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2010年3月26日

渓ひらく―"参勤交代"考

今年初めてのアマゴ釣りに3月21日(日)、高知県仁淀川の源流へ行ってきました。

アマゴは、日本列島の太平洋側、神奈川県酒匂(さかわ)川から西の、川の上流部を生息域とする渓流魚で、酒匂川から東や日本海側という列島の4分の3の水域の上流には、ヤマメが棲んでいます。かつて、京都大学で生態学を提唱された今西錦司さんらが、そんな「棲み分け」を調べられました。

私は、19歳、同志社大学の一回生の時にアマゴ釣りを始め、今西先生が会長をしておられた釣りクラブ「ノータリンクラブ」にも属して、チヌ、グレ、アユ、モロコなど四季の釣りを、34歳までは年間に百日ぐらい、34歳からは長良川河口堰反対運動を始めたので年間60日くらいの、川でのアマゴ・アユだけに限定して、56歳の現在も、3月から10月中旬までのほぼ毎週土・日と連休は、どこかの川で竿を出すという趣味を続けています。

3月20日(土)と21日(日)は、大陸からの黄砂が高知に吹き荒れていました。ようやく風が少しやんで竿が出せたのは21日の3時すぎ、1時間ほどで3尾のアマゴの顔を見ることができ、ようやく今年の「渓ひらく」という状況がつくれました。昨年の10月以来、5ヶ月ぶりの釣行です。

仁淀川の源流に、仁淀川町という人口7千人足らずの集落があり、そこに林野庁の旧官舎、木造平屋すきま風びゅうびゅうの一戸建てを借りて"水鳥庵"と名づけ、通っています。

この日釣った、夫と合わせて5尾のアマゴは、近くの居酒屋「大関」に持ち込んで、林野庁の職員だったテンカラ釣りの名手と食べました。私の釣った大型一匹は刺身、あとは塩焼き。この源流部は水がきれいなので、とてもおいしく、臭みが少しもないのが自慢です。


  "参勤交代"考

新大阪駅に近い自宅から、いつもなら5時間で行けるところが、行きは9時間、帰りは7時間。高速道路での事故渋滞が原因でした。減額化で、初心者も高速道路を走るようになったからでしょうか、軽自動車で追い越し車線をスロースピードで走り続けるなどの、高速道路マナーをよく理解できていない運転手もいるなと見えます。

私はこのような釣り場を、高知のほかにも島根県高津川など何カ所か持っていて、水況によって釣り場を選び、通っています。

養老孟司先生は、このような遊び方を、「現代の"参勤交代"」と呼ばれています。

3月15日には、国土交通省住宅局がつくった養老先生を委員長とする「"木の家づくり"から林業再生を考える委員会」の初会合があり、そこで養老先生はいつもの「参勤交代論」をお話しになりました。

都市に棲む生活者が時々は田舎へ行くことで、①鬱を解消する②災害時の棲家をつくっておく③食料もそこでつくる訓練をする④田舎に「第2の親類」をつくっておく⑤地域材で木の家をつくることで「林業再生」の一端を担うことができる、などの効用があると思えます。

もちろん、釣りをしている最中には、こんなことはひとかけらも考えていません。「あの石からアマゴがでるかな」との一念。私のモットーは「少なく釣って、多く楽しむ」。
夫からは「負け惜しみやろ」とからかわれていますが・・・。(笑)

でも、私が文学の師、亡き開高健さんからつけられたニックネームは、「あまご」。開高さんの「オーパ」でも私は、「天野あまご嬢」と紹介されています。いつもアマゴの話ばっかりしているのと、天野礼子の上と下を合わせると「天子(あまご)」というわけです。

長良川河口堰反対を一緒に始めてほしいと開高さんにいった時も、「やっぱり"あまご"やのう」とからかわれました。アマゴの降海魚サツキマスが現代においてもまだ絶滅せず残っていたのが、長良川だったからです。

2010年3月17日

mont-bell広報誌「OUTWARD」連載 47号

森里海連環学のススメ Vol.3

「そして、大地も」


 "森仕事"の次に私が取り組んだのは、"畑仕事"でした。

 釣りや執筆のための家を高知県仁淀川の源流・池川町(今は合併して仁淀川町になっている)に2002年から借りた私は、その町から車で東へ1時間の本山町に住む、就農8年目の山下一穂さんと親しくなりました。  

