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2010年2月27日

mont-bell広報誌「OUTWARD」連載 45号・46号

森里海連環学のススメ Vol.1

「サケが、森をつくっていた」

 森の中に、何かが腐ったような異臭がただよっている。歩みを進めると、それが私の探していたものだとわかった。サケだ。ここはカナダのブリティッシュ・コロンビア州、クラッセ川。2002年、9月26日のことである。
 このサケは、クマが川で獲り、森へ運んだ。他のクマと争わないで食べるためだ。
 カナダでは、さまざまなサケの産卵シーズンの40日間に、クマが一年間の食糧の四分の三をサケで得(と)る。40日間でおよそ700匹のサケを、一頭のクマが食べるという。だから一本の川をテリトリーとしているたくさんのクマは、この時いっせいに川に出撃する。しかし隣のクマと争っていたのでは一日18匹のサケは獲れないし、食べられない。冬眠前の貴重な食糧獲得行動である。

 ビクトリア大学のトム・ライムヘン教授は、「サケとクマと森の関係」を調べていて、ある時に、クマが森へサケを運んでから食べることに気がついた。そこで彼は、こんなことを調べ始めた。サケ止めになっている滝がある川の、①滝までの両岸の森で、川岸から50メートル以内の木の年輪、②50メートル以遠の木の年輪、③滝の上流の森の木の年輪。すると、同じ樹齢同士でも①の年輪の幅だけがどれも②や③に比べて太く、そこには同位体元素「N15(窒素15)」が多量に存在していることがわかったのだ。「N15」は、海には多いが川や森には本来少ない窒素だ。それが①地域の木々の年輪に大量に含まれているのは何故か?

 読者はもうおわかりだろう。そう、サケの栄養分がこれらの年輪には含まれているのだ。クマが、川から森に運んだサケ。最初はクマが食べるが、おいしいところ(栄養価の多いところ)だけを食べて森へホッチャレする。すると下位の生物が次々とおすそわけにあずかる。オオカミ、キツネ、トリ...そして最後はウジ虫たちまで。

 私は、サケのまわりにたくさんの米つぶが散らばっているのを目にした。しかし米つぶが動くので目をこらしてみると、それはウジ虫たちだった。彼らが、木の年輪にサケの栄養を運んでいる張本人だろう。

 こんな調査に私を同行してくれたトム・ライムヘン教授は、C・Wニコルさんのカナダでの友人。ニコルさんが私に、「1995年に河口堰のゲートを降ろされてしまった長良川を救いたければ、カナダの森へ行って、トムに会っておいで」とすすめてくれたのだ。ニコルさんは、1989年12月に死んでしまったわが師・開高健から、「長良川と天野礼子を頼む」と遺言されて以来、私と兄妹のようにつきあってくれている男(ひと)だ。

 「サケが、森をつくっていた」ことが、この調査に同行してわかった。調査から帰ると、少数民族が昔から伝えてきた詩(うた)を教えられた。なんとそこには、「サーモンが森をつくっている」と謳われていた。

ライムヘン教授が同位体元素を使って近代科学でようやく明らかにできたことを、昔からサケやクマや森とつきあってきている人々はとっくに知っていたということなのだ。
州は、同国で一番たくさんの木材を世界へ輸出している木材基地だ。このことからも、サケと森の関係は深かったことがわかるではないか...。

 B・C州では、こんなことがわかったので、野党が1997年の選挙時に「森とサケとクマを大切にする」ことをマニフェストにして、政権交代が実現した。そして与党となった勢力は、「切り株税」をつくり、その税金を川の再生に充てるようにした。そうして行われたのが、森の木を川へ倒れ込ませたり、大岩をヘリコプターで運んで川中に置くこと。「N15」を自分の身体で海から森へ運ぶサケが森へ帰ってきやすいように、川に淵や瀬をつくり、サケが産卵床をつくりやすいようにする、"自然再生公共事業"だ。

 1988年には、北海道漁連の"海の母(か)さん"たちが森への植樹活動を始め、翌89年には気仙沼のカキ養殖業者らが「森は海の恋人」をキーワードに森への植樹活動を始めていたのは日本。

 私がカナダの森で2002年に知ったことは、「海も森の恋人」であり、「川はその仲人」だったということであった。
 この2年後の2004年に私は、京都大学の「森里海連環学」の誕生を知ることになる。そして森への「行動」も始めてゆくのである。(次号へつづく)


