Calendar

2009年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

Recent Trackbacks

« 2009年1月 | メイン | 2009年4月 »

2009年3月30日

週刊現代50周年に“有機市民農園”をルポしました

週刊現代が50周年を迎え、その記念号が本日(3月30日)発売します。

この号に、「有機(農法)の市民農園」をグラビアで4ページ紹介しています。市民農園は全国に3000以上あります。大正時代にイギリスやドイツからの事例が紹介され、全国的には1970年代に広まりました。

しかし、有機無農薬農法を指導してくれる市民農園は、農水省調べでは全国に2例しかありません。今回は、その2例を紹介しています。

その中でも、個人が市民のために開設している愛知県の「なのはな畑塾」の佐々木さんは、元は学校の先生。月1回の座学も、学校の先生のように周到な準備をし、美しい自筆で資料を作られています。

「食の安全」を追求してきたグラビアシリーズも今回で一応終了しますが、「食の安全」の究極は、「自分で作る」こと。

その時、自分の近くに「市民農園」があり、無農薬の畑づくりを指導してくれる制度があれば・・・。なければ、自分が行政に要求する。この一歩が必要と、私は考えました。

2009年3月26日

坂本龍一さんに会う

3月24日に高知市で開催された坂本龍一さんのコンサート「Ryuichi Sakamoto Playing The Piano 2009」を聴き、坂本さんにも面会してきました。

坂本さんに「日本に健全な森をつくり直す委員会」へお入りいただきたいと考えたからです。(この委員会は、養老孟司が委員長、天野が事務局。)

坂本さんのコンサートチケットは8500円。この中には、日本国民が一日に排出するCO₂約6キロのうち1キロ分をオフセットする費用が含まれています。入口では、チケットと引き換えに「1kgCO₂ Offset skmt09」と白字に印刷された直径2.4センチのバッチがもらえました。

新作アルバム「Out of noise」は「カーボンオフセットCD」と呼ばれ、レコーディングやCD製作によって排出された二酸化炭素の量を計算した上で、CD価格にその分のCO₂を「カーボンオフセット」する費用が含まれています。

坂本さんは、2007年7月に「モア・トゥリーズ(more trees)という有限責任中間法人を立ち上げ、個人や企業向けにカーボンオフセットのプログラムを提供する事業なども手がけられており、高知では、四万十川の流域の梼原町での森林整備もされています。

2009年3月11日

高知新聞連載 【15~17】

【15】なのはな畑塾 市民農園をつくる

 名鉄・犬山線で名古屋から二十分。ベッドタウンの田園風景に布袋(ほてい)駅はある。駅から歩いて八分。三十四区画の「なのはな畑塾」は、佐々木正(ただし)さん(61)が三年前につくった“有機市民農園”だ。

 今シーズンの冬野菜は、ネギ、ニンジン、大根、赤カブ、キャベツ、ブロッコリー、白菜、小松菜、小カブ、春菊などを三十四家族が、先生に教わりながら思い思いにつくっている。

 佐々木正さんは、四十五歳までは本物の先生として子どもたちに理科を教えていた。農業をやりたいと名城大学農学部に入学し、農業改良普及員の資格も取っていた人だ。大学四年の時に、当時はまだ「生と死の妙薬」と訳されていた「サイレント・スプリング(沈黙の春)」を原書で読んでいる。

 四十五歳になって、「やっぱり農業がしたい」と農地を探した時、江南(こうなん)市役所の農務課が日曜も返上して付き合ってくれ、近隣の稲沢市の菊栽培農家に連れていってくれた。農薬によって目がよく見えなくなり、手足も痺(しび)れている四十代の農家は、有機栽培に切り替えて野菜を中心の宅配を始めた、と教えてくれた。

 「農業をやるなら無農薬」と初めから決めていた佐々木さんは、「サイレント・スプリング」に共鳴する市民との提携の道を自分も選び、多い時には百三十軒への宅配を十五年間続けてきた。

