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2009年1月22日

次の選挙で自民党が勝つとすれば

政権交代がかかった次の総選挙で、仮に自民党が勝つとしたらどうすればいいのか。このことについて、何人かの自民党議員に聞いてまわった。そのなかで、一番整理されて興味深かったのが加藤紘一さんだった。加藤さんは「自民党の役割は終わった」というのである。ここから先は加藤さんの受け売り。

自民党の歴史はいくつかの時代に分けることができる。一つは1955年以降。当時、ソ連が世界の大きな世界の勢力の中心であり、日本でもそれに見合う形で社会党の右派と左派が合同した。スローガンは「日本に社会主義を」。

>>続きは『THE JOURNAL×Infoseekニュースで』

2009年1月10日

総合誌の衰弱が止まらない──細分化される日本

 新聞、テレビ、雑誌など、既存メディアの地盤沈下が続いている。

 昨年六月まで、私が所属していた夕刊紙『日刊ゲンダイ』も例外ではない。1990年代後半から部数が落ち込み始め、そのことは肌で感じていた。週刊誌も同じだ。19080年代後半、『週刊ポスト』と『週刊現代』は80万部発行されていたのに、現在では両誌とも40万部を切っている。サラリーマン向けの週刊誌はこの10年で半減したことになる。

 週刊誌や夕刊紙が読まれなくなった理由にはさまざまな要因があると思う。

 一つは、中心的な読者層であるサラリーマンの自由に使えるお金が減ったこと。ある研究所が毎年行っている調査によると、父親のお小遣いの全国平均は、1990年は7万円。それが2004年の統計から4万円を切り、現在は3万8900円。4万円の小遣いでは、お父さんが毎日昼ごはんを食べれば残りは1万5000円。週二回、仕事帰りに新橋で一杯飲んで家に帰ると、手元に残る金額はほんのわずかだ。さらに、ここ十年で普及した携帯電話の費用を払えば、夕刊紙に払う120円の余裕すらなくなってしまう。そこにインターネットが普及して、活字メディアは大きな打撃を受けた。

 二つ目は、「総合」という概念がもはや通用しなくなったことだ。私たちが総合誌と呼んでいる雑誌は、今では現代日本の多様な価値観を包含できていない。個人の価値観や嗜好が多様化し、世代を超えて、いや、同世代同士であっても共通となる話題が少なくなった。それが誌面制作を難しくしている。
私が学生だったころ、総合誌の代表格であった『世界』や『朝日ジャーナル』を背伸びして読んでいたのは、「自分は世界のなかでどこに位置しているのか」ということを知りたかったからだ。サラリーマンになった後も同じで、総合誌を読むことで世の中の動きを把握できた。だが、今では大人でさえも自らの位置を確かめることはしなくなった。

 雑誌の広告収入が頭打ちになっているのも、実はこのことが影響している。昔は『週刊ポスト』や『週刊現代』には、裏表紙に必ずといっていいほど自動車の広告が掲載されていたのに、今、自動車メーカーは総合誌に掲載する車は高級乗用車がいいのかミニバンがいいのかわからない。

 その一方で、クラスマガジンのように特定の読者層をターゲットにした雑誌は、宣伝効果が高いメディアとして考えられるようになっている。たとえば、小学館の『BE-PAL』であれば、オフロード車の広告を載せればいい。
 
 この傾向はネット広告の普及でさらに加速している。ネットでは、ユーザーの年代や趣味・嗜好が把握できているので、広告のターゲットを絞りやすい。こうなると、総合誌衰退の流れを止めることは容易ではない。

 だが、総合誌がなくなったとき、社会に残るものは何だろうか。結論から言えば、きわめて細分化した、最終的には「私」という一人称だけの社会になるのではないかと私は思っている。

 今年六月に発生した秋葉原事件もそうだった。犯人は「殺すのは誰でもよかった」と言う。彼からすると、社会は「自分」と「自分以外」でしかない。他者との関係性について親兄弟、友人、仕事仲間と同心円状に広がる距離や濃淡をとらなくなるため、感情は何の関係性もないところに向かって暴発する。
ネットには、自分の欲求を満たす情報があふれている。だが、ネットでの情報収集は自分の欲求にあう情報ばかりを集めがちで、実は、積極的な情報収集をしているように見えて、実際は単なる情報の「受け手」であることが少なくない。となると、今後、総合誌が衰退し、ネットを中心に特定の読者に特化したメディアが増えることで、「私」以外に興味を持たない情報の「受け手」がさらに増えるのではないだろうか。

 二年前、自民党の加藤紘一さんの実家が放火にあったとき、新右翼・一水会顧問の鈴木邦男さんが言った言葉が印象的だった。

「いま、雑誌が、どんどん、右翼よりも右翼らしいことを書き、ネット上の言説も右翼がとてもついていけない。となると、古い右翼はああいう行動でしか自己表現できない」

 右の雑誌があっても左の雑誌があってもかまわない。しかし、雑誌の思想が先鋭化すればするほど読者がついてくるようなメディアの世界はすでに狭隘になりすぎている。
私自身の経験から言えば、新聞、テレビ、雑誌を制作している情報の送り手は、実はそれほど強くはなく、販売部数や視聴率にフラフラしやすいのが実情である。

 活字メディアの低調とネット言説の拡大は当面止めようがない。だとすれば、逆にネットというツールを取り込んで“まっとうな”メディアにしていく必要がある。

Profile

二木啓孝(ふたつき・ひろたか)

-----<経歴>-----

1949年、鹿児島県出身。
明治大学在学中から出版社勤務。
1979年、小学館「週刊ポスト」専属記者。
1983年、「日刊現代」入社。編集局配属。
1995年、編集部長。政治、企業事件、宗教問題をテーマに取材・執筆。
2007年、「日刊現代」を退社。現在、BS11編成制作局長。

-----<出演>-----

『インサイドアウト』
(BS11)
『NEWSゆう+』
(大阪ABC)
『おはようコール』
(大阪ABC)
『パックイン・ジャーナル』
(朝日ニュースター)
『アクセス』
(TBSラジオ)

BookMarks

-----<著書>-----


『宗男の言い分』
2002年7月、飛鳥新社


『殺人心理』
2000年10月、アスキー


『永田町の通信簿』
1996年12月、作品社

『手に取るように政治が分かる本』
かんき出版

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