森里海連環学のススメ Vol.2

「川から森へ」

 「サケが、森をつくっていた」ことをカナダの森で体験した二年後の2004年に私は、京都大学が一年前に"森里海連環学"という学問を提唱していたことを知った。
 ヒラメの研究者・田中克教授と、人工林の研究者の竹内典之教授が「20世紀の百年に研究者は、人間の手によって猛スピードで"森と川のつらなりやつながり"が破壊されてゆくことに手をこまねいていた。森の研究者は森だけ、海の研究者は海だけに閉じこもり、森と川と海に起こっている大変なことの解決法を考えようとしなかった。21世紀も同じことをしたら地球は持たない」と考え、森と川と海のつらなりやつながりを、里にいる人間が取り戻してゆく学問として発案したのだ。

 2004年11月にその学問を田中教授から聞かされると私は、高知新聞社に掛けあい翌春から「自然に学ぶ"森里海連環学"」というカルチャー教室を高知で持つことにした。それは今も続いていて4年目になっている。
 同じ名称のカルチャー教室を今年は、島根県益田市で山陰中央新報社とも開始した。「水質日本一」を二年連続して取った総延長81キロメートル、本流にダムのない高津川をもっと美しくしたいという人達と数年前から"森仕事"を始めているからだ。

 "森仕事"。森を元気にするさまざまな仕事を、私はこう呼んでいる。カナダで「サケが、森をつくっている」ことを知り、日本に"森里海連環学"が出現したことを知った時に私は、「もう声高にダム反対と叫ばなくてもよい時代に日本も入った」と思った。

 また私自身は、2000年に鳩山由紀夫さんが民主党代表であられたときに、彼のために諮問委員会「公共事業を国民の手に取り戻す委員会」を立ち上げ、『緑のダム構想』を一緒につくっていた(今、そのときに事務局長を引き受けていた前原誠司さんが新政権下で国土交通大臣となられ「ダム中止」に動いているのは、その時に約束したことを、鳩山総理も前原大臣も実行しているということなのだ)。

 私たちが『緑のダム構想』を発表した直後に、長野には田中康夫知事が誕生し、翌2001年2月に「"脱"ダム宣言」をぶっぱなしている。それで私は、「天野礼子の川での役目はもう終わってもいい」と思った。1988年からの長良川河口堰建設反対に象徴される日本の川をとりもどす運動は、立派に世論になっていたからだ。

 しかし一方で、森のために働いている人は少なかった。戦後大造林された人工林は手入れがされず、悲惨な状態。私は「自分には川を見ていた右目の他に左の目もあり、それは森を見て悲しんでいたのではないか」と次第に思うようになった。

 そして最初にとった行動は、「全国森林組合連合会」へ行って、「月刊広報誌に書かせて」と申し入れることだった。日本中の山里で一番元気のないのが森林組合だったが、その中でもがんばっている人達を次々と登場させ、まだがんばれていない人に「あなたもこの人達のようにがんばれる」と書いた。それを一昨年にまとめた一冊が、「"林業再生"最後の挑戦」(農文協)だ。

 昨年7月には、養老孟司さんを委員長、C・Wニコルさんを副委員長に「日本に健全な森をつくり直す委員会」を結成し、養老さんとは「21世紀を森林(もり)の時代に」(北海道新聞社)も上梓している。

 民主党の菅直人さんには、2年前にドイツ林業を視察してもらった。民主党が先日の選挙のマニフェストで「作業道づくり」を林業政策としたのは、その成果。日本の人工林に一番必要な仕事は、作業道をつくって森の木を安く市場に出してくること。それがマニフェストに書き込まれたのだ。

 今年の9月18日には、「日本に健全な森をつくり直す委員会」が提言書を菅直人副総理に手渡した。提言書のタイトルは「石油に頼らず、森林(もり)に生かされる日本になるために」で、そこにはこんなことを書き込んでいる。「これから50年、石油使用を毎年1パーセントずつ減らそう」「そのためにも現在の森林率くらいはこれからも維持してゆこう」「10年間で、年間5千万立方メートルの木材を生産できる体制をつくり上げ、林業を2兆円規模のわが国の基幹産業に立て直そう」。

 こんなことが私の"森仕事"である。私は、日本国民の一人一人が自分の"森仕事"や"川仕事"を持って行動することが、20世紀に壊してしまった"森と川と海のつながりやつらなり"をとりもどすことではないかと考えている。
 さて、あなたはどんな仕事をしますか?