 三年前。まだ日本ではあまり取り組まれていない「有機市民農園」をやってみたいと志す。近所に自分の畑も、その「なのはな畑塾」もある。
 今は、“自然農(肥料もやらず、耕さない)”に憧(あこが)れている大池陽子さんが研修生として通って、同じ場所で、栽培をしているので、一緒に「なるべく自然な農業」を追求していこうと考えている。
 「なのはな畑塾」のような有機農業者が市民を指導できる仕組みが、日本中にもっとたくさんあればよいのに、と佐々木さんは考える。

 安心できる安全な農作物を、都会に住み畑のない市民は、有機や自然農法を実践する農業者に作ってもらって入手する。しかし、住んでいるところから三十分くらいのところに借りられる畑があれば、自分の健康のためにも毎日出かけてゆき、耕すのではないか。

 フランスなどでは一九八〇年代から、都市生活者を田舎へ移住させる政策を国がしっかりとってきている。“市民農園”と言えば、ドイツには「クラインガルテン」、ロシアには「ダーチャ」もある。
 わが国は、自給率が40%しかないと嘆きながら、国も地方自治体もやれることを全然やっていない。その一つが「市民農園」であり、中でも「有機」や「自然農」でその指導ができる人を育てることであったと思う。
 kochi15.jpg
【写真】「なのはな畑塾」の一角で、佐々木さんと研修生の大池陽子さん


「第2期に入った」 

有機農業には三十五年間、国の後押しがなかった。三十五年前から取り組んできた人々の多くは、もう七十代に突入している。
 しかし、「有機農業推進法」が一昨年に成立し、有機農業は第二期に入ったと言える。年配者は佐々木さんのように自分から進んで“有機市民農園”の指導者になってはいかがだろう。

 石油が枯渇し、食料を運ぶシステムが回らなくなっても、自分で作っていれば食うには困らない。そんなシステムを国民全体でつくるのだ。
 有機や自然農法で畑を耕せば「地球温暖化防止」になる効果が農薬を使うよりも数百倍高いと、まもなく政府も発表するといわれている。

 「市民にもできることはある」と佐々木先生、後半人生で教えたいようだ。
(2008年12月15日付・朝刊)


【16】大地を守る会 生産者と消費者結ぶ

 一九七五年八月、今から三十三年前に、有機農作物をつくる生産者とそれを食べたい消費者を結んで始まったのが「大地を守る会」の活動。今では八万九千人の消費者と二千五百人の生産者をネットワークしている。

 写真の「大地を守る手帖」には、こんな「有機農作物生産基準」が載っていて、私を驚かせた。
 ①できる限り、農薬・化学肥料を使わない。
 ②原則として除草剤は使用しない。
 ③土壌消毒はしない。
 ④他人の悪口は言わない(有機転換中の人に寛容を欠く批判糾弾をしない)。

 私は④を見て、「大地を守る会」をいっそう信用するようになった。またこの一行は、これまでおよそ三十五年以上の有機農業普及の歴史には、いろいろなことがあったのだろうと推測できる言葉だ。

 「大地を守る会」を、会長を務める藤田和芳さん(61)がつくったきっかけは、元陸軍医の高倉煕景(ひろかげ)さんが、「兵器として開発された化学物質が戦後に農薬として姿を変えて使われ出しているが、使用している農家に健康被害が出ている」と憂え、農薬を使わない農業を進めていこうとしていたのを知ったからだった。藤田さんは水戸に高倉さんを訪ね、「私がその野菜を都市へ売りに行きます」と手を挙げて、「大地を守る会」は始まった。
kochi16.jpg
 【写真】「大地を守る手帖」。08年7月に出版された文庫本大の「大地を守る会」のガイドブック

