公共の理想に従い、識見の開発、德性の開発、德性の涵養、技術の進歩をはからんことを期す。
(3)我らは共同の力により、着実な方法をもって我らの地位の改善をはからんことを期す。

 ユニテリアンの精神そのものである。友愛会の顧問には、東大教授・桑田熊蔵、法学博士・小河滋次郎、評議員に慶応大教授・堀江帰一、東大教授・高野岩三郎、戸板女学校主幹・武田芳三郎、早大教授・内ヶ崎作三郎(牧師)、仏文学者・内藤濯、弁護士・松尾清次、子爵・五島盛光、東京養育院幹事・安達憲忠、一高教授・三並良、東京商大教授・関一らが就任した。そして、渋沢栄一ら開明的経営者の協力を得て発足した。明治の有識者の中には、時の政権に媚びを売る21世紀の日本の有識者とは違う見識があった。

 友愛会運動は二年目で2,000人を組織し、どんどん拡大していく。第一次世界大戦やロシア革命など歴史の中で、労働運動として発展を遂げる。大正10年(1921)10月の10周年記念大会で「日本労働総同盟」となる。ユニテリアン思想を出発点として、弱い立場の働くものを守り、労働争議を指導する本格的な労働運動の全国組織となる。

 日本の経済発展とともに、労働運動もILOに加盟するなど展開していくが、ソ連や社会主義運動の影響を受けて分裂をくり返す。また戦時体制では国家権力の中に組み入れられていく。さらに敗戦後の労働運動は、米ソ冷戦下ではイデオロギーの対立をくり返した。経済が成長し豊かな社会となると、労働運動の退廃が始まる。自分たちだけが良ければよいとの風潮が主流となる。労働貴族が生まれ労働組合員の既得権化を批判されるようになる。21世紀の今日、労働組合運動は大きな曲り角にきている。

 鈴木文治が創って働く人々全体の「相愛扶助」という「友愛会の原点」は、ほとんど忘れられている。現在の「友愛会館」の場所は、かつてのユニテリアン教会のあったところだ。ユニテリアンという言葉を知る人もきわめて少ない。その精神はほとんどの人々の心から消えてしまった。

 「友愛会」といえば、もう一方で戦前から知られているのが、鳩山由紀夫民主党代表の祖父・鳩山一郎元首相である。戦後の昭和27年(1952)、政界復帰後はじめての演説で「友愛革命」を提唱した。孟子の「惻隠の心」という言葉を引用したり、ユニテリアンの話を引用して、真の友情や隣人愛の必要性を説いている。さらに民主主義を確立するためには「智」がなくてはならないとし、これがないと衆愚政治になると論じている。ユニテリアン思想は、健全な保守主義者の中にも大きな影響を与えていた。

 20世紀に出現した異様な人間文明、排他的で自己中心の過剰な市場原理主義による投機資本主義は、米国のキリスト教原理主義者の影響によって、21世紀の地球人類を恐怖に陥れている。中東の石油資源をめぐる争いも、人間を勝組と負組に区別し格差と貧困をつくる政治も、その背景には宗教・信仰の堕落がある。いかにして「友愛と共生の社会」を実現すべきか、次回の最終版で述べよう。(続く)

2009年8月21日

「友愛と共生社会」の実現へ(6)── ユニテリアン思想の転換

【編集部より新刊のご案内】

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平野貞夫著:わが友・小沢一郎(幻冬舎)

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 明治時代の支配層たちが導入し、普及させたユニテリアン思想は、前回述べた大山巌のような形で心ある人たちの中で残っていた。しかし、有識者のほとんどは時代の流れとともにユニテリアン思想を放棄していく。

 日本で衰退したかに見えたユニテリアン運動は労働問題や社会問題の解決を真剣に考える人たちによって、継承され発展していく。キリスト教社会主義に関心を持つ人たちである。安部磯雄、鈴木文治、村井知至らがユニタリアンとなり、社会派の政治家・島田三郎が運動の協力者となる。

 安部磯雄の指導で、鈴木文治がユニテリアン教会を足場に労働者救済のための組織「友愛会」を創っていく経過を述べておく。

 鈴木文治は、明治18年(1885)、宮城県に生まれ、10歳で父とともに「金成ハリス正教」で洗礼をうける。苦学して東大政治学科に学び、卒業して「秀英会」(現大日本印刷)に勤め、ここで労務管理にかかわった後、東京朝日新聞社会部記者となる。時代は明治末期、大逆事件やハレー彗星で社会は混迷していた。スラム街のルポルタージュ「東京浮浪人生活」などで活躍する。その体験をもとに「浮浪人研究会」を組織するが、ある出来事で朝日新聞社を辞める。