山下さんは「超かんたん・無農薬有機農法」という本を書いている有機農業者。二人の共通の趣味のアマゴ釣りが、結んでくれました。山下さんはフライマン。私は季節によって、エサ釣りやテンカラ釣りやフライフィッシングを使いわけます。私の方は、アマゴがその時期にいる水の層にふさわしい釣り方で狙うというわけです。  

山下さんと釣りに行き、野菜をいただいているうちに、山下さん以外の有機農業者がつくる無農薬野菜でそれまで抱いていた私のイメージは変わりました。「安全かも知れないけど、おいしくない」と思っていた無農薬有機野菜が、「おいしい」とわかったのです。  

これで私の「森・里・海」が、ほぼ完成することになってゆきます。私は山下さんと「高知439国道有機協議会」をつくり、自分がその事務局長をひきうけて、農林水産省の「有機農業モデルタウン」全国45地区の一つとしての活動を始めるに至るのです。

山下さんの無農薬有機野菜は、ほとんど虫喰いがなく、甘くておいしい。虫喰いがない秘密は、雑草を全部取ってしまわずに適度に残し、そこに害虫を食べてくれる"天敵"を呼びこむこと。春に、たわわに実った山下さんのキャベツ畑で私は、モンシロチョウの乱舞を毎年見ています。キャベツの虫喰いをつくるのは、モンシロチョウの子どもの青虫。その青虫がキャベツの葉っぱに噛み跡を残せていないのは、青虫が大量に生まれるキャベツの成長期にはアオガエルが畑の雑草の中にいて青虫を食べるからというのが、私がこの数年山下さんの畑を観察して得た推論です。  

キャベツが成長してしまってから生まれる青虫は、固くなってしまったキャベツを食べることができず、何かちがうエサ(たとえば、畑に残っている雑草?)を食べて成長し、モンシロチョウになって、自分が生まれたキャベツ畑を乱舞して、次代の子どもを残してゆくのではないでしょうか。  

甘さの秘密の方はどうやら、「超かんたん」と山下さんが称している、山下さん工夫の農法にあるのかもしれません。  

無農薬有機農法の農業者の多くは、落葉樹の葉やさまざまな有機物で堆肥をつくります。それには少なくとも一年くらいはかかるのが普通。また中には堆肥も全くなしの"自然農"と称する放ったらかしにちかい人もいます。  

山下さんの「超かんたん」とは、時間をかけて堆肥をつくらず、ソルゴーと呼ばれる緑肥を植え、それが背丈ほどにのびたらきざみ、畑にすきこんで、3ヶ月以上熟成させるというもの。しかし「超かんたん」と著書には口笛をふいている山下さんのマンガがありますが、これはウソ。  

山下一穂は、高知の"いごっそう"中のいごっそう。負けず嫌いで、人に見えないところで様々な努力や工夫をしていることを口に出さないだけなのです。(注 山下さんのホラを真に受けて「超かんたん」だと思ってまねしても、おいしくはできないかもしれないですよ。日々の努力を"楽しんでやる"人においしい野菜はできるのです)  

農林水産省は平成19年に、「生物多様性戦略」をHPに発表しました。  

そこには、これまで使われてきた農薬が、生物の多様性には"負の遺産"となっていることや、水路のコンクリート化、干潟の埋め立てなどの公共事業も同様に"負の遺産"をつくってきていたと書かれていました。私はこれを見て、腰を抜かすほど驚きました。なんとそこには、あの"ギロチン"と亡き筑紫哲也氏が呼んだ諫早水門が閉じられている写真が載せられていたからです。  

この翌年に農水省は初めて、有機農業に国家の予算を4億6千万円つけました。「有機農業」という言葉が使われ始めて、35年目の快挙でした。  

私と山下さんの「高知439国道有機協議会」は、この予算をゲットした45グループの1つなのです。

2010年3月13日

自然に学ぶ"森里海連環学"