長老との対話 

私が藤田さんに初めて会ったのは、「大地を守る会」の四国生産者の会の研修旅行だった。藤田さんはそのようによく、生産者の方々の顔を見に行き、話に耳を傾けるようだ。

 「今度、こっちの畑からの生産を増やしてくれることはできませんか。『大地を守る会』の会員がおかげさまで増えて、野菜が足りないんですよ」
 藤田さんがこのように言うと、四国の生産者を束ねる長老は「待ってました」という顔をした。
 「うん。わしの近くの、今はまだ〝減農薬〟を始めたばかりの人がな、なんとか仲間に入れてくれんか、わしも孫にもそっと小遣いをやりたいと、だいぶ前から言うてきとったんじゃ。あれが喜ぶやろ。仲間に入れてやってもいいかね。ありがたい」

 有機農業推進法が二〇〇六年に成立するまで、有機農業に取り組んできた人々は、悔しさや苦労をたくさんしてきた。そんな中では、自分と他人のやり方が違うというだけで非難をし合ったこともあっただろう。

 しかし、戦後、農薬を広めてきた農林水産省自身が昨年は、「これまでの農薬使用などが〝生物多様性〟に〝負の遺産〟を与えてきていた」と発表している。
 これからは、無農薬や有機農法に取り組んできた生産者が「少しでも農薬を減らそう」という努力をする生産者を励まして、多くの消費者に安全な野菜が届き、それによって自国産の野菜を食べる国民が増えるような社会をつくってゆくべきだろう。

 「大地を守る会」は、その時に生産者たちが一番気をつけるべき「心根」を、「生産基準」という物理的な課題にプラスして付け加えていたのだ。

 「大地を守る」をキーワードにして、生産者と畑を持たない消費者を結ぶ。だから「大地を守る会」は、大地を汚す核物質など危険物質の拡散に反対するNGO活動もしている。

 こんな人たちに運んでもらえる野菜たちは、実は喜んでいるのではないかと、手帖の野菜の写真を見ていると思えてきた。
(2009年01月19日付・朝刊)


【17】〝お医者様〟から始まった 21世紀も土佐からよ

 「鍬(くわ)と聴診器」の著書のある、熊本県公立菊池養生園の名誉園長・竹熊宜孝(たけくまよしたか)さん(74)は、〝説法医〟として名高い。病院は西洋医学の設備を整えた立派な施設だが、竹熊先生は「まず薬」ではなく、人々に「玄米・無農薬食を正しく摂(と)る」ことを説くことを旨とされている。そうしてから必要ならば漢方薬を処方し、養生園内には鍼(はり)治療院も置いておられる。

 第二次世界大戦敗戦後、アメリカ軍の占領とともに日本での使用が広まっていったのが、農薬。大戦中に両陣営が兵器として開発していた化学物質が、戦後は〝農薬〟に姿を変えて登場し、使われていったものだ。

 先回に登場した元陸軍医の高倉煕景先生、昭和三十七年にアメリカでレイチェル・カーソン女史が「サイレント・スプリング(沈黙の春)」を著す一年前に奈良県五條市で「農薬の害について」というパンフレットを自費出版されていた梁瀬義亮先生、そして竹熊先生など〝お医者様〟から、「無農薬・有機農業普及」は始まった。

 農薬を扱う農民に「健康被害」が出ていることに、これらの医者が全国各地で気付き始め、家族に被害の強い農家が、「本当に農薬がないと農業ができないのか」と追求した農法が、「有機農法」だった。

 「農協の知恵袋」とまで言われていた一楽照雄さんが農薬の害を憂い、農協が農薬を広めることに疑問を呈して、アメリカの書物を訳してゆく中で登場してきた「オーガニック・ファーミング」を「有機農業」と訳し、農薬を使っていなかった昔の日本農業に立ち返ることを、新しいスタイルとして勧めたのだ。

 それは、戦争から戻ってきた兵士たちの口を養い、復興のために「産めよ増やせよ」と人口増加に努めなければならなかったわが国政府と、農薬を〝兵器〟として売れなくなった資本家たちがバックにいたアメリカ政府の方針に反していたから、当然のように〝迫害〟を受けるに至った。

 これが、農薬使用と有機農業が、長らく対立し、それゆえ有機農業者がいわれなき圧力を農林水産省や、地元自治体や、農協から受け続けなければならなかった理由であったろう。