 鈴木文治が三度目に就職したのが、東京芝三田にあるユニタリアン教会であった。米国から来日していた宣教師やマコレーの秘書役をやりながら『六合雑誌』の編集にあたるようになる。鈴木は、東京の工場街でさまよう大量の労働者をみて、救いの手をさしのべねばならないと感じ、「教会として何かなすべきだ」と考え、ユニテリアン協会の中に「人事相談所」を開設した。

 次いで、「労働者講話会」を開いたところ、ユニテリアン教会の中の「唯一館」の楼上に、職工や近隣の人たち約400人が集まったといわれる。この講話会は毎月15日に工員たちを集め、知名人講師による労働者の修養論をはじめ労働問題の啓蒙運動を行った。これらはユニテリアン教会の付属伝道団体の社会事業として行われるが、大逆事件(明治43年)の影響を受けて「通俗講話会」と名を変えた。

 時代は社会運動や労働争議が頻発し、その取締りが厳しくなる中で、通俗講話会は労働組合結成へと動き始める。大正元年(1912)8月1日、明治天皇崩御の3日後、「唯一館」の図書館で「友愛会」が結成された。友愛会は、鈴木文治が宣教師マコレーと弘道会・安部磯雄の協力で提唱した共済的親睦団体であった。

 この友愛会の綱領や活動について、次回に述べよう。

2009年8月17日

「友愛と共生社会」の実現へ(5)── ユニテリアン思想の啓蒙と挫折

【編集部より新刊のご案内】
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平野貞夫著:わが友・小沢一郎(幻冬舎)

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 福沢諭吉のユニテリアンに対する考え方は、明治23年(1890)3月発行の『ゆにてりあん』第1号に載っている。

「教えの目的は人類の位を高尚にして、努力の働きを自由にし、博愛を主とし、一個人一家族の関係に至るまでも、之を網羅して善に向はしむるにありとのことなれば、都て是て現在の人事にして、余輩宗教不案内の者にも甚だ解し易く、果たして其実効を奏せんには、人間至大の幸福これに過るものあらず」

 ナップ宣教師は福沢諭吉の好意で、賛同者を増やしていく。協力者は福沢だけではなかった。東大総長の外山正一、同じく加藤弘之、東大教授で明六社をつくって啓蒙思想を普及し『自由の理』を記した中村正直らが支援した。文学界では矢崎嵯峨の屋、幸田露伴、北村透谷らがユニテリアン思想から大きな影響を受けていた。明治時代を創った有識者の思想形成にユニテリアン思想が与えた影響は大きい。

 福沢諭吉は、慶応義塾に神学部をつくり、ユニテリアン思想の教育を行う構想を持っていた。ところが、明治30年頃から突然ユニテリアンから離れるようになる。その理由についていろいろな見方がある。ひとつは明治32年、福沢が軽い脳梗塞を起こし体力的に弱くなったとの説である。

 もうひとつは、明治憲法・教育勅語体制が整うにつれて、日本の支配層に変質があったことを理由とする説である。福沢は「教育勅語」に反対で、それに理解を示すユニテリアンに不満があったという説。また、日本のユニテリアン教会の内部問題もあったようだ。いずれにせよ、日清戦争後、(1894~95)、日本の資本主義が急速に成長していくなかで、有識者たちも理想主義の活動に限界が生じてきたことが背景にあった。

 明治国家の建設に努力した人々の間で、ユニテリアンを支援する動きは日清戦争を契機に急減していく。しかし、国家の要職にありながら、ユニテリアンの教えを実行する人物がいた。陸軍の大山巌である。日清戦争で第二司令官のとき、日本兵に住民からの略奪や捕虜に乱暴することを厳しく禁止した。

 厳寒の旅順の清国兵の捕虜たちが屋外でふるえているのをみて、自分たちの馬を外に出して屋内に入れ、清国兵は合掌して感謝した。これを見た外国人記者は「地球上で他にない見事な軍隊だ」と褒めたたえた。日露戦争では、総司令官であった大山巌は捕虜収容所に向かうロシア兵を、日本軍に「敬礼」させて見送らせた。その態度に感動してロシア兵が泣いている様子が、英国新聞に報道された。

 大山巌のこれらの態度は、万次郎から個人授業として受けたナイチンゲールなどのユニテリアン思想によるものであった。(続く)