山陰中央新報連載 自然に学ぶ"森里海連環学" No.10

森林・林業再生

「森里海連環学」を2003年に京都大学で誕生させたのは、人工林研究者と、ヒラメの研究者。

その人工林研究者が、今は名誉教授となられた竹内典之(たけうち・みちゆき)先生。昨年より私や養老孟司先生と一緒に、「清流高津川が育む家づくり協議会」の委員として、高津川に通っておられる。

竹内先生と私は、高津川流域の県や市町で働く若手を募って、「フォレスター養成講座」を組織している。

ドイツなど林業先進国では、国にも、州にも、地方自治体にも、"フォレスター"と呼ばれる公務員がいて、地域の森林所有者の相談に乗っている。国の森林計画がまずあり、州(日本では都道府県)にも国と調整済みの計画があり、だから市町村はこうしようという計画がきちんとあって、それに基づいて、「あなたの森は、今回はこのように間伐をしましょう」と指導してくれるのだ。

日本でも、林野庁があり、森林組合があり、県などにも林業担当があって、様式としては、「フォレスター」はいないことはない。

しかしドイツでは、幼稚園で「将来どんな職業に就きたいか」と問うと、男女問わずほとんど全員が「フォレスター」と答えるのだという。子供にも尊敬され、知られているということだ。私は、これを聞いただけで、「日本には"フォレスター"はいない」と思ったものだ。

政権交代があって日本の林業は、林野庁と「国家戦略室(間もなく局になる)」が考えることになり、12月末に「森林・林業再生プラン」が発表された(林野庁のHPに掲載)。

長年わが国で林業が火の消えた状態にあったのは、戦後大造林したスギ、ヒノキが成長過程にあったことと、その木が育っている間は収入がなく、木材価値の低迷もあって、間伐など森の世話をする費用が出せないという事情であったからだった。

木材自給率20%、1800万立方㍍しか生産できていないわが国を、10年で自給率50%、5千万立法㍍が生産できる林業国にするという「再生プラン」。「日本版フォレスター」も養成するとされている。

高津川でも、こんなプランが発表される前から「フォレスター講座」ができている。流域の子供たちから尊敬される「森の番人」に育ってほしい。「我こそは!」と参加したい人は、いませんか?

2010年3月 7日

二つの役所の委員会、始動する

林野庁では、"森林・林業再生プラン"が2009年12月につくられ、それに沿った五つの分野の委員会が発足しました。「森林・林業基本政策検討委員会」、「路網・作業システム検討委員会」、「森林組合改革・林業事業体育成検討委員会」、「人材育成検討委員会」、「国産材の加工・流通・利用検討委員会」です。

私は、一番最初2月1日に発足した、「路網・作業システム」の委員になりました。

路網の委員会が最初につくられ、すでに2回の会合を開いているのは、その仕事が、新政権の"林業再生"の中で最も急がれているからです。

日本では、1980年代に、「大規模林道」に対する猛烈な反対運動がありました。「林野庁の持つ天然林の中に大規格な林道をつくっていることが、大きな自然破壊になっている」と、知床半島の原生林では、反対する人々が木に抱きついて工事を止めさせ、それを朝日新聞社の本多勝一さんらが書いて、大きなニュースになりました。

大規模林道が造られたのは、林野庁が独立採算制を取っていた国有林経営の赤字を埋めるために、との理由でした。

しかし、「国有林」にできていた赤字は、後には3兆8千億円にもふくらんでしまったように、天然林内に残された貴重な木々を次々と伐っても、なくなるようなものではありませんでした。

本多勝一さんらは、「大規模林道を造る"公共事業"そのものが目的となってしまっている事業であり、問題である」と指摘されました。
当時、私も、そう思い、反対していました。

ところが、この問題は、思わぬところに、別の問題を生んでしまっていたことが、今ではわかります。
それは、私が森に向かい始めた2000年ぐらいに気がついたことです。

ある日、講演会で「人工林の間伐を進めよう」と話すと、お母さんに連れられてきていた小さな男の子が側に来て、「おばちゃん、木は切っちゃいけないんだよ」と言ったのです。