 わが国政府は、一昨年七月、「生物多様性戦略」なるものを世界に向けて発表した。来年名古屋で開催される「生物多様性条約締約国会議」へ進むための一歩で、そこには「戦後大量に使用してきた農薬や、水路の整備や、干潟の埋め立てなどが、生物の多様性に〝負の遺産〟を与えてきた」と明記されており、なんと驚くことに、諫早湾の埋め立ての写真が使われている。

 ようやくわが国も、農薬を使い続けることの〝危うさ〟を認めたといえよう。

 二〇〇六年には「有機農業推進法」が、与野党の心ある議員と、三十五年以上有機農業普及に苦労をされてきた人々の努力によって成立もしている。 農水省は、二〇〇八年度に初めて四億六千万円の予算を有機農業に付け、「半額補助」ではなく「全額補助」という形で、厳選されたモデル事業に配分した。農水省のお役人たちにうかがったところでは「これまでの反省を踏まえて、苦労されてきた方々へのおわびのつもりで、『全額補助』というスタイルを少なくとも五年間は取ります」ということらしい。

kochi17.jpg
 【写真】「鍬と聴診器」の著者、竹熊宜孝先生。「養生はまず食べもんから変えるがよかですたい」と、人々にわかりやすく説き、自らも耕すお医者様

 オーガニックな一日 

この原稿は、私自身が主催者事務局として動いた「〝オーガニックな一日〟in高知」の翌日に書いている。

 「〝オーガニックな一日〟in高知」は、私が事務局長を務めている「高知439国道有機協議会」が主催団体ではあるが、「高知県有機農業研究会」という、昨年三月より高知港で毎週土曜に「オーガニックマーケット」を繰り広げられている関係者たちの協力なしには成立しなかった。三十もの出店者が朝の「オーガニック野菜フェア」には、岡﨑誠也高知市長が私たちに提供してくださった「かるぽーと」の前庭に集まってくれた。

 岡﨑市長も「存じていなかった」とパネルディスカッションではおっしゃったが、毎週四十グループ以上が集まる港の「オーガニックマーケット」は日本最大の規模で、わが国にはまだ二つしかない(もう一つは名古屋)、「無農薬・有機農作物」に限定した素晴らしい〝野外市場〟。

 市長さんだけでなく、港で出店しているご本人たちも、どうやらそれをご存じなかったことが、今回判明した。多分、尾﨑正直知事もご存じないのだろう。

 私たちの「高知439国道有機協議会」は、三カ所のモデルほ場をつくり、有機農業の指導をすでに二年間続けてきている。

 高知県は、「一周遅れのトップランナー」に、〝有機農業〟のおかげでなろうとしていると、私には見える。
 そして「〝オーガニックな一日〟in高知」は、市民が行政よりも先に立って「オーガニックな高知」づくりを進めているという、〝土佐っぽ〟の気概を見事に示した一日だったといえるだろう。

 連載の最後に、「〝オーガニックな一日〟in高知」を紙面でさまざまに応援してくださった高知新聞社に、謝意を表したい。

 「〝二十一世紀の夜明け〟も、土佐から始まるぜよ!」
 
=おわり
(2009年02月16日付・朝刊)

2009年3月 7日

ダムと小沢と加藤紘一

民主党の代表として選挙の顔となってきた小沢一郎さんの、西松建設からの献金が「違法」であったかどうかが問われています。一方、3月6日の朝日新聞は「自民党側の立件は無理。西松から献金を受けた認識があるという傍証がない限り難しい」との政府高官の声を載せ、問題となっています。

国民から500円ずつの政治資金に替えたはずなのに、政治家への献金のあり方が「ちっとも変わらない、違法でなければいい」ということが問題なのです。金をくれる人は「口きき」を期待しており、それが実行されなければ、毎年金をくれ続けることはないでしょうから。

それにしても、「ダムはよほど儲かるのだな」と、多くの国民が思ったでしょう。ダム工事(や原発にはもっと)には、地元説得に時間がかかるという不安定要素も多いため、政治家などに献金するための“浮かせる金”がつくりやすい。1件での額も大きい。
だから与野党を問わず多くの議員が、「ダムの推進に口を利き、“おこぼれ”にあずかっている」のでしょう。

