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2006年7月30日

「摂理」というカルト

 ここ数日、新聞やテレビでカルト教団「摂理」の報道が続いている。これまで「週刊ポスト」「週刊文春」が報じてきたものの、7月28日に朝日新聞が大きく報じたことでいっきょに社会問題として浮上したのだ。この団体は1979年に韓国で設立、教祖は鄭明析(チョンミョンソク、61歳)。鄭はもともと統一教会の信者で、講師をしていた。教団は日本では最初「明星教会」と名乗っていたが、のちに「モーニングスター」、さらに「JMS」と名称を変え(いずれもミョンソクの頭文字による)、いまでは「摂理」として活動している。公称では世界で15万人、日本では2000人の信者がいるという。テレビ朝日では「2000人から3000人」と報じられたが、実際には多くても1000人前後ではないかという関係者もいる。

 教義は「三十講論」といい、統一教会の「原理講論」の焼き直しだ。人類の原罪としての堕落はイブがサタンとセックスをしたところにあるから、「霊的な救い」だけではなく、「肉的な救い」が必要だという「教え」だ。世俗的な表現でいえば「若い女性を好む助兵衛オヤジが統一教会のシステムとテクニックを利用して教祖を演じている」ということである。初期の統一教会で「再臨のメシア」だという文鮮明教祖が「血分け」の儀式として女性たちに性的関係を強要したのを鄭明析が真似したということである。若い女性信者への強姦容疑で教祖は国際手配され、現在は中国に潜伏していると見られている。日本女性の被害も100人を超すというが、その実体も実のところ明らかではない。

 韓国では1999年1月にソウル放送の「それが知りたい」という番組で元女性信者が教祖を告発したことをきっかけに被害者が表面化していった。同年12月に強姦容疑で告発された鄭明析は、韓国を脱出。02年1月に来日、03年6月に女子大生への強姦容疑などでソウル地検から指名手配され、7月に香港で逮捕(不法滞在容疑)される。その危機を保釈金を支払うことで切り抜け、その後は中国大陸を転々としているようだ。今春まで東北部の鞍山に潜伏していたことまでは確認されている。勧誘方法は統一教会とさして変わりはない。団体名を名乗らずにスポーツ、音楽などのサークルに誘う。人間関係を築いたうえで脈があると判断した者に「聖書の勉強をしませんか」とさらに選別していく。相手によっては、すぐにでも「いい人がいる」と教義の勉強に誘う。「信頼する者から頼まれれば断りにくい」という社会心理学の手法を取るのである。

 外部から見れば「いかがわしい」集団であっても、その環境のなかに徐々に入り込んでいくとき、その姿を客観的に見ることができなくなるのだ。カルト対策のビラを配布することさえ嫌がる大学の体質も問題だが、抵抗力や批判精神の弱い若者たちがいることもまた問題なのである。基本的には騙すカルトに問題があるのだが、免疫をつける社会的教育が日本ではあまりにも遅れすぎている。現状に不満のある若者たちは「来るべき世界」(統一教会では「地上天国」)を求めている。希望なき日本社会がカルトの温床なのだ。

2006年7月 8日

米原万里さんの想い出

 7月7日、七夕の宵に日比谷のプレスセンターで米原万里さんを偲ぶ会が開かれました。万里さんは5月25日に56歳になってひと月も経たないうちに亡くなったのでした。実はわたしの祖父は万里さんのお父様の昶さん(元共産党衆議院議員)の親戚で、お母様の美智子さんもわたしの母を共産青年同盟に誘うという関係でした。その万里さんの想い出をゆかりある人たちが披露するのを聞いていると、本当に「巨人」だったんだなと感慨が湧いてきました。文学雑誌で追悼特集が組まれましたが、これから出版される何冊かの単行本でも万里さんの偉大さが再確認されることでしょう。失ってわかることがあるものだとつくずく思ったものです。ゴルバチョフやエリツィンに信頼された通訳だったことなどはすでによく知られていることです。わたしにもいくつかの想い出があります。

 2002年9月に北朝鮮の金正日総書記が日本人拉致を認めました。その秋のこと、わたしたちはニューヨークタイムズに拉致問題解決を求める意見広告を掲載する運動をはじめました。賛同者に寄付を募ったのです。広告代金は約600万円。身近な位置からの卑劣な妨害などがあったものの、すぐに1300万円を超えるカンパが集まり、年末には金正日総書記に語りかける意見広告が掲載されました。残金は「家族会」に寄付をしました。カンパをしてくださった方々のお名前をネットで公表するための作業をしているときのこと。そこに「米原万里」の名前があったのです。しかも多額なカンパだったことに驚き、うれしく思ったものでした。万里さんとはメールでのやりとりが時々あったものの、カンパしてくれたことなどはいっさい語ることはありませんでした。

 いまでも忘れられないことがあります。作家となり原稿を書くことが重なっていたのでしょう。風呂に入る時間もなく、髪の毛も手入れすることなく、ただただ原稿を書いているという内容でした。悲惨な生活だとも書かれていました。まさしく切迫した戦闘状態だったのでしょう。そのころのわたしは13年がかりで取り組んできたテレサ・テンの原稿に追われているときでもありました。別のメールでその気持ちを書いたところ、万里さんはとても印象的な返事をくれたのです。「ゲンコーよりケンコー」。すでに彼女を病魔が襲っていたときのことです。人間の存在とは何と贅沢なものなのでしょうか。ひとりの人間の消失とともに、そこに蓄積された才能もまた失われるのですから。

 偲ぶ会で配られた「米原万里 思い出帳」には、彼女の写真とともに「お父さん大好き」という昶さんの追悼文が掲載されています。父と娘がこうした冊子のなかで相まみえるところにも温かい家族の肖像が偲ばれるのでした。外務省を休職中の佐藤優さんの挨拶のなかで、逮捕される前日に万里さんが共産党から査問されたときの経験を電話で語ったと披露していました。理不尽なこととは断固として闘うひとであったことも米原万里さんの忘れられない想い出でもあります。

Profile

有田芳生(ありた・よしふ)

-----<経歴>-----

1952年京都生まれ。
フリーランスのジャーナリスト。

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オフィシャル・ウェブサイト
「有田芳生の今夜もほろ酔い」



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