2009年8月12日

「友愛と共生社会」の実現へ(4)──日本人とユニテリアン思想

 日本に議会制度や憲法を導入するため、キリスト教文化を理解しなければならない。そのためユニテリアン思想が、もっとも適切だと明治政府の開明派の人たちは考えた。それが実行に移されたのは、明治11年(1878)であった。

 政府は米国でユニテリアンとして知られているフェノロサ氏を招き、東大教授として哲学、論理学、理財学を担当させることになる。フェノロサ教授は、エマソンの「東西文化の融合」を研究のテーマとし、東洋の高い文化を西洋に伝え、エマソンやホイットマンの世界友愛主義による夢を実現しようとした。

 フェノロサ教授は、仏教に改宗するがユニテリアンへの支援はつづける。彼は8年間、日本に滞在して活躍する。伊藤博文の側近金子堅太郎が、ハーバード大学留学中の友人で大きな影響を受けている。金子は1889年(明治22)、議会制度研究のため米国を訪ねたとき、ボストンのAUA(米国ユニテリアン協会)本部で、「現在の仏教は腐敗していて望みはないが、最高形態の仏教とユニテリアン思想は同じだ。ユニテリアン信仰はどの国よりも日本で未来がある」と演説した。

 明治憲法制度の準備をしていた伊藤博文の側近らが、なぜユニテリアン思想に関心を持ったのか。それは議会制度がキリスト教文化で成り立っていることを見抜いていたからだ。当時、日本は不平等条約の改正が政治課題であり、欧米諸国はその条件として近代憲法により議会制度を導入することを強く要請していた。21世紀の日本の指導者たちには、こういう文明論についての感性はまったくない。

 ユニテリアン思想に関心を持ったのは、政府関係者だけではない。民間の知識人も、他宗教に寛容で、異文化に理解のあるユニテリアン教会なら物真似でない日本の真の近代化に役立つと期待した。AUAから派遣される宣教師の世話や協力は、福沢諭吉親子によって進むことになる。1887年(明治20)、福沢諭吉の長男・一太郎は、ボストンでユニテリアンのナップ宣教師と会う。日本の宗教事情調査のため派遣される準備中だったナップ宣教師は、一太郎に協力を要請する。一太郎は父・諭吉に手紙を出し、ナップ宣教師の訪日目的を説明する。

 ナップ宣教師は、福沢諭吉の協力で明治21年(1888)3月に訪日して、活動を始める。その最初が、明治21年4月15日に交詢社で講演した「ユニテリアンの教義について」であった。このブログの第1回で述べたように、これから120年ぶりに「ユニテリアン思想」について、私が交詢社で講演して、参加者を驚かしたわけだ。

 福沢諭吉のユニテリアン思想にかける思いは普通ではなかった。(続く)

2009年8月 8日

「友愛と共生社会」の実現へ(3)── ユニテリアン思想の日本での展開

 ジョン万次郎は、日本人で初めてのユニテリアン信者であった。その生涯をふり返ると、自分の言動に責任を持ち、救いは自分で勝ち取るものであり、人類全体が救済されるべきものであるとの教えどうり生きたといえる。

 そのために、人が人として生きるための知恵と覚悟を理解するために、人間の教育が最も大切であるという信条であった。そして人類全体が幸せになるため、「異なった運命を社会的に共有する『共生社会』の実現」を考えていた。

 ところで、日本では万次郎で始まるユニテリアン信仰はどのような展開をしたのであろうか。万次郎は帰国後、自分からユニテリアン信者だと表明したことはない。幕末、明治にわたって、英語や西洋事情を学びにきた人たちに、しっかりとした人間教育をした。多くの指導者が輩出したが、その内容はユニテリアンの思想であった。

 日本は、明治6年(1873)にキリスト教禁制を撤廃する。それ以降、正統派の宣教活動が始まる。しかし彼らは、日本文化をまったく理解せず、西洋文化とくにキリスト教徒を唯一絶対の宗教と主張した。明治政府は、他宗教に寛容で異文化を理解するユニテリアン教会なら、日本の近代化に役立つと考えるようになる。

 明治時代、最初にユニテリアン信仰に強い関心をもったのは矢野文雄であった。福沢諭吉の慶応義塾で学び、大隈重信の推薦で政府に入り大政官大書記官を勤めていたが、明治14年(1884)の政変で下野し、郵便報知新聞の副主筆となり、立憲改進党の結成に参加する。英国滞在中にユニテリアン信仰を知り新聞に紹介する。