私がかかわった長良川河口堰は、小沢さんが最も尊敬するらしい田中角栄が総理の時代に金丸建設大臣が計画した案件で、その当時に大成建設と鹿島建設が談合して指名を受け、金丸建設大臣がそれを仲介していたのだと、のちに金丸の“金の延べ棒”が発見された時に、朝日新聞が一面トップでスッパ抜きました。

この時は長良川河口堰問題で、「推進」の綿貫建設大臣と「反対」の北川石松環境庁長官が対立し、国会が二分する程の運動が繰り広げられていたのに、残念ながらそれで長良川河口堰の工事が止まらなかったのは、社会党がそれを国会で追及しなかったからでした。

「天野礼子みたいだ!」と加藤紘一、言い。

加藤紘一さんが、3月1日に放送されたフジTVの「報道2009」で、“道路”問題で菅直人氏と対決し、菅さんの「自民党は不要な道路を造り続けているじゃないか」の追及に、興奮して大声でこう叫んだという。
「あなた(菅)は、あの“公共事業絶対反対”の天野礼子さんと同じじゃないか」、と。

私自身はこの番組を見ていませんが、見ていた私の全国の友人から「魂消(たまげ)た」とたくさんの電話がありました。

加藤紘一さんは、自民党のハト派、リベラルとして名高い。その人がこんな口調で私を批判する裏にあるのも、実は「ダム」なのです。

彼の地元・山形県の最上川。その支流のダムのない清流、小国川にダム計画があり、私は地元の人々に依頼されて、反対の集会を重ね、そこに加藤紘一さんとは仲のいい、菅直人さんや辻元清美さんを連れていっています。加藤さんを説得したいからです。

1月に山形では知事選があり、加藤さんが担いだ一期目の元・日銀出身の斉藤知事が落選しました。一期目知事の落選というのは珍しいので、「加藤紘一の力も落ちた」と、世間で評判になりましたね。

加藤紘一さんは、小国川ダム推進団体の旗頭。他の問題では「リベラル」でもダムではそうではないのは、そこに金がからむからなのでしょうか。しかし私はそんなことを言ったこともないし、小国川ダム問題で加藤氏の名前を出して批判したこともありません。それでも氏が私の名をTVで出してくださったのは、よほど悔しいことがあるからなのでしょう。


ダム点検のマニュフェスト

先の総選挙で民主党は、「政権を取れたら、全国のダムを2年間かけて点検する」としていました。今回はそれがまだマニュフェストとして出てきていなかったのですが、昨今の西松問題でその理由が国民にもわかったことでしょう。

「ところで、加藤紘一さん!」。

私は前原誠司代表時に、「“もうひとつの日本”構想委員会」というのを民主党内につくり、そこでは「これからやるべき公共事業」を議論しています。それ以前の鳩山代表時には「公共事業を国民の手に取り戻す委員会」をつくっていて、その時の事務局長であった前原さんと一緒につくったのが、“緑のダム法案”。「コンクリートのダムを造らなくても、人工林を整備するだけで“治水”は可能」という案でした。

言っておきますが私は、“公共事業”に「絶対反対」ではありません。「必要な公共事業に金がまわる日本」にしたいと、誰よりも願っている女ですよ。

2009年3月 1日

加藤登紀子さん、ありがとう!そして私はアマゴ釣り。

ほぼ一年近くかけて準備してきた「“オーガニックな一日”in 高知」は、2月11日に無事終了しました。

快晴、2月にしては寒くない朝。AM9時に準備が始まり、高知市長がその日一日貸してくださった「かるぽーと」という大きな会場の前庭に30の、無農薬野菜をつくり、それを加工して食べさせる店も出店してくれました。この方々は、昨年の3月より高知港で毎週土曜日に、雨の日も屋外で「オーガニックマーケット」を続けてきた人々です。