2010年2月24日

日本に健全な森をつくり直す委員会・ニュースレター

「山おやじ三号」NO.7 (2010.2.22)

   立松さんが言い遺したこと

立松和平さんが2010年2月8日に62歳で逝ってしまいました。私たち「養老委員会」には一編の彼のメッセージが残されました。2009年12月9日に、「"古事の森づくり"で列島を歩いて」というテーマで、私達が出版しようとしている本の編集者である戸矢晃一さんに立松和平さんへのインタビューを試みていただき、お二人がそれをまとめられた原稿です。まさかこれが、"立松和平"が私たちに残した遺言になるとは思いもしないことでした。立松さんは85歳くらいで往生すると御自分では考えておられたようなのです。

「日本林業は、"再生"するのではなくて、これから始まるのだ」。梶山恵司さんは、最近そうおっしゃいます。

確かに、今、地球を見まわすと、林業国として自動車産業よりも多くの雇用を林業から生み出し得ているドイツなどの西欧諸国は、1970年代に、全土に林業のための作業路網を張り巡らせていたり、「木材サプライチェーン」と呼ばれるような、林業の"川上"から"川下"までの輪(チェーン)が確立しています。日本をそれに比べると、森林率は世界第二位であり、他の技術では先進国であるにもかかわらず、「近代林業」においては30年近く遅れを取っていると見え、「日本林業はこれから始まる」は、戦後に植えた人工林が使い頃に成長した今、一つの見方だと思います。

しかし、立松和平が「古事の森づくり」で光を当てたものは何だったでしょうか。

私たちの"森の国ニッポン"には、千三百年も前からそこに建っている法隆寺が残されて伝承され、伊勢神宮は20年ごとに建て替えられて、「建築の技術が未来へ伝えられている」というすばらしい現実があります。立松さんはこれを知らせ、「誇りを持って日本林業を伝承してゆこう」と、日本人に提案されたように思います。

民間から梶山さんや湯浅さん、林野庁からは山田寿夫さんたちが"林業再生"にチャレンジして、今、新政権が「"林政"を一からやり直す」ことにチャレンジし始めようとしています。この二つのグループがまるで「時代の要請」のように出逢えたところに、日本林業と日本の森の"幸せ"があったと思えます。いえ、この「出逢い」は、偶然なのではなく、日本列島におわす神仏たちが私たちと未来のためにつくってくれたものにちがいないのです。

9月18日に菅直人さんに私たちの提言書を渡したことを立松和平さんにFAXで報告すると、すぐに一通の返信が私に返ってきて、そこにはこう書いてありました。

「日本に健全な森をつくり直す委員会」の一員であることに、誇りを持っています。
私をこの委員会に誘ってくれて、ありがとう。

こういった急速な改革時は、ともすれば小さな視点を見失いがちです。山元でいま生きている人達が、高齢であり、弱小であり、古い技術しか持っておらず、情報も届きにくいことに、国民全体が最大の気配りをしてゆくことを忘れないでほしい。

立松和平は、そう思いながら先に旅立ってしまったのではないかと私は考えています。梶山さんと、新政権と、林野庁には、くれぐれもそれを「心して」いただきたく存じます。

立松和平さんが残した「古事の森づくり」の精神を引き継いでゆくことを、皆様と共に立松さんの墓前に誓いたいと思います。

2010年2月 6日

長良川河口堰も撤去!

心待ちにしていた"荒瀬ダム撤去"が、ようやく各紙に載った2月3日。私に愛知県岡崎市のKさんからメールが入りました。10月18日に桑名で私たちが開催した、長良川河口堰撤去を求めるための「長良川救済DAY」以降の私のHP「あまご便り」や、高野孟さんとのブログ集「The Journal」に、長良川河口堰についての私のコメントが載らないのはなぜか、という質問です。

「ダム撤去」は、私が政治のあやまりから運用されてしまった長良川河口堰のゲートを上げ、長良川を救済するために、アメリカのダムをつくってきた、「TVA」「開墾局」「陸軍工兵隊」に1995年に教えを受けて、日本に持ち帰ったキーワードです。