戦後に植えた人工林の間伐が進まなかったのは、林業界に間伐をする予算がなかったからであったと今ではわかりますが、実は"国民世論"もそれを後押ししなかったのは、「国有林」で行われていた「大規模林道」づくりへの批判が、国民に「木は伐っちゃいけない」と思わせていたからだったと思うのです。

そんな時代が数十年もあって、今の日本は、戦後の大造林期に植えた木が45年生くらいになり"使い頃"に育っているのに、それらの木を伐り出して使ってゆく「作業道」とその道を使いこなす「作業システム」がつくれていないという状況なのです。

そのために、「林業」を「日本の成長戦略」の一つと位置づけた新政権は、まず「路網・作業システム検討会」から、次々と五つの委員会を発足されているという事情なのです。


  国交省住宅局にも

もう一つ、私の属することになる新しい委員会は、国土交通省住宅局が3月15日に発足されるもので、「"木の家づくり"から林業再生を考える委員会」という名称です。

小さな予算しか持てない林野庁の「林業再生」を、住宅づくりの側からサポートしてゆくためにつくられ、養老孟司さんが委員長に就任されます。

林業の世界では、山元を"川上"、消費者に近いところを"川下"と呼んでいますが、この委員会は、"川下"を広げてゆく戦略を考えるものです。

林野庁に五つ、国交省に一つ。これらの委員会が「森林・林業再生プラン」を支え、日本林業を再生させてゆく仕事をします。

「今度は、官僚とは闘わないで、一緒に仕事をする」と決めた私。

85歳まで生きるつもりであった立松和平兄は、62歳で逝ってしまいました。

私自身の左脳には「脳動静脈奇形」という血管のこぶし大のからまりを、言語中枢と思考中枢の中間に持っています。この奇形はいつ血管が破裂するかわからないので、子供を生むことも医者からは禁じられてきました。

そのため、「いつ死んでも悔いのない生き方をしよう」と思って生きてきています。
"林業再生"へ、あと数年は、力を尽くしたいと思っています。日本の森が、間伐が進んで生き生きとし、林業が本格的な産業に育ったら、大好きな川に立ちこんで、アマゴやアユの相手だけをする毎日を過ごしたい。

そんな夢を持っているのです。

Profile

天野礼子(あまの・れいこ)

-----<経歴>-----

アウトドアライター。
1953年、京都市生れ。
中、高、大学を同志社で過ごす。
19才より釣りを始め、文化人類学者の今西錦司博士の主宰された「ノータリンクラブ」に属して、国内外の川、湖、海辺を釣り歩く。
26才より小説家、開高健に師事。
1988年には師と共に長良川河口の堰建設反対に立ち上がり、「ダムは不用」の国民世論に育て上げる。
近年は「川を再生するには森を生きかえらせることが必要」と“森仕事”へ視野を広げて、日本の森から材が出る社会システムを作り直すことを各地で提案している。
京都大学が2003年に構築した「森里海連環学」の普及もお手伝いするため、高知新聞社と山陰中央新報社でカルチャー教室「自然に学ぶ“森里海連環学”」を続けている。
2001年より、高知県・仁淀川の源流にも家を借り、有機農業普及のための「高知439国道有機協議会」を07年に立ち上げて、事務局長を務めている。08年7月に養老孟司氏らと「日本に健全な森をつくり直す委員会」を設立した。

BookMarks

オフィシャル・ウェブサイト
http://www.uranus.dti.ne
.jp/~amago/


長良川河口堰建設をやめさせる市民会議
http://nagara.ktroad.ne.jp/

公共事業チェックを求めるNGOの会
http://kjc.ktroad.ne.jp/

日米ダム撤去委員会
http://damremoval.com/

市民版憲法調査会
http://www.kenpou.com/

-----<著書>-----


『“林業再生”最後の挑戦』
2006年11月、農山漁村文化協会


『だめダムが水害をつくる!?』
2005年10月、講談社+α新書


『「緑の時代」をつくる』
2005年5月、旬報社


『ダム撤去への道』
2004年5月、東京書籍


『日本の名河川を歩く』
2003年7月、講談社+α新書


『市民事業』
2003年4月、中公新書ラクレ


『ダムと日本』
2001年2月、岩波新書


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