無農薬だけに限った野外マーケットは、この高知のほかには名古屋しかまだないようですが、高知の方々は自分たちの港での出店数「40店」というのが“日本最大”であることに、まだ気づいていなかったようです。

土佐では、20世紀の始まりにも、坂本龍馬が活躍しましたが、21世紀の「有機の夜明け」も、「有機マーケット」では土佐から始まろうとしています。

「かるぽーと」前庭に出店が始まっている途中から、客の足が出始めました。11時にオープニング・セレモニー。スーパーマーケットの店員から誕生したという女性デュオ「スーパーバンド」のにぎやかな発声。

第二部、PM2:30~5:00は、小ホールにて「オーガニックシンポジウム」。200人の会場に人が溢れてロビーでのTV聴講にもかかわらず、熱心にメモを取る人々も。

C.W.ニコルさんは「イギリスでチャールズ皇太子が有機農業を進めている」ことを。「ふるさと回帰支援センター」高橋公事務局長は、岡崎誠也高知市長と私との3人の鼎談で、「高知は、“一周遅れのトップランナー”になれる」と明言。私は、「無農薬オーガニックマーケットでは、日本初で、日本一の出店数なのだから、もうトップランナーになっているのですよ」と説明。

第三部、PM5:30~7:30は、「加藤登紀子、オーガニック&コンサート」。3階までの大ホールを900人が埋め、登紀子さんの娘、Yaeさんも、お父様(藤本敏夫氏)の跡を継いで登紀子さんと、千葉の有機農園「鴨川王国」を運営していることを話してくださいました。

私はようやく後片付けも済んで、今日は高知の“川の家”入りし、明日3月1日は「アマゴ」の解禁日なので裏の川で9ヶ月振りの渓流釣り、というわけです。

ここしばらくの雨で、水量は安定。川は本来の美しさと雨あがりのしっとりとした風情を取り戻しています。

Profile

天野礼子(あまの・れいこ)

-----<経歴>-----

アウトドアライター。
1953年、京都市生れ。
中、高、大学を同志社で過ごす。
19才より釣りを始め、文化人類学者の今西錦司博士の主宰された「ノータリンクラブ」に属して、国内外の川、湖、海辺を釣り歩く。
26才より小説家、開高健に師事。
1988年には師と共に長良川河口の堰建設反対に立ち上がり、「ダムは不用」の国民世論に育て上げる。
近年は「川を再生するには森を生きかえらせることが必要」と“森仕事”へ視野を広げて、日本の森から材が出る社会システムを作り直すことを各地で提案している。
京都大学が2003年に構築した「森里海連環学」の普及もお手伝いするため、高知新聞社と山陰中央新報社でカルチャー教室「自然に学ぶ“森里海連環学”」を続けている。
2001年より、高知県・仁淀川の源流にも家を借り、有機農業普及のための「高知439国道有機協議会」を07年に立ち上げて、事務局長を務めている。08年7月に養老孟司氏らと「日本に健全な森をつくり直す委員会」を設立した。

BookMarks

オフィシャル・ウェブサイト
http://www.uranus.dti.ne
.jp/~amago/


長良川河口堰建設をやめさせる市民会議
http://nagara.ktroad.ne.jp/

公共事業チェックを求めるNGOの会
http://kjc.ktroad.ne.jp/

日米ダム撤去委員会
http://damremoval.com/

市民版憲法調査会
http://www.kenpou.com/

-----<著書>-----


『“林業再生”最後の挑戦』
2006年11月、農山漁村文化協会


『だめダムが水害をつくる!?』
2005年10月、講談社+α新書


『「緑の時代」をつくる』
2005年5月、旬報社


『ダム撤去への道』
2004年5月、東京書籍


『日本の名河川を歩く』
2003年7月、講談社+α新書


『市民事業』
2003年4月、中公新書ラクレ


『ダムと日本』
2001年2月、岩波新書


当サイトに掲載されている写真・文章・画像の無断使用及び転載を禁じます。
Copyright (C) 2008 THE JOURNAL All Rights Reserved.