私には、「"ダム撤去"への道」(東京書籍)という、法政大学の五十嵐敬喜教授との共著があります。(読んでみてください)

2000年11月に、当時の民主党代表であった鳩山由紀夫氏と、同党ネクストキャビネット社会資本整備担当大臣である前原誠司氏は、私や五十嵐さんら「公共事業を国民の手に取り戻す委員会」(鳩山代表が9月につくった特別諮問機関)がつくった「緑のダム構想」を持って、熊本県球磨川に計画されている「川辺川ダム」の建設現地五木村入りをされました。

その後、当時の熊本県知事である潮谷義子さんが考えられたのが、自分を応援する自民党の手前は川辺川ダムに知事として「反対」といえないが、そのかわりに、同流域の荒瀬ダムを「撤去」しようというアイデアでした。

しかし、今、知事をされている蒲島さんは、知事就任後には「荒瀬ダムを撤去しない」と発表されていました。

それを、「撤去」に変身させたのは、前原誠司さんだと私は知っています。

それ故に、長良川河口堰撤去は、私が今これ以上の行動をとらなくても、今年は秋に名古屋で「生物多様性条約締結国会議」もあり、必ずや民主党の政治的課題に挙がると信じて、「あえて」動かずにいるということです。

「荒瀬ダム撤去」が進行すれば、2011年には水利権更新を迎える高知・四万十川本流の「家地川堰」も尾崎正直知事自らの「撤去」宣言があるかもしれません。

私が愛している「長良川」は、それらの流れの中で、必ず河口堰のゲートが上げられると確信しています。

今、この文章を、菅直人さんが10月18日の「長良川DAY」に寄せてくださったメッセージを録音したCDの前で書いています。
東京の友人、佐藤弘弥さんがこの録音をしてくれた後、私と菅さんを並ばせて撮影してくれ、その写真がこのCDの表紙に使ってあるのです。

私は、これまで長良川のために闘って、亡くなっていった開高健師、村瀬惣一さん、恩田俊雄さんの写真が飾ってある仏壇に、このCDを10月19日から添えています。

いつか遠からぬ日に必ず、長良川河口堰のゲートを上げ、日本中の不要となったダムの撤去を、これらの亡き勇者に報告するつもりです。

Kさん、ありがとう。私はこれでも、考えているのです。

Profile

天野礼子(あまの・れいこ)

-----<経歴>-----

アウトドアライター。
1953年、京都市生れ。
中、高、大学を同志社で過ごす。
19才より釣りを始め、文化人類学者の今西錦司博士の主宰された「ノータリンクラブ」に属して、国内外の川、湖、海辺を釣り歩く。
26才より小説家、開高健に師事。
1988年には師と共に長良川河口の堰建設反対に立ち上がり、「ダムは不用」の国民世論に育て上げる。
近年は「川を再生するには森を生きかえらせることが必要」と“森仕事”へ視野を広げて、日本の森から材が出る社会システムを作り直すことを各地で提案している。
京都大学が2003年に構築した「森里海連環学」の普及もお手伝いするため、高知新聞社と山陰中央新報社でカルチャー教室「自然に学ぶ“森里海連環学”」を続けている。
2001年より、高知県・仁淀川の源流にも家を借り、有機農業普及のための「高知439国道有機協議会」を07年に立ち上げて、事務局長を務めている。08年7月に養老孟司氏らと「日本に健全な森をつくり直す委員会」を設立した。

BookMarks

オフィシャル・ウェブサイト
http://www.uranus.dti.ne
.jp/~amago/


長良川河口堰建設をやめさせる市民会議
http://nagara.ktroad.ne.jp/

公共事業チェックを求めるNGOの会
http://kjc.ktroad.ne.jp/

日米ダム撤去委員会
http://damremoval.com/

市民版憲法調査会
http://www.kenpou.com/

-----<著書>-----


『“林業再生”最後の挑戦』
2006年11月、農山漁村文化協会


『だめダムが水害をつくる!?』
2005年10月、講談社+α新書


『「緑の時代」をつくる』
2005年5月、旬報社


『ダム撤去への道』
2004年5月、東京書籍


『日本の名河川を歩く』
2003年7月、講談社+α新書


『市民事業』
2003年4月、中公新書ラクレ


『ダムと日本』
2001年2月、岩波新書


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