 矢野は、キリスト教の神怪不可思議な部分を除いて道徳のみを強調するユニテリアンを高く評価した。そして英国のユニテリアン教会に宣教師の派遣を要請したが、成功しなかった。しかし、矢野の運動は当時の日本の教育界や言論界で称賛を受ける。

 明治政府部内でも強い関心を示しはじめる。森有礼が米国公使のときユニテリアン思想を知り、その合理性、人類的発想と実効性を評価して、日本へ導入するため使節を送ることをユニテリアンの指導者に要請している。外交官でワシントンに駐在していた吉田清成も森有礼と同じ考えで、ユニテリアン教会に通い、この思想は日本人の思想に適合すると語っていた。

 政府高官でユニテリアン思想にもっとも関心をもっていたのは、伊藤博文の側近・金子堅太郎であった。金子はハーバード大学に在学中、ユニテリアンと付き合う機会が多く、日本への導入を考えていた。(続く)

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ジョン万次郎に学ぶ―「自立と共生」の理念に生きた男(平野貞夫著)

2009年8月 5日

「友愛と共生社会」の実現へ(2) ── 友愛の原点はユニテリアン思想にあり

 ジョン万次郎がボストン郊外のフェアヘブンで暮らすことになったのは、1843年(天保14年)であった。ホイットフイールド船長は、日曜日に先祖から続く教会につれていく。名士たちの家族席に座ろうとしたしたところ、黄色人種の万次郎は黒人として扱われ、教会に連れてくることを断られた。

 船長は万次郎を受けてくれる教会を探し、宗派を変えて「ユニテリアン教会」に行くことになる。万次郎は捕鯨船の船主で、ユニテリアン教会の信者代表のワーレン・デラノ(フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の祖父)に可愛がられ、ユニテリアン信仰を深めていった。ユニテリアン信仰は、正統派キリスト教徒が信じる三位一体を否定し、神の唯一性を信じる人々だといわれている。万人救済を教義とし、人類愛や隣人愛を主張する。異宗教間の交流活動にきわめて積極的で、自由と理性と寛容を重んじ権威への盲従を嫌う。歴史的には、西暦325年の宗教会議で決定した「三位一体説」に反対し、キリストを神の子と認めない人たちを発祥としているため、異端視されていた。

 米国でのユニテリアン運動の発祥は、1620年にメイフラワー号で英国を去り、マサチューセッツのプリマスに上陸した清教徒が結成した「会衆派」をルーツとしている。フェアヘブンはプリマスの目先である。万教同根という縄文古神道のDNAを持つ万次郎とは不思議な縁である。万次郎がフェアヘブンで暮らした1843年から46年頃というのは、ボストンを中心にユニテリアン運動がもっとも盛んな時代であった。中心人物はエマソン(1803〜82)であり、ホイットマン(1819〜92)が続く。

 エマソンは、ニュー・イングランドの牧師の家に生まれ、26才のときユニテリアン派の牧師になる。「自然と神と人間が究極的に同一のものに帰する」という汎神論を主張し、東洋の哲学や宗派に強い関心を示した。思想家として米国の良識を代表していた。ホイットマンは詩人として知られ、エマソンの影響を受け、草の根デモクラシー運動や奴隷解放運動などを展開した。万次郎が帰国後、幕閣や土佐藩などで説明した米国の政治や社会の背景にある考え方は、エマソンやホイットマンの思想を反映したものであった。ユニテリアン信仰の特長は、「神の存在と神の愛と摂理を信じ、救いは自分で勝ち取る責任があり、人は自分の言動に対して自ら責任を負い、霊魂は不滅であることを信じ、人類は皆救済されることにある」といわれている。これが「友愛」の原点であり、まさに「自立と共生」の精神といえる。(続く)

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ジョン万次郎に学ぶ―「自立と共生」の理念に生きた男(平野貞夫著)

Profile

平野貞夫(ひらの・さだお)

-----<経歴>-----

1935年、高知県生まれ。
法政大学大学院政治学修士課程終了。
衆院事務局に入り、副議長(園田直)秘書、議長(前尾繁三郎)秘書などを経て委員部長となる。
1992年、参院高知地方区で当選し、小沢一郎と行動を共にする。
2004年、参院議員を引退。
以降、言論執筆活動に専念する。

BookMarks

-----<著書>-----


『坂本龍馬の10人の女と謎の信仰』
2010年1月、幻冬舎


『平成政治20年史』
2008年11月、幻冬舎


『虚像に囚われた政治家 小沢一郎の真実』
2006年9月、講談社


『ロッキード事件「葬られた真実」』
2006年7月、講談社


『公明党・創価学会と日本』
2005年6月、講談社

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