高知新聞連載 【5】金子美登さん(下) 複合汚染その後
埼玉県小川町、霜里農場の金子美登(よしのり)さん、友子さんの昭和五十四年三月の結婚式の主賓は、美登さん側が作家の有吉佐和子さんで、友子さん側が市川房枝さんだった。
有吉さんは、昭和四十九年十月十四日から八カ月にわたって朝日新聞紙上で「複合汚染」を連載し、それを五十年四月から単行本化している。
写真の「複合汚染その後」は五十二年七月に単行本として出版されたものだが、有吉さんはここへ、「複合汚染」の連載時には依頼したが登場してもらえなかった金子さんを二章に分けて登場させている。その二章どちらにも対談相手として出てくるのが司馬遼太郎さん。金子さんは司馬さんが私家本として出版した「土地と日本人」を読んで共鳴し、司馬さんと会わせてくれるのなら有吉さんの本に登場させていただくと約束したようだ。
「複合汚染」は、有吉さんが若者グループのリーダー(後に菅直人氏として頭角を現す)に迎えにこられて、市川房枝さんの選挙応援に奔走する場面から始まる。「参議院二院クラブ」を創設した八十一歳の市川房枝さんが、自分も若者たちに担がれて出馬し、そこへ青島幸男さんも参画した時の選挙だ。
この時代は、「人間ブルドーザー」と呼ばれ「今太閤」とも呼ばれた田中角栄元総理が日本中の土地を投機の対象とし、日本列島が公害にまみれるということが猛スピードで進行した時であった。高度成長は、日本人の資質の一つであったはずの「慎み」を忘れさせ、河川も、大地も、海面も、大気も汚し続けた。
そんな中で、ストーリーテラーとして名を馳(は)せていた小説家の有吉さんが、農薬などの複合的な汚染をドキュメンタリーとして連載したのは、そこに「日本人の危機」が象徴されていると見たからだろう。
「複合汚染」は危機を訴えるだけでなく、解決、すなわち「少数でもその危機に立ち向かおうとしている人々」も登場させた。有吉さんは「日本のレイチェル・カーソン」と、この連載の読者から呼ばれた。カーソンは、アメリカで「沈黙の春」を著した女性科学者だ。
金子さんは、日本人が忘れさろうとしていた「慎み」を持っていた。だから有吉さんに「こんな若造を取り上げないで下さい」と遠慮したのだろう。しかし後に「複合汚染その後」に登場するようにしたのは、現実があまりにも深刻であり過ぎたためだろう。
金子友子さんは、アナウンサーの仕事を持ちながら、市川さんの選挙を手伝い、金子さんの有機農業の取り組みを知り、そして自分も同志となって金子さんの霜里農場で生き抜くことを選択した女(ひと)だ。
二人の結婚式は三月、梅の花の香る中、市川、有吉の主賓を含めた百五十人が手作りの菜の花やほうれんそう、鯛の尾頭付きを持ちよって行われた。
それから二十九年。お二人にお子さんはいないが、その代わりに世界三十七カ国から、日本人も二百人くらいを研修生として受け入れ、金子式有機農業の伝承者として育ててこられた。
平成十八年十二月に「有機農業推進法」が成立。長年各地で有機農業に取り組んでこられた皆さんが「全国有機農業推進協議会」の会長に選出したのが、金子美登さんであった。

【写真】有吉佐和子さんが司馬遼太郎さんに金子さんを紹介して、この本に2人の対談が載ることになった






